バカタレどもについて

安倍さんが亡くなった。

たったひとりのバカタレによって、と先日、と言ってももう10日以上前に書いた。が、バカタレは一人ではなかった。

彼の母親もバカタレであった。そのバカタレの母親に多額の寄付をさせた旧統一教会もバカタレどもの集まりに違いない。

そもそも宗教などというのは弱者を食い物にする詐欺のような集団である。

ラプチャー(Rapture)という映画を見てみればよい。この映画は、救いがないと分かっていても遂には藁にも縋る思いで教会に逃げる男が描かれている。

男を追い詰めたのは超常的存在であり漠然としていて最後の最後にも姿を現さない。だからこそ、こいつの正体が外部にではなく、人間という存在がその内部に持つ本質的な恐怖であるということがよく分かる。

なぜ人間か?

それは、我々が禁断の知恵の実を食ってしまった唯一の生き物だからである。

動物たちをみよ。我らよりはるかに幼い知能しか持たない彼らは宗教などに頼ることなく果敢にこの残酷な世を生きているではないか。

宗教に縋るなかれ。宗教に救いはない。足元を掬われるだけである。彼らが救おうとするのは金のある者たちだけである。ホームレスを救おうとする宗教。孤児や母子家庭を助けようとする宗教。そんなものがあるとすれば、それはもはや宗教ではなく、慈善事業である。

宗教とは、本来心の救済をするものであり、それはもう心療内科医の手に渡っている。

つまり、もはや宗教などの居場所は現代社会にはないのである。

宗教の時代は終わっている。我々ははっきりとそれを認識すべきなのだ。宗教は人を惑わし不幸にする。自分の神を信ずるのは良い。だが宗教にははまってはいけない。宗教は麻薬であり依存症患者を量産する。

人は我が不幸を友にすべきなのだ。苦しい時にこそ人は輝くのではないか。たまたまの幸運と平和にどっぷりとはまってのほほんと人生を送っている者たちよりも不幸のどん底で、もがき苦しみながらも、それでもそれが我が人生と覚悟を決めて生きていく者の方がどれだけ高貴であることか。