渋沢栄一の像の下に

2009/12/16 13:37

12月15日付けの産経新聞「次代への名言」は、渋沢栄一の「政治界でもまた実業界でも、利を見て義を忘れている。義利が合一せねば真正の文明も成し得られず、真正なる富貴も期し難い。私がもし一身一家の富むことばかりを考えたら、三井や岩崎(弥太郎、三菱財閥の祖)にも負けなかったろうよ。これは負けおしみではないぞ」という息子への言葉であった。そしてさらに、「自分は実業家の中に名を連ねているが、大金持ちになるのが悪いという持論である」と公言していた通りの人生を送った、とある。何とかヒルズに住むウンヌンカンヌンに聞かせてやりたい言葉である。

そして、この欄最後の言葉が時宜を得ていて強烈である。「現今の多数政治というものは、あるときは悪いことでも多数であれば善いのだということになる。私らの常識では、まず善いというのが根本で、次に多数があるべきものなのだ」

先日、わたしは習近平副主席の天皇陛下への謁見反対デモに参加した。このときの出発場所が常盤台公園であった。そこには日銀の方を向いた巨大な渋沢栄一銅像があった。その巨大な銅像の下でデモの趣旨についての説明や主催者やゲストによるスピーチが行われたのである。このことについては、すでに日記に書いた。
今日改めて書きたかったのは、この大人物の像の下からデモが始まった、始められたことの意味についてである。スピーチのときにはどなたもこのことについて言及されなかった。
渋沢栄一は農家(といっても、藍玉や養蚕の大農家ではあるが)の出身である。そして、尊皇攘夷の志士でもあった。徳川慶喜に仕え、後に大蔵省に入るが、予算編成をめぐる意見の対立により退官。それからは実業家として500もの事業に関係した。

尊皇攘夷とは、天皇陛下をご守護し夷狄を打つことを意味する。夷狄とは外国の敵、今回の場合は憎きシナである(皮肉なことには「尊王攘夷」はシナからの輸入語である)。主催者側がこの像の下を選んだのにはこのようなわけがあったのではないかと考えたのは、私の単なる思い過ごしであろうか?
それともやはり、国を憂うる渋沢栄一の魂が現代の尊皇攘夷の志士たちをここに呼び寄せたのであろうか。