武士道の将来

2009/12/16 22:57

藤原正彦氏の「国家の品格」を読み直している。その中に新渡戸稲造の武士道の将来と題する最終章についての記述がある。
「武士道は、一つの独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない。しかしその力は地上より滅びないであろう。(中略)その象徴とする花の如く、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう」というのがそれである。

新渡戸稲造が預言したように、いまたしかに日本から武士道は消えていった。まるでニッポニア・ニッポンと学術名で呼ばれる鴇のように。

わたしは、その最後の実践者であったのが三島由紀夫と森田必勝であったと考えている。三島は、今のこの風潮ゆえに大きく取り上げられることは決してないが、現代の神話になったことは間違いない。彼こそは、命より大切なものがあることを身をもって知らしめてくれた現代日本人にとっての大恩人である。

命より大切なものは、子を持つ親であれば当然のように我子の姿が思い浮かぶであろう。それは、ごく自然な生き物としての感情である。しかし、三島や森田は、人間として日本人の一人として、自らの命を捨ててでも守らなければならないあるもののために死んだのである。 そのあるものとはこれのことだと、わたしは断言できない。しかし、それが何であれ、彼らの死様から推しても、それが彼らにとって命を懸けるに値するものであったことは疑いようもない。

わたしは、彼らがほんとうに羨ましいと思う。三島など、その最晩年にはあれほど多くの、わたしなどにはとても手の届かない金字塔のような小説の数々を残していながら、「まるで排泄物のように垂れ流してきた」と自らの執筆活動を酷評している。しかし、それは、その最後の仕上げであった自刃という行為が余りに眩いものであったがゆえに、その反作用としてそのように思われただけのことであろう。

わたしは、もしも自分にこのような栄光の機会を与えられたなら、一瞬の逡巡もなく死ねるだろうかと考えるのである。もしも、今目の前に命を賭しても守らなければならない大義があるとして、そのときに我が身を惜しまずに守って死ぬことができるだろうかと。

しかし、わたしの覚悟のほどはともかく、実は、今の世の中にあっても、このような機会を与えられている者はたくさん居るのである。しかし、武士道が廃れると共に、真の侍の如く、潔く腹を切るものがいなくなってしまっただけのことである。