紫電改

2010/04/09 23:59

スターファイターに続き、紫電改について書こうと思う。実は、最初はスターファイター紫電改のタイトルで書くつもりだった。この名機と、そして紫電改の鷹とも言うべき搭乗員管野直大尉(戦死後は中佐)について触れてみたかったのだ。

これももう随分前のことになるが、松田十刻氏の「紫電改」を読んで、菅野直大尉の活躍に感動を覚えたことがあったからである。

紫電改は、大日本帝国海軍が本土決戦用に川西飛行機(現在は新明和という社名に変っている)に製作させた戦闘機である。

因みに、海軍では航空機の命名は次のルールによっている(ただし、昭和17年以降)
局地戦闘機:「電」
艦上戦闘機:「風」
夜間戦闘機:「光」
爆撃機:「星」
偵察機:「雲」
攻撃機:「山」
特殊攻撃機:「花」

特殊攻撃機には桜花がある。、一式陸攻の腹に吊るされ、敵艦を見つけるとまさに桜の花びらの如く枝を離れる。桜花は、火薬のロケット噴射により時速900キロもの速度で敵艦を目指して突き進む。勿論無人ではない。搭乗員、すなわち特攻隊員の操縦によって1.2トンもの爆弾を抱えたまま敵艦に体当たりするのである。

ところで、桜花については、城山三郎氏の「指揮官たちの特攻」でも触れられている。それには、城山氏がカリフォルニアの田舎町にある航空博物館で飛燕や零戦などとともに桜花が展示してあるのを見たときのことを書かれている。その桜花の後ろの壁には、なんとBAKA BOMBと大書されていて、それを目にしたときには怒りに身体が震えたと氏は述べられている。

しかし、松田十刻氏によると、もともとはアメリカ英語のBUCKが訛ってBAKAになったものだそうだ。Buckには、フットボールなどでボールを持って敵陣に突入するという意味があるから、わたしは心情的には松田説を採りたい。

紫電改は、上の命名ルールからも分かるとおり、局地戦闘機である。これは、大本営紫電改を正式採用したときには、本土決戦の覚悟を決めていたことを物語っている。
ところで、開戦当初は、零式艦上戦闘機――ゼロ戦の航空戦闘能力は他を圧倒していた。操縦士の練磨ももちろんあったが、ゼロ戦が当時としては圧倒的な旋回性能と機動力を持っていためである。

しかし、戦争が長期に及ぶにつれ、アメリカ側もゼロ戦を上回る高性能機を次々と投入してきた。ゼロ戦は、軽量化を重視したがために防弾性能が極めて弱かった。このために死なずとも済んだ多くの優秀な搭乗員が失われていったことも否めない。

紫電改は、ゼロ戦の栄12、または21型エンジンの1000馬力程度の出力に比し、その倍近い2000馬力もの誉21型エンジンを搭載していた。
そのスペックは下記の如くである。
全長:9.35m
全高:3.96m
翼幅:11.99m
重量:4,800kg
最大速度:594km/h(高度5,600mにおいて)
上昇限度:10,760m
後続距離:2,400km
武装:20mmキャノン×4、爆弾500kg
乗員:1名

4翔のプロペラーを持つ低翼機である。

終戦間際に生産された紫電改は、アメリカの戦闘機と互角に渡り合える性能を持っていた。さらに戦闘フラップという特筆すべきアイデアも採用していた。これは、ガラス管の中に水銀の入った水銀スイッチというものを使い、旋回時の遠心力によって水銀がガラス管の端に寄せられるとスイッチが入り、これにより内側のフラップが自動的に下がり空気抵抗を増やすというものである。これにより、寸暇も惜しい空戦時において操縦士がフラップを降ろす操作をしなくとも急旋回が可能になる。(余談ながら、これと同じアイデアがレーシングカーである日産R-381の可動式ウィングに使われた)

菅野直は、終戦の年の8月1日、紫電改を駆って、B-24爆撃機の邀撃に向ったが、屋久島近辺で海上に墜落、戦死を遂げている。僅か24年にも満たない人生であった。

菅野には、個人・協同含め敵機撃墜破数72機の記録がある。(日本軍には個人撃墜破戦果を軍が公認するという制度は存在しない為、自己及び列機搭乗員等の申告による推定)

菅野は最後には第343海軍航空隊に所属し、多くの戦果を上げた。その活躍ぶりは松田十刻氏の本に詳しいのだが、ここでは割愛させていただく。

最後に、
先に書いたスターファイターチャック・イェーガー準将は、第二次大戦ではP-39を駆ってドイツと戦っていた。彼は生き残り、アメリカは戦勝国となった。彼は、軍のテストパイロットとなり、アメリカの航空、そして宇宙開発への礎石となった。
一方、同じく優秀な戦闘機乗りであった菅野直は屋久島近くの海に落ち、水漬く屍となった。日本はアメリカに破れ、戦後65年が経とうというのに羽をもぎ取られたまま、純国産のジェット戦闘機さえ開発できずにいる。

わたしは、このことを嘆かずにはいられない。勿論歴史にifはない。しかし、あの戦争がなければ、いやあの戦争で日本が負けていなければ、・・・せめて講和条約に持ち込めていれば、菅野のような男は、あるいはテストパイロットとしてイェーガー以上のことをやってのけたかも知れぬ。そして、日本の航空技術は、あの零戦の、そして紫電改の技術を見れば分かるように、日本人技術者の優秀な頭脳と努力とチームプレイで今よりも格段の進歩を遂げ、アメリカをはるかに凌駕するどころか、世界をリードするものになっていたに違いないと思うのだ。