老狼陋巷に死すべし 第二部 明彦

第二部
明彦
1

君たちに問う。
君たちは、この私が起こしたとされるあの忌まわしい事件のことをまだ憶えているか?
いくら情報が氾濫し次から次へと新しい事件が起きる世の中とはいえ、あの事件、アルトルム社と丸木良也に関連する、というよりも公的にはこの私がたったひとりで起こしたとされているアルトルム本社襲撃事件については忘れて欲しくないというのが私の切なる願いである。また、あの事件の真相については、世間一般に流布されている私の丸木良也に対する私怨、あるいは妬みによるものなどとする説には決して耳を傾けないでほしい。
誓って言おう。あれは私怨や復讐などでは決してなかった。私だけならともかく、人類の中でも最も高貴な彼ら、鎮男や明彦が私とともに戦ってくれたのは、このままでは我ら人類がいずれ近いうちに必ず良也の恣に蹂躙されてしまうに違いないからなのだ。
今一度言う。あの事件の深層には、君たちの自由や尊厳を脅かす良也の企みが隠されていた。
その真相がまったく明らかにされぬまま、ただ私の口を封じる目的のためだけに、奴は、国家権力を使い、私を3年間もこの病院に放り込んだ。
そうすることで、君たちがあの事件についてすっかり忘れてしまう時間を稼いだのだ。
その間、私にとって最も辛かったのは、鎮男がなぜかただの一度も私の前に姿を現わすことがなかったことである。
私は寂しくもあり、また不思議でもあった。私はもちろん、鎮男が復讐を、いや正義の遂行を諦めてしまったなどとは考えたことはない。
私には、なぜか鎮男が恥じているように感じられた。鎮男はとっくの昔、四十年以上も前に、わずか十五歳という若さで死んでいた。それも自死によって。
そのことを私が知らなかった、いや、もしかすると潜在意識の底にその事実を深く沈めて知らないふりをしていた、その間だけ私の前に彼は現れ、そしてあのとき、私が彼の死をしっかりと自覚してしまった、その瞬間から朝霧のように消え、そして二度と現れなくなってしまったのである。
それが本当に彼の羞恥心によるものであったのか、それとも私自身の心理的葛藤によるものであったのかは、よく分からなかった。というよりも、そのことを考えることがすごく恐ろしく感じられて、深く追求してみる気にはならなかったのである。
しかし、鎮男の代わりのように、明彦がしばしば顔を見せてくれるようになった。とは言っても、いつも幻想のようにチラチラとパソコンのディスプレイに、なぜかあの時のような淡いピンク色をした髪ではなく真っ白な長髪で現れては私に励ましの言葉をかけてくれるようになったのだ。
私の主治医となった精神科医は秋庭といった。五十過ぎの痩せた如何にも神経質そうな男だった。
彼が使う医療用PCの画面にもときどき明彦は現れたが、秋庭には明彦の姿など見えなかったし、私も一切彼について言及しなかった。
しかし、これは私には極めて不思議なことに思えたのだが、秋庭は初めて私に会ったときから私を患者として捉えてはいなかった。つまり彼は、私の精神になんらかの疾患があるとは最初から考えてはいなかったのである。これは私の期待がそう思わせたのではない。確かなことだった。

もっとも、国立の病院であるから、ここにも良也の臭い息がかかっていないはずはなかった。しかし、さすがの良也も未だ全ての国民を洗脳し恣意のままに操ることはできないでいたのだ。
秋庭はその一人であり、鎮男や明彦が私を守るために探し出し私の主治医として充てがったことは間違いなかった。
つまり、この意味するところは、秋庭は極めて優秀な精神科医であり、私に会ったその瞬間から私の正常を見抜いていたということであり、それは同時に彼があの事件には裏があることを知っていたということでもあった。

この病院は、秋庭のような医者がいなければ、密かに私を抹殺することもできたはずである。しかしそうはならなかった。そうはせずに、私を緩やかな軟禁状態に置く道を選んだ。
それはやはり、明彦と鎮男の二人が私を守ってくれていたからなのである。
秋庭は、初対面のとき、チノパンにセーターという姿で私の部屋に現れた。
実は、私の部屋というのは高級ホテルと見紛うような個室である。私はそこでマフィアのボスのような暮らしを送っていた。
それにしても、それはおかしな邂逅であった。精神科医と患者などという関係のものではまったくなかった。哲学者が二人、何か途方もないこの世の謎についてさりげなく語っているかのような、哲学の素養など金輪際持ったことのない私でさえふとそんな思いに憑かれる、それほど現実離れをしたものであった。

「大友さん」と彼は、神経質そうな第一印象からは想像もできない、にこやかな落ち着いた声で私に話しかけた。「どうですか、少し驚かれたのではないですか」
彼が何を言おうとしているのか、私にもすぐに察しがついた。たしかに私は驚いていたのだ。

あの日、手錠をかけられた私は、一切の手続きを経ずに直ちにここに、都内にある警察病院に収監された。私にはこの後、身も凍るほどに恐ろしい懲罰が待っているはずである。私は心からそう信じていた。
しかし、その想像は予期もできぬ方向に外れた。私は手錠を外され、清潔な広くて居心地の良い一室を与えられたのだ。初めてここに通されたとき、私は本当に頭がおかしくなりそうな気がした。
これはいったいどういうことなのか。ここは本当に、私に懲罰を与えるために用意された施設なのだろうか。

部屋を案内してくれた年配の看護師の女性は、「どうぞお好きに部屋を使ってください。足りないものがありましたらいつでもすぐに補充いたしますので」と私に笑顔を向けた。
「それではすぐに自由の補給をお願いしたい」と、私は調子に乗って軽口を叩いた。
「申し訳ありませんが、私にはその自由は与えられておりません」
彼女は苦笑しながら部屋を出て行った。

一人になると、私はすぐに部屋の探求に乗り出した。まずは食料からである。両開きの大きな冷蔵庫には酒類こそなかったが野菜や魚、肉や牛乳など中身がぎっしりと詰まっていた。コーヒーメーカーもあれば電子レンジ、それにIH式の調理器具も用意されている。もちろんシンクもあり、まな板や包丁まで備わっていた。
シャワーにウォシュレットも付いている。インターネットも携帯も使えたしもちろんテレビを見ることもできた。
まさに私はマフィアのドンであった。あるいは借りて連れて来られた猫と言えなくもなかった。

いずれにせよ、生活するのになんの不便もなかったのである。ただ、難点を上げるなら、すべてのものに、髭剃りにさえなにかが仕掛けられていた。

私は最初、このような快適な暮らしも良也の策略であろうと考えていた。しかし、たとえそうだとしても、それは一体なんのためなのか。私にはそこが分からなかった。ひょっとすると、私を、いや私たちを懐柔し、挽回の時間を稼ぐためではないかなどとぼんやり考えたりはした。
しかし、それは完全な間違いであった。明彦と鎮男が私のために便宜を図ってくれていたのである。

「それで、あなたは?」と私は、初めて顔を見るとても医者とは思えぬ風態の男に上のような疑念を胸に潜めたまま訊いた。借りてきた猫ならぬジャングルで捕獲されたばかりの山猫のような心境であった。

「ああ、そうでした」と彼は申し訳なさそうに言った。「あなたの主治医を任されました秋庭と申します。私はあなたのことを一通り調べてよく存じ上げているような気になっておりましたので、すっかりあなたの方も私を知っておられるかのような気でおりました。失礼をしました」
「なるほど、私の先生というわけですか。しかし、先生もお調べになってよくご承知の通り、私はこのような、身に余る待遇を受けるほど良いことをしたことにはなっておりません。いったいこれはどういうことなのでしょう」

私は自分の皮肉というものがどれほどの効果をみせるものかと、じっと秋庭の表情の変化に注視した。
けれども秋庭は少しも動じなかった。私の皮肉にまったく気がついていないようにさえ見えた。案外鈍い男なのかもしれない。

いやどうもそうではないらしかった。
「私のような精神科医のことを向こうではシュリンクと言うそうです」にこやかな表情を変えぬまま、いやそれに照れたような笑いを付け足しながら秋庭はじっと私を見返した。
シュリンクと言うのは首狩族のことだそうです。まあ、ある意味では、私のような者はヘッドハンターということになるのかもしれませんがね」


私たちは、私と鎮男と明彦の三人は良也という途轍もない巨悪に立ち向かったが、力が及ばなかった。
私たちは、結局のところ鎮男の銅像を良也の居城アルトルム社の見える公園に建立するのが関の山だった。
しかし、あの像は単なるシンボルではなかった。私たちの正義が雄々しく良也という巨大な悪に立ち向かったことの単なる証明ではなかったのだ。
皺の寄ったトレンチコートを纏いつば広のハットを被ったホームレスさながらの鎮男の像は、あの場所で今のこの瞬間も良也の悪事に目を光らせているのだ。それが証拠に良也は、目の上の瘤のように邪魔なはずの鎮男の像を撤去することができずにいる。

明彦は、私を励ましに現れるたびに、鎮男の像が無事で今も良也を隙なく見張っていることを教えてくれた。
「大友さん、私も平さんもあなたがここを出る日を心待ちにしています。いいえ、私たちはただ願っているだけではありません。あらゆる手を使って、準備を万端整えています。良也も巧みに妨害を仕掛けてきていますが、もう少しで準備が整います。どうか頑張ってください」
私は明彦の言葉に全幅の信頼を傾けていた。なによりも秋庭の私に対する接し方が彼の言葉を裏付けているように思えた。

秋庭は最初から私に同情的だった。私の罪?について十分な情報を得ていたが、端からそんなものは信じていないようであった。とはいえ、自分の立場も十分に弁えていたから、そのようなセンチメントを口にすることは一切なかった。
それは、秋庭自身がこの施設について、特に私を巡る状況がどういうものであるか知りすぎるほどによく知っていたからである。
先に述べたように、シェーバーにさえ監視装置が埋め込まれている。そのような中で迂闊なことは一言であれ口にすることなどできるはずがなかった。だから、私たちは極めて深淵な哲学的な議論を交わし、敵の目を欺くことを暗黙のうちに了解して行なっていたのである。

シェーバーにさえ仕掛けが施されていることを教えてくれたのは明彦である。
「大友さん、言動には十分注意してください。すべてが筒抜けになっています。今の世の中はまさに良也が作り上げたターミーネーターのスカイネットの世界ですよ。もっとも、こちらも負けてはいません。こちらもその天網以上の網を張り巡らしています。こうしてあなたとコミュニケーションができるのもそのお陰と考えてください。私の網は、良也などには思いもつかない、この世そのものが持つ網なのですから」

明彦は、秋庭が私へのセラピーに使う医療用PCのディスプレイに私だけに見えるように姿を現し、また私だけに聞こえるよう語りかけた。
収監されて二、三日が過ぎた頃、秋庭は、私に対するカウンセリングの中で何かエッセイのようなものを書いてみないかと提案してきた。
表向きは、そのエッセイに書かれている内容から私の精神的傾向をすくい取り、治療に役立てるためということであった。
彼に言われるままに私はそのようなものを書いた。ただそれは、本当に私が書いたものか、と問われると甚だ疑わしかった。なぜなら、そもそも私にはそのようなものを書く習慣がなかったし、今になって読み返してみても、とても私が書いたものとは思えないからである。
私は、大きな違和感を覚えた。それは、まるで他人の服を誤って着てしまったときに感じるような感覚とでも言おうか。
しかしそれでは、それはいったい誰が書いたものであったのだろう。明彦であろうか。彼は私にそれと知らせず、秋庭に対するメッセージを書かせていたのであろうか。

たとえば、私は「深淵を覗く」というタイトルのものを書いている?

それは、次のようなものであった。

深淵を覗く

幸いなことに、私達はいきなりこの世界に放り出されたわけではない。母親がおり父親がいてその愛情を受けて人間になっていったわけである。
しかし、ここで思考実験をしてみよう。
私は今生まれたばかりの赤ん坊である。だが親はいない。両親ともにである。それどころか、私以外には人類は一人として存在しない。
ところがなぜか、私は人間的な教養を授けられないまますくすくと成長して大人になった。

そしてあるとき、ふとこのような疑問を持つことになった。

何故自分は存在しているのか、と考えるようになったのである。それは、彼にとってまさに青天の霹靂の経験であった。しかし、周りにはそのような疑問に答えてくれるものは何もない。

私の言う深淵とはこのようなもののことある。このような境遇に置かれたなら、私は正気でいられるだろうか。
もしも私がAIであったなら、何の問題も生じないかもしれない。

しかし、私が人間である限り、いや知恵を持つ生き物である限り存在の理由に対する疑問、というよりも恐怖は必然的に生じるはずである。
そしてまた、きっと私は耐えることのできない孤独に押しつぶされそうになるであろう。
さあ、この私と今人類の一員として生きている私と一体何が違うと言うのだろう。
今を生きる私は、ただ他のことに気を紛わされて、この深淵の深さに、その恐ろしさに気がつかないでいる、あるいは気がつかないふりをしているだけなのだ。

この深淵は、あまりに深くて、物理学者も数学者も、ましてや哲学者などでは決して覗いてその底を知ることはできない。

深淵を覗いてはいけない。死ぬほどの恐怖を味合わされるだけである。

果たして、この私がこのような文章を書くだろうか。いいや、私はこのようなものを書くタイプではまったくなかった。
私は最も現実的と言っても良い人種の一人である。いや私は現実主義者であらねばならなかったのだ。
なぜなら、私は一応実業家の端くれだからである。私は飛行船会社の創業者だったのである。
明彦の情報によると、わが大友飛行船は事件後も堅調に事業を継続していた。技術部長の塩沢が私に代わって会社を盛り立ててくれていたのである。ありがたいことであった。あの男にそのような才覚があるとは私には見抜けなかった。いや、おそらく我が社に対しても明彦と鎮男の暖かな救済の手が及んでいたのに違いなかった。

我が社について、私は飛行船会社であると言った。飛行船を製造し、飛行船に観客を乗せ、飛行船でアドバタイズメントをやり、さらには子供のおもちゃとしてヘリウムガスの入った小さなアルミ箔性の飛行船まで製造販売している。これにはペーパー電池で駆動する例のPPU(プラズマ推進ユニット)付きのものもある。リモコンにより上下前後左右自在に動かすことができた。これは今、世間では大評判になっている。また最近は水素ガスの入った環境に優しいパルプ製の紙風船も好評であるらしい。
それらとは別に私には密かに考えていることがあった。新たな事業計画というべきものであったが、これを実行する為には、もちろん国の、というよりも国際的なコンセンサスというものがいずれ必要になるであろうし、まだまだ先の長い未来の話であった。
話を戻そう。秋庭はコンサルティングと称して、私とさまざまな会話を行った。私の書いたエッセーがその時々のトピックに選ばれた。

これは、私にとっては暇つぶしのようなものであった。なにせ、この至極快適な暮らしの中では他に特別やることもなかったからである。
しかし、とは言っても、良也に対しては必ず近いうちに正義の鉄槌を撃ち振り落としてやるという決意だけは決して揺るがなかった。
「ほう。あなたは、このようなものをよく書かれるのですか」
「深淵を覗く」に一通り目を通した秋庭が少し驚いたように言った。
「さぁ、先生。実は、私自身にもよく分からないんですよ。本当に私がこんなものを書いたのだろうかと狐につままれたような気がしています。ただ、私は、少なくとも肉体的には、私の右手がボールペンを握って、まるで自動書記のようにすらすらとこれを書いていくのを見ています。やはり私は狂っているということになるんでしょうか」

秋庭は苦笑を浮かべている。私が彼をからかっていると捉えたに違いなかった。
「自動書記ねぇ。そういえば、私も昔そのようなものについて学んだことがありますよ。スウェデンボルグとか出口ナオとか・・・。出口王仁三郎、御筆先。いやいや本当に懐かしい。しかし今ではこんなものはオカルトでさえありません。みんな心理学の領域内のことと言ってもよいでしょう」
「先生は、どうやら私と同じ現実主義者らしい。安心しました。私は精神科医と聞くと、先生はシュリンクと仰いましたが、私には首狩族というよりもむしろ呪術師の姿が思い浮かんでしまうんです」

「まぁ、当たらずとも遠からずとでも言っておきましょうかね」

「先生、お気を悪くされたんであれば、
どうぞご勘弁を。私は、昔からなんでも頭に思い浮かんだことをすぐに口に出してしまうという悪い癖が抜けないものですから」
「いえいえ、私もこの道のプロですから、あなたのような方でしたらたくさん目にしてきている。その度に気分を害していれば私の方が医者にかからねばいけなくなってしまいますよ」

「はぁ。そりゃ確かに」

「ところで、この深淵を覗くについてですが、これはあなたの深層心理を表していると考えることもできますが、その辺についてはどうですか。あなたにはこれを書いたというはっきりとした意識がない、とおっしゃっている。いわば無意識のうちに書かれたというふうに聞こえますが、その通りでよろしいのでしょうか」

「まぁ、私も先ほど話しました通り、現実主義者でありますので、心理学的に考えてみれば、その通りですと申し上げるしかありません。つまり何かが私に取り憑いて書かせたとは思いません」

「それでは、このエッセイがあなたの深層心理を表しているとするなら、あなたはそれをどのような心理とお考えになりますか」

「それは、正直に言って、今の私にとっては他人の心理、といいますか他人の書いたものを分析するに等しい、というしかありませんね」
「なるほど。それではあなたは、これを書いた人物をどのように評価されますか」

「彼が感じる恐怖というのは、私にも分かるような気がします。それは死に対する恐怖と言い換えても良いのではないでしょうか。それなら、人間に限らずすべての生き物、とは言っても高度な知能を持つ生き物に限られるとは思いますが、猿や犬、猫、ネズミさえ持っていると思いますね。しかし、それよりも私が考えますのは、なぜこのようなものを私が、いやこのひとが書かねばならなかったのか、ということです。あまりに唐突過ぎてその動機がさっぱり私には分かりません」

私はそう応えはしたものの、頭には鎮男のことを思い浮かべていた。これを書いたのは彼ではないかと思ったのである。

鎮男はこのようなものを書くのが好きだった。
あの、二人が少年だった頃の、激しい驟雨に襲われた夏の日、締め切った鎮男の家には饐えた臭いが篭った。
外では大砲のように雷鳴が轟き、トタン屋根を機関銃のように大きな雨粒が叩いた。その合わせ目の隙間や茶色く腐食して開いた穴から霧のように細かい雨が舞い込んできた。奥の間ではまぁちゃんが雷にも負けぬ大きな鼾をかいて寝ている。

忘れもしない。そのときだった。鎮男の口からその言葉が漏れ出たのは。

「薔薇を糞と呼び、糞を薔薇と呼んでも、薔薇はやはり芳しく薔薇の匂いを放つであろう」

あのとき、熱心に読んでいた漫画本から目を上げて、鎮男は静かにそう告げたのだった。それは、四十年も過ぎてからようやく意味の解けた言葉であった。なんとあれは、良也に対する宣戦布告の言葉だったのである。

良也は、私がここに収監された後、あるニュース番組でこう言っている。
「私は世の中の常識というやつを変えてみたいのです。言葉は、こういうととても尾籠で申し訳ないが、薔薇を糞と呼び変えてみてはどうだろう。代わりに糞を薔薇と呼んでみてはどうだろう、とまぁ、このようなことを考えているわけです」
どのように言い逃れをしようが、此奴の性根のほどがこの一言で分かろうというものだ。

鎮男は、40年も先にこの男が発する言葉を読んでいた。そして、それに対して戦いを挑む決心をしたのである。

薔薇は薔薇である。他の名で呼ぶことなどできはしない。薔薇を糞と呼び変えるとは、本来の正しいものを醜悪なものと思い込ませるということである。良也がやろうとしていることというのはまさにこれだった。正しく美しいものを醜悪なものに思い込ませ、反対に醜くて正義に反するものを美としてでっち上げる。それこそが良也の目的だった。鎮男はそれをなんとかして食い止めようとしたのだ」


三年という月日は六十の身にとって短いものではない。
とは言え私は、あの病院の中で極めて健康的な日々を送らせてもらった。あの三年間、風邪一つ引かなかった。
屋外へ出ることは日光浴程度の散歩以外禁止されていたが、リハビリセンターのトレッドミルを使って毎日5キロは歩いたし、筋力を保つためにウェイトトレーニングも欠かさなかった。
収監前の私と出監後の私の写真を二つ並べて見比べたなら、大抵の人はおそらく前後を間違えるに違いなかった。
出監後の私はそれほどフィットしていたのである。

良也が自身に余波が及ぶのを嫌って政治家やマスコミを動かしたために、事件は思ったほどには大ごとにならなかった。
私もあまり大きな社会的制裁を受けずに済んだというわけだが、事件の性質が性質であっただけに、わが大友飛行船からは私の出迎えに塩沢部長が一人ひっそり現れた。車を運転しない彼はハイヤーを雇って私を受け取りに来たのだった。
私はそのとき、ロビーの長椅子に座って長らく見ぬ彼の訪を待っていた。自動ドアが開いて白髪の男がいそいそと私を目指して近づいてくるのを見て私は立ち上がった。
「やぁ」と私は、腹が出て貫禄のついた感のするその男に右手を上げて応えた。

;塩沢の顔を見るのは三年ぶりであったが、律儀な彼は、四季折々に時候の挨拶とともに会社の近況を手紙に認めて送ってくれていた。
「ありがたいことに、君のお陰でわが社は盛況のようじゃないか。本当にありがとう」
「社長、長い間お見舞いに伺うことも出来ませず、申し訳もございません」と彼は首を垂れた。
「いやいや、そんなことはいいよ。君たちの事情はよく分かっているつもりだ。そもそもこの私が蒔いた種なんだから。君たちの方こそ私なんかより余程辛かっただろう」と私は彼の肩を叩いた。
塩沢は感極まったかのようにじっとうなだれていた。「とにかく社に行こう。私は三年間ずっとそれを待ちわびていたんだ」
会社、とは言っても従業員わずか五十人の中小企業であったが、その活況ぶりは一目で見て取れた。私たちが繋留建屋、もしくは単に建屋と呼んでいる巨大ではあるが中が虚ろな建物にはヘリウムガスが充填されたばかりの飛行船OAS15が格納されていた。わが社が誇る全長50メートル、直径最大12メートルの大きな船である。建屋には平らなフロアーの真ん中にレールが敷かれていて、この軌道上を前後二本のケーブルを繋ぎとめた2つの台車が同期して移動することによって建屋を出入りするようになっている。

工場の中心は縫製部門である。工業用のミシンを使って内側に透明なゴムを引いた薄くて軽く丈夫な布をパーツごとに縫っていくのである。
キールと呼ばれる骨組みにはカーボンファイバーを使うが、最近ではそれに代わるまったく新しい素材も使われはじめた。

縫製工場は縦に長くて、飛行船の部位に合わせて高さ75センチ、四方が3メートルから7メートルくらいある木製の作業台が十台ほど、その時々の製作する飛行船や気球のサイズや形に合わせて速やかに並び替えできるようになっている。

その縫製工場では従業員が揃って私を待ってくれていた。彼らは皆事件のことを知ってはいたが、それは世間に流布している通り一遍の噂程度のことでしかなかった。
銃の密造、及びその使用とか、あるいは丸木良也が教祖として世界中の有力者たちを信者にすべく洗脳に勤しんでいるネオゾロアスター教団といったキーワードについてはまったくニュースにもなっていなかったのである。
だからこそ、私を迎える従業員たちの目には好奇心やある種の尊敬や懐疑心などの混交する妖しい光を放っていた。

塩沢がマイクを握って喋った。
「みんな、その場でいい。社長が戻ってこられた。声を揃えて言おうじゃないか。社長、お帰りなさいませ」
見事なハーモニーであった。五十人の口から一斉に お帰りなさいませ の声が発せられ反響した。

塩沢が私にスピーカーを渡した。

「みんな、ありがとう。私は隣の塩沢取締部長はじめ、諸君たち全員に感謝を申し上げる。よくここまで、私を信じて我慢してくれた。私は今、諸君が見ての通り、完全に復活した。いや以前よりもずっとパワーアップして戻ってきた。さあ、すべてはこれからだ。力を合わせて世界の空へと飛び立とうじゃないか!」

ともあれ、こうして私の日常は元に復することになった。
そうして三日が過ぎた。私は技術者の端くれであったから、そのときわが社の業績を牽引しているPPUについてさらなる改良に頭を悩ませていた。PPUことプラズマ推進ユニットは極めて単純な原理によるもので、それはちょうど飛行機の飛ぶ原理がベルヌイの法則によるのと同じくらいにシンプルであったが、飛行機の翼が多様な形状を持つように、PPUもまた極めて多様な応用が可能だったのである。

私が3D-CADを使って設計をしているときに、不意に画面が揺らぎ、続いて砂嵐が起きた。
そして、その砂嵐の中に明彦の顔が浮かび上がった。白髪に金色をしたリムの眼鏡をかけている。
「大友さん、ときが来ました」と、彼はいつにも増して真剣な眼差しで私に告げた。「良也が動きはじめました。向こうも決戦のときが来たと考えているようです。私はあなたとともに戦う為の武器を考えました。詳しくはこの後に情報を提供します」
それだけ告げると彼は姿を消し、代わりにその情報らしきものが現れた。
なんとそれは、先ほど明彦自身がかけていた金縁の眼鏡であった。
しかし、それに付された説明書を読むと、もちろんそれがただの眼鏡などではない、ARすなわち拡張現実の機能を持ったものであることが分かった。
明彦は、これをお前自身の手で作ってみせろと言っているのだ。

眼鏡自体は薄くて軽く、しかも極めて精巧に電子部品が集積されたものであったが、
GPUをはじめとするチップ類は全て既存のものであったし、回路は既に明彦が設計済みであった。
私は部品を集めて、後は組み立てれば良いのだ。
1週間の辛苦の末にわが眼鏡はようやくの完成をみた。眼鏡は蔓のところが巻いて耳の穴に入る超小型のイヤーピースが付けられるようになっている。眼鏡自体は述べたように軽薄短小そのものなのだが、実は本体部分は時計なのである。眼鏡そのものはディスプレイ兼イヤーホンにすぎない。
問題はそのソフトウェアで、これはもう他に類を見なかった。何故なら、このアプリ故に私はまさに超人と化すのだ。
例えば、私はボクシングなどやったことがないが、ひょっとするとアマチュアクラスのボクサーになら勝てるかもしれない。なぜなら、次の彼の動きを瞬時に予測して動き最善のパンチを繰り出すか、あるいはデセプションで一度相手を撹乱し次の次の手を打ち出すか、それをARが教えてくれる、と言うよりは30msec前に映像として見せ、また音にして聞かせてくれるのである。
つまり私は、相手よりも0.03秒未来に生きていて、常に後出しジャンケンをしているようなものなのだ。
スポーツの世界で相手より30msec感覚が早ければ、恐らく向かうところ敵なしと言っても良いだろう。
それにこれのおかげで、私は常に明彦と一緒にいるような安心感を得ることができた。

とにかく、私は良也に対抗する為の最強のアイテムを手に入れたのである。これのおかげで、私には良也の情報が漏れなく手に入った。

良也は今、私を叩き潰す計画を立てていた。それは、私が娑婆に復帰する何ヶ月も前から練られていた。

しかし、私たちも手を拱いていたわけではない。
眼鏡、私はこれをAVAと名したのだが、ようやくこれが出来上がり、満足して、安物の豆を自分で挽いて、使い古したチタン製のカップに落として、さてと、と馴染みの香りのするコーヒーを一口すすったとき、ふいに明彦が現れた。
私は驚いてコーヒーを吹き出しそうになったが、それをなんとか堪え、ズボンに小さなシミを作る程度に抑えた。
「驚かせてしまったようですね」と、明彦は微笑を浮かべながら言った。「しかし、もっと驚かせるようなことがあります」
「いやぁ、しかしこんな驚きなら大歓迎だよ、私は」
「平さんに、平鎮男さんに会えるかも知れません」
「えっ?」
「新信州市の公園です。平さんの銅像の前にもう一度行ってみませんか」
「でも、鎮男ちゃんは死んでしまっているんじゃなかったのかい」
「それでは、三年前にあなたがあそこの公園で会って、あなたと一緒になって良也の悪行を阻止しようとした人物は誰だったんですか。そして、今こうしてあなたと会話を交わしている私はいったい何者ということになるのですか」
「そ、それは」と言ったきり、後は言葉がつながらない。
明彦も自死の道を選んだ。だがそれは、この世から消えてしまうためではなく、この世により大きな影響を及ぼすため、いやもっと直截に言うなら、良也を滅ぼすためではなかったか。とするなら、鎮男とてそれは同じはずである。良也が生きて悪行の限りを尽くそうとしているのに、鎮男が自死を恥じて私の前に姿を現さないなどということがあるはずがない。
「明彦君、よく分かったでぇ。君のいうことはよう分かった。早速、明日にでもあそこへ行ってみよう」私は力が漲るのを感じた。コーヒーを慌てて啜る。カフェインのせいではない。コーヒーは今胃袋に入ったばかりだ。
「そう仰ることは分かっていました。既に手はずは整えてあります。OAS15の出番になります。今度は夜間飛行ではなく真っ昼間のフライトです」

OAS15には艤装が施されていた。それは、新世代の通信の担い手とすべくインストレーションされたフィラーと呼ぶアンテナ類である。
実は、このときには私はまだ知らなかったのだが、明彦は私の指示のように見せかけて塩沢に量子通信システムを完成させていた。量子もつれを利用した暗号通信をまだまだ先のことであろうと考えられていた実用化を画期的アイデアにより達成したものであった。
もちろん、世界はそのことにまったく気がついていなかった。
量子ビット通信は解読が不可能である。私と明彦とのやりとりも全てこれによっていたから、良也に気取られる
恐れはなかった。

風が建屋の周り一面に生えた背の高い雑草を揺らせていた。昨夜は雷雨だった。私は、執務室に篭り、一足早い花火大会を一人楽しんでいた。それは実に勇壮で物惜しみしない尺玉ばかりの饗宴であった。激しい雨がそれに惜しみない拍手を送った。

それが今朝は一転して晴れ上がった。梅雨が終わったのであろう。しかも今日は土曜日である。
本日出勤してきたのは、私の他には塩沢と彼の部下の課長と係長、それに作業に関わるわずかな従業員の総勢十人のみである。
いや、そうではない。この後一時間もすれば、今回の豪華な遊覧飛行のゲストたちが現れる予定であった。

私は、建屋で指揮を執っていた。建屋は、言わば飛行船のための港であり、風を避けるための避難所である。
今その巨大な避難所のシャッターがキリキリという音を建屋の中に共鳴させながら巻き上げられていく。
風が入り込んで飛行船がわずかに身震いするのが分かる。シャッターが上限まで巻き上がった。
幅900ミリに敷かれた二本のレールの中ほどには赤と紺のストライプに塗装され運転席の付いた台車が止まっている。ヘルメットを被った二十歳そこそこの我が社員がそこに真剣な面持ちで座っていた。

台車の前後には両端の長さ3メートルのH鋼が飛行機の主翼と水平翼のように二十メートルの距離を置いてつながっている。
そして、その翼の両端にはOAS15を繋留するカーボンナノチューブ製のケーブルがゴンドラの四隅に向かってピンと張られているのが見えた。
床からゴンドラまでの距離は五メートル。台車との距離は三メートルである。
私は今AVAを使って運転手の大滝に指示を与えている。
「大滝くん、聞こえるか。大友だ」
「社長、メリット5です。よく聞こえます」
やや緊張して高くなった大滝の声が私にもメリット5の明瞭さで耳に飛び込んできた。
「よし、それでは移動開始だ。速度4.8キロで動かしてくれ」
「了解、時速4.8キロで移動させます」
言い終わると同時に氷の上を滑るように台車はスムースに動きはじめた。台車は自重で巨大な飛行船の浮力を圧えているわけではない。軌道、つまりレールはT字型をしている。鉄道のレールのように電車の車輪をただ乗せているのではなく、飛行船に台車が釣り上げられないように、T字型をしたレールの上に乗っかった車両の下にも強固なローラーが二つずつ組み込まれているのだ。
飛行船は人の歩く速度でゆっくりと進み建屋の外にその真っ白な鼻先を突き出した。
風にその鼻先を撫でられて、OAS15はくしゃみでもするようにぶるっと震えた。
そして1分後、青草の萌える原っぱにその威容のすべてを現した。
それと同期するように、海べりの道を我が社の黄色いマイクロバスがこちらに向かって走ってくるのが見えた。客人たちであった。

大滝は、私が指示を与えるまでもなく、ゴンドラを台車の高さまで引き下げる操作に入っている。
台車を降りた大滝のリモコン操作によってカーボンナノチューブ製のストリングがドラムに巻き取られ、飛行船が少しずつ沈んで行くのが分かる。1分が過ぎ、ゴンドラと台車が一体化した。
黄色いバスは、舗装のされていない雨でぬかるんだ道を飛行船目指してゆっくりと近づいてきた。そして十メートルほどの距離をあけ飛行船と並行して停車した。
私は、バスに向かった。バスには賓客がアメリカからの賓客が乗っているはずであった。NSA国家安全保障局)から2名、私の名で明彦君がレターを送っていたのだ。

その二人がバスを降りてきた。出迎えた私をではなく、むしろ飛行船に目を奪われているように思えた。
「ようこそいらっしゃいました」と私は、慣れぬ英語で二人を迎えた、とは言っても、AVAが次に言うべき言葉をビジュアルにそしてオーディトリーに示してくれるので、私の言葉は二人が驚くほど流暢なものに聞こえたらしい。
「大友さん、リチャード・マックミランです。リックと呼んでください」と言って手を差し伸べたのは長身の白髪、灰色の目をしたコーカシャンである。「メールを拝見しまして、英語がとてもお上手なことは分かっていたつもりですが、これほど流暢に話されるとは思いませんでした。申し遅れましたが、隣におりますのは私の同僚でハンス・アカマツです」
私はリチャードの大きくて強い手を握り返し、続いて若くてハンサムなハンスの繊細な手を握った。
ハンスアカマツはその名前からしても日本人の血が入っているらしかった。背はリチャードほどではないが180はありそうだった。日に焼けた如何にも健康そうなスポーツマンの体型をしている。目は茶色、髪は黒。
二人は旅行者らしく見せるためにカジュアルな服装である。ハンスは短パンにポロシャツというラフと言っても良い格好である。リチャードは流石に年齢を承知していてチノパンに白の半袖シャツという姿である。そして二人とも示し合わせたようにショルダーバッグにもなるヒップバッグを肩からかけていた。
「では、早速あれに乗り込みましょう。本日あの船を操縦いたしますのは、ここにおります我が社の優秀なパイロット大滝太一です」
大滝はぺこりと頭を下げると、台車に付いた折りたたみ式のタラップを引き下ろした。そして、先に自分がハンドレールの付いたそれをゆっくりと上がって行き、後ろを向いてフォローミープリーズと言った。
リチャードが笑顔を見せながら先にタラップを上がり、ハンスが続いた。私はしんがりを務めた。
乗員は総勢四人。これだけである。その理由は、中での会話が極めて機密を要するものであったからである。ひとつは、明彦が開発した量子通信に関わることであり、これはアメリカが食いつくためのベイトとして利用した。思った通りに、アメリカは、いやNSAはこれに食らいついた。もっともNSAは既に3年前から大友康太朗について関心を示していた。それは、私と平鎮男の名であの当時、世界中で勃発していた軍事部門におけるクーデター騒ぎを予見し、それを知らせていたからである。
あの良也が仕掛け、それを防ぐために明彦が私たちに知らせてくれて、それを私たちが世界に向けて警告を発した。流れとしてはざっとこうなるであろうか。
いずれにしろ、あの警告をNSAはシリアスのとらえ、我が国の政府にも問い合わせをしてきたのだった。

ゴンドラの内部は、普段は操縦席と観客席の間に仕切りはない。しかし、今回は、こちらの配慮で大滝にも会話が聞こえぬようにプレキシガラス製の遮音板を設けた。大滝としては不本意であったであろうが、その辺はうまく言いくるめてあった。大滝はただ、彼ら二人が飛行船による通信事業に関わる大切な顧客としか知らせてはいなかった。
リチャードとハンスはラウンジに設えた最後部の席に腰をおろした。とは言っても、最後部の左右の席の一つ前の椅子を二つとも撤去し、代わりに二つ折りになったカーボンファイバー製のテーブルをセットしただけであり、私の席を彼ら二人に対面できるよう通路に固定した。

勘のいい二人はすでに私のAVAに気がついていた。ただ、リチャードは、
「ステキな眼鏡ですね」と言って微笑み、ハンスも相槌を打つのみではあったが。
「大滝くん、発進の時刻だ」私は目の前に表示された秒針が12の位置に来たのを確認すると独り言のように呟いた。私の耳には了解の声が聞こえたが、目の前の二人には聞こえなかったであろう。
しかし、私が呟いた独り言の意味は、二人は即座に理解したに違いない。なぜなら、ゴンドラを繋ぎとめていたアンカーラッチが4ヶ所同時に音もなく外れ、飛行船がふわりと浮き上がるのが感じられたからである。
実は、OAS15は半硬式の船なのだが、キール(竜骨)の上は二重の袋になっている。飛行船本体という巨大なラグビーボールの形をした袋の容積の三分の一を占める下層部はさらに二層に分けられている。下層以外の部分、つまり容積のおよそ三分の二を占める空間には水素ガスが充填されている。下層の上部にヘリウム、下部にCO2が充填されていて、その圧力は1、200Pa、つまり大気圧よりやや高い。いわば魚類の浮き袋のように空気より重い炭酸ガスと空気より軽いヘリウムガスの容積比率を変えることによって、浮力のバランスを取っているのである。なぜヘリウムか? それは、水素ガスは圧縮するときに爆発の危険性を否定できないからである。

今、OAS15は極めてゆっくりと上昇しているが、それは飛行船自体の揚力がゴンドラに乗せた1トンの水の重量とゴンドラ自体の重量、それに乗員四人の重量を計算し、炭酸ガスのバランサーバッグを膨らませているからであった。それにPPUの揚力を加減することによって、乗員が不安を感ずることのない適度な速度で垂直に上昇を続けているのである。それはまるでシースルーのエレベータに乗っているような感覚といえば良いだろう。
今、大滝の見ているコクピットのディスプレイには機体の断面図が表示されているはずである。そして青いヘリウム?と緑色の炭酸ガス?を隔てるギザギザの白線で示されたダイアフラムがわずかずつ下がっていって青が緑を侵食していく様子が具に見て取れるに違いなかった。

私にはその絵がはっきりと見えた。圧力を示す数字、内部の温度、PPUの揚力、風向、風力、大気圧、すべての数字が私には見て取れた。もちろんそれはAVAに映し出されたものである。しかしそれは、私の見ようとする意思のとおりに映し出されるので、私は、大滝ではなく、この私自身が船を操っているような錯覚に陥った。

「大友さん」とリチャードがバッグの中身を取り出しながら、私に声をかけた。中身というのは超薄型のラップトップである。「今回のご招待にお礼を言うのを忘れていました。私たちとしましては、この空の旅がとても有意義なものになることを期待しています」すべてニューヨーク訛りのある英語である。
「ええ、きっとそうなりますよ」と、私は笑顔で答えた。「それは、私と鎮男、それに明彦君が保証します。そうそう、あなた方にはまだ明彦君を武藤、いや伊地知明彦君を紹介していませんでしたが、この企画を立てたのも実は彼なのです」
テーブルにラップトップを並べた二人が互いの顔を見つめあった。
「明彦君は・・・、いや、私が紹介するよりも本人自身があなた方に自己紹介をするでしょう」
そう言い終わらぬうちに、二人は揃って驚いたような表情を示した。
明彦の登場だった。彼らのPCに映っているのと同じように、私にも彼の姿が見えた。それは神々しいと言っても良かった。白髪というよりはプラチナ色の髪、そして私と同じように金縁のAVAをかけている。彼にAVAなど必要なのか、という思いもあるが、おそらくあれは私との一体感を表すためであろう。
「リチャードさん、ハンスさん、本日はよくいらしてくださいました。さて、私たちは、これから共通の敵、と言いますよりは人類全体の敵の姿をしっかりと確認するために、敵の本拠地アートルム本社を目指します」明彦の英語は、イートン仕込みの完全なRPであったが、少しも嫌味な感じはない。
明彦の言葉が終わるとともに、船は上昇をやめ高度1、000メートルを保ったまま海の方へ進み始めた。飛行機やヘリコプターのような騒音は一切ない。PPUが静かに滑るように船を推進させているのだ。空のターコイズブルーを反映させて海も紺色に染まっている。風にあおられてわずかに白波が立っている。
「アートルムは、言うまでもなくグローバル企業であります」明彦が言葉をつないだ。「医療用の装置、とりわけfMRIIの世界では他の追随を許しません。しかし、お二人には3年前の事件を思い返していただきたい。あの事件の真相は未だ明らかにはなっていません。しかし、あれはひとつ間違えれば世界戦争にまで発展しかねない、極めて危険なものでした。世界中の軍隊がクーデターを起こそうとしていたのです」
リチャードとハンスの顔がシビアなものになっている。ひどく緊張している様子が手に取るようにわかる。だが、二人とも一言も発しようとはしなかった。
「あの事件の真相は、丸木良也、つまり現アートルム社の最高執行役員、と言いますよりは、支配者の企みによるものでした。
良也は、アートルムを支配するだけではなく、ネオゾロアスター教などというカルト教団を作り、fMRIを使って洗脳した世界中の権力者達を信徒に仕立て上げました。あの軍事クーデターもその一環でした」
「しかし」と、ここでハンスが口を開いた。「それは何のためだったのでしょう」
「実証するためです」
「いったい何を、ですか」ハンスが怪訝そうに言った。リチャードも同じように訝しげな顔でPCに見入っている。
fMRIによる洗脳の効果、そして自分の手で世界を操ることができるかを確認しようとしたのです」
「そして、その結果は実際のところはどうだったのでしょうか。我々の知る限りでは、あのクーデター騒ぎは突然に勃発してやはり突然に終息したことになっていますが」
「良也にとっては半ば成功、そして半ば失敗というところでしょう。良也としては、最初から戦争など起こす気は無かったのです。あのクーデターを機に自分の力を世界に示し、君臨することが目的でした。しかし、クーデターは計画よりも早く終息してしまった。それは、世間は誰も気がついていませんが、私たちが彼の企てに気がついて阻止したからです。良也もまさか死んでしまったはずの義理の息子が邪魔立てをするなどとは考えもしなかったでしょう」
「ちょっと待ってください」とリチャードが驚きの声を上げた。「死んでしまったはず、というのは、いったいどういう意味ですか。我々NSAも事前にあなた方については綿密な調査を行なっています。しかし、あなたや平鎮男なる人物の存在については、全く信じてはいませんでした。この度、こうしてご招待に預かったのも一つにはその辺のトリック、と言うと失礼に聞こえるかも知れませんが、種明かしをしたいということもあったのです」

「トリックではありませんよ。現に私はこうしてあなたがたとお話しをしている。私を一種のボットと見ることもできるかも知れませんが、そうすると、そのボットは、武藤明彦の性格や傾向を正確に写し取ったボットということになる。ここでアランチューリングの言葉を借用するなら、そのようなボットは、もはや私そのものと考えても良いということになりませんか? 」
「なるほど」とリチャードが画面にうなづいて見せた。「しかし、平氏についてはどうでしょう。そもそも彼は、ボットという言葉さえない時代に死去されている」
「少しも不思議なことではありません。私達のドラゴンクェストの旅は始まったばかりですから、少しばかり長いお話をさせていただきますが、わが日本には浅田次郎さんという小説家がおられます。その作家の短編ながら有名で映画にもなったぽっぽ屋というのがあります。
この小説を私は読んだことが実はないのですが、映画は観ました」
ここで、私ははっとした。その映画なら私も随分昔に観たのである。
「大友さんも、どうやら観られたようです」
明彦が私の心を見透かしたように言った。
「問題はその内容ということになりますが、これはレビー小体症候群を扱ったものでした。と言っても、映画を観ておられないお二人には何のことだかさっぱりわからないでしょうが、松っちゃんと呼ばれるある鉄道員が主人公の雪深い北海道を舞台にした作品なのです。松っちゃんは実直過ぎるほど実直な男で、その実直さゆえに待ち望んだ娘がある雪の日に生まれても仕事のためにその誕生の場にも行かない。雪子と名付けた娘がわずか1歳で風邪をこじらせて熱を出していても看病することもできず、とうとう、ゆっこと呼んで心の底ではとても愛していた娘は死んでしまう。そして愛する妻にも先立たれ、し、それから自分はいよいよ定年を迎えるというほど時が経ったある日から、奇妙な現象が身の回りに起きるようになるのです。
奇妙な現象というのは、若い高校生ほどの娘が松っちゃんのそばに現れ色々と世話を焼くようになるのです。
最初、物語の中では当然明らかにはなりませんが、松っちゃん自身は、近くのお寺の和尚さんの孫娘が自分の寝泊りしている駅舎に遊びに来ているものだと思っている。しかし、この松っちゃんには死期が近づいていて、いよいよ明日にでも死ぬという時になって、この娘の正体が失ったわが娘の成長した姿であったことに気がつく、というストーリーでした」
「私には正直なところまだ意味がよく理解できません。その鉄道員がレビー小体症候群にかかっていて、そのために幼くして亡くしてしまった娘の成長した姿を幻想として見た、という理解でよろしいのでしょうか?」とリチャード。
「その通りです」とAVAの中で明彦が素っ気なく答えた。私はぎょっとした。
「しかし、大友さん、安心してください。レビー小体症候群はたとえに過ぎません。
確かに大友さんの脳には良性の腫瘍が存在しています。それも決して小さくはない。しかし、逆にある特定の部分が萎縮してしまっている。だから、頭痛やめまいを起こさずに日常を送られているというわけです」
「それで、その腫瘍というのは、いったい何のために、まさか、私に鎮男の幻想を見させるためにできたものだとでも言うのか?」
リチャードとハンスが驚いて私の顔を見た。私は日本語で喋ったのだが、内容はディスプレイに即時通訳されている。しかし、彼らが驚いたのは、内容よりもむしろ怒気を含んだ私の声だった。私はAVAの力を借りなくても明彦の言わんとするところを先読みできたのである。
「ご明察のとおりです」明彦が英語で答えた。「腫瘍は、元々あったものを利用しました。あなたがドックで脳のMR検査を受けられた。あのときに私があなたの中に大切に保存されていた平鎮男さんの記憶を腫瘍の中に現実化させたのです」
「すべては君の仕業だったのか!」
「いえ、待ってください。そうではありません。確かに私はあなたの脳を少しばかりいじらせてもらいました。しかし、平さんは、確かに大友さんの中で生きていたのです。あなたたちお二人の友情は平さん亡き後もずっと続いていたのです。そして、その友情ゆえに、あなたは平さんの成し得なかった丸木良也への復讐を果たそうとした。いや、それは決して復讐などという低い次元のものではありませんでした。なぜなら、それをやらねば人類全体が大きな苦難に襲われる。だから私は、あなた方おふたりの力をどうしてもお借りしたかったのです」
「なんとなく、あなたの言わんとしていることが分かってきましたが、それでもまだ、なんだか巧妙なトリックに引っかかっているような気がしてすっきりしません。ひょっとすると、これは大友さんの考え出された壮大にして巧妙なコンゲームなのではありませんか?」こう口を開いたのはハンスだった。「もちろん、その動機については皆目見当もつきませんが」
「お二人がそのように思われるのも無理のないことです。ただ、大変抽象的な言い方ではありますが、私達が現実とか実存と呼んでいるものが、もともと極めてあやふやでぼんやりしたものである、ということです。私は、海や雲を見てよく思うのです。海にも雲にも固有名詞のつけようがない。それほど変幻自在だからです。それに、わずかな視点の違いでまったく別物になってしまう。しかし、それよりも不思議なのは、変幻自在とはいえ、その変幻自在な姿は最初から最後まで結晶のように固定しているということです。つまり、万物は、この宇宙は、円周率のPiのように、その数字の羅列のように決まった、固定したものであるにもかかわらず、次にくる数字は、きてみなければ誰にも分からない、ということです」
「明彦君。君は私に、鎮男に会わせてやると言ったが、これまでの君の話を聞く限りでは、私の脳の中にしか存在しない鎮男に会うことなどできるはずがないのではないのかね?」
「大友さん。あなたは平さんが現れなくなってことを嘆いておられた。平さんが中学卒業と同時に自死の道を選んでしまったことをあなたが知ってしまった。そのことによって、平さんが自死をあなたに知られたことを恥じて姿を見せなくなったのだと解釈されている。そうすることによって、ご自分を納得させようとされている。しかし、ちょっと考えてみてください。本当にそうでしょうか。恥じているのは平さんではないはずです。本当に恥じているのは、実は大友さん、あなたの方ではありませんか? あなたは、なにかを見たくない、思い出したくないがために、平さんを見なくなってしまったのです」
私は、掌に汗をかいていた。掌だけではない、全身に気持ちの悪い汗をかいていた。
リチャードとハンスは二人とも、ディスプレイに目を落としているように見えたが、ABAがなくても、私には彼らが私を気づかっていることが感じ取れた。
それと同時に、私たちのやりとりを聴いていた彼らが奇怪極まる明彦の話にだんだんと真実味を感じてきていることも見てとれた。
「つまり、鎮男ちゃんは」と私は、ようやく冷静になって言葉を発することができた。「いや平鎮男は、私の精神的な葛藤のために姿を見せなくなっていた、と。こういうことなのか?」
「そういうことです」と明彦がにっこり笑って言った。「平さんが姿を隠したのではなく、大友さん自身が見えないよう心の目を塞いでいたのです」
「それでは、その塞いだ目はいつ開くことができるんだろう?」
「私も何度か試みましたが、考えていた以上にあなたの受けたショックが大きくて、トラウマになっていることが分かりました。そのトラウトを脱するには、やはりおふたりが邂逅された場所へもう一度行ってみるよりない、と考えたわけです」

私には、あのときの記憶がまざまざと蘇っていた。あのときからすでに三年以上も月日が過ぎている。しかし、あのときの鎮男との再会の驚きと、今となって改めて分かるそれ以上に大きなものであった喜びの気持ちが、まざまざと胸に押し寄せてきたのである。私は泣いていた。涙が溢れ出していた。嗚咽がこみ上げ、息が苦しくてしようがなかった。
私はハンカチを出して涙を拭き鼻をかんだ。
「大友さん、少し休憩された方がよろしいのでは」
リチャードが見かねたように言った。
「いやいや、お見苦しいところを見せてしまって申し訳ない。でも、ありがとう、リック、私は大丈夫です。でも、ここらで少し休憩をとりましょう。外の景色も素晴らしいですし」

私達は、高度を300メートルに保ったまま海沿いを西に下っていた。OAS15のV字型をした全面強化プラスチックの窓からは広大な濃紺の太平洋と晴れ渡った空が、そして右手には緑に縁取られたわが国土が手を差し伸べれば届いて、ピンセットを使ってその木々の一つひとつ、その家々の一つひとつ、発電所や鉄道、立体交差する道路のひとつひとつを摘み上げて好きなように改造できそうなジオラマのように見えた。
今わが飛行船は、川崎を通り過ぎて横浜の方に向かっていた。発電所が案外緑に恵まれていることに気がつく。大きな半球形をしたガスタンクが九基、正方形に並んでいる。ガスタンクを四つ乗せたLNG船がシーバースに泊まっているのが見える。その他にもこの辺の風景は円や三角形に四角形と幾何学的で人工的である。その人工的な中に植物の緑や鳥の群れの白いきらめきといった自然の見せる美がおり混じって飽きることがない。
「コーヒーとサンドウィッチを今、大滝君が用意してくれていますのでわが日本の誇る工業地帯の風景を眺めながら食べるといたしましょう」
そう言い終わらぬうちに、コックピットと客席を隔てるスライド式の仕切りが開いた。見ると、我が社の制服制帽に身を包んだ大滝がワゴンを押して出てきた。ワゴンの上にはステンレス製のコーヒーポットと、大きなアルミニウム製のトレイに乗せた豪華なサンドウィッチがその切り口の鮮やかな赤や緑をのぞかせている。
「どうぞ、前へ移動しましょう」と、私は二人を手で促した。
「大滝君、オートパイロットに任せて君も相伴してくれ」
「ありがとうございます」と大滝は嬉しそうである。
その彼が笑顔を保ったままテーブルを広げて場所を作った。コクピットに最も近いシートを左右二席とも回転させて反対を向かせ、向かい合う二席との間の床に格納された折りたたみ式のテーブルを引き出し立てて広げるだけである。
「いずれいつかは、お二人をナイトクルージングにご招待したいものですね。そのときにはもちろん、コーヒーではなく美味しいお酒と豪華なディナーをご用意いたします」私は、大滝がテーブルにアルミ製のコーヒーマグとペーパートレイを並べているのを手伝いながら言った。
「ええ、ぜひお願いしますよ」と若いハンスがにっこりしていった。「それに美しいエアーホステスが一緒なら申し分ないと言いたいところですが・・・」と口に出してしまってから、リチャードの顔を見て「それは少々厚かましいお願いですよね」と言って照れた。
四人が席に着いた。私と大滝が前席に、リチャードが陸側にハンスが海側に席を占めた。私は、ハンスと差し向かいになり、早速大滝が注いでくれたカップからコーヒーをすすった。これはわが執務室に常備されている豆などよりは格段に質の高いもので、私自身が一口飲んで驚くほどであった。もちろん、そのような驚きは口には出さなかったが、私に続いてカップを口に近づけたハンスがまず驚きの表情を示した。
「これは素晴らしい。このようなアロマは経験したことがありません」
その言葉につられて口に含んだリチャードもびっくりしたように声を出した。「本当に・・・」後は言葉が続かないようであった。
私は明彦の様子が気になった。彼だけは可哀想なことにご相伴に預かれないでいるのだ。
「ご心配は無用です」と私の懸念を予期していたように明彦の声がディスプレイから響いた。大滝が怪訝な顔をしてみせた。
それに応えたのも明彦だった。
「大滝さん、私は実は他の場所からここに参加させてもらっているのですよ。たしかに皆さんと美味しいコーヒーやサンドウィッチをご一緒できないのは残念ではありますが、私はあなた方がこのフライトを楽しんでいらっしゃる姿を見ているだけで嬉しいのです。ですから、どうぞ、私にはご気兼ねなく、会話をしていただければと思います。私もあなた方の会話には参加させていただくつもりでおりますので、どうぞよろしくお願いいたします。そうだ、申し遅れましたが、ここでは私は明彦とだけ名乗っておきましょう。私は、見たとおりの若輩者ですが大友さんには古くから親しくさせていただいております」
大滝は明朗で利口な青年であった。分をわきまえていて、決して余計なことを言わなかった。それに優秀な我が社の飛行船パイロットの一人であった。
「大滝君」と私が隣の彼に携帯端末を渡しながら言った。「この後の飛行ルートについてお二人に説明をしてあげてくれ」
「わかりました」と言いながら二つ折りの端末を広げると、彼は裏表ともディスプレイに変わった端末を前に差し出した。「これからこの船は横浜を過ぎ、駿河湾を抜け、相模湾に達した後、向きを北に変えそのまま北上します。まっすぐ新信州市を目指すことになります」
新信州市は言わずと知れたアートルム社の城下町である。そこにはあートルム社を見下ろす高台があり、そこに鎮男の像が据えられているのであった。
しかし、もちろんNSAの、アメリカ合衆国政府の安全保障を担う要人を極秘裏にこの船に乗せたのは鎮男の像を見せるためではない。明彦は未だその計画の細部を明かさなかったが、アートルムの支配者である丸木良也の危険性を訴えるための十分な準備をしているに違いなかった。
「新信州市には世界的な企業アートルム社がありますね」とリチャードが大滝の関心を呼ばないよう敢えて話題の中心部に言及した。
「ええ」と私は応ぜざるを得なかった。「私が酷い目に会った所と言っておきましょう」
大滝が私に顔を向けた。手を前に差し伸べたままである。
「このお二人はアメリカの有名なマスメディアの人たちなんだよ」と私は、大滝に嘘をつかざるを得なかった。しかしこれは、予め示し合わせていたことである。二人は、アメリカのある有名なネット配信会社の社員で、三年前の事件の真相を探るべく私が招待したことになっている。しかしこれは半ば真実であり、二人は単にNSAの職員という身分を明かしてこそいないが、Wolf & Owl の実体はNSAの隠れ蓑なのである。実際に、二人は私に会い、インタビューをし、そして事件の舞台へと足を運び・・・、しかし、その後のことについては、私にも分からなかった」
「あの事件は、明彦さんが先ほど述べられた、レビー小体症候群でしたか、それと同じような、大友さんの一時的精神耗弱による、もっと端的に言えば錯乱による事件であった、と公式には発表されているわけですが、事件が大掛かりであった割には、それほどニュースにはならず、また大友さん自身も三年の軟禁生活を送るだけで済んだ。この辺りが、私たちにも実に不可解に思われるのです。ものごとというのは、大抵行間に、つまり書かれていないことに意味が隠されている。これは人間の行いに限らず、自然現象にしても同じだ、というのが私の考えです」リチャードが淀みなく考えを述べた。
「まったくそのとおりです」私はサーモンのマリネをレタスで挟んだサンドウィッチを食べながら相槌を打つ。
「大友さんは、もちろんすべてが陰謀だと考えておられる」
「まったくそのとおりです」私は同じ言葉を繰り返した。サーモンがあまりに美味い上に、私の舌がインプットとアウトプットを同時にできるほど器用にできていないせいである。
「なるほど」と、私が食べるのに一所懸命なのを見て、リチャードが短く相槌を打った。
「良也は、実際ありとあらゆる手を使って、大友さんの抹殺を図っています。私は、その証拠のことごとくをお見せすることもできますが、それは今重要なことではありません。今最も緊急を要するのは、良也が私の計画を察知し、これに対抗しようとしていることです」
大滝にも明彦の声は聞こえていた。だから、彼にもここで話し合われていることの概略が飲み込めたはずであった。それが三年前の、私が起こした事件に関係するのみならず、実はアートルム社総帥の丸木良也という、世間的には大変な尊敬を集めている人物が企む世界的陰謀を暴くためのものであったということが語られているのだ、ということを知ったはずであった。

「大滝君」私は少し緊張しながら彼に話しかけた。「君も薄々感じているとは思うが、君にこの船の操縦を頼んだのは、君にも仲間に加わってほしかったからなのだよ。私は君を選んだのだ。実は、これは昨日今日決めたことではない。明彦君が私に君を強く推薦してくれたのだ。我が社の社員の中でも君が私に忠実で、しかもスマートで一番この仕事に向いているというのが彼の見解なのだ」
「その通りです」と明彦が微笑を浮かべて言った。「あなたには是非わがチームに加わっていただきたかった。なにしろ、この私にしても平さんにしても手足があるわけではない。この世においてはゴーストと呼ばれる存在なわけですから」
「社長、大変に光栄なお話とは存じますが、私のような者にそのような大役が本当に務まるでしょうか」
「君は知らないと思うが、明彦君は途方もない天才だった。フィールズ賞間違いなしと言われた数学の天才だったのだ。その彼が私に推してくれたんだ。君なら必ずやってくれる。私も確信しているよ。それに君はもう私たちの船に乗っているんだ。ウェルカム ザ ボードというやつだよ」
「その点については、私たちも同様ですね」とハンスが声を上げて笑った。
「もちろん、ハンス、それにリック、私は最初からその心算でしたよ」
「大友さん。私たちも是非あなた方のチームに加わりたい、と言いたいところなのですが、私たちは、あまり大仰な言い方はしたくはないのですが、合衆国政府の命を受けています。それは、事件の真相を徹底的に究明せよ、というものなのです。私たちは、あの事件のリサーチのためにご招待に預かりました。したがって、こうして、まさに同じ船に乗せてもらっていながら言うのも心苦しいのですが、公正かつ精確な情報に基づくリポートを作らねばなりません。そこは是非お汲み取り願いたい」
「仰るとおりです」と私。「もちろん、最初からそのつもりでおりましたし、それは、私にとっても望むところです」
飛行船が駿河湾に入った。彼らが景色の変化に目を奪われたのに気がついて背中を振り返ると、仕切りは閉じられていたが、それまでの曇天のような灰色が一変して透明になっており、緑色した半島が目の前に迫っていた。工業地帯から打って変わって緑なす観光地の姿が現れた。
「おおっ」とハンスが声を上げた。「素晴らしい」
「有名な温泉地が見えます」とリチャード。「今まで飛行船がこれほど素晴らしいものだとは考えたこともありませんでした。これはまさにウォーキング イン ジ エアーというやつですね」
「ありがとうございます」と言って私は笑った。「実は、私のことをこの飛行船と同じで中身が空っぽであろうと言った者がおりましたが、きっと彼のような男は、生涯あなたのような感慨は持つことはないでありましょうな。なにせ、薔薇と糞の、いや失礼、しかしこれは彼が本当に口にした言葉なのですが、彼は薔薇と糞の区別がつかないらしいのです」
「私たちもその言についてはよく承知していますよ」とリチャードが応えた。「彼の発言は、一言一句NSAも見逃してはいません。ただ、それが本当に意味するところは、はっきり申し上げてよく理解できてはいません。日本語特有の、両義性を持った曖昧模糊なものとしか受け取れないからです」
「良也は決して真意を露骨には述べません。しかし、あの発言は、図らずも彼の本音が漏れ出たものと考えても良いでしょう」
「実は・・・」とここで明彦が口を挟んだ「あの言葉は、三年前の事件のキーワードになっていたのです」
「えっ」とリチャードが驚きを露わにした。「と言いますと」
「クーデター騒動を起こした各国軍部の上層部にはアートルム社製のfMRIによって洗脳がなされていました。彼らが一斉蜂起をするためのキーワードがあの言葉だったのです。それに気がついた私は、その洗脳を解くキーワードもまた彼らに仕込んでおきました。
良也の心には、この言葉通りの、この世のすべての美醜や善悪をひっくり返そうとする企みが込められています。彼にとっては、自分こそが美の基準であり善の基準なのです。
彼は幼い子供の頃からやくざの組長だった父親から徹底してそのように教え込まれてきました。何事も自分が基準であり、その基準通りにものごとが進まないと我慢がならないのです」
「それで、あなたが洗脳を解くパスワードとして仕込まれたというのは?」
シェークスピアですよ。ロミオとジュリエット
「ああ」と二人揃って声を上げた。「あれでしたか」
「薔薇は他の名で呼ぼうとも芳しい薔薇の香りがするであろう」リチャードが後を引き取った。
「良也がやろうとしていることは欺瞞そのものですが、彼はそれをおこがましくも変革と称しているのです」と、私。
「社長、ちょっとよろしいでしょうか」と大滝が緊張した面持ちでたずねた。「先ほどからお話を伺っていまして、私にもだんだんと核心が見えてきたような気がするのですが、あの世界的大企業の経営者はいったい何をしようとしているのでしょうか? そこのところが私にはまだよく見えないのです」
「一言で言うなら、世界の支配です」明彦が答える。
「世界の支配?」大滝が呆気にとられたような顔をした。「しかし、そんなSFのようなことが本当に可能なのでしょうか」
「これは実際にすでに起こっていることなのだよ。ただ、そのことに殆どの人たちは気がついていない。それが怖いのだ。それを私たちは一番危惧しているのだよ」と、私が明彦に代わって大滝に説いてやる。
「例のブレクジットについてもそのように言っている人がいるようですね」とハンスが口を挟んだ。「ブレインコントロールによる国民投票の操作であったと」
「インターネットが世界中に張り巡らされ、その網の目がまさに蟻も通れぬどころか、個人の細胞、DNAやそれよりももっと微細な領域にまで及び出した今日ほど世界を支配することが容易くなった時代はないでしょう。それをあの悪魔は現実化しようとしているのです。それも世の中の価値観を変えるなどといった一見真っ当そうで実は毒を甘く包んだ欺瞞の言葉を使うことによって」明彦の顔は厳しいものになっている。
そのとき、端末を見ていた大滝が告げた。
「我々はもうすぐターニングポイントに到着します。そこからこの船は方向を北に変え一路新信州市を目指します」
彼が言い終わると同時にOAS15はゆっくりした停止動作に入り、一度完全に停止した。そこからヘリコプターのように鼻先を右に回転させ始めた。PPUのなせる技である。まるで回転椅子に座ったまま誰かにゆっくり回してもらっているような感覚である。
「これから高度を千メートルまで上げ対地速度も百キロまで上げます。少し揺れが出てきますが安全は確保されていますのでご安心ください」
彼の言ったとおりに船は高度と速度を上げ始めた。この船は、その内部に多くのストリングが張られていてフォルムを自在に変えることができた。今、この船はストリングを絞って細身の流線型に姿を変えているはずである。また複雑な気流の乱れを読んで表面に皺を作りそのスタビリティーを保つことができた。
「本当に素晴らしい」ハンスが感嘆の声を上げた。「眼下の景色もそうですが、この飛行船の性能には本当に驚きました」
「なにしろ、これはわが社の誇る最高傑作ですから」と少し顔を赤らめたのは大滝である。「中でもPPUとASDS、自動体表面変形システムは世界に類を見ないものでパテントをとっています」

眼下の景色は、ハンスが言うように海景から山景へ、濃紺から深緑へと変わり家並みや高速道路や送電線の姿が一層小さなジオラマに変わった。新幹線が走っている。高速もスムースに流れている。鉄塔や高圧の送電線が時折キラリと光を反射させる。これらは皆わが国の動脈である。

二時間が過ぎた。時刻はお昼になっていた。緑なす山々の間を縫うように河川が流れ、またその流れに沿って街並みが形成されている様子がよく分かる。私たちは今、M市の上空を飛んでいた。
「あと一時間すればいよいよ新信州市に入ります」私の声は少し緊張していた。「すべて予定通りです」
「それでその後の計画は」とリチャードも心なしか緊張しているように思われた。
「十三時にJ公園の野球場上空五十メートルにこの船を待機させ、ゴンドラを降下させます。風はほとんどありませんから安全に降りることができます。
その後のことは、明彦君がお伝えしているとおりです。あなた方のやり方でやっていただいて結構です。ただ、お伝えしていますように、私達の狙いは、良也があなた方の正体をすでに見破っていて、なんらかのアクションを起こすであろうと考えています。逆にあなた方も良也の真の姿を知ることができるでしょう」
「つまり、揺さぶり? 鐘を叩いてその音色を聴いてみようということですな」とリチャードが固い表情のままで言った。
「一石二鳥の効果が期待できます」

大滝がテーブルの上を片付け始めた。残り物を整理してワゴンに乗せ、おしぼりでテーブルを綺麗に拭きとった。
リチャードとハンスが興味深げにテーブルをーの下を覗き込んでいたが、機構が分かると嬉しそうに二つに割った。それから支柱についたボタンを押して手前に倒し床下に収納してくれた。床は元どおりフラットになった。
「よくできていますな」リチャードが精密なメカニズムに感心しきりだった。

それを見届けると、大滝は仕切りを開けてワゴンを元の収納位置へ戻した。
「もう少しで新信州市に入ります。私はコクピットに戻りますので」

眼を凝らすと、アートルムの散在するビル群らしきものが見えてきた。パステルカラーを基調にした建物が広大な緑の林の中にポツポツと点在しているのだ。元々は明彦の祖父が築き上げたもので、そのシックで上品なデザインは良也などのものではない。明彦の母、武藤淑子が設計したものなのである。
それから十分、J公園がはっきりと見えてきた。アートルムを見下ろす高台にあって、動物園と遊園地、それに野球場も見える。
「いよいよです」私は緊張を隠せなかった。リチャードとハンスの表情もやや固いが、それはまた私とは理由の違う緊張の筈であった。
「まもなく野球場上空です」大滝がアナウンスする。
続いて、「上空、停止します」と告げた。

私は足下を見た。グラウンドに男が二人立って手を振っている。わが社の社員である。
「OK、降下しよう」私は大滝に伝えた。
「了解、ゴンドラを降下させます。5、4、3、2、1、下降します」
ラッチの離れる金属音と軽い浮遊感があって、ゴンドラはシースルーのエレベータに乗っているかのようにスムースに下り始めた。
「グラウンドまで四十メートル、三十、二十、十、五メートル」大滝がカウントして、ゴンドラは一旦五メートルの高さで停止した。そこからは大滝の手動操作に切り替わった。
「四メートル、三メートル、二メートル、一メートル、着地」ゴンドラはなんらショックを感じることなく球場に無事到着した。待っていたスーツ姿の社員二人が駆け寄ってきた。8月が近いというのに、長袖でも過ごせるほどに気温は低い。
私達は外に出ると一様に大きな伸びをした。
ゴンドラの旅は快適そのものであったが、やはり地に足が付いているというのは何ものにも変えがたい。砂はわずかに湿り気を帯びていて、踏むとはっきり足跡が残った。
私はOAS15 を見上げた。機体が灰色に見えた。私達は、この飛行船の大きな影の中にすっぽりと入っているのだった。
私の頭の中を三年前のあの夜の記憶が蘇った。あのときも、この船が私をあそこまで運んでくれたのだった。この船が頼もしくまた誇らしかった。

「社長、お待ちしていました」と頭を下げたのは畑中と中埜の二人だった。
それからリチャードとハンスにも簡単な自己紹介を済ませた。
;「ご指示通りに車を二台用意しております。どうぞ、いらしてください」
年配の畑中が私に向き直ると、そう言っててくてく歩き出した。
駐車場には大型のハイブリッド車とレクサスが停まっていた。いずれも個人のもので社用車ではない。
手筈通り、私と大滝は中埜のハイブリッドに、リチャード達は畑中のレクサスに乗りこんだ。リチャードたちはこれからアートルムに向かい、丸木良也を取材することになっている。とは言っても、もちろん取材は偽装である。良也もそれは先刻承知のはずであった。

一方、私と大滝はまずJ公園に行き、鎮男の像と対面する。それから、かつての鎮男の住処を訪れ、そこを少々手入れする予定である。なにしろ、あそこは警察などの公式な見解では、実質的には私の隠れ家、あるいは別荘として使用されていたのだが、その維持保全は会社の経費によるものであった、ということになっている。そして、三年経った今も会社は、物騒なものの撤去はしたものの、あれの維持管理をしっかりとやってくれている、ということなのである。
これは狐につままれたような話である。嘘ではない。私には、別荘を持っていたなどという記憶が全くないのだ。

私はリチャード達に軽く手を挙げて見せ、お互いの健闘を祈って別れた。
私は中埜に言って、車を公園の入口で待たせた。ここからは私一人で公園に入るつもりであった。
大滝と中埜には時刻まで好きに行動するよう伝えてあった。

公園の様子はあれから少しも変わってはいないように思われた。三年の月日は間違いなく人を変えてしまうが、私にとっては公園の噴水が上げる水飛沫も飛び立つ鳩の一群れも木々も、そして行き交うカップルや親子連れもまったく同じであるように思われた。おそらく私が見ていたものは、公園という一つの漠とした概念に過ぎず、飛行船の中で明彦が言ったようにただ海や雲を見るように見ていたからに違いあるまい。

私は公衆トイレに向かった。平日の公園は人も疎らであったが、時刻が時刻だけにあちこちのベンチや草の上にシートを広げて弁当を食べているサラリーマンやOL風の人たちが目に入った。

鎮男の像はそこにあった。私は、実はこの像を見るのは初めてだった。この像を石田防衛大臣に頼んで無理矢理に建立させたのは私であったが、この像がここに建てられたとき、私はすでに収監されていたのだ。
だが、私は像を見上げたとき、胸の中に熱いものがこみ上げてくるのを抑えられなかった。そして、そのときだった。誰かが私の肩に手を乗せ、「こうちゃん」と呼んだのである。
「鎮男ちゃんけぇ」私は、思わずそう応えていた。
「そうや、わいや。あれからもう三年半も経ってしもうた」
振り返ると、あのときと変わらぬ姿の鎮男が立っていた。変わらぬ、というのはこの真夏の時期にトレンチコートを着て円縁の帽子を被った、つまり銅像とまったく同じ姿だったのである。
しかし、私には少しも奇妙には思えなかった。平鎮男というのはそんな男だったからである。
「鎮男ちゃん、ようやく会えたなぁ。これも明彦君のおかげや」
「こうちゃん、明彦さんとわいはずっと互いに連絡をとりおうとったんや。そやで、この後のこうちゃんの計画もよう知っとるで。これからわいのアジトに行くんやろ。ほな、ぐずぐずせんと早よ行こ」
「鎮男ちゃんは、足は、車はどうするん。また例のNコロちゃうやろうな」
「ところがどっこい、そのNコロや。よう走るでぇ」鎮男は微かに笑ったように見えた。

とにかく、私は鎮男に再会できた喜びにうきうきしながら車まで引き返そうとした。
そのとき、「大友さん、良かったですね」と明彦がAVAに突然現れて笑いかけた。「でも、彼らには、大滝さんと中埜さんには平さんの姿は見えませんのでくれぐれもご注意を」
「ああ、ありがとう。君のおかげでよく分かったつもりだよ」と私も彼に笑いかけた。明彦は一つこっくりうなずくと消えてしまった。

私は、車に戻る途中で気がついて、大滝と中埜に車で待機しているように伝えた。二人は揃って猿山の猿を見ていたらしい。
ハイブリッド車まで戻ったときには、中埜は既に運転席に、そして大滝は開いたドアの角を手で押さえて私を待っていた。
「よし行こう」私は中埜に声をかけると後席に乗り込んだ。

ナビを見ると、懐かしいルートが映し出されていた。私は、二人の青年には鎮男のことは一切口にしなかったが、心の中ではやはり気になっていた。
鎮男が私の想像上の、いや、子供の頃の彼の記憶を元に私の脳が無意識のうちに創造した人物であるということは、私にも理性では分かっていた。しかし、あの車は、あのNコロまでが、本当に私の頭の中の腫瘍が作り上げたものなのだろうか? その辺のことが私にもよく理解できなかったのだ。
中埜は曲がりくねった山道を一路、鎮男のアジト、いや公的には私の別荘ということになっているらしい建物を目指してひた走り続けた。右手を谷川が流れている。この川は鎮男の家の側を流れていたものだ。
鎮男はこの水を生活用として、そして発電やコンピュータの冷却にも使っていたはずである。それに風力と太陽光も発電に利用していた。それは、単に商用の電力が引けないほど人里離れた所に居を構えていたという理由からだけではない。彼は、良也と戦うために、どうしても世間から身を潜める必要があったのだ。

懐かしい家の形が見えてきた。ただ大きいだけの平屋の粗末な家である。裏には大きな柿の木があり、庭にも様々な木々が植えられている。
当時はまぁと名付けられた雑種犬がいたはずだが、今はどうだろう。それに鶏や矮鶏たちは?
車は川沿いの狭い道を百メートルほど走ってガレージ兼納屋の前に着いた。ガレージは川に沿って建っており、窓はその川の側にしかない。跳ね上げ式の扉はすでに上がっていたが、光が窓からしか入ってこないため、奥が暗くてよく見えないが、何か黒っぽい物体があるのが分かった。
「中埜君、あれは何かね」
中埜が怪訝そうな顔をした。
「社長の秘蔵っ子のNコロですが、何かご不審な点が?」
えっと声が出そうになったのを私は辛うじて抑えた。明彦君の言葉を思い出したからである。
「社長のご指示でエンジンも足回りもしっかりとチューンしてあります」
中埜が追い打ちをかけるように言う。もちろん、私がそんな指示をするはずはない。あの病院は、電話もネットも好きに使えたが、私は敢えて外部との接触を絶っていた。会社に迷惑をかけたくなかったし、そもそも極めて正確な情報が明彦君からもたらされていたからだ。私は、中埜がデタラメを言っているのだとは考えなかった。おそらく、明彦君が私に成りすまして中埜にいろいろと指示をしていたに違いない。そう考えると、何もかも合点がいき、気持ちが軽くなった。
「ああ、そうだったな。歳のせいか、すっかり忘れてしまっていたよ」
そう言って笑ってみせる余裕があった。
私と大滝を降ろすと、中埜は車を中にバックで入れた。
そのとき、ワンとひとつ吠えて、茶色い中型の雑種犬が私に飛びついてきた。
まぁだった。柴の血が混じっているので、あまりなれなれしくはないが、それでも私への歓迎の気持ちはよく伝わってきた。
「まぁ」と、私も嬉しくなって声をかけた。「おまえも元気そうでなによりだ」
頭を撫でてやると怒ったように一度飛びづさってからもう一度飛びついてきた。彼なりの喜びの表現であり、一緒に遊んで欲しいという意思表示であった。
「よしよし、あとでたっぷり遊んでやるけど、今はそんな時間の余裕がないのだ」
「大滝君」と私は、今自分の置かれている文字通りの環境と精神的な環境の双方に戸惑い途方に暮れている様子の彼に声をかけた。「中に入ろう。ここが例の、公式には私が平鎮男のアジトと呼んでいたとされる家なのだよ」
「今は私が住まわせていただいております」と、車庫入れを終えて合流してきた中埜が言った。「おかげさまで、家賃も光熱費もただにしていただいています。ありがたいことです」
「ほう」と私。
「え」と中埜が声を上げた。「ご存知なかった?」
「いやいや、塩沢君の指示なんだろ?」
「ええ、そのように聞いておりますが、私は社長もご存知であろうと」
「いや、それは知らなかったが、君が住んでくれるのなら、それに越したことはない。しかし、こんな辺鄙なところのボロ屋に一人じゃ寂しくはないかい?」
「それが、どうも私の性に合っているようでして、ウォールデンならぬ森の生活を満喫させていただいております」
「なるほど」私は明彦君から中埜についてはいろいろと聞かされていたが、確かに変わった男ではあるらしかった。
私たちは中に入った。三年前、三和土の土間にはNC旋盤が場所を占めていたが、今はちょっとした修理工場になってしまった感がある。おそらく、中埜はチューンとやらをやったのだ。
そのことを伝えると中埜は、「はい。しかし、社長の秘蔵っ子には本当に驚かされましたよ。初めて運転させてもらったときにはどこかの有名なワークスの手が入ってるのかと思ったほどです」
「ほう」と私は人ごとのように言葉を返すのみだった。確かに私もあの紺色の軽自動車の凄さは鎮男の同乗させてもらって、その度に味わっていた。
私たちは上がり框で靴を脱ぎ、座敷に上がった。
あのときの卓袱台がそのまま残っている。ここで鎮男と私は、鎮男がつくったイリーガルなワインを味わったのだった。しかし、流石にあのような密造酒の醸造設備は没収されてしまっているであろう。そのような私の思いを察したわけではあるまいが、
「社長のお好きなものもちゃんとご用意しておきました。例のシャトーものです」
「えっ」と、ここでも私は彼に驚かされた。
「ワインですよ」そう言って彼は押入れの戸を開けて、中から一升瓶にたっぷり入った薔薇色の液体を取り出して卓袱台の上に置いた。
「いやぁ、驚きましたよ。社長は、あんな有名なワイナリーのオーナーとお知り合いだったんですね」
「え?」二の句が継げない。
私は、飛行船の中で明彦君から滔々と諭され、自分のおかれている状況を十分に理解したつもりであったが、私の中に形成されてしまった世界観と現実の世界との齟齬にすっかり自信を喪失してしまいそうになってしまった。
そのときだった。明彦君がAVA に姿を現した。
「大友さん。大丈夫ですよ。平さんは確かに生きておられる。どうか自信を無くさないでください。彼らの言葉に悪意があるわけではありませんが、今は聞き流してください。あなたの世界と彼らの世界に少しズレが生じているだけです」
「しかし」と私は声を出してしまった。
中埜と大滝が揃って私の顔を見た。私の額にハエでも止まったかのように。
「いや、今これで」と私は眼鏡の鼻当てを人差し指で少し押し上げながら言った。「友人と話をしていたんだよ」
二人は納得したように目を卓袱台に戻した。
中埜が押入れに設えた木の棚から湯呑み茶碗を三つ取り出すと並べて置いた。
「しかし、住んでみて、いえ住まわせてもらって本当によく分かりましたよ。この家の素晴らしさが」
夕食にはまだ早い時間であったので、ワインのあてはチーズだった。これもまた濃厚で驚くほど美味かった。
三人で好きなだけ自分で酒を注ぎ語り合ううちに、私には色々のことが見えてきた。
まず、中埜は我が社がこの地方KS地区における営業活動のため、三年前、私が収監された直後に発足させた支社の社員であり、営業と技術の両面を担っていた。
また中埜はこの私の所有物であるという家を会社から借り、家賃や光熱費、その他一切の生活費を免除される代わりに、この家の維持管理を任されているのだそうだ。車についても、これは塩沢部長の命により、最先端の技術を使って常にチューンに取り組むこととされており、これは彼にとって願ってもないことだそうだ。
「塩沢部長とはあまり会って話したことがないのですが、どういうわけだか、私をすごく買ってくれているようで、ありがたいような、ありがたくないような複雑な気持ちでしたが、ようやく私にも曙光が射してきたといいますか、分かり始めてきました」
そう言って、中埜は私を見た。
「すべては社長のお考えだったのですね」
私はむせて大きな咳払いをした。
いいや、それは私ではない、と言おうとして思いとどまった。先ほどの明彦君の言葉が思い出されたからである。
「ああ、そのとおりだ。私は君を、そして大滝君を我が社の有望株と考えている。そうでなければ、このように大事な話にくわえさせるわけがない」
「それで」と初めて大滝が口を開いた。「社長は私にも特別なミッションが用意されているとおっしゃいましたが、それはどのようなものなのでしょうか」
「君にはいずれアメリカに行ってもらうことになるだろう。君は英語が達者だし、飛行船の操縦にも長けている」
アメリカで我が社の飛行船を販売する計画ですか」大滝が驚きの表情を示した。
「幸いなことに、新世代の通信システムが実用段階に入っている。これのお陰で、世界中で飛行船の需要が高まりだした。この波に乗らない手はない」
「では、今日お会いしたお二人も?」
「いや、正直にいうとあの二人は飛行船事業とは直接の関係はない。しかし、いずれ彼らにも我が社との関わりが出てくる。それは、まだ大きな声では言えないが、極秘で開発完成させた我が社の量子通信システムに彼らが非常な関心を示しているからだ。中埜君は、その辺のことはもちろん承知していることと思うが」
中埜はゆっくりと湯呑みを傾けワインを飲み干すと、拳で口を拭った。
「まったく男冥利に尽きるとはこのことだと思いますよ。東京まで出向いて、塩沢部長から新しい通信システムについて聞かされた時は本当にレースの前のように胸が高鳴りましたよ」
彼は大学で通信工学を学んでいたのだが、子供の頃からのカートから始まり本格的なレーサーを目指して走っているうちに学業はすっかり疎かになり中退を余儀なくされたのである。そして悪いときには悪いことが重なるもので、レース中にクラッシュして右大腿骨を折ってしまった。三カ月入院してリハビリも行なったが、レースには二度と復帰できなくなってしまったのである。
かつては天才レーサーにして天才的な数学の才能の持ち主として世間の注目を集めていた彼であったが、重なる失意から酒に溺れるようになり、挙句にはギャンブルで大きな借金まで作ってしまった。借金は資産家の親が返済してくれたが、アル中同然の彼を雇ってくれる奇特な会社などどこにもなかった。
しかし、どこで彼のことを知ったのか、大友飛行船の技術部長を名乗る男から彼の両親宛に丁重な手紙が届いた。
それが、彼自身も大いに驚いたのだが、ぜひ我が社で活躍してほしい、君の能力を十分に発揮できる環境は用意するというものであった。そして、その環境の一つがこの家であり、あのNコロなのだった。
いや、他にもう一つあったが、これはすぐに明らかにする。
というような訳で、中埜は心底から塩沢に感謝しているようであった。中埜は、一見気難しく、独りで行動することを好むネコ科の習性を持っていたが、話をしてみると、案外素直で人好きのする若者であった。
「大滝さんの話をしていたんでしたよね。どうなんでしょう。今後の私と大滝さんとの接点は出てくることになるんでしょうか?」
「それはもちろん出てくる」と私。「
なぜなら、君たちは私たちと共に戦う戦士だからだ」
「戦士?」大滝が怪訝そうな声を上げた。「アートルム社の丸木総帥とまた戦うおつもりなのですか?」
私は何も言わなかった。ただ湯呑みの酒を飲み干した。
「付いて来てくれ」そう言って立ち上がると、例の扉を開けた。
「よろしいのでしょうか?」中埜が少し驚いたような声をだした。
「大滝君にも私たちの決意を見せねばならない。そして中埜君、君にもだ」
私は急な階段を手摺に体重をかけながらゆっくり降りていった。掌認証のリーダーに右手を当てるとスライド式のドアがスムースに右へ開いた。
私が中に入ると、中埜に続いて大滝が中に入った。
入って左側の空間をほとんどコンピュータアレイが占めている。そして右の壁全てが巨大なディスプレイとなって、世界地図や刻々と変動する折れ線グラフや数字やニュースなどが映し出されている。
大滝が酒で赤くなった顔をさらに紅潮させた。
「これはいったい」と言って中埜に目をやった。
「このコンピュータシステムは現在主としてクリプトカレンシーに使っています。これによって、世界中のありとあらゆる有形無形の、そして・・・」
「合法、違法を問わず、様々な機材や情報を手に入れることができる」
私は大滝の反応を見た。
「違法」つぶやくように彼は言った。
「私たちは、何も犯罪を企てているわけではない。犯罪を、いや丸木良也の陰謀から人類を守るために、イリーガルなものも手に入れざるを得ないだけなのだ」
「それは例えばどのようなものなのでしょうか」
「ある種の化学物質とか金属、まぁそのようなものです」中埜が答える。
「中埜さんはクリプトマネーを使ってそういったものを調達していらっしゃったのですか。いったい、いつからそのようなことを」
「塩沢部長に頼まれました。私はレースをやっていましたから、それを隠れ蓑に日本では違法とされる化学物質や材料を集め、それを元に武器を製作するよう請われたのです」
「その目的はお聞きになりましたか?」
「もちろん。それを聞かなければ、いくら無頼漢の私でもOKとは言いませんよ」
私はキャスター付きのアームチェアに腰を下ろすと、二人にも椅子をすすめた。
ここは大きな電力を使うコンピュータルームなのに非常に静かである。一つは、冷却を直接フロンでやっていること。そして、そのフロンの凝縮に川の水を使っているからであった。部屋の広さは十メートル掛ける五メートル、50平方メートル。正面の5メートル、高さ2、5メートルの壁一面がディスプレイである。
「社長が塩沢部長に指示されたのですね」大きなディスプレイの前にセットされた折りたたみ式の長テーブルの右端に席を占めた大滝が私に聞いた。
「まぁ、普通に考えればそういうことになるんだろうな」
私は曖昧に答えるよりなかった。私は嘘をついているわけではない。しかし、そんな指示を塩沢にした記憶がないのだ。それどころか、収監中、私は一切外部と連絡を取らなかった。
二人はきっと、私を狡猾な狸と思っているであろう。しかし、それも仕方のないことと諦めざるを得なかった。
「分かりました」と大滝がぼそり言った。「中埜さんは、アートルム社と丸木社長について、どのようにお考えですか」
「核心的質問だねー」と中埜が神妙な顔で答える。「俺もそれについては散々頭を悩ませたよ。悩ませたし、調べて考えた。その結果が今の俺だ」
「つまり、丸木良也は悪であると」
「言い切って間違いない」
「それでは、明彦さんについては、武藤明彦さんのことはご存知でしょう。彼については・・・」と、彼が言いかけたところで、ディスプレイに明彦の全身が映し出された。頭髪はプラチナのように白く、私と同じ金縁のAVAをかけている。白い半袖シャツに黒のズボン。背景は、アートルム本社の敷地らしく、青々とした葉を茂らせた樹々の隙間からベージュ色の外壁や晴天の空を映した窓が見える。
「大滝さん」と彼は、そのビルを背に語りかけた。「そのご質問には私がお答えしましょう。とは言っても、お話をするまでもなく、既にあなたは、中埜さんが少しも私の出現に驚いていないことにお気づきになっている。その通り、私と中埜さんは、これまでもこのようにして情報を共有してきました。もちろん、その中には、中埜さんが核心部分と仰った丸木良也に関するものも含まれています」
「私が一番知りたいのは、本当に丸木良也が悪人なのか、ということです。本当にそうなのですか?」
「私が今いる場所は、アートルム本社です。かつてここは、私の祖父、そして母のものでした。ところが、今は丸木良也のものとなってしまった。彼の策謀により乗っ取られてしまったのです」
「いったいどうやって」
「私の父は伊地知正明といって数学と物理の研究者でした。その分野では大変嘱望されていましたが、私の母方の祖父と同じで世間知らずでした。良也に研究の成果を奪われた上に毒まで盛られて死にました。母は、良也を心底嫌っていましたが、父を失った後、少し精神に変調をきたしました。そこが良也の付け入りどころで、まんまとその計略に引っかかった祖父の強い要請であのような男と結婚させられてしまったのです。そして、目が覚めたときには、既に遅かった。アートルムの半分彼のものになっていた。
僕はその頃まだ学生でしたが、父の残した論文が暗号になっていることに気がついた。父は世間知らずではあったけれども、良也の人間性にはとっくに気がついていた。その暗号文の中で父は、自分が良也に覚醒剤を盛られていたことに気づいたことを書いています。しかし、その時には、父は覚醒剤なしには生きていけないほどになっていました。父は、良也が自分に与えているのが覚醒剤と分かっていながら、それを拒否することができなかったのです。そして、最期には自死を選びました」
「丸木良也は子供の頃から悪だった」
私は明彦に代わって、その悪行の数々を大滝に話した。何の罪もない鎮男の兄が彼の手によって悲惨な死に方をしたことも話した。
「そのような男がアートルムを我が物にして今企んでいるのは、世界を自分の好きなように操ることなのだ。彼は、fMRIを使って世界中の権力者や有力者を洗脳し、ネオゾロアスター教徒に仕立て上げようとしているのだ」
「ネオゾロアスター教徒?」大滝が不思議そうな顔で聞き返す。
ゾロアスターとは、ニーチェのいうツァラトゥストラのことだ。ゾロアスター拝火教創始者だが、良也が何故そのような名を選んだかは分からないが、おそらくは彼一流の衒いであろう、と私は考えている」
「大友さん」と明彦が私に呼びかけた。「良也は既に次のフェーズに入っています」
「ほう」私は少し驚いていた。「明彦君、その次のフェーズというのは?」
「三年前にも私たちが非常に危惧していたことです。彼は、ついにウィルスのデジタル化に成功しました。データから本物のウィルスを作り出したり、動物や植物の遺伝子内に組み込まれた古いウィルスを掘り起こすことに成功したのです」
「しかし、それのどこがいけないのでしょうか? 遺伝子工学はこれからもどんどん発展を遂げて行って人類の幸福に役立っていくのではないでしょうか」大滝が怪訝そうな顔をディスプレイの明彦に向けている。
「もちろん、よく言われるように、科学技術というのは諸刃の剣です。あなたが仰るように人類の幸福に使うこともできる。しかし、良也がやろうとしているのはそれとは正反対のことです。彼は、人類を全て自分の思うままに動くロボットにするつもりです」
「ロボットに」大滝は信じられないという顔をした。
「理論的にもまた技術的にもそれが可能な時代が来ています。ある種の昆虫は他の昆虫の神経系を支配して自分たちの奴隷として使うことが知られています。人間の神経系は昆虫のようには単純ではありませんが、基本的には同じです。良也は、ウィルスを使って人間の精神をコントロールしようとしているのです」
「ついに恐れていたことが始まったか」私は、科学技術と悪が手を結んだとき、人類にどれほど大きな災いをもたらすかを知っていた。そのアイコンの一つが核兵器であり、今のところは大きなアウトブレイクは起きていないが、いざおおきな戦争が始まると使用される公算の大きいものがウィルスなどを使った生物兵器なのだ。
良也はそれを、自分の卑しい目的のために開発し実際に使おうとしている。
「何としても、私たちは奴の悪行を食い止めなければならない」
私は両隣の青年二人に決起を促すべく声を張り上げた。
「君たちには是非力になってもらわねばならないのだ」
「私はとっくに覚悟を決めています」と中埜が大滝を覗くように見た。
「分かりました」大滝が決心を固めたように言った。「私は最初、何か騙されているような気になっていましたが、ようやくあなた方の熱意が分かってきました。これは現実に起こっていることなんですね。世間は何も気づかずにいるが、アートルム社の総帥武藤、いや丸木良也は、途方も無い悪魔であり、人類を全て自分のレギオンにしようとしている。この理解でよろしいのですね」
「その通りです」と答えたのはディスプレイの明彦であった。「あの男にとっては、それ以外の人生など無意味なのです。何もかもを自分の思い通りに支配する。その、小さな子供のような衝動に突き動かされて彼は生きてきたのです」
「ところで」と私は気になっていたことを口に出した。「リチャードとハンスはどうしているのだろう」
「彼らは、けんもほろろに良也に追い払われました」明彦がアートルムの本社ビルを背景に立ったままの姿勢で答えた。「しかし、それも最初から織り込み済のことです。彼らにも丸木良也の本性がよく分かったことでしょう」
「新幹線で東京に向かっています。今、そこに電話が入ります」
と、彼が言い終えるとすぐAVAにリチャードとハンスの姿が映った。
「オオトモサン」とリチャードが私に笑顔を向けた。ハンスも私に顔を向けてにっこりした。「ご覧の通りです。今私たちは新幹線で東京に向かっています。丸木良也には見事に追っ払われました。私は、あんな尊大な、傲岸な男は見たことがありません。
「お察ししますよ。私たちも、私と鎮男が訪ねた時もそうでした。私を飛行船会社の社長だから中身も空っぽだろうと嘯いたのです」
「私たちに何と言ったかわかりますか?」とハンスが横から口を出す。
「さあて、何だったのでしょう。何か気の利いたことでもいったのでしょうか」
「Owl & Wolfというのは、No Such Agencyなんでしょ? 」
私は、驚きはしなかった。奴が既に二人の身分を知っていることは織り込み済みだったからである。しかし、リチャードとハンスには驚きだったらしい。彼らは、少なくとも安全保障に関わる合衆国の機関であり、身分の秘匿は最重要課題であったからである。
「私たちの身分はとっくに見破られていました。彼は、それを誇示するためにのみ、私たちと会うことを決めたのです。つまり、私たちはおちょくられた、ということです」
リチャードの言には自嘲が込められていた。と同時に怒りも。
「それで、今後あなたがたは、どうされるおつもりですか」
「すべてをありのままに報告するのみです。丸木良也が途轍もなく危険な人物であるという注釈を付けて」
「ちょっと待ってください」と言ったのは、ディスプレイの明彦であった。ディスプレイには、大滝と中埜も会話に参加できるようにリチャードとハンスの姿も映っている。「丸木良也は、既にあなた方の機関にも工作を行っています」
「えっ」とリチャードとハンスの二人が驚きの声をあげたのも無理からぬことであった。アメリカという地球に存在する最も強力な国家の中枢に工作を仕掛けるなどということが一民間企業にできるなどといったい誰が想像できるであろう。旧ソ連、あるいは現代のロシアや中共であれば、あるいはそういうことも可能であろう。しかし、あの丸木良也がそんなことを」
「私はすでに把握しています。大統領にも通じる最も権力のある人物とだけ今は申しておきましょう。ただし、長官ではありません。その人物は、ネオゾロアスター教アメリ支部長に就任していますが、もちろん、アメリカ国民の誰もそのようなことを知りません。ネオゾロアスターは徹底した秘密主義を貫いているからです」
「分かりました」とリチャードが肩をすぼめてみせた。「私たちも名前は聞かないでおきましょう。私たちはヒントを与えてもらった。あとは自分たちで答を出せばいいだけのことです。それと、丸木良也についても、あまり正直に報告することは差し控えましょう。そのような状況では、彼奴の思う壺にはまってしまいかねない。しかし、彼奴はいったいどのようにして、私たちの組織に入り込み、洗脳を行ったのですか」
「その人物は脳蜘蛛膜下血腫を患っていました。もちろん、病気のことは秘密であり、手術もバケーション中密かに行われ成功しました。しかし、診断に使われた fMRIがアートルム社製のΔ2000だったのです。このfMRIは患者の脳内情報を収集したり、逆に脳に関与して患者を自在に操ることができます」
「つまり、彼はそれを使って良也に洗脳されてしまった、と」
「残念ながら、その通りです。しかも、彼自身は、そのことに気がついていないばかりか、熱心なネオゾロアスター教の信者にされ、丸木良なりを神のごとく畏れ、崇めているのです」
「なんということだ」ハンスがうめき声を上げた。
「奴の魔の手はいずれ貴国の大統領にまで及ぶ恐れがある。私たちには一刻の猶予も残されてはいません」私自身も明彦の言葉に慄かされていた。「明彦君、それで、次に私たちは何をやれば良いのだろう」
「まずは、ウィルスの阻止です。奴は、デジタル化したウィルスを人体で活性化することにすでに成功しました。次に考えていることはその実証です。おそらくそれは、最初、比較的穏やかなウィルス病として一時世間を賑わすことになるかもしれません」
「それで、それはいったいどのようなものになるのだろう」
「例えば、イボ、医学的に言えば疣贅のようなものかも知れません。全身にそのような皮膚病が現れれば、人は驚くしパニックを起こすかも知れませんが、病気自体は比較的穏やかで死に至ることもありません。彼のような男の性格からみて、第一段階としてそのようなことをやる可能性が非常に高い」
「それで、第二段階は?」と私。
「良也が欲しいのは金ではありません。もちろん名誉でもない。彼が心から欲しているのは世界を思うままに操ることです。そのために、間違いなく彼が次に打ち出すのは、人間の改変、自分の思うままに動かせるロボットのような権力者を作り出すことと考えていいでしょう」
「そんなことが本当に可能なのでしょうか?」大滝がディスプレイに向かって尋ねた。
「ある種の昆虫は寄生した昆虫の脳を操って奴隷化するそうです。良也がやろうとしているのはこれと全く同じと言って良いでしょう」
「世界を支配するには原爆や水爆よりも現実的かも知れない」私にはその恐ろしさが実感できた。ウィルスには国境などない。それがコンピュータウィルスのようにいつのまにか特定の人物に、例えば合衆国やロシアの大統領、中共の首席に狙いを定めて発信される。感染しても、本人はもちろん、周囲の者も国民も、誰もその事実に気がつかない。もちろん、誰がそのウィルスを作ったかも、その目的も知られる訳がない。つまり、世界は訳の分からないうちに、すっかり良也の掌中に納まってしまっているのだ。
核兵器よりも恐ろしいことがもうすぐ現実化しようとしています」明彦が訴えるように私に呼びかけた。「私たちの手で、なんとしてもそれを阻止しなければなりません」
「みんな」私は両隣の二人と、そしてディスプレイのリチャードとハンスに呼びかけた。「明彦君は自ら命を絶った。しかし、それは決して現実逃避などではなかった。それとは全く逆で、こうして良也という巨悪と戦うためだった。彼自身をデジタル化して、いわば神のようにユビキタスな存在となることによって、あの悪魔と対決する道を選んだのだ。
私たちは、彼と力を合わせてあの悪魔を滅ぼさねばならない。さもないと、人類は皆彼の奴隷にされてしまうのです」
「よく分かりました」とリチャードがこっくりうなずいた。
「なんだか力が漲ってきましたよ」とハンスも同意する。
私は左を見た。
「私は最初から決めています。男として死ぬには願ってもないチャンスです」
「微力ながら、私も仲間に加えていただきたく思います」
私が右を向いて聞くまでもなく、大滝が賛同を唱えた。
「よし、これで準備は整った。明彦君、次のステップに移ろう」
私は本社に帰ると、すぐに塩沢に指示を出した。
「大滝をアメリカに送る。準備をしてくれ。デトロイトに小さな熱気球の会社があったな。名前は何と言ったか。確か」
クラウド天です。天には漢字を当てています」
「そうだ、それだ。そこを買収する。大滝にそれをやらせるのだ」
「わかりました。熱気球の会社なら飛行船にも通じる技術や人脈、それに必要な土地も確保しているはずです。そこを拠点に新しい展開をしていくということですね」
「そうだ。急いでくれ」
このようなやりとりがあって、大滝は数日のうちにデトロイトの住人になっていた。明彦の支援もあって、大滝はクラウド天の従業員とも親しい関係を築き、70歳近い創立者のバリーという名のインド系の創立者ともすぐに親しくなった。
バリーは冒険家タイプでこれまでも様々なチャレンジをしてきていたが、流石にその年齢から、そろそろ冒険からもまた実業からも身を引こうと考えていたが、彼には娘が二人いるだけで、その婿も彼とは疎遠であった。
大滝がすっかり気に入ったバリーは、自分の会社がその名も愛する従業員も失わうことなく大きく成長する可能性を確信し、買収に応じたのである。
こうして、アメリカに我が社の拠点が、いや丸木良也壊滅のための拠点ができた。
「まさに電光石火ですね」とメールを送ってきたのはリチャードだった。「NSA内でもちょっとしたニュースになっていますよ。もちろん、あなたが丸木良也を潰すためにあの会社を買収したと考える者は一人としていません。ニュースになっているのは、新世代の通信システムについてです。あなたが量子暗号を使った新システムを構築されたことをNSAは知っています。そして、そのシステムを安価に世界中に広めるためにあなたが飛行船を使おうとしていることも」
「例の」と私は話題を逸らした。「例の、明彦君が言及した高官の見当は着きましたか」
「いえ、疑えばそれらしい人物ばかりで、まったく見当もつきません」
「そうですか。しかし、明彦君はおそらくその人物を特定しているはずです。彼が名前を出さないのは、その人物になんら悪気がないから、ということなのではないでしょうか」
「そういうことになりますかな」
一週間ほど過ぎた頃、大滝から私宛のメールが届いた。
それには、今彼は、私が指示した通りに新しい小型の飛行船の制作に取り掛かっていて、それが非常に順調であることが記されていた。彼は、メールを次のように結んでいる。
「ここの従業員は本当に勤勉です。日本の職人のような気質の人たちばかりです。
私は、これが真の目的を果たすための布石に過ぎないことを十分承知していますが、まだるっこしくて仕方がありません」
一方、中埜の方も、いかにも彼らしい行動を起こしていた。彼はアートルムがある新信州市の住人であったから、物理的には丸木に最も近いところにいたといえる。
その彼がやろうとしていたことは、アートルムの技術者と懇意になることであった。
とは言っても、大友飛行船の一社員に過ぎないはずの中埜が丸木良也の念頭に全くなかったかというと、そうではなかった。彼の情報はまちがいなく、丸木の元に届いていた。
中埜自身もそのことを十分認識していたし、生来用心深い性格であったから、常に行動は慎重だった。ただの車やメカの好きな変わり者を装っていた。もっともそれは、彼としてはごく自然に普段通りの生活を送っていただけではあったのだが。
以下に記すのは、私が知る限りの彼についての事実である。
ある金曜の夜、彼は会社の帰りに愛車を会社の駐車場に置いたまま、先輩の畑中と飲みに出かけた。そこはアートルムの本社に近い駅前の繁華街であった。
店の名はサリーといった。こんな田舎の飲み屋とはいえ、サリーは知る人ぞ知る高級クラブであり、一見の安サラリーマンが気軽に入れるようなところではなかった。
実は、中埜は店のオーナーである糸谷葉子とすでに顔見知りだったのである。
昨日、中埜が畑中と近くの蕎麦屋で昼飯を食っている最中に、メールがきた。最初は誰からの何のメッセージかも分からなかった。よくよく考えて、ようやく意味が呑み込めた。
それは、先日のお礼がしたいから是非店に来てくれ、とあり、サリーの名と彼女の名前が記されていた。ただそれだけである。
早速、隣で蕎麦をたぐっていた畑中が、メールを覗き込んで茶々を入れた。
「中ちゃん、お安くないねぇ。どこかのホステスからの営業案内かい」
中埜は黙って携帯をしまい込んだ。
中埜は、彼女と携帯のやりとりをした覚えがなかった。おかしいなと思ったが、あのJAFのおじさんから聞き出したと考えれば合点がいく。
彼は生来がクールな男であったから、葉子が自分に気があるなどとは考えなかった。また、畑中が言うような営業というのも違っていると思った。思い当たるのは只一つ、彼女が示したNコロへの非常な関心だった。あれは、普通の女が車を見るときの目ではない。彼女は、高価なダイヤモンドでも見るようにあの車を見た。
彼が誘いに乗る気になったのは、彼の方が彼女に興味を持ってしまったからなのだ。
その話は前の日曜日に遡る。
中埜はその日、ターボチューンを終えたばかりのNコロの仕上がり具合をみるために温泉街に通じる山道を走っていた。仕上がりは十分でNコロは軽快なエンジン音を立てながら山道を登坂して行く。
その途中、橋の欄干にぶつけて立ち往生している車と遭遇した。それを運転していたのが葉子だったのである。車は赤いカマロであった。
中埜は道の端にNコロを停めると、葉子に近づいた。一目見ただけで、もはや車が動かせないことが分かった。ラジエターからもうもうと湯気が吹き出していた。
JAFは呼びましたか」と彼は声をかけた。赤い革ジャンに黒のスラックス姿のその女は、ぞくっとするほどの美人であった。顔は細くて白くてきりっとしている。鳶色に染めた髪は肩にかかるほどのボブカットで、背は170センチ近かった。彼女がモデルをやっていますと言っても疑わなかったであろう。
「それがあいにく、携帯もバッテリーが切れちゃってて」と彼女は、度重なる不幸に愛想をつかしたと言わんばかりに答えた。
「それでは、JAFは私が呼びましょう。でも、その前にこいつをなんとかしないと」中埜はもうもうと頭から湯気を上げているカマロを顎で指すと、Nコロに戻った。時間帯もあって、車の通行は少ない。カマロは十分通行の妨げになってはいたが、車一台なら楽に通行できるだけのスペースはある。実際、中埜がカマロの後ろにNコロを付け、後部に積んだナイロンスリングで両車を繋ぐまでに横を通過した車は2台だけであった。それは地元の人の乗る軽四とファミリーカーであった。
中埜は、女にカマロのハンドルを握らせ、自分はNコロをバックギアに入れて山際の安全な場所にまで移動させた。
女が糸谷葉子という名を名乗ったのはNコロに向かってのことであった。中埜がJAFに電話をしている間、葉子はピカピカに磨き上げたマリーンブルーのNコロの周囲をぐるっと一周し、運転席の横に立ったまましばらく動かなかった。もちろん、彼女のような若い女がNコロことホンダのN360という大昔の車など知る由がない。
「私は糸の谷と書いてイトヤヨウコ。ヨウコは葉っぱの葉」彼女は中埜にではなくNコロに自己紹介しているようであった。
「ところで、この車、あなたのなの。とってもチャーミングね」というのが、彼女が中埜に顔を向けて放った第一声であった。
「乗ってみますか」と、中埜は思わず言ってしまった。言わざるを得ないほどに彼女の執心ぶりが見て取れたからである。
「え、ほんと? ありがとう。嬉しいわ」
彼女は中埜のその言葉を待っていたかのように運転席のドアを開けた。
なにせ、まだJAFと電話でやりとりをしている最中のことである。中埜は慌てて制止しようとしたが、すでに遅かった。
彼女はエンジンのかかったNコロを急発進させた。先ほど自分がぶつかって傷つけた橋を通り過ぎると、軽快なエキゾーストノートを響かせながら、山道を登っていった。
戻ってきたのは、中埜がとっくにJAFとのやりとりを終え、カマロのボンネットに腰を下ろして腹を立てているときであった。
「この小ちゃい車、いったい何? いったいどうしたらこんなに速く走れるようになるの」彼女の顔は興奮で紅潮している。「ミニクーパーなんて目じゃないわね。私あれにも乗ったことがあるけど、この車は昔の360ccとかいう軽自動車じゃないの」
「その通り」と中埜は腕組みをしたまま答えた。
女はそれを見て、ふんと鼻を鳴らした。
「あんた、ひょっとして何か怒ってる?」
「俺は乗ってもいいとは言ったが、運転してもいいとは言わなかった」
「えっ」と、彼女は驚いたような顔をした。「とんだ言いがかりね。乗っていいというのは、普通に考えれば運転してもいいってことじゃないの」
そう反論されれば、中埜はぐうの音も出せなかった。彼は中っ腹を抱えたままカマロから跳ね降りると、Nコロのドアを開けた。
「あら」と女が不思議そうな顔をした。「あんた、私を見捨てて行ってしまうつもり?」
「俺はもう十分義務を果たした。後はJAFのお兄さんに面倒をみてもらえばいい」
「あら、案外クールなのね。こんないい女を放りぱなしにしておくなんて」彼女は笑っていた。
結局、カマロはJAFのお兄さんならぬおじさんに任せて、中埜は糸谷葉子を彼女が向かっていた先の温泉旅館にまで送っていくことになった。
中埜は、その立派な旅館の前で彼女を降ろしたとき、どうせ男と逢引でもしているのだろうと思っていた。
「それでは」と彼が左手を軽く上げて別れを告げたとき、
「何言ってんの。あんたも一緒に来るのよ。でも、勘違いしないようはじめに言っておくけど、ここ、私の実家。いいから、お礼にお茶の一杯でも飲んでいってもいいでしょう。さあ、早く来て」
今、中埜はクルボアジェの香を鼻腔に味わいながら、あの時のことを思い出していた。
彼は、あまりに話ができすぎているように感じていた。
そのような、何かに、いや誰かに操られているような思いから、それを振り切る御呪いのように、「ユビキタス」と口にしてみた。すると、葉子が直ぐにそれに反応した。
「あら」と、葉子はその言葉を聞き逃さなかったのである。「それって、神は遍在する、という意味でしょ。この場合、その言葉はどんな意味を持つのかしら」
サリーは、中規模程度の広さの店であったが、葉子の魅力と経営手腕によるのであろう、カウンターが二人分空いているだけでテーブルは満席であった。しかも皆、高級スーツにネクタイを締めた上客ばかりで、自分たち二人だけが安サラリーマンのように思われ、ひどく場違いな気がした。
「実は、僕には神が宿っているらしい」
少し時をおいてから、中埜は半ばふざけた調子でそう言った。
「そして、俺の頭に髪は宿らなくなった」四〇代にして頭の禿げ上がった畑中が葉子を笑わそうとグラス親父ギャグを放ったが、「あら、そのようね」と言ったきり、葉子はクスリともしなかった。「でも、中ちゃんの今の言葉は気になるわねぇ」
「中ちゃん?」落ち込みかけていた畑中がはっと頭を上げて中埜を見た。「君たちはいつからそんな仲になっていたんだ」
「やめてくださいよ」と中埜がハエでも払うように隣の畑中に手を振った。そして葉子に向き直ると「あなたも僕をからかうのはやめてください」と言って酒を喉に流し込んだ。
この店は随分と美人ばかりを取り揃えているようであった。どのテーブルにも着物姿や上品なナイトドレスを身につけたホステスが艶美な姿態を惜しげもなく晒している。テーブルを照らす豪華なシャンデリアの光も程よい明るさに調整されている。
「ここのお客さんは、俺たちとは違って皆さん紳士のようだけど、アートルムの社員かい」畑中が不意に尋ねた。中埜が聞きたかったことではあった。
「そうですよ。この小さな市が誇る世界的企業の、それも将校クラスといってもよい人たちばかり。私も鼻高々だわ」
「やっぱりね。道理で俺たちのような飛行船会社のふわふわした安サラリーマンとは着ているものも違うわけだ」と畑中が自嘲する。
「あら、中ちゃんはあの大友飛行船のひとだったの」
中埜は、もはや諦めたように、中ちゃんには反応しなかった。
「そうだよ」と答えたのは畑中の方である。
「それなら、あそこだって立派な会社だわ。ただ、何年か前に変な事件があったことは確かだけど」
「うちの社長が少し精神に変調をきたした、というやつだろ」と畑中が余計なことを喋りかけたので、中埜が慌ててそれを遮った。
「ハタさん、その話はちょっと」
「おっ、そうだったな。この間も元気な社長の姿を拝ませてもらったばかりだしな」
それが余計なことだと言いたかったが、中埜はぐっと抑えた。
そのとき、近くの豪華なソファを並べたテーブル席から背の高い青白い顔をした若い男が立ち上がって、カウンターの二人に近づいてきた。酔っ払っている様子ではない。酒に強いのか、自制して飲んでいないのであろう。
「大友飛行船の方ですか」と中埜に囁くような小声で訊いてきた。おそらく、彼らのやりとりを耳にしていたのだ。
「そうですが」と中埜は答えた。いったい何者であろう。年齢は中埜よりもずっと若い。二十代後半といったところだろうか。粋なオーダーメイドらしいダークグレイのビジネススーツに黄とオレンジのレジメンタルタイが際立っている。直立不動でカウンターにももたれずに行儀よく立っているのだが、背の高さは軽く百八十を越えている。
「すみません。皆さんの会話が耳に入ったものですから」
畑中が警戒しているのが感じ取られた。中埜は、また彼が余計なことを言い出すのではないかと気になった。しかし彼は、さすがに年相応の対応をしてみせた。横を向いて、中埜に後を委ねたのである。
中埜も黙ったまま、青年の次の言葉を待った。
「それにユビキタスという言葉も」
青年は、そう言うと名刺入れから一枚取り出すと中埜に差し出した。
「桐原と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
そう言って、二人に目礼するとまた元のテーブルに戻っていった。
そのテーブルでは二人のホステスが桐原を含めて四人の客を相手にしていたが、誰も彼の行動を気に留めてはいない。
「ちょっと見せて」と言って、葉子が中埜の手から名刺を摘みとった。そして、えっと軽く声を上げた。
「初めての客だったのかい?」と畑中が葉子の顔を見た。
「あの年齢でなんとかの技術部長ですって! しかも天下のアートルム社のよ」
「それは、支社長より偉いのかい」と、この支社長は、只酒を飲ませてもらっていることに気がついているのか、それとも後で見栄を張って自分の奢りにするつもりでいるのか分からなかったが、奢りにするつもりならきっと眼玉を飛び出させることになるだろう、と中埜は思った。
葉子は冷たいまでに畑中を無視した。畑中は、いじけている振りをしていたが、半分は本当にいじけているのだった。
中埜の方は心から慄いていた。やはり全ては仕組まれていた。そのことを改めて認識させられたのだ。
葉子が返してくれた名刺をもう一度じっくり見直す。
桐原新一良とあった。肩書きは、ニューロコンピューティング開発技術部長とある。
「彼」、と葉子が囁くような声で中埜に顔を近づけその顔を伺う。「彼もユビキタスと言っていたわね」
中埜には、その意味することがよく分かっていた。神の遍在。しかし、この場合、その神は明彦を指していた。
「畑中さん、そろそろ引き上げるとしましょう」中埜はスツールから立ち上がった。
「そうするか。俺はほんとは、もう少し飲んで行きたかったんだが、」畑中は未練そうに言いながらもスツールから立ち上がった。
「そうだ。勘定だが、俺の奢りだ。今日は本当にいいところに連れてきてくれた」畑中はそう言って財布からカードを抜き出す。
「あら、ハタさんたら、何してんのよ。今日は私がお二人を招待したのよ。分かってんでしょ」
「そりゃそうなんだろうけど、それじゃあ、俺としては随分、その、格好が悪い」
「分かったわ。それじゃ、キチンと頂戴するけど、目ん玉が飛び出さないように覚悟しといた方がいいわよ」
そう言ってカードを受け取ると、さっとリーダーに通した。
二人して外に出ると、夜風が心地良かった。
「いったいいくら払ったんです?」中埜が訊いた。
「それが見てくれ」と言って伝票を渡す。
「九百八十円」
「まったく、イカした玉だぜ、あのママは」
その晩、中埜は会社で寝た。床にマットレスを引いて毛布一枚で横になったが、寝付けなかった。桐原新一良のことが頭を離れなかったのである。
桐原もまた、中埜と同様に、偶然にあの店に来ていたわけではない。彼もまた、中埜と同様に、明彦の見えざる手によってあそこに導かれたのだ。なぜ明彦がそのような手の込んだ偶然を演出しなければならなかったか? それは、丸木良也が常に鋭い監視の目を光らせているからなのだ。
それにしても、明彦はなぜ俺を桐原に会わせる必要があったのだろう? おそらくそれは、彼の肩書きと関係があるに違いない。あるいは、丸木良也が企んでいるというウィルスと関連するのかもしれない。彼は、横になったまま、椅子の背にかけたスーツの札入れから財布を取り出し、もらった名刺を眺めた。
ニューロコンピューティング開発技術部長。その文字面は最初目にしたときとまったく変わってはいない。しかし、今改めて見るその文字の印象は随分と変わったものに思えた。
彼は、我々の味方だ。
不意に霊感のような思いが沸き起こった。彼は、桐原新一良は、過去に明彦君と何か関係があったに違いない。そのインスピレーションは、もはや確信といっても良かった。
俺は、彼と接触しなければならない。
そう決心すると、急に眠気に襲われた。
土曜日、二日ぶりに家に帰った中埜は、シャワーを浴びてさっぱりすると、短パンにポロシャツという姿で地下のコンピュータルームへ降りようとしていた。そのときに携帯が鳴った。
糸谷葉子であった。
「中ちゃん、昨日は大したもてなしも出来ずにごめんなさい」が第一声であった。
「いえ、とんでもない。畑中さんもとても喜んでいましたよ」
「あら、本当に? 私、あの人に冷たかったんじゃないかと気にかかっていたのよ。でね、本題に入るけど、あの桐原って若い子から、帰りがけにあなたと連絡を取りたいと頼まれたのよ。なんだか変な話だと私も思ったけど、ビジネス上のことだとか言ってたわ。何か心あたりでもある?」
「なくはない」と中埜は答えた。そう答えた方が下手に怪しまれずに済む。
「あら、やっぱり。でも、まあ、私はあなたたちのビジネスに首を突っ込む気はないわ。で、どう? 実はさっき桐原君から電話があって、そのビジネスミーティングの場に私の実家、つまり万年青荘をセッティングしておいたんだけど」
「あそこで? それで時間は』
「明日の12時でどうかしら」
「OK、分かりました。いろいろとありがとう」
「いいのよ、これも何かの縁よ、きっと」

 

翌日、中澤は運命に操られていることを感じながら、Nコロを運転していた。例の橋が見えてきた。そのときだった。彼はミラーに黒いアストンマーチンを認めた。フロントグリルの形ですぐにそれと分かった。それは、桐原であった。彼は中澤の後ろをピッタリ着いてくる。
万年青荘の駐車場は、山を切り開いて作ったもので、土留めの擁壁が聳えるように立っている。車はまばらであった。彼が停めたその隣にアストンがスーと入ってきてエンジンを切った。
ドアを開けて出てきたのは、やはりあの青年であった。黒いレザージャケットにチノパンといういでたちであった。
「中澤さん、来ていただいてありがとうございます」と彼は扉に鍵をかけている中澤にそう言って頭を垂れた。
「いやぁ、こちらこそお会いできることを楽しみにしていましたよ」
そこに葉子が現れた。なんと子連れである。幼稚園児くらいの男の子が彼女のジーンズのポケットに手をかけている。
彼女は子持ちだったのか。中澤は落胆を覚えた。その落胆の中で男の子をよく観察する。色白で利発そうな目をしている。そして、その目で鋭く中澤を射抜くように見ているのであった。彼は酷く羞恥心を感じた。落胆を見透かされたような気がしたのである。
「さぁ」と葉子が、男の子の視線に気がついて言った。「行きましょうか」
二人は彼女の後に続いた。
彼女は黒いポロシャツに下駄ばきである。その下駄が舗装した道を歩くとカラコロと軽い音を立てた。男の子は葉子のジーンズのポケットに手をかけたまま大人しく歩いている。
しかし、中澤が驚かせたのは、その背中に描かれているキジトラ猫の絵であった。猫は尻尾を立てて左に歩いている。その立てた尻尾が優美な曲線を描いている。その絵は芸術の域に達しているようにも思えたが、子どもの描いた絵のようにも見えなくもない。しかし、なによりも中澤を驚かせたのは、猫の上に書かれたubiquitous の文字であった。
中澤は、思い切ってその絵について葉子に聞いてみた。彼女の後について歩きながらのことである。
「そりゃぁ、気がつくわよね」と言って、彼女は立ち止まった。「アキが、この子が描いた絵をプリントしたのよ。ubiquitous もこの子がどうしても入れろって」
桐原も怪訝そうな顔をして中澤を見ている。
「だって、合言葉でしょ」男の子が透き通るような声で言った。
中澤は、ハッとした。桐原も驚いて息を呑んだようだった。
「なぜそんなことを」と言おうとした言葉を中澤は飲み込まねばならなかった。
「それは今は秘密」と、男の子の方が先に答えたからである。
「ね? すごいでしょ、この子は。この辺りではもっぱら神童で通っちゃてるのよ」

二階の部屋からは川が音を立てて流れるのが見える。ところどころに岩が顔を出していて、その岩を取り巻くように白い泡が立っているのか見えた。
桐原は、ジャケットを脱いで座卓の背にかけている。白いポロシャツになってその座卓にあぐらをかいた。背が高いので窮屈そうであった。
部屋は六畳ほどの和室で、真ん中に卓袱台が一つと座椅子が二つあるきりである。
女と来るには別段困らないかもしれないが、ここに男が二人きりでいるのはなんとも居心地が悪かった。
中埜は窓際の椅子に腰を下ろして、じっと川の流れを見ていた。
そこに葉子と女性がもう一人トレイを持って現れた。
「さあ、どうぞ召し上がってくださいな」と言って、卓袱台の上に置いたのは、天ぷら料理であった。
「一昨日知り合ったばかりの男が二人、こうして顔を付き合わせて食事をするというのは、なんとなく気まずいものでしょうね」と言いながら、葉子は二人の湯呑みに茶を注いだ。そして、「お二人のビジネスがうまくいくことを願っているわ」というと、部屋を出て行った。
中埜も卓袱台についた。腹もへっていた。
「いただきましょうか」と桐原が言って箸を取って食べ始めた。
「それでは、私も」と中埜も箸をつける。
料理はとても美味かった。自然に会話が始まった。
「桐原さんはニューロコンピューティングの技術開発部長と名刺にありましたが、それはどのようなお仕事なんですか」中埜は明彦の名を出してみようかと考えていたが、さすがにそれは憚られた。
「簡単に言えば、生物学的なコンピュータを作る技術のこと、ということになるでしょうか」
「ほう、それは例えば量子コンピュータなどと比べて、どのような優位性があるのでしょう」
「優位性というようなことよりも、人間が生き物である限り、必ずこの分野の開拓は必要になってくるでしょうし、量子コンピュータと言われるものとも究極的にはあい通じるものであると私は考えています」
「なるほど」と中埜はうなずいた。桐原が言っていることのどれくらいを自分が理解しているかはわからなかったが、それでもなんとなく輪郭がつかめたような気になったのである。
「ところで、唐突なようですが、なぜ私のような飛行船会社の一社員にこうしてお声をかけていただいたのでしょう」
「中埜さんは、すでにお分かりになっていることと思いますが、私は二十歳の時にアートルム社に入りました。在学中に武藤明彦さんから誘われたのです。しかし、このことは社内の誰も知りません。私の入社は極秘事項だったのです。なぜなら、私は明彦さんのあるプロジェクトを推進するために招かれ、彼の指示のもと、その極秘の計画を進めました」
中埜は身体が冷たくなるのを覚えた。
「で、その計画というのは」
「それは、ここでは申し上げられません。しかし、あなたも感じておられるように、私たち二人がこうして二人膝を交えているのも、明彦さんの導きによるものなのです」
「やはり、そうでしたか。ユビキタスは私たちの潜在意識に埋め込まれた合言葉だったのですね」
「そうだと思います。そして、明彦さんは私に今、あなたにアートルム社の秘密を開示するよう命じています。今度、私の研究所に来ていただけますか」
「ぜひ、お願いいたします」中埜の胸は、明彦の名が告げられた時から激しく高鳴っていた。しかし、彼には桐原にどうしても確認しておかなければならないことがあった。
「我が社の社長のことでしたら、どうぞご心配なく。ここでの会話はもちろん、私たちがこうして会っていることも彼は知りません。私がそのように工作したからです。今、私はあの男のことを我が社の社長と言いましたが、私はあの男がどのような人物かをよく知っています。だから、本当は社長などとは呼びたくはないのです。その辺のことも理解していただければありがたく思います」
「アートルム社の中にもあなたのような方がおられるということを知って少し安心しましたが、あの男の悪行を知っている社員はどのくらいいるのでしょう」
「皆無、と言っておきましょう。そう言って、間違いありません」
「しかし、そんな中であなたはどうやって生き延びて来られたのですか」
「これまた、忍従の二文字以外にはありません。私は肩書きこそ部長ですが、ニューロコンピューティング部門は、会社のお荷物扱いになっています。私は、そこで隠者のように細々と研究を続けています」
「しかし、なぜあなたのように優秀な方が」
「それは、来て貰えばすぐにお分かりになると思います」
以上が、中埜と桐原の邂逅のアウトラインであり、中埜が私に教えてくれたことである。
私は、この話を聞いた後、明彦を呼び出した。しかし、彼は私の呼びかけには応答しなかった。そして、以来AVAにまったく姿を現さなくなったのだ。
私は無力感に苛まれた。私にとって、明彦の存在が如何に大きなものであったかを思い知った。
それから数日が過ぎた頃、嫌なニュースが流れ始めた。未知の病気のアウトブレイクである。それは、明彦が予言したとおり、皮膚病として蔓延し始めたのである。
それは、まさにイボであった。身体の部位を問わずあらゆる場所に出現した。直径五ミリから十ミリほどの硬くて醜い突起が、新緑の時季に木の枝から新芽が芽吹くように数ミリから数十ミリの高さまで伸びるのである。このイボは命こそ脅かさなかったが、患者を精神的に参らせ、社会にも多大な影響を及ぼすことになった。
日が経つにつれ、患者の数は増えていったが、接触や空気感染によるものではないことはすぐに確認された。患者の増加は緩やかで、散発的であった。
アメリカのCDCや日本の国立感染症センターなどの調査により、すぐにウィルスが特定されたが、医学者や科学者たちは、その結果に非常に驚いた。このウィルスが、おそらく人間の遺伝子の中の無意味なガラクタとしてもともと結晶していたものであることが分かったからである。
これの意味するところは、このウィルスが何者かによって人工的に産み出された、ということである。
当然ながら、この情報は厳重に秘匿された。テロの可能性が危惧されたし、何より世界中がパニック状態に陥る恐れがあった。
不思議なのは、仮にテロによるものであったとしたら、その標的が不明な点であった。患者は国や人種や宗教を問わず、公平に発生していた。また、どこの国や機関にもテロを匂わせるメッセージは送られなかった。
そして、三カ月も経つと患者は皆自然治癒し、新たな発生もなくなったのである。
私には良也が次の段階に入ろうとしていることがよく分かった。そして、その次のウィルスこそが本物、良也が本気でやろうとしていることなのである。
人間の脳に作用して、良也の思うままに操ることができるよう、脳そのものを改変させてしまうという恐ろしいものなのだった。
私は、NSAのリチャードにも情報を送った。リチャードは、飛行船の中で明彦が予言したとおりのことが現実になったことで、私の危惧にも重大な関心を示した。
NSA内でも大きな騒ぎになっています。CDCからウィルスのコードをもらって分析をしていますが、その中でデジタルコードが遺伝子コードに変換された際に生じたと思われるバグを確認しています。しかもこのバグは、いかにも思わせぶりに、故意に作られたものらしいことまで分かっているそうです」
良也のやりそうなことだった。彼はこのようなマーキングが大好きなのだ。反社会性パーソナリティを持つサイコパス。しかも、それが突出して高い。なぜ人類は、いや生物というものは、時としてこのような種の滅亡につながりかねない異常な変異種を生み出すのだろうか?
私は、明彦のことが気になっていたが、もはや彼を頼るわけにはいかなかった。私は中埜に指示を送った。それは、桐原の研究所を訪ねろというものであった。
季節は早、夏の終わりを迎えていた。中埜は、蝉時雨の中、ハイブリッドの愛車のドアを解除した。まぁが一緒について行きたがったが、脚で蹴るふりをして追い払った。今日はさすがにラフな格好というわけにはいかない。きちんとしたビジネススーツに細身のネクタイを締めている。スーツはパステル調の青。ネクタイは淡い黄色のペーズリー柄である。ワイシャツは白にした。サングラスをして車に乗り込む。まさにスパイ映画を地でいくシチュエーションである。これから起こるであろうことを思うと、彼の胸は高鳴った。それは、これから起こることを思う、とではなく、実際にはこれから起こることというのが想像もつかぬほど未知であったから、というのが正しい。
桐原との約束は十時であった。彼はスタートスイッチを入れた時、ちらっとナビの時計に目をやった。ディプレイに小さく表示されたアナログ式の三針式のそれは、今ちょうど九時ちょうどを指した。
そのとき、彼は遥か先の方で閃光を見たような気がした。しかしそれは、後で考えても気のせいであったとしか思えない。そこまでの距離があまりに遠く、閃光は極めて小さなものであったはずだからである。
しかし、それから十分後、ディプレイにネットからの映像が映し出された。
中埜は息を呑んだ。それは鎮男の像であった。像の上半身が斜めに、袈裟斬りに切断されていたのである。そして、その像に隠された秘密が白日の元に晒されていた。がらんどうであるはずの像の内部からは沢山のケーブルやコード類が出ており、黒い煙を上げている。上半身は太いケーブルを引きずったまま上下真っ逆さまになって、帽子を被った頭部が地面に突き刺さっている。映像は、その上半身の内部を映し出した。そこには、収められた電子機器が焼け焦げて煙を上げていた。
中埜のAVA に大友の姿が映った。
「見たかい。宣戦布告だよ! 奴は打ち上げたばかりの準天頂軌道衛星からレーザー兵器を使ってあれを破壊したのだ。奴は、もう俺には恐れるものなどない、ということを私たちに見せつけたわけだ。この意味は、君にも分かっているとは思うが、奴はすでにウィルスを目標に注入してしまったのだ」
「私が桐原と会うことと関係があるのでしょうか?」
「タイミングから考えても、そのとおりだろう。おそらく、桐原君のことも把握しているに違いない」
中埜は、車をUターンさせた。猛スピードで細い山道を引き返す。
あの平鎮男の像は、単なるこけおどしではなかった。それが誰かは社長も知らなかったはずだが、とっくに開発済みであった量子暗号回線を使って、平鎮男の、いやわが社の社長である大友康太郎の別荘とアートルムをつなぐ中継基地として機能していたのだ。あの像は、アートルム社を遥か見晴るかすと同時に右手には別荘近くに設けた飛行船の繋留ポストを見る位置に設置されていた。
中埜は、このことを入社とほとんど時を経ず、塩沢から渡されたUSBによって知った。情報は全て暗号化されていたが、暗号を解くキーは、彼自身の中にある、そのことも知らされていた。
「曇りのない目でよく見るように」というのが、塩沢部長が社長から託された言葉だったのだ。
納屋に車をつけると、まぁが喜んで駆けよってきた。足にまとわりつくのも構わず、家に飛び込むと急いで地下への急な階段を駆け下りる。静脈認証でドアが開くのを待つ時間ももどかしく感じられた。
ディプレイは、警告を発していた。アートルム社との通信が途絶えたことを意味していた。
中埜は、コンピュータ端末の一つに向かって指示を出した。
アーセナルオープン」
床の一部、50センチ四方が下降して横にスライドした。彼は自作のオートマチックとアサルトライフルを一丁ずつ取り出した。
拳銃も小銃もデザインに何ら凝ったところのない、ただ武骨な黒い鉄の兵器に見えたが、その性能はすでに確認済みである。アサルトライフルはHOWAの89を元に改造したもので公算躱避率は、猟期に山の中で独自に測定したものだが、2を記録している。
中埜はその二丁を用意したスポーツバッグの中にタオルでくるんで入れた。
車に再び戻ったとき、まぁはただしっぽを軽く振るだけでついていこうとする素振りを見せなかった。
「じゃあな、まぁ」一声かけてやると、まぁのしっぽの振り方が大きくなった。
AVA をサングラスから通常のモードにしたとき、大友の姿が映った。
「罠かもしれん。良也には彼の私兵が付いている。あの男のためなら死も厭わぬ輩たちだ。くれぐれも気をつけてくれ」
「承知しています」と応えながら、助手席に置いたスポーツバッグを左手で撫でる。これを実際に使うことになるとは、と頭の隅にふと感慨めいたものが起きた。それを振り払うようにスターターを押しアクセルを踏み込む。トラクションコントロールもお陰で、砂地の砂利道でも後輪は空回りすることなく発進し加速する。
アートルム社の駐車場に付いたのは約束の時刻五分前であった。
レセプションカウンターで用件を伝える。受付には四人の女性とネクタイを締めダークスーツの襟に社章を付けた男が一人立っていた。女性はみな席に座っているのだが、この男だけは笑顔を浮かべたまま隙なく来館者を監視している。この時間、カウンターは酷く混んでいた。来館者が引きもせず受付に訪れていた。
やっと私の番が来て、受付の小柄な女性が用件を訊いた。
私がそれを伝えると、彼女の笑顔が一変した。上役の男の方を無言で見る。
男は表情を、笑顔を絶やさなかったが、
「実は」と言いながら、カウンターから私の立っているロビーにまで出てくると、近くの警備室と思われる部屋を手で指し「そのことで、あなたにお伝えするよう、桐原様から仰せつかったことがございます。どうぞあちらに」
通されたのは、やはり防災センターであった。監視用のITVモニターが壁一面を占めている。この会社のセキュリティ担当者らしきスーツ姿の男が二人とユニフォーム姿の警備員が十人ほど、なにやら忙しげであった。
中埜はミーティング用のテーブルの前に座らされた。スーツ姿の男たちがそれとなく中埜の様子を観察しているのが感じられる。
彼を連れてきた男も椅子に腰を降ろした。さすがに作り物の笑顔は消えていた。
「実は、桐原さんは昨日退社されました」
「え、」という言葉が自分の口から出たものかどうかもわからなかった。
「しかし、なぜ」
「それは、わたくしどもにも分かりませんが、依願退職であるとは聞いています」
中埜は、この男と不毛な問答をすることは避けた。
「それで、そのメッセージというのは」
「これでございます」そう言って薄い茶封筒を渡す。宛名には確かに彼の名が書かれている。いや印刷されていた。
彼は、その糊付けされた封を開けるのももどかしく、乱暴に爪で破いた。
中には三つ折りになったコピー用紙が一枚だけ入っていた。
その中身の文章もプリントされたものであったが、彼は一瞬にしてそれが誰によって書かれたものかを知った。
「中埜耕平君、いや大友康太郎の使者君、よくぞわが巣にまで来てくれた。しかし、君も今知るとおり、あのスパイはもはやわが社員ではない。なかなか彼はよくやっていたようだが、図らずも尻尾を出してしまったようだ。
あの目障りだった銅像も始末した。いやいや、君たちがそこまで用意周到だったとは、さすがの私も気がつくのが遅くれたようだ。おそらくは、あの不肖の倅の入れ知恵によるものなのだろうが、どうかね、その後君は明彦には会ったかね。歯、歯、歯
いいかい、君の雇主によく言って聞かせてやってくれ。
これ以上、俺の計画の邪魔をするな、とな」
中埜は怒りに拳を固めていた。彼は勢いよく立ち上がった。テーブルに腿が当たってガガガッとその脚が床を擦った。その音に驚いて視線が中埜に集まった。
「すみません、ニューロコンピューティングは、桐原さんの研究室は、どこにあるのでしょう?」
「さぁ」と中埜に封筒を渡した男は首を傾げた。「調べてみましょうか?」
男は近くの端末を操作していたが、再び首を傾げて見せた。「おかしいですねぇ。ただ閉鎖となっています」
「閉鎖? どこにあったかもわからないということですか?」
「そうですねぇ。閉鎖というのは、私もあまり聞いたことがありません。大きな会社ですから組織の改編は度々ありますが、閉鎖されたというのは初めて聞きます」
「誰か知っている人はいませんか?」中埜は警備員全員に聞こえるよう声を上げた。
モニターの前に座っていた体格のよい警備員が軽く手を上げてみせた。
「たしか、E棟にそのような名前のところがありましたよ。私は一月前までそこにいたのでよく憶えています。E棟のB3F、地下3階です。迷子になるくらい広くて複雑なところです。もちろん、私たちは中に入ることはできませんでしたが」
「ありがとうございます」
中埜は、その警備員に会釈すると防災センターを出た。封筒を渡した男も彼に続いた。そして、ドアを後ろ手に閉めながら、彼に注意を促す。
「お判りとは思いますが、許可なく館内に入ることは不法侵入になります。必ず正規の手続きを踏んでください」
「ええ、よく分かっております。私はただ、桐原さんに呼ばれて約束の時間にここまで来たのですが、その彼が退職してその研究所まで閉鎖されたということに驚いているだけです」
「お渡しした封筒には、それについて何も書かれていなかったのですか?」
「いえ」と中埜はエントランスに足を向けながら答えた。「書いてありましたよ。しっかりとね」
車に戻ると、AVAに大友が現れた。深刻な顔である。
「すべて見ていたよ。明彦君に何か起きたとしか思えない」
「私も同じ考えですが、身体を持たない彼に何か起きたということの意味がまだピンときません」
「すべてはE棟にあると私は思うが、君はどうかね」
「私も同意見ですが、その前にどうしても一つ確かめておかねばならないことがあります」
「ほう」
「社長はAVAですべてをお見通しですから、この後の私の動きをよく見ていてください」
「なるほど」大友はただそう言ってAVAから消えた。
中埜は糸谷葉子に電話をかけた。
「あら中ちゃん、こんな早い時間に何? あなた勤務中じゃないの」
「いや、勤務中なんですが、どうしてもあなたに会って聞きたいことがあるんです」
「え」と彼女が一瞬言葉に詰まったのが分かった。「なにそれ? ひょっとして、私があんたのこと好きかどうかってこと」彼女がふざけているのはよく分かった。いや、ふざけている振りをしているだけなのかもしれない。
「とにかく、僕は今アートルムの近くまで来ています。あなたの店の近くに可憐という喫茶店があるのをご存知ですか。そこに私はこれから入ります。ぜひ来てください」
「分かったわ。可憐なら、私も顔なじみよ。これから向かうわ」彼女の言い方には不快感というよりも何か気圧されたというような響きがあった。中埜に否と言わせぬ強引さがあったのだ。
結局、可憐では一時間も待たされた。葉子ががらんと扉を開けて入ってきた時、時計は十二時を示そうとしていた。
それは、中埜の強引さに対するせめてもの抵抗であったのかもしれない。しかし、その一時間の間に入念に化粧を施し、着るものも選んだことも疑いようがなかった。白のスラックスに白のジャケット、そして真紅のブラウス。そしてラフィアで編まれた紺色のベレー帽といういでたちである。その表情に少し不満の気が漂っているのが絶妙なアクセントになっている。
「待たせたわね」不満の気を拭い去らぬままそう言うと、葉子は彼の前の席に腰を下ろし、白いポーチを腰の後ろに回した。
「こんな早い時間にお呼びしてすみません」
「なに言ってんの。早い時間だなんて。もうお昼じゃない。ほら、見てご覧なさい。お昼ご飯のお客様が押し寄せてきたじゃないの」
彼女の言う通りであった。扉がひっきりなしに開いて、そのたびに油の切れたヒンジが金切り声を上げた。
中埜は、彼女が一時間も待たせたせいだとは言えなかった。今となっては、彼女に聞こうと、いや問い質そうと思っていたことさえ、あまりに不躾であったと感じられるくらいに冷静さを取り戻していた。
「で、そのあんたの聞きたいことはちゃんと聞いてあげるから、お昼ご飯くらい奢ってくれてもいいわよね」
「もちろんです」と中埜ははっと気がついて言った。
「冗談よ。わたしは自慢じゃないけど、男の人に奢ってもらったことなんか一度もないわ」そう言いながら、店員に手を上げて合図する。
女性の店員がやってきた。
「ピラフにウーロン茶の冷たいのをお願いするわ。ウーロン茶は先にお願い」
店員が中埜の方を向いて注文を促す。
「わたしはサンドイッチセットとコーヒーをお代わりで」
店員はオーダーを復唱すると一礼して席を離れた。
「ところで」と葉子が中埜の顔を覗き込むように見た。「Nコロが停まっていなかったけど、何で来たの」
「ああ」と、中埜は少し驚いて言った。忘れかけていたが、やはりこの女はあれにご執心なのだ。「あの車は預かりものなんです」
「で、誰の?」
「それは、ご想像に任せますよ」
「なるほど、分かったわ。それで、急がせるわけではないけど、ご用件は何なのかしら?」
「実は、」と口を開きかけたときに店員がウーロン茶とコーヒーを持ってきた。それを二人の前に置くのに間が空いた。
「実は、」店員が立ち去るのを待って再び口を開く。「桐原さんに会いに行ったのですが、彼は退職していて、彼の研究所も閉鎖されている、と言われたんですよ」
「え」と、葉子がストローから口を離して声を上げた。その驚きようになんら不自然なところはない。彼女は今初めてこのことを知ったのだ。
「狐につままれたような話ね。桐原さんがあなたを招待したんじゃなかった?」
「そのとおりです。だから、わたしも訳が分からなくなってしまって」
「訳が分からなくなったから、わたしに相談しに来た、訳じゃないわよね」
相変わらずこの女は鋭い、と中埜は思った。
「何か、ご存知じゃないかと思いまして」
「ひょっとして、わたしと桐原君がグルになってあなたを担いでいるとか、何か良からぬことを企んでいたとか、そんな風に考えている、というのが正直なところじゃないかしら」と言う顔には微かな笑みが漂っている。
「まぁ、正直に言うと、少しあなたを疑っていました」
「それで、今はその疑いは溶けた、と思っていいのかしら」
「すみません。あなたがそのような人でないことに気がつきました」
「溶けたってことね」
「そのとおりです」
「分かったわ。それで、これからどうするつもり?」
そのとき、AVAに大友の姿が現れた。その彼が言う。「彼女の協力を得るのだ。彼女にはアートルムの役員クラスとのコネがあるはずだ」
中埜は彼の言に従った。「実は、厚かましいお願いがあります。アートルムの有力者を誰かご存知ではありませんか。もしおありなら、その人と連絡を取っていただけないでしょうか」
「そりゃぁ、心当たりがなくはないけど、どんな理由をつけて連絡をすれば良いのかしら」
「桐原さんの友人が連絡を取りたいのだが、取れなくなった、という意味のことを言って、わたしと会ってもらえないか聞いてほしい」
「分かったわ」

中埜は、葉子の尽力により人事部長の中濱という男と会うことになった。時刻は十五時。あまり余裕がない。
急いでレクサスに戻る。葉子が追いかけてきた。
「わたしも何かの役にたてると思うわ」
中埜はなるほど、と考えた。一理無いわけではない。
「分かった。乗ってください」
「いったい、あなたは何者?」
車に乗り込むと同時に葉子が訊いてきた。
「なんで、そんなことを?」
「だって、あのNコロといい、このレクサスといい、普通のサラリーマンにしてはちょっとおかしくない?」
「これは確かにわたしの車ですが、あのNコロは、言わば社用車です」そう言いながら、スターターを押す。「社長の趣味なんですよ。わたしは社長の別荘に居候させてもらいながら、あの車のメンテナンスもやらせてもらっている。という、まぁ一種の共生関係にあるわけです」
ハイブリッドが車道に出ると放たれた矢のように猛烈に加速する。葉子は座席にぐいっと押し込まれたが、それが快感のように笑みを浮かべている。

アートルム社の駐車場までものの十分とかからなかった。十五時にまだ十分もあった。
「中濱さんというのはどんなタイプの人ですか」車を停めると、すぐにはドアを開けずに、中埜は葉子の顔を伺った。
「でっぷりした赤ら顔の、はっきり言ってわたしの一番嫌いなタイプ」
「ほう。わたしがその一番嫌いなタイプでなくて良かった」そう言って、ドアを開ける。
「あら、中ちゃんはわたしのタイプよ」葉子もドアを開けて外に出ると、中埜の反応を伺う。
「ありがとう。でも、今は中濱部長に会って、桐原さんのことを聞き出さないと」
「そうね」

人事部は五階にあった。受付の女性たちは十時に来たときと同じであった。彼を防災センターに連れていったスーツの男が二人に軽く会釈した。今回は、すぐに部長室に通された。葉子が隣にいるせいであろうか、あまりにスムースにことが運びすぎているような気がする。

「やぁ、ママ」
秘書に案内されて二人が部屋に入ると、中濱は書類から目を離して葉子に手を挙げた。
「あら、中濱さん。執務中のあなたは一段とクールに見えるわね」葉子が笑って応える。おそらく彼女は、車の中で自分が中埜に言ったことと今の阿りの言葉の齟齬を自分で可笑しがっているのだ。
「まさかママにそんなおべっかを使ってもらうとは考えてもいなかったよ」中濱も笑って応える。「もちろん、魂胆は分かっているよ。桐原君の所在について知りたいんだろ」
「所在?」中埜が思わず声を上げる。
「あなたは?」中濱から笑顔が消えた。
「桐原さんと今日会う約束をしていた中埜と言います」
「ああ、そうでしたか。まぁ、話は少し長くなりそうだから、そこに腰をかけて話しましょう」中濱は応接用のソファを手で差した。

そこで中埜が聞いた話は意外なものであった。中濱によると、桐原はまだ在籍しているのだという。しかし、新たな極秘プロジェクトの推進を社長直々に命じられたため、彼はその存在を消す必要があった。社長命令により、彼は部署ごと存在を消されてしまった、ということらしい。
中埜は、横目で葉子の表情を伺った。葉子は端然として中濱の話を聞いている。
「でも、中濱さん。そんな極秘事項をわたしたちに教えてくださるのはなぜなのかしら」
「さすがに糸谷さんは鋭いねぇ。実を言うと、わたしにもそれが大いに不審だったのですが、わたしのところに社長直々の電話があって、社長はあなたがたお二人がここに来て、桐原部長についてお尋ねになることもご存知であった。そして、わたしが先ほどお伝えしたようにお教えしろと命じられたのです」
「それは何時頃のことですか」中埜が思わず身を乗り出した。
「糸谷さんからの電話の少し前のことです。我が社の社長には予知能力があるのではないかと思いましたよ」
中埜は内心慄いていた。全てが良也の仕掛けた罠に思えてきたからである。
「それ以外に社長さんから頼まれたことはないのかしら」葉子が中濱を促す。
「鋭いねぇ」中濱が驚いて言う。「実は、あなたがたを桐原部長のところに案内するよう命ぜられました。それに、あなたがたのことについては無用な詮索をしないように、ともね。しかし、襖の奥で愛しい女房が機を織っていれば覗きたくもなるし、決して開けるなと言われて玉手箱を渡されれば開けて見たくなるのが人情というものでしょうよ」中濱が二人の顔を見比べる。
「さあ。そのご要望へのお答えになるかどうかは分かりませんが、桐原さんの研究に関係がある、とだけ申し上げておきましょう」
「なるほど。ま、そういうことなんで。しょうな」中濱はもの足りなさそうな表情を浮かべていたが、ふと思い出したように電話を取り上げ、「高山君、来てくれ」と秘書らしき男を呼んだ。
ノックする音がしてすぐに扉が開いた。入ってきたのは、いかつい感じの大男だった。彼は中埜を睨め付けるように見た。
「これから彼、高山があなた方をご案内いたします」中濱は高山の威圧的な態度を注意するでもなく、そう伝えた。
「それではお連れします」高山が無愛想に答え、黙って付いて来い、とばかりに扉を開けた。

桐原の研究所のあるE棟は4階建の大きなビルであった。様々な樹々が林となって建物を取り囲んでいる。外壁には貝殻の内側を思い起こさせるタイルを使っていて、建物全体が巨大な真珠の箱のように見える。
高山を認めると、警備員二人が敬礼をして通した。答礼をするでもなく、高山はエレベータまでつかつかと歩を進めた。
エレベータは左右に3機ずつ6機あった。
手前の一つがすぐにドアを開けた。
高山に続いて二人が乗り込むと、高山はB1のボタンと4Fのボタンを両手で同時に押した。
エレベータは、B3Fを過ぎさらに下降した。どうやら、ここには隠されたフロアーがあるらしい。

エレベータを降り、右に折れすぐにまた左に曲がってまっすぐ明るい廊下を進む。突き当たりにガラス製のスライドドアがあり、そこが受付になっているが誰もいない。高山がそのドアの前に立つとすぐに左に開いた。受付のインターホンに手をかけようとしたとき、「入れ」という威圧的な野太い声がして鉄扉がカチッと解除された。高山がレバーを押し下げ扉を開く。ここに至るまでこの男は一言も声を発していない。よほど声が惜しいのであろう。
その部屋、というよりも空間は明るくて広く、コンピュータやサーバなどが点在しているかと思うと、ガラスで仕切られたオペレーションルームらしきものまである。薄青に塗装された巨大な箱にはMRと表示されている。天井は驚くほど高い。おそらくここは何らかの機械室として設計されていたものを改修して作り変えたのだ。
高山はさらに先を目指して進んでいく。途中、多くの研究者らしき人達と出会ったが、彼らもまた高山も会釈一つ返さない。

突き当たりに電気の配電盤が並んでいる。この研究施設に電気を供給しているのであろう。
高山は、何をするつもりなのか、左端の盤面の扉を開いた。LEDがすぐに点灯し中を照らし出したが、床の上にダンボールの箱や半透明のプラスチックケースに入った何らかの電気部品らしきものが置いてあるほかは空っぽだった。
「ついて来い」高山が傍若無人に告げた。恐らくこの男は自分の親に対してもこのような口の使い方をしてきたに違いない。この男は良也のいわゆる用心棒の一人で社内を縦断しているのだ。中濱の秘書などというのは大嘘で、あらゆる部署のスパイ活動をしている良也のエランド、使い走りなのだ。
壁は壁を偽装した扉で、高山が押すと音もなく開いた。

「遅くなりました」と高山が声をかけた先にいたのは丸木良也であった。茶のスーツに赤に黄色の線で火炎を描いた柄の如何にも品のない姿でキャスターつきの肘掛け椅子に掛けている。
中埜は良也を見るのは初めてであったが、すぐにこの男がそれと分かった。黒く日焼けした顔は顎が張りでっぷり膨らんでいる。真っ黒な癖毛は年齢からいっても染めているのであろう。
それよりも、そのオーラであった。中埜が一目で良也と察しがいったのはその紫色の気味悪く良也の周りを漂う光であった。
そして、その良也の傍には桐原が緊張した面持ちで立っている。
「中埜君、よく来てくれた。君はわたしに会うのは初めてだろうが、わたしの方は君をよく知っているよ。それに糸谷葉子さん、あなたについてもよく承知しているつもりだ」
「大変、光栄なことでございます」葉子が臆面もなく応えた。高山が鋭い一瞥を投げかけたが何も言わなかった。葉子も怯む様子を見せない。
良也が不快感の滲む笑い声を上げた。
「誰かを思い出させてくれるよ、あんたは」
「桐原さん。これはどういうことなんでしょう」
中埜が桐原に声をかけようとするのを遮るように良也が応える。
「中埜さん、それをこの男に訊くのはちょっと酷ってもんだ。なにせ彼は、つい先日長年のスパイ活動がばれて今や囚われの身なんでね。この男は、明彦の墓守として、彼の死後もずっと使えておったのだ。わしもその点は迂闊であったが、例のデジタル化したウィルスをわしが拡散しようとしたのを妨害したことで、裏切りが発覚した。ウィルスを無害化しおったのだ」
「無害化?」中埜が訝しんだ。
「わたしは、最初からこのような男の手先になるつもりはありませんでした。わたしは、明彦さんに請われてこの会社に入り、そして請われるままに、その死後もデジタルの時空に生かし続けたのです」
「デジタルの時空とはよく言ったものだ」良也が鼻を鳴らした。「おい、高山、その時空とやらをこの二人に見せてやれ」
「はい、社長」高山が初めてまともな言葉遣いをした。
「ついて来い」そう言うと先に歩を進める。
「桐原。おまえも付いて行け。高山では説明も出来んだろう」と背中で良也の声がした。
先にあるのは強化ガラスで仕切られた四角い部屋である。遠目にもその中にコンピュータや様々な医療装置が見える。天井からはロボットアームやケーブル、チューブの類が伸びており、その全てが部屋の中央高さ1メートルほどの銀色をした台の上に置かれた直径50センチほどの透明な半球を取り囲んでいる。
高山がガラス製の自動ドアを開けた。セキュリティシステムは彼にこの研究施設全ての出入りを許可しているのだ。

中澤たちは、ステンレスの台上に置かれた半球を取り囲むように立った。半球の中には半透明の緑色をしたゲルが脳を包んでいる。それは明らかに人間の脳であった。
「明彦さんの脳です」桐原がフラットな、何の感情も表さぬ声で伝えた。
中澤にも大きな驚きはなかった。ここに来る前から多少は予期していたことであったからである。
「彼は、彼の脳は生きているのですか」中澤は尋ねた。彼の生死は、大仰ではなく人類の未来に関わることであった。
「生かされています。ただ外部とのインタラクティブは遮断されています。これでまる二日になります。極めて危険な状況と言わざるを得ません」
「水槽の中の脳ということですか」
「まさにその通りです」
「あの男は、丸木良也は・・・」と中澤が言いかけたとき、
「おい」と、高山がドスのきいた声で遮った。「口の利き方に気をつけろ」
「入出力を遮断された脳がどのようなことになるか、ご承知されています」桐原が中澤の聞きたかったことを察して答えた。
「つまり・・・」
「その通りです。今の明彦さんの脳は非常に苦しい状態にあります」
「あなたは、彼の、明彦という人物の部下で、明彦さんの指示によってこのような、脳だけを取り出して電子のネットワークと繋げるというようなことを実行された。このような理解でよろしいのでしょうか」葉子が静かに尋ねる。
「その通りです」
「それで、今あなたはそのことを社長に知られてしまって、明彦さんの脳とネットワークとを遮断させられてしまった。これも、正しいのですね」
「その通りです」
「あなたは、いったい何を脅されているのですか」
「おい、何度も言わせるな。口の利き方に気をつけろ」
「脅されているわけではありません。私の脳もまた、この男と同じように」と言って、桐原は高山を顎で指した。「彼に支配されてしまっているのです。
高山が無言のまま恐ろしい形相で桐原に掴みかかろうとした。その腹に鋭い回し蹴りを入れたのは、隣に立っていた葉子であった。
グェというような喉から発せられた声が中澤にもよく聞こえた。相当威力のあるキックであったに違いない。高山の顔からしばし血の気が引いたのが分かったが、すぐにその顔が朱色に変わった。腹を両手で抑えたくの字の姿勢から顔を横に向けて葉子を睨みつけるとバネのように身体を跳ね起こし掴みかかろうとした。今度は中澤が男であることを示す番であった。
彼は10センチほど背の高い高山にジャンプしてその首に左手を巻きつけると手前に引いてねじり倒した。
「やるじゃない、ナカちゃん」葉子がそう歓声を上げながら、その横っ腹にさらにインステップで蹴りを入れる。少しは容赦というものをしてやれよ、と思うくらい手加減の、いや足加減のない蹴りで、高山はウッと一声呻き声をあげると気を失ってしまった。
「おまえら、いい加減にしろ」と部屋のどこからか良也の声が響いた。「桐原、そいつらを連れて戻ってこい」
桐原は、その声に一瞬ぶるっと慄えたように見えた。
「とのお達しです」それだけ言うと、先にドアを開けて外に出た。それに続いて二人も外に出る。

良也の顔は不機嫌が露わであった。
「お嬢さん」と彼は葉子を見て言った。「なかなか派手にやってくれたじゃないか。さすがに、明彦が見込んだだけのことはある」
「明彦が見込んだ・・・?」中澤は混乱していた。「いったい、葉子さん、何のことですか」中澤は葉子に目をやった。
「さぁ、わたしにもさっぱり分からない」葉子の顔に嘘をついている様子はない。「何のことだが、ちゃんと説明してもらいたいものだわね」と良也の顔を睨みつける。
そこに高山が横腹を押さえながら戻ってきた。
「このクソ尼が・・・」葉子を見るなり、掴みかかろうとする。
「引っ込んでいろ」良也が唾棄するように小声で言う。
「はい」高山のその声は怯えた仔犬がキャンと泣いたように聞こえた。
「あんたには明嗣という子どもがいるだろう。その子の父親は誰か言ってみろ」
「え」と思わず声に出したのは中澤であった。
「アキが誰の子かって、とんだ余計なお世話だわ」葉子の声は、先ほどまでの野性味を完全に失っている。先ほどキャンと泣いた高山が乗り移ったかのようだ。
「あんたが知らなかったのも無理はない。あんたはただ、あるファンドから途轍もない大金をもらい、何処の誰かは名も教えてくれぬが、とてつもなく頭がよく、そして身体的にも極めて健康で優れているという若い資産家の精子を、いや実際には幹細胞の提供を受けて子を産んだ。それが明彦のクローン、明嗣だったというわけだ」
「ふん」と葉子は毒づいた。「それが事実だとしたら、わたしはとてつもない幸せ者ってことね。教えてくれた礼を言うべきなのかしら」
「口の減らぬ尼だ」高山が呟いた。今度は
良也もそれを無視して何も言わなかった。
「あの子が、あの幼稚園児が明彦さんのクローン」中澤が確認するように葉子を見た。
「私もいま初めて知ったのよ」葉子が囁くように言った。
「道理で頭がいいわけだ」中澤も小声になる。
「あの子があなたに何か言ったのかしら」
「ええ、今から思えば、明彦さんのこともこのような事態になることも、何もかも予見していたのでは、という気がします」
「おい、おまえら。私語は慎め」高山が良也を代弁するように言ったが、その声は二人の私語に合わせたかのように小さい。
「あら、元気がなさそうだけどお腹でも痛いのかしら?」葉子が侮って笑う。
「なにを!」と、高山は声を荒げたが脇腹を庇うように手を当てたのが可笑しかった。
「そいつは」と良也が苦笑気味に言った。「その男は、元公安のスパイだ。わしを探りにきてミイラにされてしまった、というわけだ。哀れなものよ。なぁ、桐原」
桐原は表情を変えない。
「ところで、先ほどの続きだが、明嗣というガキは元気かね」
「アキが元気かどうか、あんたと何の関係があるというの。もしもあの子に指一本でも触れたら、この私が容赦しないからね」
葉子の顔は蒼白になっている。
「一つ言っておいてやろう。このわしの邪魔をするものは、例えガキであろうと容赦はしない」
「正体を現したな。この外道が」中澤は怒りに全身が慄くのを感じた。間違いなかった。こいつは、やはり化け物だった。悪の権化だったのだ。この化け物を倒すために明彦さんは自死の道を選び、そしてうちの社長は三年もの間、精神病棟に入れられた。

「化け物? それはありがたい。それほど光栄な言葉をかけられることは滅多にはない。おい、高山。おまえに一つ頼みがある。

私のAVAに明彦が現れたのはちょうどその頃のことであった。
「大友さん。彼らが危ない。このままでは彼らもあの化け物の奴隷にされてしまいます」
明彦の声はいつになく切迫していた。
「明彦君。君は今までいったい何処に潜んでいたんだ」
「そんなことは後にして、今すぐ彼らの救出に向かってください。さもないと、世界はあの化け物の手に落ちてしまいます」
「と言われても、私は一体何をどうすれば良いのだ」

私が明彦にクローンがいることを知ったのはその時が初めてであった。
彼は自分のクローンである明嗣のことや、その母親が糸谷葉子であること、そしてその明嗣の命が良也に狙われていることを私に教えてくれた。
「明嗣を安全な場所に、あなたのアジトに移してください。彼はあなたのことも良也との戦いについてもよく理解しています。きっとあなたの役に立つはずです」

私は、大谷を呼び出した。彼の部署にある飛行船の中で最も小型かつ高速なOASXを用意し「アジト」のポストに係留させるよう指示したのだ。
その一方で、私自身は新幹線に乗って新信州市に向かった。

新信州市に着くと、大谷が出迎えてくれた。私は彼が運転する車の助手席から彼に今後の行動を指示した。
「明嗣君は大変な天才とはいえ、まだ幼稚園児だ。例え、彼の意思であったとしても連れ出せば誘拐になる」
「そりゃぁ、そういうことになるでしょうね」とこの男は、相変わらず少し間の抜けた答え方をする。「社長もまたあそこに戻っちまう、なんてことになりかねませんよ」
「ああ、確かにな」わたしは彼に合わせた。「君が私を疑うのも無理はない。たかが飛行船会社の親父が世界征服を企むグローバル企業の経営者に戦いを挑むなどといった構図は、いまどきSFにだって使われないだろう」
「社長、そのSFってやつに、このわたくし奴は昔からぞっこんのめり込んでいまして、アシモフを始め、ハインラインもPKディックも小松左京も読み漁ったものです」
「ほう、そうかね。逆に私はそんなおとぎ話にはガキの頃から縁がないというか、むしろ歴史や医学やノンフィクションばかり読んでいたよ」
「へぇー、そうでしたか。ところで、その天才のガキ、いやアキとかなんとかって子をどうするおつもりなんですか」
「君は、私を全く信用していないようだから、これを貸してあげるよ」そう言いながら、私はAVAを外した。「かけてみたまえ。きっと君の世界は一変するよ」
「はい。でも社長、私は目が良いのだけが自慢の男でして」と言いながらも、彼は私の手からAVAを受け取って装着した。
「度は入っていないようですね。伊達眼鏡だったんですか」その口調には軽い嘲笑が含まれていた。
「自動で適正な視力に調整してくれるのだ。あの先を走っている車のナンバーが読めるかね」
「え」と大谷は少し驚いたようであった。が、その驚きがすぐ驚嘆に変わった。
「これは驚いた。あんな遠くを走っている車のナンバーがはっきり見えるなんて」
その大谷にさらに驚くことが起きたらしい。
「社長」と私を呼んだ。
「なんだね。私ならずっとここにいるよ」
「あのガキが、いやアキ君が社長に用事があると言っています」
私は大谷からAVAを受け取ってかけた。
はじめてみる色白の美しい子であった。
「君がアキ君、明嗣君なのか」
「はい。明彦のクローンです。ぼくはあなたに明彦や母の葉子、それに中澤さんや桐原さんを救ってほしくて、明彦になりすまして連絡を取りました」
「あれは君だったのか」私は驚いていた。小学校にも上がらぬ幼児が秘匿回線を使ってAVAに侵入し、自分の生物学的にはアイデンティカルツィンに当たる明彦とそのインキュベーターであった母親を助けろと言っているのだ。
「私はもちろん明彦君たちを助けるためにはなんでもするつもりだが、君はどうしようと考えていたんだい」
「ぼくは、すでに祖父母に手紙を書きました。それにはあなたの飛行船に乗せてもらうことや、あなたがたがぼくを預かることに母が署名した書類も用意してあります。母の声を使って祖母に電話もしました。すべて上手くいきます。ぼくは家の前で祖母と一緒にあなたたちを待っています」

その通りであった。大きな旅館の駐車場に母親と言っても疑われないほどに若く見える祖母と明嗣が手を繋いで待っていた。
畑中が滑るように車を駐車場に入れるとハンドルを切って出やすいように反転させた。
私たちは車を降りた。
「大友さん」とはにかむような笑顔で声をかけてきたのは明嗣だった。彼は祖母の手を離れようとするのだが、祖母がそれを許さない。その顔には、私たちを信頼していない、と書いてある。
「大友さん」今度は、その祖母が私に呼びかけた。「大変失礼な言い方になってすみませんが、もしも何かこの子を利用しようと考えておられるのなら、どうぞおやめください。私どもは、この子を世間の好奇の目に晒さないように気を配ってきました。しかし、やはり中には目敏い人というのがいて、アキをテレビに出そうとしたり、雑誌の記事にしようとしたりするのにどれだけ嫌な思いをしてきたか、お分りいただけますでしょうか」
葉子の母親は、葉子に似て色白のキリッとした美人であった。そして、その喋り方もキリッとしていて、容赦のないところがあった。葉子はこの母親からあの性格を受け継いだのだ。
「おばあちゃん、失礼だよ」と怒ったように声を上げたのは明嗣である。「大友さんに飛行船に乗せてくれるように頼んだのはぼくなんだよ。ぼくは、ぼくたちが住むこの町を空高くから見てみたかったんだ。だから、メールを送って、とてもお金もかかることは分かっていたけど、大友さんは宣伝にすることは絶対にしない、と言って承知してくれたんだ。これは大友さんの厚意からのことなんだよ」
とても5歳や6歳の子供のものとは思えぬ、驚嘆すべき言葉であった。私は、鎮男の少年時代のことを思い浮かべていた。私は、彼の幼少時のことは、私が二つ年下ということもあってほとんど何も知らなかったが、彼が3歳の時に母親のミクさんの背中に負われながら聞いたという言葉は決して忘れない。それは、ミクさんが鎮男に大変な運命を背負わせてしまったことを3歳の彼に謝ったという話である。
しずちゃん、なぁ。かぁちゃんは、あんたに大変な運命を背負わせてしもうた。堪忍な。そやけど、しずちゃん。あんたはその運命を自分の力で背負うていかなあかんのや。あんたは、自分の力で人類を救わなあかんのや。ミクは、おぶった鎮男にそう言って聞かせたのである。鎮男は、泣きながらその運命を知り、そして受け入れたのである。
「明嗣君のお祖母様」私はなにかを言わなければならなかった。「改めまして。飛行船会社を経営しております大友でございます。今、アキ君が言ったように、私にはアキ君を我が社の宣伝に使ったり、利用したりしようという意図はまったくありません。わたしはただ、彼に非常に興味があった。この5歳の少年の天才ぶりと熱意にほだされた。それが本当のところです。葉子さんもそれを理解されて、このフライトを了承されたものと思います。彼を危険にさらしたり、世間の目に晒すことはありません」とは言いながらも、私は、本当に彼を危険に晒すことがないだろうか、との危惧の念を拭い去ることはできなかった。
「そうですか。葉子がOKしているのですから、私が反対するわけにもいきません。しかし、アキを危険な目に会わせるようなことだけは絶対にしないようお願いいたします」
「それは十分に承知しています」と私は答えた。「それでもご心配なら、一緒に来られればいかがですか」
「それはダメです」と明嗣がきっぱりと言った。
「そうなんですよ。おばあちゃんも一緒について行ってあげようか、と言うと赤い顔をして怒るんですよ。私はこれまでこの子が怒ったところなど一度も見たことがない。よほど嫌われたのかと思って悲しくなりました」
「おばあちゃん、ごめんね。でも、この遊覧飛行だけは、ぼく一人だけで味わいたいんだ」
「分かったわ、アキ」そう言うと、祖母はしゃがんで明嗣を抱きしめ、頰にキスをした。彼女の愛情の深さが分かる情景であった。アキの頰が赤くなるのが分かった。
「じゃあ、おばあちゃん、行ってくるから」アキは、そっと祖母の手を逃れると、車に向かった。ずっと驚いて目を見張っていた畑中が、まるでVIPに対するように車の後部ドアを恭しく開け、アキが乗りこむと丁寧に閉めた。私に対するよりずっと丁重な態度であった。私も祖母に深く一礼をすると助手席に乗り込んだ。
畑中がスーと車を発進させた。
祖母は、ずっと車が見えなくなるまで手を振っていた。私は、彼女にとっての宝物であると同時に、人類にとってもとてつもない財宝であるこの幼児を預かることの重大さをひしひしと感じていた。
「大友さん」とその彼が不意に私を呼んだ。「大友さんとお呼びするのは変ですか? でも、ぼくにはおじさんとかおじちゃんと呼ぶのはもっと変な気がする。だから、これからも大友さんと呼びますが、いいですか」
「もちろん」私はそう答えるよりなかった。
「ところで、ぼくもAVAを持っています」とアキは、Vを英語らしくヴィと発音した。「パパの、明彦の設計図をママに渡して作ってもらったんです。もちろん、ママはAVAがどのようなものか全く知りません。ぼくがある人の名前を言って、その人に作ってもらったんです。その人は、ママにこの設計図を譲ってくれないかと頼んだそうです。そうすれば、ただにしてあげるって。もちろんママは、いや実際にはぼくですけど、断りました。設計図は、制作の進捗とともに、必要な部分を残して消えていくようにしました」
私は、運転する畑中の表情を興味深く見ていた。私にも彼の驚きが手に取るように分かった。この子は、超一流のエンジニアが口にするようなことをままごとでもしているかのように喋っている。
アキは、小さな肩掛けカバンからAVAを取り出してすでに装着していた。
「大友さんもAVAをかければ、ぼくと完全に同期します。一心同体というやつですかね」
「君のようなとてつもない天才と一体になれるんなら、私は大喜びでAVAをかけるよ」
麻のスーツの内ポケットからAVAを取り出して装着する。
そして私は、アキのいう一心同体の意味を真に理解した。目の前の世界が全く違って見えた。いや、世界の姿が変わるはずがない。私には世界の持つ意味が理解できるようになったのだ。
「お気づきになりましたか? AVAは単に視覚や聴覚をオーグメントするものではありません。世界観そのものを変えてしまうのです。明彦は、AVAをそのようなものに設計していました」
「今、私が見ている世界は君の世界なのかい」私は信じられない思いで訊いた。
「ぼくの、というより真の世界です。ぼくたちは、人間は、色のついた、フィルター越しに世界を見ている。そのフィルターを外した世界、それが今大友さんやぼくが見ている世界なんです」
私には彼の言っていることがよく理解できた。これは、詩人が見ている世界であり、同時に数学者や物理学者、そして犬や猫や鴉の見ている世界でもあるのだ。
「明彦は、ぼくのパパは、AVAを単なる拡張世界を創出する目的で作ったのではありません。世界とは本当はこういうものであるということを、人類のみにとどまらず生き物とは本当はこういうもので、ぼくたちは皆この世界を通して繋がっているということを証明するために作ったのだと思います」

私はただうなずいてみせるのみであった。私とアキがAVAを通して繋がったとき、世界は様相を変えた。私は、アキの言う通り、真に世界を理解できたような気がした。おそらく明彦は、AVAのこの恐るべき能力を隠していた。この私にも教えなかった。しかし、今彼の分身たるアキの手によってそれが明らかになった。私は世界中のコンピュータと今繋がっている。私のこの万能感は、私がコンピュータと一体となったことから来ているに違いなかった。もはや私は、アキに計画を聞く必要さえなかった。なぜなら、私には全てが見えていたからだ。

我が巣が見えてきた。そして係留ポストに繋がれた我が飛行船OASXの姿も。OASXは五人乗りでOAS15に比べると小ぶりである。しかしその分、機動性に富み巡航速度は100キロと非常に速い。
車を降りるとまぁが駆け寄ってきた。私の足にすり寄って自分のにおいを擦り付ける。
「やぁ、まぁ君」と親しげに彼の名を呼んだのは、中畑が開けたドアから降りたったアキである。
まぁは、すぐにその声に反応して嬉しそうに尻尾を振った。そして、君は誰? とでも言いたげに頭を少し傾げていたが、ゆっくりとアキに近づいていって臭いを嗅いだ。そして、納得したようにじっとアキの顔を見つめた。それはまるで、この犬にもアキが只者ではないことが分かったかのようであった。
私は、畑中に車で待機するよう指示するとアキとまぁを連れて家の中に入った。
アキは初めてであるはずの地下室に入っても驚く様子はなかった。しかし今の私にはそれが何故なのかがよく分かっていた。私たちは、私とアキは、AVAを通して世界と繋がっているのだ。もはや私たちに新しいものなど何もなかった。全てが既知であり、私たちは万能であった。
まぁは、かつてこの部屋に入ったことがなかった。どこか落ち着かない様子であったが、それでもアキの側にピッタリついて何か不測の事態がアキに起これば我が身を挺してでも彼を守るという意思が感じられた。
まぁは、あのときアキの匂いを嗅いだ。その瞬間から彼が感じたのはこの少年の持つ高貴さであり、それは、まぁの遠い祖先が持っていたものと同じものであった。それが私にもよく分かった。
ディスプレイにリックが映った。向こうは夜中である。
「こんにちは、大友さん」彼の眼差しは極めて真剣である。「とうとう、誰が裏切り者かが分かりました」
「マーシャルピータソン」アキが答える。
リックの顔が驚愕を示した。
「その子は」
「I’m clone of Akihiko 」アキが英語で答える。「5 year old this April twenty fourth. It’s same as Akihiko. And also as same as Hitler」
「インクレディブル!」リックの顔からは驚きの色が消えない。「クローン? 明彦さんの」
「リックさん。驚いている暇はありません。あなた方が手に入れた情報を使って日本政府を動かすことはできませんか」
「我々は、ピーターソンがネオゾロアスターの幹部であり、どのようにして良也に洗脳されたかの詳らかな情報を握っています。おっしゃる通り、この情報を使って日本政府を動かすことは可能でしょう。しかし、そのためにはまだまだ時間が必要です」
「ぼくたちに時間はありません。明彦の脳は崩壊寸前です。外部とのインタラクションが一切絶たれてしまっているからです」
「良也を脅して明彦との回線を回復させることはできないでしょうか」
「なるほど。明彦さんと我々との間には確かに意思の疎通がありましたが、今はそれが全く失われてしまった。この理由は明らかなわけですが、その理由を探るためにアートルム社の協力を得たいと要求すれば、彼にとってはもちろん、ミエミエな嫌がらせなわけですが、彼は一時的にせよ明彦の回線を開放するかも知れません」
「そのときには、ピーターソン氏のことも臭わせる」
「ええ。彼の計画が頓挫しかねないことになるわけですから、大いに効き目があるでしょう」
「でも、良也は無条件に明彦を解放したりはしないでしょう。明彦に何もかも喋らせないために、いえ、明彦を人質にとっていることをぼくたちにはっきり分からせるために、ぼくたちの計画を逆手にとるはずです。おそらく、明彦が何か余計なことをすれば、脳が大きな苦痛を覚えるような薬剤を投入するつもりです」
それでも、明彦の脳を守るという初期の目的は達成出来ます」とアキ。「それに明彦とぼくは一卵性双生児のようなものです。その上に、ぼくは彼から多くを教わっています。恐らく、彼はぼくにしか意味の通じない言葉を使って何かを知らせてくれるに違いありません」
「リックさん」と私はAVAに映るリチャードに語りかけた。「アキ君の言う通り、まずは明彦君の脳を救うことが第一優先事項だ。そのために、日本政府にアクションを起こさせねばならない」
「分かりました。私どものカウンターパートである公安調査庁に協力を求めてみましょう」
「いえ、それはダメです」と、アキが素早く反応した。「あそこは良也の息がかかっています」
「え」とリックが驚いた。「まさか」
防衛省に防衛情報部があります。そこに良也に関する情報を流してください。彼の行為が国家反逆罪に当たることが理解してもらえるでしょう」とアキが淀みなく伝える。
「分かりました。ルートを探ってみます」リックが5歳の少年に対して上官と話すように答える。しかし、それが少しも違和感を覚えさせない。
ペンタゴン経由で流してもらえば、防衛省も動くでしょう。実際にあの男のやっていることは国家を転覆してしまうことなのですから」

その頃、良也は高山に命じて中澤と葉子に手錠をかけさせていた。高山は良也が腰掛けている机の引き出しを恭しく引いてオートマチックの拳銃を取り出し、それを右手に持つと左手で銀色に光るハンドカフが音を立てないよう一つずつ2セット取り出して、机の上にそっと置いた。
「お前ら、ここに来てこれをお互いにはめるんだ」そう言いながら引き出しを静かに閉める。
「随分と用意のいいこと」葉子がせせら嗤う。
「口の減らぬ女だ」と良也がつぶやくように言った。「だが、まぁいい。じきにわしの好みの女に仕立て上げてやる」
「悪党が」中澤が歯ぎしりした。
「ほー」良也がニヤリと笑った。「お前は、その女にほの字のようだな」
「あら、中ちゃん。そうなの? だとしたら、わたしはOKよ」と葉子は、相変わらず人を食っている。
「葉子さん。こんなときに、そんな変な冗談はやめてください」
「お前ら、ふざけてないで、さっさと手錠をつけろ」高山が怒鳴り声を上げた。
良也は、面白そうな顔をしたまま、何も言わなかった。
葉子が先に机に近づく。高山は、用心して両手でピストルを葉子に向けている。良也は、椅子を滑らせて少し彼女から離れた。さしもの化け物も女にパンチを喰らうの醜態は晒したくはないらしい。
「中ちゃん、早く来て」と言って、手錠の鎖の部分を摘まみ上げる。「これ、どうやってはめるのかしら」
「おい」と高山が中澤に顎をしゃくってみせる。「お前がこの女に見本を見せてやれ」
高山が葉子を警戒しているのは明々暸々であった。あのキックがよほどこたえたのだ。
中澤は、葉子から手錠を取ると、輪っかの根元を持って葉子の右手首に押し当てた。
押し当てた輪っかのクレスト部分が一回転すると、かちゃっという音を立てて根元のラチェット部に食い込んだ。
続けて葉子の左手にも同じことをする。
葉子は、それを興味深そうに見ていた。
「あんた、こういうこと慣れてんじゃない?」
中澤は無言であった。が、内心ではこの葉子という女の豪胆さに驚かされていた。流石に明彦が見込んだだけのことはある、と感心した。
しかし、感心してばかりいられる状況ではなかった。「この後はどうなるんだ」自分の手で手錠をつけながら言う。
「桐原、お前が教えてやれ」と良也が面白いドラマでも見ているような調子でにやにやしながら言った。桐原の身体が一瞬戦慄いたように見えた。
「これから、あそこへ」と言ってMRIと書かれた巨大な箱を指差す。「お連れします」
「あそこで、いったい何をするつもりですか」中澤が桐原の慄きが伝染したように震える声で訊く。
「まず、注射をします。それからMRIにかけます」
「何のために?」と中澤。
「私も同じことをしました」桐原は、中澤の問いに直接応じようとしない。それが一層中澤の恐怖を募らせた。
「あんたと同じように、私たちもあいつの奴隷にさせられる、と言うことね」
「さすがに察しがいい。それに何より度胸がある」相変わらずにやけた顔のまま良也が応えた。
「注射にはウィルスが入っています。MRIでコントロールして、このウィルスを脳の特定部位に感染させ、細胞を変異させます」
「我々が一番心配していたことだ。それが自分の身から起こるとは」
突然、良也が大きな笑い声を上げた。
「どうだ、世の中というものが如何にシニカルにできているかがよーく分かっただろう」
「遺伝子というデジタルコードを解析し、それをウィルスのデジタルコードによって編集することは、もうクラシカルと言っても良い段階にあります。自然が長い時間をかけてやってきていたことを、今人類は超高速に行おうとしているのです」
「そんな御託はもういい」と怒鳴り声を上げたのは良也である。「さっさと実行しろ」
しかし、そう言った瞬間、その顔がチックのようにひきつったのが分かった。
「なんだ?」
それは、部屋の誰かに対して発せられたものではなかった。
「まさか、この男もABAを」中澤に疑念が沸き起こった。
防衛大臣? よしつなげ」と野太い声で秘書らしき相手に命じた。
そして、桐原が先ほど命ぜられたとおりに二人を連れて行こうとするのを目で抑えた。
「やあ、これは大臣、久しぶりですなぁ」と、会話が聞かれていることも一向に気にならないらしい。「ええ、景気はボチボチなんてものじゃない。大繁盛ですわ。それで、今回は、うちに何かまた大きな調達品のご注文かなんかでしょうか」
それから、しばし沈黙が続いた。しかし、その後の良也の顔色の変化は、まさに良いドラマを見るようであった。そのどす黒い顔がたちまち葡萄のような紫に変わっていったのだ。
「なんだとぉ」と発したその声は、まさにヤクザのそれであった。とても大臣に対して言っているとは思えぬものであった。
中澤は、半ば唖然として良也の独り言のような、実際には我が国の防衛大臣明戸裕一とのやりとりを聞いていた。
「あの清廉そうに思えた大臣までもがこの化け物の傀儡だったのだ」中澤は暗澹として、微かな希望の火が消えていくような気持ちになるのを感じた。
「お前たち」と良也が不機嫌そうに言うのもどこか遠くからの声に思えた。
「少しばかり、わしの家来になるのが遅れることになった。どうだ、悲しいか」
「はは」と葉子が鼻で笑った。「何が起きたのか知らないけど、あんたの方こそ悲しそうな顔してんじゃん?」
「黙れ! この尼」高山が怒声を上げる。良也の代弁をしているのは明らかであった。
「一度、ここを引き上げるぞ。防衛省の査察が入る」良也は慌ててはいなかった。が、愉快そうでもなかった。「桐原。お前はこの二人と一緒にどこかに隠れろ。それとその前に倅を、明彦を一時的に解放してやれ。だが、いいな。決して余計なことを喋らせるな。余計なことを喋ったり、何かおかしなことをした場合には例の拷問を加えると言っておけ」
「・・・」
「どうだ、分かったのか」
「はい、もちろんです」
「それでは、早くやれ」
桐原が二人から離れて明彦の脳に向かった。
「高山」と良也が彼に向き直った。「お前は、桐原が戻ってくるまで二人を監視しろ。いいな。わしはすぐにここを離れねばならん」

「いったい何が起きたのかしら」と、葉子が怪訝そうな顔を中澤に向けた。
「さぁ。でも、社長が、大友さんが何かアクションを起こしてくれたのかも知れません」
防衛大臣、とか言ってたわよね」
「おい、お前ら。いい加減に私語は慎め」高山が二人を睨めつけるように見た。
「あら、すっかり元気を回復したみたいじゃない。そりゃ、そんな危ないものを持った上に私たちはこのとおり手錠をされてりゃぁ、怖いものなんかないわよね」
「なんだとぉ、この尼」
そう言って葉子に襲いかかろうとしたのを中澤が足をかけて、躓かせた。
「あんた、元公安調査庁だそうだな。あの男が俺たちを傷つけろ、とは言わなかったと思ったが、違うかね。俺たちに怪我でもさせれば、もうじきあの男の商品になる俺たちの価値が下がると言うわけだが、お前さんもタダじゃおられないんじゃないのか」
中澤のこれが効果を覿面に現した。高山は不機嫌に黙りこくってしまった。
「中ちゃん、あんたもなかなかやるじゃない。大したものだわ」と葉子が煽る。
「ふん」と高山が鼻を鳴らしながら、先ほどまで良也が座っていた椅子に腰を降ろした。
「いずれお前たちもあのお方の偉大さにその放漫な頭を垂れることになる」
「ほう。ぜひ聞かせてもらいたいものだなぁ、その偉大さとやらについて」
「いいか。舐めるなよ、俺を。俺は、お前らも知るとおり、公安調査庁の職員、Gメンの一人だった。お前の雇主大友が起こした事件について、アメリカ政府から秘密裡の調査を依頼された。事件の裏にアートルム社の何かしらの陰謀があるようなので、それを探れ、というものだった。俺ともう一人の女性職員がこの会社にリクルートして、正規の社員に成りすますことに成功した」
「ところが、何故か良也の家来にされてしまった」と葉子が口を挟む。「その理由をぜひとも教えてもらいたいものだわ」
「あの方には全てがお見通しだったんだよ。どうせ、お前らも俺の仲間になるわけだから教えてやるが、あのお方は、俺たちがスパイだということを知った上で社員として迎えたのだ。そして、俺ともう一人の彼女は、健康診断を受けたときに、脳に何か異常が見られるということでMRIにかけられた」
「∇2000だ」
「ああ。その後、何故かはよく分からないが、公安調査庁が憎むべき組織に思えるようになり、逆にあのお方が、いいか、決して笑うな。神々しく、神のように、いや神様そのものに思えるようになってきたのだ」
「なるほど」と中澤が肯いた。「しかし、先ほどあんたは、∇2000にかけられたと言ったが、そのときにはウィルス入りの注射は打たれなかったのかい」
「そのときには、まだそんな技術は開発されていなかった。恐らく、桐原がその嚆矢だったんじゃないか」
「彼が実験台にされたって訳ね」と葉子。「ところで、私は思うんだけど、今のあんたの話を聞く限りでは、あんたの洗脳は比較的軽い方なんじゃないかしら」
「ああ。俺にもそう思える」と中澤が同意する。「第一に洗脳されていることが分かっているんだろう。どうだい、その洗脳を解こうという気にはならないか?」
「お前らも、そんなことを言っておられるのは今のうちだけだ。だけどな、そう悲観的になることはない。もう少しすれば、お前らにもあのお方のために尽くすことの幸福感というものが分かってくる。それはまさにクラウド9とでもいうべき、いや言葉ではとても言い表せぬほどのものだ。俺もお前らも非常にラッキーだったということだ」
「けっ」と舌打ちしたのは葉子だった。「クラウド9が聞いて呆れるわ。あんたはあの化け物の奴隷にされてしまったのよ」
「やめろ。あのお方を、そのように冒涜することは許さない。いいか、これ以上俺に何も聞くな」
高山は気分を損ねて、それからは無言を貫いてしまった。
しばらく、三人は無言のまま、それぞれに考え事をしていた。

その頃、私(大友)のAVAに明彦が現れた。
「大友さん」という彼の声は、そして姿はこれまで見たことがないほどに疲れていた。
「どうしたんだね」私は彼が哀れに思えて思わず涙声になってしまった。「NSAの尽力によってやっと君は解放されたんじゃないか。元気を出しなさい」
「ありがとうございます。しかし、私があなた方と連絡を取るのはこれが最後になるでしょう」
「なんだって」私は心底驚いていた。「それはどういう意味かね」
「アキは知っています。アキは私そのものです。どうぞ大切にしてやってください。アキ、頼んだぞ」
何という呆気ない別れであったろう。明彦はAVAから消え、そして二度と姿を現わすことはなかった。
「アキ君」私は首を落としている幼児に声をかけた。いつの間にか、まぁがアキの足元に身体をぴったり寄せてしゃがみこんでいる。アキは泣いていた。涙を拭おうともせず、大粒のそれが床に歯車の形をした模様を描くのさえ気に止めなかった。
私は彼のそばに寄ってしゃがみ込むとそっと両手で抱きしめた。
「大友さん」彼が涙声で言った。「ありがとうございます。でも、ぼくはもう大丈夫です。もう泣きません。泣いている暇はありません。明彦は、・・・ぼくのパパは、自分がウィルスに感染させられていることを知って、今度は本当の死を選んだのです。明彦は、今度のような事態を想定して、目醒めたときに自動的に脳が壊死するようプログラムしていました」
「君はそのことを以前から明彦君に聞かされていたんだね」
「そうです。明彦は全てに用意周到でした」
「そして、明彦君は君に後を託した」
「はい。だから、ぼくは、いえぼくたちは明彦のためにもあの男を倒さなければなりません」
NSAは、どうやら我が国の政府に圧力をかけてくれたようだが、果たしてあの男にどれほどの効果があるか、だ」
「時間稼ぎにしかならないでしょう。政府の中はあの男の傀儡がうようよしています。防衛大臣もあの男の熱心な信者です。
「やはり、そうか」私は三年前のことを思い出していた。あの好人物に思えた石田防衛大臣も良也に洗脳されてしまっていた。
「今度の防衛大臣は明戸祐一だったな。彼も良也に洗脳されているのか」
「他にも洗脳されている閣僚がいます。日本だけではありません。あの男は、ネオゾロアスターを使って世界中のあらゆる機関の中枢に彼の思い通りに動くパペットを送り込んでいます」
「これからどうすればいいんだ」私は知らぬ間にアキに、五歳の子どもに問いを投げかけていた。
「ママと中澤さんの救出を急がないと、二人ともあの男に洗脳されてしまいます。飛行船に行きましょう」
「何か計画があるのかい。しかし、君を危険な目に会わせることはできないよ」
「大友さん。さっきぼくが言ったことを忘れてしまったのですか。ぼくたちは、明彦のためにも、いえ人類をあの化け物から守るために戦うのです。ぼくは、あの化け物を倒せるなら命など惜しくはありません」
何という決意であろう。私は目頭が熱くなるのを覚えた。こんな幼気な子が、自分の命など惜しくはないと言っているのだ。

私はアーセナルから武器を取り出した。オートマチックピストル一丁と軽機関銃、それに予備のアミュニション。パソコン用のケースに偽装したショルダーバッグに入れて背中に背負うとズッシリ重い。
「よし、行こう」私は決心していた。「まぁ、お前も一緒に来い」
まぁは尻尾を振ってついてきた。
私は、いや私たちは今、あの化け物との二度目の戦いに挑もうとしていた。

畑中が車のそばに立ったまま、じっとはるか先のOASXを見ていた。
「畑ちゃん、行くぞ。あそこまで送っていってくれ」
畑中は頷いてみせると、アキのために後部ドアを開けた。アキが礼を言って中に乗り込んだ。まぁがそれに続いて勢いよくシートにジャンプした。私もそれを見届け助手席に座った。
「よし、畑ちゃん出してくれ」
「はい」と答えると彼はスタートボタンを押した。
車は心地よい加速をして、ものの1分と経たぬうちに飛行船の下に着いた。
「ありがとう。君は一度支社に戻って次の指示を待っていてくれ。しかし、その前に少しやらなきゃならないことがある。君にも手伝ってもらいたい。工具を持って繋留索の下で待っていてくれ。
「わかりました」と言うと、彼はレバーを引いてトランクを開け、それから車を降りるとアキのためにドアを開けてやった。甲斐甲斐しいと思えるほどの動きである。
先にまぁが飛び降り、アキが続いた。
「ありがとうございます」とアキは畑中に深く礼をする。
「なぁに。それより気をつけてな」と畑中が笑顔で答えるが、そこには不安の影が映っている。
「大友さん」とアキが私に呼びかける。
「わかっている」と私は応答する。実際、私たちは声で意思を伝え合っていたわけではない。先にも述べたとおり、AVAを通して私たちは一心同体だったのだ。
アキは、飛行船の係留索について言っているのだった。
係留索はいま、飛行船の後部を繋ぎ止めるため、左右両側から地面に向かって斜めに伸びてレール上の滑車と連結されている。細いが頑丈でフレキシブルなステンレス製の網組をしたケーブルで長さは最大10メートル。これが離陸時にはゴンドラからの電気信号により滑車のラッチが外れて自由を得る。そしてゆっくりとリールに巻き取られていくのだ。
リール部は、メンテナンのためにゴンドラ内部からの操作で脱着が可能となっているが、もちろん飛行中にはそれができないようインターロックが組まれている。
アキは、このインターロックを解除することを要求しているのだった。
私は、リモートでOASXを下降させる操作を行った。
OASXは、今係留ポスト側と後部の係留索側が同期してゆっくりと下降を始めた。ゴンドラの高さが地上から1メートルになったとき、機体は微かに揺れながら自動的に停止した。
私はリモートでゴンドラの切り離しを行った。ゴンドラと機体を固定するケーブルが8本少しずつ伸びてゴンドラは水平を保ちながら平らな浸透舗装された地面に着いた。一斉にラッチの外れる金属音がして、ケーブルが巻き取られていく。
ゴンドラの底部には6箇所埋め込み式の大きな車輪が付いており、縦にも横にも動かすことが出来た。
私がゴンドラの後、畑中が前について横に移動させた。
ゴンドラが邪魔にならなくなったので、私はさらに機体を下降させた。畑中がすかさず、車のトランクから毛布を取り出してきて腹の部分が傷つかぬように地面に敷く。
OASXは今、微かにその毛布に腹を接触させていた。
私と畑中は係留索の真下で左右に分かれた。最初、10メートル離れていた左右のラッチはレール上を移動して今3メートルの幅まで接近していた。
私は、畑中の側まで屈みながら移動し、巻取機の説明をした。
「いいか、畑ちゃん。マイナスのドライバーとプライヤーを使って、このロックピンを抜いてくれ」
「わかりました。で、抜いたピンはどうしましょうか」
「後で私にくれればいい」
「はい」

ものの3分で両側のロックピンが抜けた。畑中が私にピンを渡した。ピンは径が十ミリ、長さが百ミリほどあって二つ手に持つと重量感がある。私はそれをジャケットのポケットにしまい、代わりにリモートを取り出す。そして機体を静かに上昇させた。10秒と経たぬうちに機体が自動的に停止した。目の隅で追うと、畑中はすでに毛布を折り畳んで車のトランクに戻していた。そして駆け足でゴンドラに戻ってきた。休む間もなく私と二人でそれを元の位置にまで押し戻す。カーボン樹脂製とはいえ、大きさが大きさだけにかなりの体力を要した。
ゴンドラが定位置になると、私はリモートで脱着用のケーブルを降ろす。磁力で誘導されてケーブルは六本とも感触の良い音を残して同時に接続された。
この間、まぁは尻尾をぴんと立てたまま、片時もアキのそばを離れようとしなかった。まるで訓練を受けた盲導犬のようである。アキがそのまぁの耳の辺りを優しく撫でている。
「よし、出発だ。アキ、中に入ってくれ」
アキはすでにゴンドラの乗降部についたスイッチを押していた。
扉が左にスライドして、まぁが先に飛び込んだ。そしてアキを迎え入れる。
私は、畑中に「頼んだよ」と声をかけて中に乗り込んだ。
操縦席にアキが座っている。私はその隣に
席を占める。まぁは、そので寝そべっている。まぁには飛行船など興味はないのだ。彼にとっては、愛しい人のそばに居れればそれで良かったのだ。その愛しい人とはアキであり、私であった。
アキは、完璧な操作でOASXを離陸させた。係留索がカシーンというメタリックな音を立てて解放された。OASXは高速のエレベータのように加速しながら上昇していく。
私たちは終始無言であった。いや、実際にはものすごいスピードで意思の疎通を行っていた。
飛行船もまたフルスピードでアートルムに近づいていた。
「あれが見えてきました」とアキが声に出して言った。
「ああ」と私はうなずいてみせた。
あれとは、鉄塔のことであった。アートルムへの電力の供給は、あの27万5千ボルトの架空線によって行われていた。
鉄塔も架空電線も今、西に傾いた太陽の光を受け、眩しいほど銀色に輝いていた。
「計画を実行に移します」アキが告げた。
私はよしと諾なった。
OASXは鉄塔と鉄塔の真ん中で架空線と直交するようゆっくりと向きを変え、そしてゆっくりと下降し始めた。
架空地線との距離5メートル」アキが告げる。
「4メートル、3、2、1メートル、ストップします」
「よし」
「一本目の係留索を降ろします」
「よし」
「係留索降下。架空地線接触。ロックします」
「よし」
「ロック成功」
「よし、静かに上昇」
「はい。上昇します」

OASXは、係留索をグラウンドワイヤーとも呼ばれる避雷のための鉄塔最上部に張られた太い電線を吊り下げたまま上昇を始めた。
「3メートル、4メートル、5メートル」
その時、OASXが大きく後ろに傾いだ。まぁが跳ね起きた。
「何が起きた!」
「心配いりません。架空地線の重量に機体後部が引っ張られているためです。一度、係留索を緩めて機体を水平に保ちます」
「よし、やってくれ」
アキの言う通り、機体は緩やかに機体を水平に安定させ始めた。
私はアートルム社の方を注視した。敷地内にはすでに人が集まり始めていた。本社ビル屋上には警備員らしき人影が数人見え、双眼鏡でこちらを覗いているのが確認できた。そしてパトロールカーのサイレンが聞こえてきた。

「この状態で再度上昇を始めます」
「OK、やってくれ」私はゴンドラの後方の視界が確保されたのを確認しながら言った。私の左手には鉄塔が見える。その鉄塔の頂上から架空地線が垂れ下がっているのも見えたが、その描くカーブが下方の電力線のそれとは明らかに違って見えた。
「アキ。吊り上げているのか」
「はい。地線をジャンプさせて電力線との距離を小さくする必要があります」
私は何も言葉を返さなかった。再び、飛行船が傾き出した。あまり傾きが大きいと、後部が電力線と接触する恐れがあった。
「アキ、大丈夫か」
「心配ありません。計算通りです」
しかし、傾きはさらに大きくなり、まぁが立ったままの姿勢で後方に滑って行き客席との仕切りにぶつかった。しかし、この犬はキャンとも言わず平然としている。
「まぁ、大丈夫か」と声をかけると、軽く尻尾を振って応えた。
「大友さん」とアキが落ち着いた声で私を呼んだ。
「切り離しか」
「はい」
「よし、やってくれ」
「メンテナンスモードにします」
「いいぞ」
「メンテナンスモードです」
アキがキースイッチを切り替えたのが分かった。
「ウィンチを分離します」
「OK」
アキがレバーを引いた。そのとたん、OASXの後部が上昇し、ゴンドラの床面がシーソーのように浮き上がった。

下方で青いスパークが走るのが見えた。しかし、それはほんの一瞬のみのことであった。パトロールカーのサイレンが大きくなったが、それがすぐに止まった。
見ると、瀟洒な本社ビルの玄関あたりに3台、赤と青のライトを点滅させて止まっている。警官が一人、腰に両手を当ててこちらを見ている。
一方、屋上では警備員が慌てた様子で携帯を耳に当て何処かと連絡を取っていた。
しばらくして、鋭いタービンの音と鈍いローターブレードが空気を切り裂く音が入り混じって聞こえてきた。
「計画通りです」アキの声は幾分嬉しそうに聞こえた。「到着まで30秒。連絡は間に合いません」
彼の言う通り、防衛大臣と内調、それに公安の職員を乗せたCH64は、一路アートルム本社屋上のヘリパッドを目指していた。
ヘリパッドには吹き流しがかかっていたが、無風の為だらしなくぶら下がっ
ている。オレンジ色の境界灯とグリーンの進入灯が鮮やかに視認できた。

このヘリパッドは、元々救急患者用に考えられたものだった。本社ビルの一部は病院になっていたからである。
アメリカではNSCが開かれたようだ」
「はい」
「それで、良也の傀儡である明戸が慌ててヘリを飛ばしてやってきたというわけだ」
「いえ、むしろ内調、公安の動きを牽制するためでしょう」
「確かに、その通りだろうな」
おそらく、私たちが以心伝心的に交わしているこの会話をテキストのみで理解したなら、アキの年齢は30歳とか40歳と勘違いされるのではないか。私はそのようなことを頭の隅に思い描いていた。

「ヘリは躊躇せずに屋上に降りるつもりです」
「もちろん、この飛行船の動きは承知しての上のことだ。傀儡としては、それほどことは急を要するというわけだ」
「大友さん。電気が復旧したようです。発電機が運転しています」
「傀儡がヘリを降りた。自衛隊員に先導されて内部に入ろうとしている。我々も次の行動に移ろう」
「はい。飛行船をヘリ上空に向けます」
「よし。やってくれ」

自衛隊パイロットか機関士の一名がヘリを降りて、こちらを双眼鏡で監視している。OASX は、それを無視してヘリの真上10メートルの位置につけ停止した。
「貴様ら」と双眼鏡を持った自衛隊員が大声でこちらに呼びかけているのだが、タービンの音にかき消されて全く聞き取れない。しかし、AIの分析にかけると「何をやっているか分かっているのか」と言っているのであった。
逆にこちらは、彼らにその場を離れるよう警告しなければならなかった。
私はAVAを使って彼らに告げた。
「直ちにヘリから離れて下さい。そのヘリをこれから攻撃します。これは警告です。直ちにヘリを離れ屋内に退避して下さい」
私はこの文言を二度続けた。
ヘリから制服の隊員が二人降りてきた。先の双眼鏡を持った一人と合わせ三人が皆一様に私たちを見上げている。それがAVAによって確認できた。
私はすでにケースから機関銃を取り出していた。
「これが何かお分かりでしょう」私はAVAを通して彼らに訴えた。「あなた方を傷つけるつもりはありませんが、そこを直ちに退避してください。そして、私、大友康太朗が公安及び内調の職員に告げたいことがある旨を伝えていただきたい。さもないと、そのヘリを破壊します。これは脅しではありません」
そう言って私は、機関銃を単発に切り替え、一発を出入り口のガラスの壁に向けて放った。ガラスがピシッと音を立て弾が通過した跡に丸く穴が開いた。
それを見た隊員たちは、ゆっくりとガラス製の扉に向かった。そして扉を開けエレベータの附室になったそこに入ると、一人がエレベータのボタンを押した。そして、慌てる様子もなく、ガラスの壁に開いた穴を興味深そうに見ている。

私たちは、しばらく上空で待機しなければならなかった。やがてエレベータが到着し、彼らはそれに乗って下がっていった。

「アキ、ひとまずは計画通りにことは進んだ。次の手に移ろう」

その頃、良也は執務室に明戸防衛大臣と内閣調査室長官、そして国家公安委員長という錚々たるVIPたちとの対応に追われていた。明戸防衛大臣は自分のパペットには違いなかったが、他の二人は合衆国の機関から正式な要請を受けて、アートルムと武藤良也についての報告を求められていた。
有り体に言えば、彼らは良也が計画する陰謀について徹底的に調査をするよう求められていたのである。
良也にとっての救いは、彼らがまだ明戸と自分の関係について知らないということであった。しかし、その明戸と雖も、迂闊に良也に与するような言動はできないであろうし、良也自身もそれを望まなかった。
この男にはまだまだ他に利用価値がある。この男はそう考えていたのである。
「武藤さん。ざっくばらんな話をしましょう」橘国家公安委員長が口火を開いた。「我々は合衆国政府の要請で今ここに来ています。その理由について、あなたには何か心当たりがあるはずだ」
良也の顔は怒りでどす黒くなった。
「さぁ、なんのことだかさっぱり解りかねますなぁ」しかし、その声だけはわざとらしく落ち着き払っている。
「そうですか」と公安委員長が取りなすように言った。「しかし、アメリカはそのようには考えてはいないようです。大変に申し訳ありませんが、アメリカのNSAの部隊が数時間ほどでここに到着して調査をする予定になっています。すでに裁判所の許可もとってある。それまでに我々は、あなたにかかっている嫌疑を晴らしたいと考えているわけです。どうでしょう。ご協力をいただけませんか」
「いいですよ。なんの嫌疑だか知らないが、私には何ら思い当たる節がありません。しかし、その嫌疑とやらが晴れるのであれば、喜んで協力いたしますよ」良也の声には怒りが押し殺されていた。そして、この男のその怒りは、臨界圧に達すればどれほど大きな破壊力を持つのか、三人の男にもその恐ろしさが感じ取られ、三人とも背筋が凍りつくような思いに囚われていた。
その恐怖から彼らを救ったのは内閣調査室長官にかかった電話であった。
長官は静かに携帯を胸ポケットから取り出した。最新の超薄型のものであった。
長官は相手の名前を見て驚いた表情を見せた。
「わたくしです」
それからしばらく間があった。長官は、顔の表情と色を様々に変えながら、黙ったまま相手の話をただ聞いているだけだったからである。
しかし、電話を終えると彼は何もなかったかのように携帯を懐にしまい、それからじっと良也に向き直った。
「この敷地内にE棟と呼ばれる建物がありますか」
遺伝子工学の研究施設ですが、そこがどうかしましたか」良也は平然として聞いた。
「そこに中澤さんという男性と糸谷さんという女性が軟禁されているという情報が入っているそうです。何か心当たりがおありですか」長官は、今度はたじろいだ様子も見せず良也の表情をうかがった。
「心当たり?」良也が殊更に大声を上げた。「それはどういう意味に捉えれば良いのですかな。このわたくしがその男女を軟禁させている、とでも考えておられるということでしょうか」
長官はそれには答えず、こう切り出した。
「そこへぜひわたくしどもをご案内願いたい」
防衛大臣国家公安委員長は汗をかいていた。空調のよく効いた良也の執務室の中で、二人ともそれ自身が仕事であるかのように熱心にハンカチを出して汗を拭っている。
「なんとも失礼極まりない話ですな」良也の声は静かであったが、歯ぎしりの音が聞こえてきそうなほどに怒りが圧し殺されているのは明白であった。
二人の男の汗拭きが一層激しくなった。
「そこに我々をご案内願いたい」内調の長官は毅然としていた。「なぜかアメリカもこの事案には大変な関心を持っているようです」
「おい、高山」良也が指桑罵槐よろしく内閣調査室長を見たまま大声を上げた。「そこへこれから国家の要人をお連れする。粗相のないように準備しておけ」