鎮男31

2012/06/03 22:26


ジローには否も応もなかった。彼の言うとおりにしなければ、今度はこの自分がどんな酷い目に会わされるか目に見えている。

彼は、二つ折りになったコンテナを広げてまぁちゃんの傍に置くと、鞄の中から小さなアンプルを取り出した。その透明な瓶の細い首の部分にハート型の鑢を当て、円を描くように傷をつける。そして親指で押して折った。ガラスの頭が床に落ちて微かな澄んだ音をたてた。それが神聖な儀式の始まりを告げる合図のように聞こえた。

ジローは、注射器の針をアンプルに差し込むと双方を左手に固定し、右手で中の液体をシリンジの中に吸い上げた。

注射器を上に向け、液体を針の先から少し噴出させる。手馴れているように見えた。しかし、いざ注射する段になると緊張にぶるぶる手が震えた。獣医師の息子とはいえ、それは彼にとって初めての経験だった。震える手で、まぁちゃんの太腿にずぶっと針を差し込んだ。それは、親父が牛や豚に伝染病予防などの理由でやっているのを見よう見まねでやってみたまでのことだった。しかし親父は、彼とは違って見た目は乱暴なようでも決して動物に苦痛を与えない術を熟知していた。

まぁちゃんの右足がピクンと大きく跳ね上がろうとした。しかし、彼の足はロープできつく机に拘束されているため、その反動で腰が捩れるように浮き上がってスチールの机がコンクリートの床面をガ、ガッという音を立てて動いた。

ジローは、注射針の周りから血が太い筋になって机の上にまで滴り落ちるのも構わずピストンを押し込んだ。

まぁちゃんはあっけなく眠りについてしまった。死んでしまったわけではない、麻酔を打たれたのだ。

「コンドー。こんどはおめぇの番や。このあほのちんちんときんたまを切り取ったれや」

そのとき、女が口笛を吹いた。全員の視線がそこに集まった。しかし、それは女の声にならない悲鳴だった。

「おい、女」良也は、ベンチの上の哀れな女をギロリと睨んだ。「このあほのちんちんがそれほど良かったか」

女は恐怖のために一言も発せないでいる。そして、拘束されているわけでもないのに恐怖のためにずっと身動きさえできないでいるのだった。

「おぇっ」良也は再びコンドーを睨みつけた。「切り取ったら、この女の口につっこんだれや」

「は、はい」コンドーは、革ジャンの懐からジャックナイフを取り出した。鹿の角が握り手に嵌められていた。その握り手についたボタンを押すと、カシャッという音をさせて10センチほどの刃が飛び出した。

これまで彼は、このナイフをちらつかせて数え切れないほど多くのかつあげをやってきた。そして、やはり数え切れないほど多くの女を犯した。今回のように、良也の指揮でやることもあったが、そういうときには万一にも彼の名が表に出ることがないよう、万全を期さねばならなかった。そのため、犯罪は極めて巧妙、精緻な計画の下に実施された。

今回は、サルの車が使われた。彼だけが18歳で運転免許があったのだ。彼の父親の家業は車の解体だった。解体した車は、大部分が鉄くずとして売られるが、ドアやボンネット、それにエンジンやヘッドライトなどは修理用のパーツとして取られ、大きな収入源になった。

サルの本名は猿橋努といった。そのあだ名は、あだ名ながらまさに体を表していた。彼の顔はいつも赤く、額には大きな横皺が3本寄っており、鼻から口元にかけてが、まさに猿の口辺を思わせた。それにせわしなく動く小さな眼。このため、たとえ名前が猿橋でなくともサルというあだ名がつけられるのは運命の必然のように思われた。

ピンクのキャデラックオープンカー。それがサルの愛車だった。前、後席合わせて6人がゆったり乗れた。あるやくざの愛車だったのだが、本人はトレーラーと正面衝突して愛人と共に天国に行ってしまった。

車は、事故調査終了後廃車となってサルの親父のところに持ち込まれた。器用なサルのおやじは、それを手間暇かけて修理し、とても大事故を起こした車とは思えないほどにまで仕上げた。色もマリーンブルーからピンクに塗り替えた。ピンクは幸せな色だからだそうだ。そして、18歳になった不良息子の誕生日プレゼントとして与えたのだが、息子はもっぱら桃色遊戯に使うようになった。 

まぁちゃんが彼らの餌食になったのは、ほんの些細な諍いからだった。いや、というよりも彼らから一方的に因縁をつけられたのだ。

実は、その日の日中、例によって、まぁちゃんは道路工事の現場で旗を振っていた。そこに良也たちを乗せたサルの運転するキャディが幌をオープンにして通りかかった。まぁちゃんは、赤旗を横にして彼らの車を停止させたのだが、彼らはそれを無視して通り過ぎようとした。

「こら、あほ。わいらを誰や思うとんや。人をよう見てから旗を振らんかぇ」サルがまぁちゃんを罵りながら通過しようとした。そのとき、まぁちゃんが弾みで振った旗の先が良也の額に当たった。

サルが交通障害になるのもかまわず道を塞ぐかたちで車を急停車させた。そして、全員が車を降りた。
「こら、まぁ。いま、何をしくさった」良也が赤くなった額に手を当てながら低い声で怒鳴った。

まぁちゃんは、かわいそうに全身をぶるぶる震わせながら怯えている。その様子を見ていた道路工事の作業員や監督たち7,8人が駆け寄ってきた。そして、無言で彼らを取り囲む。遠くの作業員たちも事と次第によってはすぐにでも駆けつけんばかりの様子を見せている。こうなると、不良たちの分が悪かった。
「このあほが良也さんの頭を旗でどつきよったんや」サルが言い訳をした。
「嘘言うな」腕組みをした大柄でいかにも喧嘩慣れした感じの作業員が怒鳴りつけた。「わしはよう見とったで。おめぇらがまぁの旗を無視して行こうしとったんやねぇかぇ。まぁは、ただ旗を横にしとっただけや。おめぇらが勝手に旗にぶつかったんや。文句があるんやったら、警察呼んだるぞ」
良也がサルの肩を押した。
「おぇ、行くぞ。こんなあほらにかかわっとっても時間の無駄や」
「はい。わいの不注意ですいませんでした」サルは、良也に頭を下げた。それから、車に乗り込むと、嫌がらせにクラクションをけたたましく鳴らしながら過ぎていった。

「ほんま、あいつらは町のダニや」監督が吐き出すように言った。

女を見つけたのは、夕暮れの繁華街でだった。夕暮れとは言え、空は、墨をぶちまけたように暗い。その灰一色に泥んだ空に飲食店や風俗店の看板やネオンがどぎつい原色を浮き上がらせていた。

女は、飲食店などの入った雑居ビルの角に、一目でそれと分かる薄い黒のワンピースに黒の小粋なハンドバッグを手に提げ、黒いエナメルのハイヒール姿で立っていた。太り肉の四十をとおに過ぎたいわゆる立ちんぼだった。

台風がらみの風がだんだん強くなってきていた。その風に煽られて女のワンピースがふわっとめくれ上がり、白い下着がもろに目に入った。女は慌ててハンドバッグで前を押さえた。
「あのばばぁ、いっちょまえに色気づいとりまっせ」
女の仕草を見てサルが卑猥に笑った