鎮男30

2012/06/03 22:25

悪 党

伊地知義明の顔がはっきりと見えた。明彦にそっくりの長身のハンサムな若者だった。頬から顎にかけて青く髭の剃り跡が残っている。

場所は、大学の研究室だった。白衣を着た伊地知青年は、先ほどから古い木の机に向かって憑かれたように何かを書いていた。もう一人の私がその彼にそっと近ずいていく。

その彼がふと頭を上げ、私を見た。

「おお、丸田君か。例の薬を持ってきてくれたのかい。どうもありがとう。しかし、近頃ぼくはねぇ、なんだか、もう長くは持たないような気がしてきているんだ。それで、このように、一刻も早く研究を完成させたいと思って頑張っているんだが、なぜか日に日に倦怠感が募るばかりだ」

「先生。きっとそれは、単に疲れていらっしゃるだけのことですよ。おそらく精神的なものです。先生は、春にはお子さんも誕生して少々張り切りすぎていらっしゃるから、一種の悪循環に陥っておられるのではないですか」

上っ面だけをみれば、極めて穏当で思いやりに満ちた言葉ともとれた。しかし、この男の腹の中はどす黒かった。こいつは、伊地知青年の研究成果を横取りしようと虎視眈々と狙っているのだ。

「先生、どうぞこの薬を続けて飲んでみてください」良也は、茶封筒を渡した。

「ありがとう。ほんとうに、これまでこの薬には助けられた。これのお陰で何とかここまでやってこられたという気がするよ。これを呑むと、俄然活力が湧いてきてへこたれそうになった身体に鞭を打つことができる」

伊地知は、封筒の中から一包取り出すと流しに行った。包み紙を開いて二つに折り、慣れた手つきでアスピリンのような粉末を口の中に落とし込む。そして、マグカップに水道の水を注いで飲み下した。

それを見届けると、私、いや良也は腹の中でにやっと笑った。

「まったく呆れるばかりのあほうだ。おまえなど所詮、大甘のぼんぼんに過ぎん。天才物理学者などといわれてはいても、せいぜいこんな程度のものなのだ」良也の心の声だった。「それにしても、神とは不公正なもんだ。なぜ、こんなくだらない男に数学の才能を与え、淑子のように美しい女を娶らせたのだ。なぜ俺のような、知略も度胸もある男を買わない。しかし、まぁいいだろう。俺は俺自身の手ですべてを掴むまでだ。神が与えなかったものを、俺自身が神となって手に入れてみせる」

「丸田君」急に元気になって、伊地知が良也に呼びかけた。「ぼくの研究は、もうすぐ完成する。自分でも言うのもなんだが、これは、間違いなく世界をあっと言わせるほどのものだ。いや、大方の凡庸な科学者には、私の理論の意味さえ分からないかも知れない。しかし、たとえ深く長い霧に包まれたとしても、私が成し遂げたことは、まさに金字塔のように人類が存する限り輝き続けるだろう」
「先生。私は、先生を信じていますよ。しかし、世の中には鵜の目鷹の目で先生の研究成果を狙っている輩が大勢います。利口な先生のことですから、私などが言うまでもないことですが、どうぞ、完成するまでは他言無用でお願いしますよ」
「ありがとう。分かってるよ。君は、私が世間知らずのお人よしだから心配でならないんだろう。でも、ぼくもまったくのばかではない。少しはその辺のことも考えてはいるよ。しかし、さっきも言ったとおり、これを世間に発表したところで、果たして世界中の何人の物理学者が理解してくれるか甚だ心元ない。そのくらい難解な理論だから、秘密が漏れたとしても何ら心配はいらないんだがね」
「でも、先生。用心には越したことはありません」
「ああ、分かってる。君の忠告はありがたく拝聴するよ」

それは、良也が伊地知義明を籠絡し、彼の論文を横取りして殺そうとする場面だった。
私は、良也が伊地知青年に与えたのが覚醒剤だったことを良く知っている。なぜなら、そのとき私自身が丸田良也であったからだ。そして、この丸田という男が想像すらしたこともないほどの大悪党であることを骨の髄まで思い知らされた。

この男の本質は、妬みと憎悪と怒りだった。これらこそが彼のまさにエネルギー源であり、マグマだった。そして、このマグマは、常に地盤の弱いところを見つけて噴出する機会をうかがっていた。

それはおそらく、この男の幼少期に深く関わりがあった。この男は、幼いときに父親から虐待を受けていた。母親の方も恐ろしく暴力的な父親に阿るあまり、時に幼い良也をいたぶることがあった。

良也の父親は、羽振りの良いやくざの親分だった。大きな事業をいくつもやっていて金はうなるほどあった。やがて良也が中学生になったころ、金にものを言わせて政治的な権力も手に入れた。市会議員になったのだ。

金と権力の両方を手に入れると黒い裏面を隠すことなど造作もなかった。いつの間にか、父親は地方の名士として奉り上げられるようになった。

良也は腹の底から世間と父親を笑っていた。所詮、この世で幅を利かすのは暴力でしかない。それは、この世を貫く大原理だ。その点では、彼の父久良は良也にとっての良いお手本だった。しかし、彼からすれば、親父のやっていることは中途半端で手緩かった。なぜなら、あきれるほど多くの悪行を行っていながら、親父はまだ殺人に手を染めたことがなかった。

幼い俺の身体を年中痣が絶えぬほどに殴ったり蹴ったりしてきたが、また、いつぞやのように金を使い込んだ子分の脛を木刀で砕いて一生杖なしでは歩けぬ身体にしては見せたが、相手が死なぬよう手加減していることは明らかだった。俺には歯痒くてしょうがなかった。「親父よ、なぜ殺さぬ、こんな虫けらのような奴、殺してコンクリート詰めにしてしまえば良かろうが……」俺は、声に出して叫びたかった。

私は、良也の心の中に、いつもこのような呟きがカリオンの鐘のように鳴り響いているのを知った。いや、声だけではない。その心象風景は、余りにも殺伐としていて草木も生えぬ月の地表のような荒涼としたものだったである。この男の心には一輪の花も咲いてはいなかった。花を咲かせるための一滴の潤いもなかったのである。

このような男が今の地位にまで上り詰めたのは、ひとえにその権謀術数によるものだった。マキャベリズム。これがこの男のモットーだった。もちろん、その権謀術数には、彼一流の暴力の味付けがしてあった。

短い時間のうちに私は多くの追体験をした。もちろんそれは、丸太良也のものだった。そして、それはついに核心部分に触れた。

私は、一挙に鎮男の真の目的を知ることができた。それは、復讐だったのだ。

そのイメージは、ふいに現れた。いや、イメージなどではない。それは、たった今、眠りから醒めたら繰り広げられていたかのような、悪夢の現実だった。そして、それは、恐らくまぁちゃんにとっても同じであったろう。 

まぁちゃんは、ガムテープで猿轡をされ、シャッターを降ろしたガレージの中で作業台の上に仰向けに拘束されていた。その顔は、血がにじみ出そうなくらいに紅潮し、両方の目の端からは小さな子供のように涙が留めなく流れ落ちている。それは、恐怖からくる涙だった。下半身は丸裸にされ、股を大きく開いた格好のまま、両足首を机の脚に縛られていた。天板の上に撒き散らされた糞尿の臭いが事態の深刻さを物語っていた。

笑い声が聞こえていたが、本当に喜悦の笑い声を上げているのは良也一人だけで、後のものは追従笑いか、自身の恐怖を隠すためのごまかし笑いだった。

良也は、それを良く知っていた。『こいつらは本当にごみのような奴らばかりだ。世間では悪とか不良とか呼ばれていても、本当は肝っ玉もきんたまも小さい、俺が面倒をみてやらなくてはどうにもならない屑ばかりなのだ』

その屑どもが机の周りに3人いた。そして、年を食った顔色の悪い女が素っ裸で少し離れた壁際にある鉄のベンチに腰を降ろしていた。女が嗚咽を漏らした。これから始まることに恐怖を感じたのであろう。その戦慄く口には歯が一本もなかった。
「おい、まぁ」良也がまぁちゃんに呼びかけた。「今日は、いい思いをさせてもろうてよかったやろ。どうやった、梅毒もちの女の味は……。そら、悪かったとは言わせへんで。おめぇは、梅茶漬けを3膳も立て続けに食うたんやもんな」
周りから笑いが漏れた。
「うるせぇ」
自分で笑わせておいて、その笑いが気にいらず良也が吠えた。とたんに追従笑いが消え、恐ろしいほどの静寂が薄暗いコンクリート製の狭い建物の中に鎮座した。
「おい」良也が後ろを振り返り、ジローという丸刈りの小柄な男をぎろりと睨んだ。彼の親父は獣医師だった。
「おめぇ、あれ持ってきとるやろうな」
「はっ、はい」ジローは慄く声で答えた。そして、白いキャンバス地の肩掛け鞄の中から震える手で銀色に光る小さなコンテナを取り出した。
私は、昔、小さな子供だったころにその容器を見たことがあった。それは、医者が注射器などを納めるためのステンレス製のコンテナだった。良也たちは、様々な薬を入手するための道具としてジローを重宝していたのだ。
「おめぇが打ってみいや。おめぇは、親父の跡をついでりっぱな豚や牛の先生になるんやろうが」