空葬2

以前に書いた空葬で、恰もナスカで行われたと言われる熱気球による死者の葬送のように、紙で作った水素入の気球で、死ぬ直前に太平洋に向けて飛び立つというのが、強ち空想(空葬は空想と掛けた)ではないことが戦争中に風船爆弾と称して何千という数の水素入紙製気球が飛ばされたという事実から立証される。この大掛かりな作戦は主に陸軍によって実行された、とwikiに出ている。

しかも、私の住居にも近い海岸から飛ばされた。

球は和紙(楮)を何重にも蒟蒻粉で貼り合わせ、気密性と強度を保った。

直径はおよそ10メートル。ざっと浮力を試算すると、地表面においては空気の比重は1、3ほどであるから、水素の比重を無視すれば、

10^3*π/8=125πとなり、およそ375kgの浮力が得られる。

死にかけの人間ひとりには、もちろんこんなに大きな気球は必要ない。

ただ、そうは言っても直径6、7mにはなる。

これからは水素が比較的容易に入手できる時代になるであろうから、夢の実現は案外近いかも知れない?

問題は、これの根本にあるわたしの思想を理解してもらえるだろうかということである。

思想と言っても大したものではない。エコとCO2排出抑制である。

いったい、1日にどのくらいの人間が焼かれて灰になるか考えたことがあるだろうか。

わたしの見積ではざっと20万人が毎日死に、そのほとんどが荼毘に付される。

つまり、平均体重を30kgとしても、それに燃料の重量も加えれば40kgやそこらのカーボンが燃焼してCO2となる。

計算はめんどくさいのでやらないが、膨大といって間違いない。

だから、地球温暖化(わたしはこれを全面的に信ずるものではない。地球の気温は太陽活動との連関がずっと大きいと思うからだ)抑制という意味で、地球温暖化を危惧する人たちはわたしに賛意を唱えるべきである。

それと、である。エコシステムに大きな影響を与えるというひとがいるかも知れないが、元々増え過ぎてしまった人間という種の存在がエコシステムとやらに甚大な影響を与えているのではなかったか?

話が飛んだが、死んで気球から海に落ちて鮫や魚の栄養になれば、これこそが釈迦入滅図に描かれた究極のエコになるのではないか、ということである。

火星に行って死ぬより、わたしは魚の餌になりたい。そうは思わないだろうか。

 

信じるということ

医学用語、というより今では一般的な言葉になってしまったが、プラセボとかプラシーボと言われるものがある。

その逆がノセボ、またはノシーボらしい。

プラセボは、偽薬効果と訳される。意味するところは、砂糖でも塩でもカプセルに詰めてこれは腹痛の薬だと言って医者が患者に与えれば本当に腹痛が治ってしまうことがある。こういうおまじない的なことを言うらしい。また、疣贅、いわゆるイボがおまじないで消えてしまうことがあるというのも強ち迷信とは言えないらしい。おまじないを信じることによって、免疫が強化され弱いイボのウィルスを破壊してしまうらしいのだ。

人間に限らず生き物には、こういう「騙されてしまう」ところがあるから、医薬メーカーは二重盲検という方法で臨床試験をしなければならなくなった。

 

ところで、わたしは医学について話したいわけではない。そもそもわたしは医者でもなければ偽医者でもない。

 

信仰の話をしたい。信仰をくだらないものとは言いたくはない。だが、信仰が他者に多大な被害を与えることは昨今の騒ぎを見ても分かる通りだ。

信仰、あるいは何かを熱心に信ずるということは、何か大きな目的を達するための原動力になる。

プラセボが患者の命を救うことさえあるなら、信心にも大きな力があるには違いない。

例えばお金について、である。

福沢諭吉さんの肖像画が描かれた例の紙切れを、ただの紙切れと思っている者がいるだろうか。

思っているなら、今すぐその場で踏みつけてみるがよい。踏みつけたりすると、一生金に恵まれない悲惨な生活を送ることになる、などと吹き込まれたりすれば、誰もが恐ろしくてそんな真似はできないであろう。それが信仰の恐ろしさだと思うのだ。

我々は、容易に、巧みな恐怖のコントロールを受けてしまうか弱い生き物なのだ。

犬猫は、お札を平気で踏みつけたりおもちゃにしたりするであろうが、彼らにしても決して食べ物を粗末にしたりはしない。

わたしたちは、無神論者だと言ってみても、結局は何かを広い意味で信じて生きていくしかないのである。

鰯の頭も信心からというけれども、鰯の頭にDHAEPAが豊富に含まれているから、というわけではない。

やはり何か、嘘でも偽薬でも支えになるものを常に求めているのである。

 

NHKは非道い

たった今帰ってきてテレビをつけたらNHKで、明日が終戦の日だからか、ずいぶんとひどい、これは果たして我が国の放送局だろうか、という番組をやっていた。

上層部がバカだったのは間違いなかろうが、飢えに苦しんだ末に突撃銃一本で敵の機関銃に向かって死んでいった若者たちは、このようなものを見せられたらどんな気持ちになるだろう。きっと殴り込みをかけるのではないか。

フィリピンは、日本が解放しなくともアメリカはいずれ手放すつもりだったって?

そんな後出しジャンケンのような話をわざわざ持ち出す意図は何なんだい。

彼らのその犠牲の精神を尊いとは思わないのだろうか。彼らの犠牲の上に我らがいるのではないか。

こんなもの、とても日本の放送局ではない。シナ、コリアの臭いがプンプン漂っている。

本当にこんなところに金を払う者はバカだと思う。NHK統一教会の違いが分からなくなってきた。

平和を叫ぶことの意味

ヘンリーデービッドソローのウォールデンの中に蟻の戦闘を観察、記録したものがある。

黒蟻と赤蟻の戦いであるが、ソローがそれを楽しんで見ていることがよく分かる。そしてその戦いを擬人化というか、蟻人化して、こんなふうに記している。

 

省略

 

考えてみれば当たり前のことだが、この蟻たちに平和(共存)という選択肢はない。

そんな彼らに平和を説くことができるであろうか?

彼らの遺伝子には、神(わたしは無神論者を自認している)より与えられた最も合理的な遺伝子が組み込まれている、はずである。その彼らに戦争を止めろと説ける者がいるとしたら、それは神以上の存在ではないだろうか。

蟻に限らず、両者に共存の選択肢がないから戦争が起きるのである。

生物の中には、というよりも殆どの生き物は、お互いが助け合って生きている。それが共生と呼ばれるものであり、共存共栄という好ましい姿になっている。

しかし、これは互いが異種の生き物である場合がほとんどで、我々人間にしても腹の中に何百億、何千億もの腸内細菌を飼っていて、彼らのお陰で健康を保っているようなところがある。

同種間では、無限の繁殖が不可能な以上、いずれ戦いは起きる。それがこの地球上で延々と繰り広げられてきた変わることのないドラマなのである。

そう考えれば、戦争は常態であって、平和は稀有な状態であると言ってもよい。

わたしたちは、今平和の中にいる。と思っているが、その平和の中でも細かな諍いや裁判沙汰や暴力事件、犯罪が日常的に起きている。

ひとりひとりの頭の中でも様々なさざなみや時化や暴風雨が吹き荒れていることもある。

平和を説く者は、まず己の中の暴風雨を治めることから始めるのがよい。

ヨブについて考える

わたしはキリスト者ではない。バイブルを読んだこともなければ、あまり関心を持ったこともない。

ただ、キリスト教については、たいていの日本人と同じくらいの基礎的な知識はあるのではないかと思っている。

今書こうとしているヨブ、ヨブ記についてだが、大したことは知らない。

ヨブが信仰深い人物であったこと。最初は大変に幸福であったこと。しかし、その幸福が突然ひっくり返ったように悲惨で不幸の真っ只中に放り出されたこと。

わたしは、このことについて考えたいのである。

結論から言えば、ごくありふれた話ではないか、ということである。

このようなことは、日常茶飯である。確かに幸福の絶頂から奈落の底へ真っ逆さまに落とされるというのは極端かもしれないが、決して珍しいことではない。

おかしいと思うのは、これと信仰が結びつくことである。宗教の本に書かれているのであるから、信仰と結びつくのは当たり前、と言われればその通りである。

けれども、わたしはそれを否定したいのだ。

自分の幸不幸と神は関係がない。というより、わたしは不信心者(はっきり言って無神論者)だから、わたしは、わたしの不幸が例を見ないほどのものであることを自覚しているが、それを神のせいにはできないのである。

こういう時、わたしがいつも思うのは動物たちのことである。

例えば母鹿が仔を産んで、今幸せの絶頂期にいた。ところが、それをライオンに襲われ子鹿が餌食にされてしまった。

果たしてこの母鹿はいったいどのような罪を犯したためにこのような不幸な境遇に陥ってしまったのだろう。

これを考えたときに、人間と鹿は違うと断言できる者はいないのではないか。

幸不幸と神や信仰はまったく別のものである。信仰によって幸福になれる者は信仰をすれば良いと思う。しかし、いくら信仰をしていても決して不幸はなくならない。ただ、不幸を忘れることはできると思う。そしてそれこそが信仰のもつ役目なのではないかと思う。

地球上、38億年という生物の歴史の中で、どれほど多くの不幸が刻まれてきたか。それはおそらく生存した全ての生き物の数以上であったに違いない。

しかし、それを幸福とか不幸とか呼ぶのは人間だけである。

幸福と不幸を切り分けて考える人間だけが神を作り宗教に縋るようになったのである。

愚かさと神

頭が良くとも愚かな者はいくらでもいる。頭が良い者ほど愚かと言ってもよいほどだ。

それが証拠に宗教にはまる輩だ。輩というのは侮蔑の言葉である。わたしはそれほどに宗教にはまる奴らが嫌いである。しかも奴らは大人しく自分だけはまっていればよいものの、周囲の者まで巻き添えにするのだ。

いいか、宗教中毒の者たちよ。

神は存在する。だがそれは、己自身だけにしか影響を及ぼさない。神の定義は全能である。が、お前などに神が及ぼすのはお前自身の小さな肉体と薄弱な精神でしかない。全能の神は全宇宙を司るが、その広大な宇宙の卑小な、ゴミにも等しいお前に神がその全能を及ぼすなどと考えるから、お前は愚かなのだ。

動物たちを見よ。あるいは草木を見よ。彼らは分を弁えていて、決して愚かな行いをしない。愚かに見えたとしたら、それはお前の目が節穴だからだ。彼らこそ、神の摂理を知る者たちである。己の中の神を知る者たちである。

標榜

ちょっと考えれば分かることだが、平和を標榜するものは争いの種を蒔き、差別撤廃を掲げるものは差別を助長し、ひとの救済を唱えるものはひとを不幸のどん底に落とし込む。

物事は全て反対に考えた方が良い。

なぜ、そうなるのか。

平和はそもそも状態であって、意図して作れるものではない。平和は平和な中で唱えると争いの元になる。唱えるなら、戦時にやれば良い。それがいかに難しいことか、ウクライナの人々に叫んでみれば良い。きっと頭のおかしい人と思われるであろう。あるいはロシア人にでも語りかけてみれば良い。一発、死ぬほどのパンチを喰らうかも知れない。

自分たちが差別されていると主張するものたちは、自分達が差別する側のものであることに気がついているのだろうか?

差別をされた、と言って抗議をするのは実に弱い立場のものたちへである。そして、真に弱いものたちへの力には決してならない。自分たちだけが特別だと考えているからである。そこにしか神経が通っていないからだ。

そして、ひとを信仰の力で救済しようというものたちに言いたい。

これまでどれだけ多くの人々が信仰によって酷い目に遭ってきたか。

宗教によって戦争が起き、宗教によって差別も生まれ、宗教によって家庭が崩壊し、宗教によって政治は乱された。

宗教はひとを地獄に落とすためのものである。あるいは、最もセルフィッシュで、自分さえ救われれば良いと考える人たちの自己満足を満たすためだけの、最も簡便で効率の良い課金ソフトである。

何度でも言う。ひとを救うのは宗教などではない。

自分自身を救うのは自分自身のうちにある神のみである。その神とは自分自身の親から、そしてさらにはその親からと、連綿と伝えられてきたこの宇宙と同じ歴史をもつものなのである。

わたしは信ずる。その神だけは