信じるということ

医学用語、というより今では一般的な言葉になってしまったが、プラセボとかプラシーボと言われるものがある。

その逆がノセボ、またはノシーボらしい。

プラセボは、偽薬効果と訳される。意味するところは、砂糖でも塩でもカプセルに詰めてこれは腹痛の薬だと言って医者が患者に与えれば本当に腹痛が治ってしまうことがある。こういうおまじない的なことを言うらしい。また、疣贅、いわゆるイボがおまじないで消えてしまうことがあるというのも強ち迷信とは言えないらしい。おまじないを信じることによって、免疫が強化され弱いイボのウィルスを破壊してしまうらしいのだ。

人間に限らず生き物には、こういう「騙されてしまう」ところがあるから、医薬メーカーは二重盲検という方法で臨床試験をしなければならなくなった。

 

ところで、わたしは医学について話したいわけではない。そもそもわたしは医者でもなければ偽医者でもない。

 

信仰の話をしたい。信仰をくだらないものとは言いたくはない。だが、信仰が他者に多大な被害を与えることは昨今の騒ぎを見ても分かる通りだ。

信仰、あるいは何かを熱心に信ずるということは、何か大きな目的を達するための原動力になる。

プラセボが患者の命を救うことさえあるなら、信心にも大きな力があるには違いない。

例えばお金について、である。

福沢諭吉さんの肖像画が描かれた例の紙切れを、ただの紙切れと思っている者がいるだろうか。

思っているなら、今すぐその場で踏みつけてみるがよい。踏みつけたりすると、一生金に恵まれない悲惨な生活を送ることになる、などと吹き込まれたりすれば、誰もが恐ろしくてそんな真似はできないであろう。それが信仰の恐ろしさだと思うのだ。

我々は、容易に、巧みな恐怖のコントロールを受けてしまうか弱い生き物なのだ。

犬猫は、お札を平気で踏みつけたりおもちゃにしたりするであろうが、彼らにしても決して食べ物を粗末にしたりはしない。

わたしたちは、無神論者だと言ってみても、結局は何かを広い意味で信じて生きていくしかないのである。

鰯の頭も信心からというけれども、鰯の頭にDHAEPAが豊富に含まれているから、というわけではない。

やはり何か、嘘でも偽薬でも支えになるものを常に求めているのである。