白鳳よ木鶏たれ

2010/09/24 23:19


白鳳が破竹の60連勝を成し遂げた。わたしは、朝青龍も嫌いではなかったが、横綱として最も大切な風格という点において、白鳳に迷わず軍配を上げる。
わたしは、朝青龍の相撲を見るたび、あるいは白鳳の相撲を見るたびにいつも思うのだが、日本人力士はいつまで経ってもモンゴル人力士には勝てないのではないか。それは、体力や素質の点からではない。気迫が違うのである。朝青龍にしても白鳳にしても面構えが明らかに日本人力士とは違う。かつて千代の富士はウルフと呼ばれたが、この二人はそれ以上のまさに蒼き狼のように見える。

ところで、先般の相撲界を覆った暗雲は、なんとなく世間のほとぼりも冷め、少し青空が覗いてきたかのようだが、わたしは、その最大の貢献者を白鳳であると考えている。日本の国技を救ったのはモンゴル人である白鳳に他ならない。なぜなら、あの土俵の上で、言葉ではなく、その態度で、誰が見ても明らかな哀切の涙で、相撲よ国技たれと訴えたからである。
これはどういうことか。つまり、相撲協会名古屋場所において、不祥事に対する反省を公にアッピールする目的をもって賜杯授与を自粛した。白鳳は、その賜杯が表彰台にないことに愕然とし、泣いたのである。
しかし、天は彼を見捨てはしなかった。場所後八日目に、天皇陛下から白鳳に労いのお言葉が届けられたのである。
白鳳は、そのお言葉に次のように応えている。
賜杯がなく、うれしいと、悲しいという、寂しい気持ちで涙を流しましたが、(今は)心から喜んでおります。光栄でございます」

わたしは余りに単純な男だろうか。いや、きっとそうではない。多くの日本人が白鳳のあの涙に感動を覚えたに違いない。力士たるものは、まさにあの天皇賜杯を手にするために15日間を戦うのである。

その白鳳が文藝春秋10月号の独占手記の中で次のようなことを言っている。インタビューアーの朝田武蔵氏の良い相撲とは何かという問いに対する答えである。
「勝つ相撲をとらないことです」
この禅問答のような言葉の意味について、彼はこう答えている。
横綱というのは、思い切ってやっていないんです。100%でやっていない。そうすると絶対、落とし穴があるんです。ちっちゃい土俵だし、俵を割れば負けだから。バーッと馬鹿みたいに行ったりしたら、負けちゃいますからね。逆に、思い切って受けてもいない。このバランスが取れてるのが横綱なんです。相撲の道の世界かもしれないけど、考えてやるもんじゃないんだよね」

朝青龍も計算の出きる頭のよい男だったが、この喋りを聞いただけで白鳳の頭の良さが分かる。この人、年齢はまだ25歳である。来日してわずか十年で日本の国技の最高峰にまで上り詰めた。心技体ではなく、体→技→心と極め上り詰めたのである。

その白鳳が理想としているのが「木彫りの鶏」だそうである。これは、1939年、69連勝を達成した双葉山が70連勝が出来ずに敗れたときの名言「いまだ木鶏たりえず」から来ている。
その双葉山から何を一番学んだかと言う朝田武蔵氏の質問にも次のように答えている。
双葉山さんの普段の所作だね。今から闘うという人間の顔じゃないんだよね。連戦記録中の横綱と言ったら、普通は緊張感が顔に出ちゃうじゃないですか。ビデオとか見てると、双葉山さんには、まったくそれがないよね」

白鳳よ。双葉山を越えろ。自ら木鶏を体現し、真の横綱とはどのようなものかを泥に塗れた相撲界と日本人力士たちに知らしめよ。