秋霜烈日バッジが泣いてるぜ

2010/09/22 13:12


何日か前に菅谷さん冤罪事件を日記に書いた。文芸春秋に載った清水潔氏の記事を読んで、正義感の人一倍強いわたしは大いに憤慨した。

わたしは幼少の砌「きつねのおうさま」という絵本を読んで、はらわたの煮える思いというものを生まれてはじめて味わった。それは、あの高貴なライオンが狐ごときの悪知恵に騙されて、王の地位を狐に譲らなくてはならなくなってしまうというストーリだった。幼いわたしが腹を立てたのは、正義がなされていない、そのことに対してだった。
それから50年近くも経って、あのときと同じ憤りがわたしの中に沸き起こった。そして、わたしにあれを書かせたのである。

そして、またしても検察である。検察は、過去数々の不正を暴いてきた。政治家にしろ暴力団にしろ、巨悪に対して敢然と立ち向かい、いわば一般国民の正義感を満足させてくれる月光仮面のような存在だったはずである。
ところが、菅谷さんの冤罪といい、この度の前田某主任検事による村木厚生労働省雇用均等・児童家庭局長の罪状でっちあげ事件といい、やはり検察の正義は地に落ちてしまったのではないだろうか。
このままでは、検察とは冤罪を作るところ、犯罪をでっち上げるところであるとのイメージがマスコミなどによって醸成されてしまう恐れさえある。それに賢明な国民は、決して一部のはみ出し検事の暴走とは考えないだろう。

検察という組織が描いた推理、すなわち犯罪の構図に則って様々なモチーフが置かれてゆく。モチーフとは証拠や供述調書などのことである。ところが、そのモチーフが最初に描いた構図に合わないものであったなら、その絵は最初から描き直すのが当たり前で、構図に合わせるために供述を強要したり、あるいは証拠を改竄したりするのは犯罪に相当する行為である。

ところが、どうも検察というところは、・・・いや、これは何も検察に限ったことではないであろう。警察や、あるいは一般の役所や民間の企業においても、おそらく大きな違いはない。そこで立てた企画やプランが一度通ってしまうと、すなわち上の決裁が下りてしまうと、たとえプランに瑕疵があることに気がついても、もはややり直しがきかないという風に考えてしまいがちである。
これは、わたしが思うに人間の最大の弱点なのではないか。途中で、ごめんなさい、間違っていました、が言えないのである。これは、小さな子供の頃から決して変わらぬ人間の性ではないか、とわたしは思うのである。

親が口を酸っぱくして「ごめんなさいは?」などと子供を叱るのは、その親からして人間というものが本来謝る、自分の間違いを認めることが嫌いであることを本能的に知っているからであろう、とわたしは考える。子供が素直に謝っているように見えるのは、親に半ば強要されたからであり、それによって自分に利益が得られることを知っているからに過ぎない。
しかし、このような子供が大人になってしまうと、たとえ円の面積の公式を知らなくとも、謝ること=自身の不利益という公式だけはしっかりと身に付けてしまう。大人の世界には謝ることによって得られる利益は何もない、という人生哲学を学んでしまうのである。

今回の不祥事が図らずも教えてくれているのは、何も大したことではない。間違いに気が付いたら素直に謝りなさい、という幼稚園の先生が教えてくれたことである。
しかし、この極めて常識的な倫理観は、どうやら子供のときだけに通用するものであるらしい。大人になるにつれて希薄になり、組織の主要な一員となったときにはすっかりと影を潜めてしまうのだから。

今回の前田某による証拠隠滅事件も、最初に検察が描いたある構図に無理やりにでも証拠を合わせようとしたためのものである。これは犯罪のでっちあげにも等しい。わたしたち国民の目には非常に歪な権力の行使であり、暴走であるとしか映らない。
さらに言うなら、菅谷さんの無罪が確定した松田真実ちゃん誘拐殺害事件にしても、検察が最初に描いた画に沿って、菅谷さんに強要して供述させたものであった。最大の焦点であったDNA鑑定においても、検察にとって都合の良いように鑑定結果を変えてしまった可能性が非常に高い。なぜなら、後の弁護側の鑑定結果では、犯人のDNA型はMCT118法で18-24だったからである。一方、菅谷さんのDNA型は18-30である。つまり、少なくとも冤罪を生んだのは、鑑定方法の精度の問題ではなく、ミス乃至は検察による恣意的な誘導によるものだった可能性がある。

わたしは、これもまた検察組織の歪みが齎した冤罪事件であったと思えて仕方がないのである。