鎮 男

2012/06/03 14:10

 

オマージュ


J公園は、企業城下町と呼ばれるY市の高台にあり、そこからは、四季折々に装いを変える山々や、市街を縫うように流れるH川を一望することができる。
そして、はるかかなたには城の本丸、すなわち深い峡谷に守られたラプラス本社の威容が臨める。

公園はとても広く、天文台付きの少年科学館や、真っ白な水をときおり間欠泉のように勢いよく噴き上げる噴水や大きな花時計のある広場、それにアルパカやバーバリーシープなどのいる動物園、お猿の電車が走る遊園地まであって、休日には家族連れや若いカップルたちで賑わう。
その公園の公衆トイレの傍に、ひっそりとその銅像は立っている。円縁の帽子をかぶり、大きな体にトレンチコートを巻きつけるように着た、まるでホームレスのようないでたちの、高さ2メートルほどもある歳のいった男の像である。男はしかし、高い台の上に自然体で立ち、誇らしげに、はるかかなたを、ラプラス本社の方を見晴るかしているかのようにも見える。
たまたまこの公園に遊びに来て、小用を足そうとふとこの像に目をとめた者は、自分の切迫した事情も忘れて、なぜこんなところに、このような芸術作品とも思えぬホームレスの像があるのだろうと首を傾げるに違いない。

実を言うと、この銅像は他ならぬ私自身がY市に寄贈したものなのである。しかし、その謂れについては市長を含め誰一人として知る者はいない。たまたま私は、この国のいわゆる有力者の知己を得たおかげで、はっきりとした建立の理由も示さず、半ば強引に建てさせることができたのである。
 しかし、もしも私がこの銅像を見上げて不審な顔をしている人に、実はこの像は、誰に知られることもなく人類を滅亡の危機から救おうとした、ある名もない人物を決して忘れないために建てたのだと説明しても、さらに冷ややかな一瞥が返ってくるだけのことであろう。

 私が銅像のモデルである鎮男に再会したのは、おととしの暮れのことだった。そのときのことを、私は今でも鮮明に思い出すことができる。鎮男とは40年ぶりの再会だったし、それが余りに衝撃的な邂逅だったから、忘れようにも忘れられるはずがないのだ。
なにしろ、その再会のときに私の頭の中で雷鳴のように轟いた彼の言葉は、決して大げさではなく、一瞬にして40年という分厚い時の壁を突き破り、私の骨の髄にまで宿命というものの恐ろしさを染みとおらせるほどのものだったのである。そして、この鎮男という私より二つ年上の、子供のときから寡黙で、まるで影のような存在だった男の尋常ならざる能力を改めて私に思い起こさせるものだったのである。

 40年前の3月。鎮男が中学を卒業したその日は、霙交じりの雨が降っていた。卒業式の後、私と鎮男は、古い木造の校舎と体育館をつなぐ渡り廊下の腰板に凭れ、じっとその冷たい雨を見ていた。
 私は、蛍の光に送られ体育館を出てきた鎮男の目に涙があったのを知っていた。それは、私が初めて見る鎮男の涙だった。それを見たとき、なぜか私は、罪悪感のようなものを覚えた。それはおそらく、ながらく崇めていた自分の英雄が無様に打ちのめされたのを見たときに感じるであろう感情に違いなかった。このときすでに鎮男は、私の心の中で英雄になっていたのである。
 鎮男は、高校には進学せず、というより家庭の事情で進学できず、東京の小さな町工場への就職が決まっていた。

「こうちゃん。わいは、これから未来のこうちゃんに向けてメッセージを送るで。そのメッセージを、こうちゃんは40年後に受け取るんや。ええか。わいらは、そのときにまた会うんや。そのときには、二人ともええおっさんや。ええおっさんになって、二人力を合わせて敵と戦わなあかんのや」
あのとき、鎮男は、確かに私に向かってそう言ったのだった。
私は、彼が何を言っているのかさっぱり理解できなかった。しかし私は、彼に何も問い返さなかった。なにしろ、彼は私の唯一の友達で、私もまた彼のおそらくは唯一の友達であったけれども、彼を理解することなど絶対に不可能と私には分かっていたのである。

 鎮男は、私の家と田んぼを挟んだ向かいの、方向でいうと西の、裏山に小さな神社のあるトタン屋根の粗末な家に歳のいった喘息持ちの父親と「あほのまあちゃん」と言えば近所はおろか小さな町ながら誰も知らぬ者はない守という名の知恵遅れの兄と3人で暮らしていた。鎮男の母は、彼がまだ3歳の乳が恋しい時期に肺を患って他界していた。
父親は喘息以外にも何か大きな持病を抱えていたため、生活保護と様々な内職によって、3人がどうにか息を潜めるようにひっそりと生活していたのである。

 私の家もまた母子家庭で裕福ではなかったが、母がその父、つまり私の祖父と小さな魚屋を営んでいたから、何とか人並みに近い暮らしはできた。
 小学生のころ、家にテレビのない鎮男は、テレビを買ったばかりの我が家によく遊びに来た。そのときには必ずプラモデルを手土産にやってきた。決して手ぶらでくることはなかった。
あのころのことを思うと、私はいつも胸に小さな自責の痛みが走るのを覚える。
あのころ、私と彼は、無言のうちに取引をしていたのである。つまり、鎮男は、私の家にテレビを見たくて来ていたのであり、決して年下の私を慕って来ていたわけではなかった。私の方はと言えば、彼が持ってくる完成したばかりのプラモデルが欲しかった。そして、それは、彼にテレビを見せてやることでほとんど自然に手に入れることができたのである。
これが、はたして真の友達といえるような関係であろうか。