鎮男2

2012/06/03 14:13


テレビを買ってやりたくとも、生活保護を受けているために買ってやることのできない鶴一という名の、その名のとおり鶴のように痩せた小柄で歳のいった父親は、どれだけ鎮男のことが可愛かったであろう、彼は、鎮男の欲しがるままに飛燕や紫電改といった戦時中の戦闘機や連合艦隊旗艦長門や大和といったプラモデルを買い与えた。しかしそれは、本当は鎮男が欲しかった物ではなく、私が欲しかったものだったのである。
私の母は、私がいくらねだっても、「そんなもん作っとる暇があったらもっとしっかり勉強せんかえ」と一言の元に跳ねつけ、決してプラモデルなど買ってくれはしなかったのだ。
鎮男は、その器用な手でどんなに大きく複雑なプラモデルでもあっという間に設計図も見ずに完成させた。そして、作り上げると、惜しげもなく私にくれた。鎮男にとっては、プラモデルは作ること自体に意味があるのであって、一度作ってしまえば、読み終えたマンガ本と同様に邪魔なだけだったのだ。

 ある夏の夕方、開け放した玄関先で、「こうちゃん」と静かに私を呼ぶ声が聞こえた。私は、テレビのアニメから目を離して鎮男を見た。
「飛燕もってきたで」
彼は両手に大きな流線型の戦闘機を抱えていた。西日が射して、入り口に立つ彼の姿は、そのあだ名のとおり、大仏様のようなシルエットになっている。
「わあっ、ごっつうおおっきいなぁ」私は喜びの声をあげた。
それを歓迎のしるしと受け止めると、鎮男はいつものように我が家に上がり、私が見ていたテレビの前に黙って正座した。
そのころ私の家にあったテレビは、白黒のチャンネルをガチャガチャと手で回して切り替えるものだった。細長い足が4本ついていて、長い間畳の上に置いておくと、その足跡がくっきりと畳に残った。そのため、我が家では祖父が蒲鉾の板を4枚足の下に敷いていた。
四隅のまるまった14インチほどの小さなブラウン管の前には、映像を大きく見せるためとか電子線から目を守るためとかの理由で、青っぽい、中に水の入った凸型のレンズが付いていた。それに、そのころのテレビは大変高価だったから、埃よけのカバーが掛けられ、我が家の中でも高い地位を占めていた。
鎮男は、いつも行儀が良かった。座布団の上にちゃんと正座して、いつの間にかちゃっかりとチャンネルを変え、食い入るようにニュースを見ていた。その姿を、私は今でも鮮明に思い出すことが出来る。
先にも触れたように、鎮男は、近所の子供たちから大仏っぁんというあだ名で呼ばれていた。頭が異常なほどに大きく、体格もふくよかでどっしりしていて、たしかに奈良の大仏を連想させた。

私は、その大仏さんの傍らで、貰ったばかりの飛燕に夢中になっていた。
「鎮男ちゃん」と、私はテレビに見いっている彼に声をかけた。「飛燕はなぁ、水冷式なんやで。知っとちゃったか」
「うん」
鎮男は、ちょっとめんどくさそうにテレビを見たまま私に応えた。「ほんまは、液冷式いうんや」
「ほんとけ。なんで? 水冷式と何が違うん」
「普通の水やったら、上空で凍ってしまうやろ。飛燕には車のラジエーターに入っとるのと同じような不凍液が入れてあるんや。恐らく、ガスケットや鋳型の精度がようなかったんやろうな。それで冷却水がよう漏れて困ったそうや」

私は、鎮男が大変な天才であったことを知っている。世の中にはいろいろ天才と称される人たちがいるが、彼は、知能の面において紛れもなく天才であったし、おそらく身体的にも途方もない力を秘めていた。彼は、小学生のころから、その丸まっちい身体からは想像もできないほど早く走った。
そのころ、私たち近所の子供は、小学校の低学年から中学生までもが一緒になって野球をはじめいろんなことをしてよく遊んだ。
あるとき、ひろちゃんという私の同級生がストップウォッチを自慢そうに持ってきたことがあった。それで、近くの野球ができるほどの空地にみんなが集まって、50mのタイムを競うことになった。それに鎮男も参加した。大抵の者のタイムは8秒台か早くても7秒台後半だった。しかし、鎮男は6秒フラットのタイムをたたき出した。みんな、初めて見る鎮男のその疾走ぶりに息を呑んだ。タイムそのものも驚異的だったが、そのようなダイナミックな走り方はいままで見たことのないものだったのだ。
しかし鎮男は、決して学校ではそのような能力を見せることはなかった。運動会でもたいてい普通のでぶのような走り方をして、6人中の3位か4位の平凡な成績で終わった。

鎮男は、超能力といわれるような力もたしかに持っていた。私はうすうすそのことに気がついていた。しかし、そのことを誰かに話すことはなかった。たとえば、鎮男にはテレパシーの能力があるとか未来を予知できるといったことを話して、仲間たちから笑い者にされるのが嫌だったのだ。おそらく、当時そのことに気づいていた者は、鎮男の父親も含めて一人もいなかった。鎮男本人は、間違いなくその能力に気がついていたが、それを口にしたり世間に晒したりすることは決してなかった。
そのころの私は、鎮男の超能力について良く考えることがあった。そして、鎮男がその特殊な能力を決して衆目に晒さない理由について、子供ながらに次のように考えていた。
それは、仮に人類というものがすべてカラーブラインドであったとしよう。しかし、ほんの僅かな者だけが神から特別に色というプレゼントをもらったとする。人類の大部分は、そのような色の感覚をまったく理解できないわけだから、それを理解させるには、相当な困難を伴うに違いない。いや、それどころか、批難や弾圧を受ける恐れの方がはるかに大きいだろう。鎮男には、そのことがよく分かっていた。
だから、鎮男は孤独な、いや孤高の天才だったのだ。