鎮男3

2012/06/03 14:14


今でも私の心に鮮烈に焼きついていることがある。それは、私が小学5年のある夏の日のことだった。
猛烈な雷雨がトタン屋根を機銃掃射のように打ちつけはじめた。古びたトタンの隙間や茶色く錆びて開いた小さな穴からそのしぶきが霧になって家の中に舞い込み、鎮男の家に遊びに来ていた私は、自分の家まで走りぬければたかだか1,2分の距離だったが、傘など何の役にもたたないほどの豪雨に、思い切って帰ろうかそれとももう少し様子を見ようかとぐずぐず迷っていた。
雨戸を閉め切った鎮男の家は、独特な生活臭を漂わせていた。体臭と便所と黴の臭いが入り混じって、初めて訪れた胃の具合の悪い者なら吐き気を催したかもしれない。けれども、私はその臭いが特別に嫌だったわけではない。今でも私は思い出そうと思えば、その臭いを懐かしさと共に鼻腔の内に感じとることができる。当時の家庭は、今とは違ってどこでも特有の臭いというものを持っていたのだ。
ただ私は、鎮男のようにいつまでも静かに漫画を読んでいるような真似はできなかった。
 私は、鶴いっつぁんの方を伺った。鶴いっつぁんは、内職に余念がなかった。新聞紙を何枚も重ねて敷いたちゃぶ台の上にE字型をした薄い鉄片や筒状をしたコイルを広げ、小さなトランス(変圧器)を作る作業をしていたのだ。
鶴いっつぁんは、綿のはみ出た薄っぺらな座布団の上に胡坐をかいていた。そのすぐ傍には、完成したトランスが箱詰めになって積み上げられている。
そのとき、私が所在無げなのを気遣ったのか、ふと、鶴いっつぁんが内職の手を休めた。そして、胡坐をかいたままその手を小さな箪笥の引き出しに伸ばした。中から三つ折りになった白い文庫本ほどのサイズの紙が出てきた。それは鎮男の小学校一年時の通信簿だった。
「こうちゃんなぁ、嘘やと思うかも知れんけど、鎮男はなぁ、小学校の1、2年のときは、本当にびっくりするくらい成績が良かったんやで」
鶴いっつぁんは、ちょっと確かめるように通信簿を広げて見ると、ちゃぶ台の上越しに私に渡した。

それを見たとき、私は目の前に雷が落ちたような気がした。
「なぁ。びっくりしたやろう」
鶴いっつぁんは、内職の手を休めぬまま私の方を見ると、すっかり歯の抜けてしまった口を開け弱々しく笑った。そして、笑いながら痰のからんだ弱々しい咳をした。
私は、鶴いっつぁんの手を見た。小さな身体にそぐわぬ大きな節くれ立った両の手が、まるで手品師がトランプのカードでも切るように素早くE字型をした鉄片を二つのコイルの中に互い違いに差し込んでいる。
外では雷鳴がいつ止むとも知れず山峡の小さな村に轟きわたっていた。私は、しばらく言葉を失っていた。私は、鶴いっつぁんの機械のように正確な手の動きを見るともなしに見ながら、頭の中に自分の通信簿を思い浮かべていた。
私は、決して成績の悪いほうではなかったが、主要な科目の1つか2つに5がある程度で、これから先いくらがんばっても、すべての科目に5が付くことなど決して有り得ないことは分かっていた。それを、今まで軽くどころか自分より下にさえ見ていた鎮男が、そのまさかのオール5を取っていたのだ。
それは、私にとって二重のショックだった。一つは、身近な鎮男がこんなに頭のいい奴とは知らなかったことに対する単純な驚きだったが、もう一つの方は、ちょっと捻くれていた。つまり、これまで鎮男は、年下でもあり、お頭の程度の方も自分と比べてはるかに下であることを知りながら、私のレベルに合わせて付き合ってくれていたことになる。私はそのことにようやく今気づかされたのだという、怒りと嫉妬の入り混じったショックだった。

私は、鶴いっつぁんの顔を盗み見た。私に通信簿を見せたのは何か思惑あってのことではないかと疑ったのだ。しかし、鶴いっつぁんの頭の中のスイッチは、すでに内職に切り替わっていた。直接聞き質しでもしない限り、私の疑いに決着をつけることはできそうになかった。
私は、鎮男に視線を移した。鎮男は、すぐ傍で自分の成績が取沙汰されていることなどまったく意に介する様子もなく、漫画に読み耽っていた。私は、そのしれっとした態度に幼い嫉妬と怒りを募らせた。

「なんで、勉強せんようになってしもうたんかなぁ」
だいぶ間を置いてから、急に思い出したように鶴いっつぁんが愚痴をこぼした。
「なんで?」と、私は食いつくように鶴いっつぁんに訊いた。「そねーに成績が下がってしもうたん?」
「そうなんや。ほんまに酷いもんや。今はもう、2か3ばっかりや」
そう言って、鶴いっつぁんは奥の座敷に目をやった。
「まぁのあほと引き換えに、神さんは弟の鎮男には本当にええ頭を与えてくださったんやと喜んどったんやけどなぁ」
まぁちゃんは、小さな仏壇のある奥の間でせんべい布団に大の字になって寝ていた。乗馬ズボンに薄汚れたランニングシャツという格好で、雷に負けぬほど大きな鼾をかいている。
まぁちゃんは、大柄な鎮男とは違い父親に似たのか小柄で痩せていた。父親にバリカンで刈ってもらったらしい丸刈りの小さな頭には、喧嘩をした猫のように小さな傷があちこちにあり、十文字や一文字の禿になっていた。

まぁちゃんのあほの程度は相当なものだった。おそらく、まあちゃんには4,5歳児程度の知能しかなく、お金の価値などまるっきり分からなかった。まぁちゃんにとっては、100円札や500円札はただの紙に過ぎず、10円玉や金色に光る5円玉の方により価値があった。

まぁちゃんについては、よく憶えていることがある。それは、日のかんかん照る夏休み前のある日のことだった。私は、学校の帰り道でまぁちゃんに会った。まぁちゃんは、黄色いヘルメットを被って道路工事の旗振りをやっていた。一方通行になった国道の向こうとこっちとで赤と白の旗を上げたり下げたりして、交通整理をする単純な作業だった。思うに、まぁちゃんは、現場監督から向こうにいる相方が白旗を上げれば赤旗を上げ、相方が赤旗を上げれば白旗を上げるようにと言い聞かされていたのに違いない。そうして、五百円とか六百円といったわずかばかりの日当を貰っていたのだ。

「おえっ!」
そのまぁちゃんが重いランドセルを背負ってとぼとぼと一人家路に向かう私をめざとく見つけて、太く大きなだみ声で呼びかけた。まぁちゃんは、ちょくちょく自分の家に遊びに来ている私の顔をもちろん良く知っていたが、いつまでたっても名前を覚える気はないらしかった。
私は、肩ベルトに両手の親指を差し込んだまま、いったい何を言いだすのかと身構えながら、まぁちゃんの方に近づいていった。
「じこ、あったんやど。ぶつかって、ちぃがようけでとったんやど」
まぁちゃんは、まだ10mも離れている私に大声で告げた。何か大変な発見でもしたかのように喜色満面だった。
私は、その事故がまぁちゃんの旗振りのせいで起きたものではないことを祈った。

しかし、そうしてまぁちゃんが稼いだ金は、途中でどういう魔法に会ったのか家に帰ったころにはわずかばかりの10円玉と5円玉に化けていた。
「なぁ、こうちゃん。ほんまにあほやろ。ポケットの中を小銭でじゃりじゃりいわせて喜んどるんやさけぇのぅ」
鶴いっつぁんが私に嘆いてみせたが、今になって思いだしてみると、その声には不憫な息子を思う父親の哀切が滲んでいた。

私は、まぁちゃんが目を覚ますことを恐れていた。彼が突如として起きだして、辺り構わぬ大きなだみ声で、何の脈絡もない小さな子供のような戯けたことを話しかけてくるのが嫌だったのだ。
しかし、まあちゃんはよく寝ていて、当分起きる恐れはなさそうだった。家の近くに時空を切り裂くような音をさせて雷が落ち、襖や障子をびりびり震わせると、電気が流れたかのように首から上だけが大げさな痙攣を起こしたが、すぐにまた鼾をかきはじめた。

私は再び鎮男を見た。おそらく、その時の私の視線には、通信簿を見せられる前とは違った、鎮男に対する尊敬と嫉妬と疑念とが綯い交ぜになっていたことだろう。しかし、鎮男には、仮にそのような私の感情に気がついていたとしても、そんなものはどこ吹く風であった。彼は、静かに魅入られたように漫画を読み続けていた。

私は、だんだんといらいらを募らせていた。
そのとき、胡坐をかいて漫画に集中していた鎮男がふと目を上げ、雨戸の方を見てぼそぼそと何か呟いた。
「えっ。今なに言うたん」鎮男の一挙手一投足に神経を尖らせていた私は、その微かな呟きも聞き洩らさなかった。
「薔薇を糞と呼び、糞を薔薇と呼ぶことにしても、薔薇は薔薇の香りがするし、糞はやっぱり糞の臭いがするやろ……」
鶴いっつぁんが手を止め、顔を上げて私を見た。
「なっ、こうちゃん。鎮男はいっつもこんな調子なんや。こんなわけの分からんことばっかり言うて、わしらを煙に巻いてしまうんや」
「いま鎮男ちゃんの言うたことと、成績が下ったことと何の関係があるんか、わいには、さっぱり分からんわ」
鎮男は、それにはまったく答えようともせず、再び漫画本に神経を集中させていた。

しかし、右の謎のような言葉は、実は鎮男がはるか未来に起きる、いや、今となっては、起きてしまったというべきあることについて予言したものであったと私は断言することができる。