鎮男5

2012/06/03 14:17


鎮男は、J公園まで車で来ていた。その車というのは、着ているコート同様に年季のはいったホンダのN‐360、通称Nコロだった。
「ちょっとエンジンとか、いろいろ改良しとるさけぇ、よう走るで」
鎮男は、ドアを開けると身体を折りたたむようにして車に乗りこんだ。その紺色をしたおんぼろの軽自動車と擦り切れたトレンチコートを着た大柄の鎮男の姿とが私には何とも云えぬいい絵になっているように思えた。
「鎮男ちゃんの趣味によう似合うとるみたいやな」
私は正直な感想を述べた。
「今の時代にぴったりやで。リッター30キロ走るんや」
鎮男は、サイドウィンドーを手で巻き下げながら言った。
「ほんとにけぇ?」
私は半信半疑だった。こんな昔の車が、たとえ軽とはいえ30キロも走るとすれば、それは本当にノーベル賞級の驚異に思えたからである。

私は、自分の大型ハイブリッドカーに乗り込むと、鎮男の後を追った。鎮男は、私に家まで遊びに来るよう誘ってくれていたのである。実は、たった今トイレで見た数式には、とても重要なメッセージが込められていて、それをおまえにだけ教えてやると言うのだ。
ほかに特別用事もなかった私は、強い好奇心に促されるまま鎮男の家に付いて行くことにした。

鎮男は、Y市内とは言うものの人家を遠く離れた山奥に住んでいた。その家は、子供のころに鶴いっつぁんやまぁちゃんと一緒に住んでいた家を髣髴とさせるトタン屋根の平屋だったが、それよりも何倍も大きかった。
鎮男は、百姓をやっていて、米や野菜や農機具などを納めるためにガレージ兼用の大きな納屋を建てていた。今、鎮男はその納屋の大きな戸を跳ね上げNコロをバックで突っ込んでいた。

私は、車から降りると大きく伸びをしながら辺りを見回した。家のすぐ脇を谷川が流れており、そのせせらぎが耳に心地よく届いた。
私の目は、いつしか遠くにくすんで見える冬枯れの小高い山の方に向いていた。そして、その麓を切り開いて作ったと思しき畑の中に、夕日を浴びて光る一本の鉄柱を見つけると、そこに凝固してしまった。
「あれは……」
オレンジ色に塗られた鉄柱は、私に馴染みの深いあるもののように思えたのである。しかし、なぜあれがこんなところにあるのだろう。
私は、訝しく思いながらも、どういうわけかそのことを鎮男に問うのを忘れていた。

私は、家の周辺に注意を戻した。家の前には赭土を固めた広い庭があり、さらにその外に黒い土の入った畑があった。矮鶏や鶏が放し飼いにされており、金網で囲った立派な鶏小屋が大きな栗の木の下に拵えてあった。鶏たちの何羽かは、早々と止まり木に寝支度を始めている。黄昏時に青い金網を通して、その鶏たちの赤い鶏冠と白い羽が浮きたって見えた。
まだ腹が満たない多くの鶏たちは、おそらくミミズや小さな百足などの昆虫を啄ばんでいるのであろう、しきりに蹴爪であちこち畑の土を穿り返しては嘴で突付きまわしていた。
どこから現れたのか、柴のような中型の雑種犬がいきなり私の足にまとわりついた。歓迎の徴なのか尻尾を左右に大きく振りながら私の足に体を擦り付け、ウール地のズボンに茶色い毛をいっぱい付着させる。そうして、犬歯の間から舌を長く垂れさせ、たいして暑くもないのにはぁはぁいいながら眠たそうな細い目で私を見上げた。

「まぁ」
鎮男が大きな声でその犬に呼びかけた。私はびっくりして鎮男の顔を見た。犬は、すぐに鎮男の方にとんでいくと、今度は彼の足元に体を密着させながらぐるりと一周回った。
「そうや。死んだ兄貴の名前をつけてやったんや」
鎮男は、私の顔をちらっと見てそれだけ言うと、犬と一緒に家の中に入っていった。

鎮男の兄、守は28歳で死んだ。死因は敗血症ということだった。しかし私は、この兄が、その判で押したような病名とはまったく別の大変悲惨な目に遭った末に亡くなったことを知っていた。そして、それとほとんど時を同じくして、悲嘆にくれた鶴いっつぁんが亡くなったことも。
無論、鎮男も、そのことは風の知らせに聞いていたはずだ。というよりも、彼ほどの人知を超えた能力の持ち主であれば、自分の身内のことごとくを知っていたのではなかろうか。
しかし鎮男は、そのたった一人の兄の葬儀にも鶴いっつぁんの葬式にも姿を現さなかった。そのために、私の実家の近所では、いつの間にか鎮男はどこかで野垂れ死んだということになっていた。
ところが、鎮男はこうして立派に生きていた。自分の飼い犬に死んだ兄貴の愛称をつけて、子供の頃に住んでいたと同じトタン屋根の、一見おんぼろの家に住んで生きていたのだ。