鎮男8

2012/06/03 14:21


「そやけど、鎮男ちゃん。その死んでしもうた大学生は、なんでそんなに神さんが憎かったんやろ」
「それが、わいにもよう分からんのや。さっきも言うたように、神を憎む気持ちいうんは、わいにもよう理解できる。そやけど彼は、わいなんかから比べたら、ものすごう恵まれた環境に生まれ育っとる。両親ともに最高峰の学問を究め、父親は、現在もラプラス社で新しいコンピュータの開発責任者をやっとる。本人は、14歳にして数学オリンピックで金メダルを取ったほどの天才やし、それで騒がれるのが嫌でイートンに1年留学しとった。そのときに彼が発表した数学の理論は、世界をあっと言わせるほどすばらしいものやった。そのころの彼は、フィールズ賞に最も近い日本人と言われとった。――ただ、母親の方は、一昨年交通事故で亡くなってしもうとる。それが唯一、彼の自死につながる原因いうたら原因かも知れん」
「そやけど、それだけでは、なんで世間か神か知らんけど、そんなに憎むようになったかは分からんなぁ。いったいなんでやろ?」
「それは、今言うたように、ほんとのところは、わいにもよう分からん。そやけどわいは、それを外的な要因に求めるのは間違いやと思うとる。彼は、神を憎むことの、言い換えたら、この世と人間の存在価値を問うために生まれてきたある種の改革者やったんやないやろうか」
「そんな人間が長生きすることは、それ自体が矛盾になるっちゅうわけか」
「そうや。ともかく彼は、自分が自殺するだけではなく、この世の中全体が自殺するように、ある仕掛けを残して死んでいった」
「この世の中が自殺するような仕掛け?」
私は、ますます深まっていく謎に、そして今その大きな渦の中に自分自身が深く呑み込まれようとしていることに、わなわなと全身が震えだすのを感じた。

私は、東京の本社に戻ると、早速頭の中にもやもやとしていた疑念を払拭するために、プラズマ推進装置にかかわる実用新案について調べた。
それは、私も既に承知していたことだったが、ある篤志家による我社への寄贈であった。私は、技術開発部長にそのときの話を詳しく聞き直した。
それによると、最初、オリーブグリーンのサムソナイトを引きずった汚らしい身なりの男の訪問を受けたとき、塩川というその部長は、ホームレスのようなその姿に、何かの詐欺か良からぬ与太話に違いないと考え、さっさとお引取り願おうとさえ考えたそうである。私は、そのときの塩川の顔と鎮男の様子が目に浮かぶようで、独り可笑しくてしようがなかった。
しかし、鎮男らしきその男がサムソナイトの中から推進装置を取り出し、塩川の机の上に広げて実演して見せたときには、天地がひっくり返るほどのショックを受けたそうである。
チタン製の薄いダンボールの板のようなものが、スイッチを入れた瞬間、ペーパー電池の電力によって俄かに強力な推進力を生み出し、何冊もの紙ファイルを上に載せたまま机の上を滑り出したのだ。それを目の当たりにした周囲の者たちからは、大きなどよめきが沸き起こった。誰もがこれは飛行船の強力な推進装置になると確信した。
そのころの我社は、飛行船や気球による広告収入も遊覧飛行も、また販売も地を這うような状況にあったから、この無償の実用新案供与が会社を浮揚させる大きな力になると誰もが胸をときめかせた。そして、その予測通り、我社は危機を脱したばかりか、その実用新案の応用により新境地を切り開き、大きな飛躍を遂げたのである。
ただ、なぜ、これまでこのような重要なことが私の耳に入ってこなかったかという理由を訊ねると、塩川は、「社長には絶対にこのことを知らせてはいけない。これだけが、この発明を貴社にお譲りする条件だ」と言われたものですからと答えた。

いずれにせよ、これでいよいよ私の運命が鎮男とは切っても切れないものであることがはっきりしてきた。いや、というよりも、私の運命そのものがずっと鎮男によってコントロールされてきたようにさえ思えてきた。鎮男は、間違いなく、初めから私を彼のプランに巻き込もうとしていたのである。そのために、私に恩を売った。そして、私はその恩に報いないわけにはいかなかった。
私は、内心慄いていた。しかし、その一方で、それをどこかで楽しんでいる自分がいることにも気がついていた。案外、私はタフな男のかもしれない。私は、これから戦場に赴く物夫のように身体が熱くなるのを感じた。