鎮男7

2012/06/03 14:21


長い空白の後、私は夢の続きのように言葉をつないだ。
「忘れてへんどころか、機会あるごとに思い出しては、あれはいったい何のことやったんやろと考えとったんや。それで、今こそええチャンスや。なあ、教えてぇな。敵とはいったい何のことや。わいには、何のことやらさっぱり見当もつかん」
「それは、今日公園で見たあの落書きと関係があるんや」
「あのトイレの落書きが……」
「そうや。あの落書きの犯人が世の中をひっくり返してしまうほどの計画を考え、実行段階に移したんや」
「それで……」私は、ワインの酔いも手伝って、鎮男の話にぐいぐいと引きずり込まれていくのを感じた。
「あの落書きの犯人は17歳の大学生やった。そやけど、彼はもうこの世の人間やない」
「死んでしもうたんけ」
「そうや。自殺やったらしい」
「そやけど、死んでしもうたんやったら、なんで世の中をひっくり返すことができるんや?」私は、鎮男の顔を注視した。
「彼は、死ぬ前に大変な仕掛けを残していったんや。彼は、この世に対する、いやこの世を作った神に対する強烈な憎しみを数式にして世界中にばら撒いた」
「神に対する憎しみ?」
「そうや。そやけど、その憎しみ自体は、――運命というものに対する憎しみは、わいにもよう分かるんや。こうちゃんもよう知っとるやろ。わいのおとんも兄も悲惨な生活の末に死んだ。それにわいのおかんも病気とは言うものの可哀想な死に方をした」
「ああ。よう知っとるで。まあちゃんは、ほんとにかわいそうやった。あの話を聞くと、わいは腹の底から怒りがこみ上げてくる」
私は、まぁちゃんがどのような死に方をしたか、新聞や近所の人の話を聞いて強い義憤を感じていた。しかし、さすがに鎮男を目の前にすると、その腹の奥から噴き上げそうになる憤怒も固く蓋を閉ざしてしまって、彼の兄を襲った惨劇についてしゃべる気にはなれなかった。

「こうちゃん。実はなぁ」
鎮男は、黙り込んだ私を見て話題を変えたように思われた。
「わいは、おかんのことをよう憶えとるんや」

鎮男が突然、自分の母親について話し始めた。
私は、小さな子供だったころに祖父からその母親について聞いたことがある。私の記憶が正しければ、鎮男の母はどこか東北地方の神主の娘だったはずである。しかし、それがどのような成り行きで近畿地方の片田舎までやってきて、鶴いっつぁんのような喘息もちのひ弱な男と一緒になり、二人の男の子をもうけるまでになったかについては、まったく知らなかった。
しかし、祖父の話によると、鎮男の母ミクは、長身で色の白い大変な美人だったらしい。そして、何よりも強く私の記憶に残っているのは、彼女が近所でも評判になるほど霊感の強い女であったということだ。しかし、ミクは決してそれを商売にするようなことはなく、まためったに人を占ったりすることもなかったという。

あるとき、それは、まだ私が生まれる前のことだったが、祖父が大切にしていた金時計を失くして、ミクに透視をしてもらったことがあったらしい。
「それは、もう外に出ていますなぁ。そやけど、一月ほど経ったらふとした偶然から見つかることになりますやろ」
それがミクの答えだった。
果たして、一月後、母が隣町の質屋でその時計を見つけた。愛用の時計を失くしてしょぼくれている祖父を可哀想に思った母は、代わりの時計を買ってやろうと隣町の市場に魚の買い付けに行ったついでに、これまで一度も足を踏み入れたことのない質屋などに入ったのだ。
そして、様々な時計やカメラなどが整然と並べてあるショーウィンドーを覗いた母は、奇跡でも見たかのような衝撃を受けた。見慣れた金時計がそこにあったのである。
母は、質屋の主人にわけを話し、その時計を手にとって見た。見紛うはずもない祖父愛用の時計だった。母の様子を見て、質屋の主人の方から先に時計を持ち込んだ人物の風体について話してくれた。それを聞いた母は、すぐにピンときた。それは、手癖が悪いことで有名なわが家の近くに住むサダという親戚の女だった。
事情を知った質の主人は、その時計を買値で売ってくれたが、母にとって大きな出費になったことに違いはなかった。
それからしばらく経って、我が家の法事で親戚の者が集まる機会があった。祖父にとっては、サダに一泡吹かせる絶好のチャンスが訪れたのだ。法事が終わり食事になったとき、祖父は何食わぬ顔でサダの左に席を占めた。そして、ワイシャツの袖をわざとらしく右手でずらすと、その下に注意深く隠していた件の時計を、サダの視界に入るよう、これまたわざとらしく細めた目から遠く離して時刻を見る振りをした。それでも足らず、「サダちゃん、今、何時や」とサダの鼻先に左手を突き出してみせた。
しかし、この歳を経た雌狸は、「まぁ、重ちゃん。ええ時計をしとってぇなぁ」と平然と言ってのけたそうである。

そういう話を聞いていたこともあり、また、私が生まれたときにそのミクさんがくれたという、半世紀以上に渡って今も肌身離さず付けている安全祈願のお守りのこともあって、私は鎮男の言葉に非常な関心をもって耳を傾けた。

「わいのおかんは、わいが3つのときに死んでしもうたけど、おかんがわいを背中に背負いながら聞かせてくれた言葉は、一時たりとも忘れたことはない。それはなぁ、『しずちゃん、おかあちゃんがこれから言うことをよう聞くんやで。あんたはなぁ、神さんから大変な使命を受けてこの世に生まれてきたんや。おかあちゃんは、あんたに重たい重たい責任を負わせて生まれさせてしもうた。しずちゃん、ごめんな。おかあちゃんを許してぇな。そやけど、その使命いうんは、あんただけにしか果たせへんのや。神さんは、あんたを特別にお選びになったんや。そやから、あんたは、その使命を立派に果たさなあかんのやで。全身全霊を傾けて果たさなあかんのや』と、そういう意味の言葉やった。それをおかんは、わいの心に直接語りかけてきたんや。そのとき、わいはおかんの背中でわんわん声をあげて泣いた。わいはなぁ、とても信じてはもらえんやろうけど、自分の宿命をたった3歳にして悟ったんや。それはもう、恐ろしゅう辛い、悲しい体験やった」

私は、静かに語る鎮男のその言葉を信じた。3歳にして自らの運命を悟ったという鎮男の言葉を真実だと直感した。それは、何世紀かに一人の割合でこの世に生まれてくる稀有な人間の言葉だった。目の前の、底に茶渋の色の残る湯飲み茶碗で、違法な自家製のワインをすすり飲んでいる小汚い身なりのこの男こそ、間違いなくその奇跡なのだった。