鎮男23

2012/06/03 22:15


そのとき、私は、遠くの方で鎮男が私を呼ぶ声を聞いた。明彦もふとそちらに気を反らしたかのように思えた。

「こうちゃん。どうやった?」
「えっ」私は、その方を見た。私は、自分が寝たままの姿勢であることに気がついた。明彦ではなく、鎮男が笑いながら私を見ていた。
「どうや。わいが言うたことはほんまやったやろ」
「いったい、どういうことなんや」私は、そのときになって初めて驚きの叫び声を上げた。「ほんとに明彦は生きとるんか。それとも、わいらはこの機械によって幻覚を見せられとるんか」
「ほう。なかなかええことを言うやんか。幻覚を見せられとる……。たしかにそう取れんこともないなぁ」鎮男は、妙に感心したように言った。
「なんやいな、その言い方は」私は、寝台から起き上がりながら不服を言った。「幻覚なんか、それとも本当に明彦が生きとるんか、どっちなんや」
「さあな。わいにもよう分からん。そやけど、仮にさっきのが幻覚やったとしても、誰が何の目的でそんな大がかりな仕掛けを作ったんや。そして、あの自衛隊による大騒ぎは何やったんや」
「そうやなぁ。考えれば考えるほど、明彦の張ったクモの巣に絡まっていくような気がするわぁ」
「なぁ、そうやろう。彼は、かつて地上に存在したことのないほどの、ものすごい天才や。それは間違いない。その天才が今やろうとしとることは、こうちゃんが今言うた、蜘蛛の巣のように張り巡らされた情報網を自由自在に駆使して、愚かな人間どもを駆逐し、自分が理想とする世界を作り上げることなんや」
「そらぁ、理想的な世界を作るんは一向に構わんけど、そのためにぼくらまで殺されてしまうんやったら、そら、どうぞお好きなようにと言うわけにはいかんわなぁ」
「そやけど、彼も言うとったやろ。まだ、手を下してしまう決心がついてはおらんと。わいらの命運は、今まさに風前の灯いうことや。しかし、まだそこには一片の希望も残されとるということでもある。つまりやなぁ、彼が何でこんなに人間を憎むようになったか、その辺を調べて見る必要があるんやないか、ゆうこっちゃ」
「なんか、心当たりでもあるような感じやなぁ」
「目指すは、ラプラス研究所や。それは、明彦君から聞いた。あそこに今回の事件を解く鍵があるとな」
「明彦君がほんまにそんなことを言うたんか」
 「ああ。ほんまや」

 こうして、私たちは再びラプラス研究所に向かうことになる。しかし、今度は穏やかな方法でではない。大臣からは、自分たちの分をよく弁えて行動するようにと諌められていたが、鎮男はそんなことなどお構いなしだった。そんな、悠長なやり方では、人類は今すぐににでも滅びてしまうかも知れないというのが彼の主張だったのだ。

 鎮男は、私を連れて一度彼の家に引き上げた。そこで、新たに作戦でも練り直すのかと思ったが、そうではなかった。
私たちは、お互い普段着に着替え、居間のちゃぶ台を前に座っていた。ちゃぶ台の上には、すでに例の一升瓶があった。鎮男と私は、ローストビーフをつまみにグラスを傾けていた。突然、彼が箪笥の引き出しからタオルに包んだ何かを取り出した。
 「こうちゃん、これの使い方分かるか?」
 受け取ると、ずしりと重かった。それは、拳銃だった。銀色に光る38口径らしきオートマチック。しかし、それは正規の拳銃ではなかった。と言って、安物のモデルガンを改造したものでもない。それは、鎮男のハンドメイドだったのである。
 「こんなもん、いったいどうやって作ったんや」そう言ってしまってから、はっと気がついた。私の目は、自然に土間に置かれたNC旋盤の方に向いた。
 「あれは、このためのもんやったんか」
 「いや、そういうわけやない。あれは、わいの発明のために必要欠くべからざるものや。そやけど、たしかにその拳銃は、あれを使うて作った。その銃口をよう覗いてみ。ちゃんとライフルも切ってあるやろ。あの旋盤にはそういうこともできる機能がついとるんや。それに弾もようけ作って、試し撃ちいうか、発射実験もやっとる。絶対に暴発したりすることはない。その点は安心してもろうてもええ。それに第一、その拳銃にはまだ弾は入っとらん」
 「安心してもろうてもええて、いったい何を言うとるんや。僕に人殺しの真似をさせるつもりか?」
 「いいや。真似やない。実際にそれを使って、これから大勢の人間を、いや人間の姿をした化け物どもを殺しに行かなあかんのや」
 「人間の姿をした化け物?」
 「そうや。あのラプラス研究所は、文字通りの化け物の巣になってしもうとる」
 「なんで、そんなことが分かるんや。明彦君がそう言うたんか」
 私は、ローストビーフを口の中に放り込みながら言った。
 「いや、明彦君は、ひょっとしたらそのことには気がついてはおらんかも知れん」
 鎮男は、そう言ってワインを喉に流し込んだ。
 「そしたら、なんで鎮男ちゃんは、それが分かったんや」
 「それは、一口には説明できん。ただ、わいには不思議な霊感があって、人間と化け物が臭いで分かるんや」
 「それで、あの武藤良也には化け物の臭いがしとったと、こういうわけやな」
 「そのとおりや。一目見たときからそれには気がついとった」
 「しかし、仮にそうやったとしても、あのおっさんを殺したら殺人になるで。いいや、あいつは人間ではないんです、ほんとは化け物なんです言うても、そんなことは誰にも通用せえへんで」
 私は、いささか酔いが回ってきていたが、それでもそれだけのことが言える理性は残っていた。
 「そんなことはよう分かっとる。そやけど、奴が企んどることは、明彦君の考えとることよりもはるかに恐ろしいことや」
 「なんや、それは。いったいどこから、そんな情報を引っ張り出してきたん?」
 私は、鎮男が酔っ払ったのかと思い、少しずつ自分の酔いが醒めていくのを感じた。
 「いいや。これは嘘でもなんでもない。わいは、あのときにはっきりとそれを感じたんや」
 「あのときって、MRIに入ったときか。――とにかく、あそこで何を感じたんか知らんけど、ぼくは人殺しの手伝いなんかさせられるんはまっぴらごめんやで」
 「あいつが考えていることが、全人類を奴隷にしてしまうことでもか」
 鎮男の顔つきが厳しくなった。
 「なんやって?」
 私は、激しい眩暈を感じた。明彦の件が未解決だというのに、鎮男は、ラプラスなどという新たな魔物を発見してしまったのか、あるいは作り出そうとしているのだ。
 「あいつは、ラプラス研究所を利用して、人類の奴隷化を計画しとる。それをわいは、MRIに入ったときに知った。あの中で、明彦君と話をしとって、ラプラスの中で何かたちの悪い計画が実行に移されようとしていることに気がついたんや。その首謀者が武藤良也や」
 「それで、明彦の計画の方は?」
 「明彦君の計画は、言ってみれば、純粋な動機に基づくもので、人類を滅亡させるとは言うても、そこにはある種の少年らしい感情がある。ところが、義理の親父である武藤良也の企みには、腐った贓物の悪臭が漂うとる」
 「ほう。鎮男ちゃんには、そういう正義感があったんやなぁ。ぼくは、もうちょっとクールな男や思うとったんやけどな」
 この言葉に、鎮男は過敏に反応した。私の方に目を剥いて言った。
 「こうちゃん。正義と言うのは何や。善と悪の境目はいったいどこにあるんや。そんなもん、相対的なもので、わいは言うんも恥ずかしいけど、波動性と量子性の問題のように、同じひとつの行いが見方によっては善にもなり悪にもなるアンビヴァレンツなものやと思うとる。逆に言うたら、すべてのものには必ず善悪両方の要素があるわけや。こっちから行くと右カーブでも反対からやと左カーブになるやろ。それと同じことや。――ライオンがインパラを襲って食う。それは、ライオンにとっては、小さな自分の仔を養わなあかんわけやし、自分自身も生きていかなあかんわけやから、それは当然善いことやわな。そやけど、インパラにとっては、大変な悪行なわけや」
 「だんだん、話が難しゅうなってきたな」私は、少し食傷気味だった。
「そやけど、今回の事件の核心はまさにここにあるんやで」
 「核心がそこにあるって。そんな思想的な事件なんか、今回のこれは……」
 「何事にもその核心には何かしらの思想があるんや」
 「そら、そうやけど」
 「そして、その核心は、追及していけばいくほど、だんだんと迷宮の奥深くに迷い込んでいくことになる。この事件の核心にも人間性の深い闇が潜んどる。明彦が人類滅亡を企んどる。しかし、人類を滅ぼすことが悪か善かは、誰にも分からん」
 「そんなことはないやろ」私は反論した。「今さっき、鎮男ちゃんも言うたやんか。ライオンにとっては善でもインパラには悪やと」
 「それは、たしかに人類にとっては、滅亡はもっとも避けたいことやから、悪という見方もでける。そやけど、明彦君が考えとるんは、人類滅亡後の新しい何物かの創生や。彼は、人類などという下らない生き物はもう終わりにして、新しいものの時代にしようと考えとるんや。それが果たして悪やろうか」
 私は、鎮男の言おうとしていることが分からなくもなかった。明彦は、人間という存在の下らなさに絶望した。そしてこんな生き物は全滅させた方が良いと考えるようになった。たしかにそれは、少年らしい純粋さから発する考え方ととれなくもなかった。しかし、おそらくそれは、ほんの一時の激情、言ってみれば麻疹にすぎないのではなかろうか。
「――それで、もう一方のあのおっさんはどうなんや。あのおっさんの方は、明らかに悪なんか?」
 「武藤良也の企みは、明彦君とはまったく違った動機から発生したものや。あいつは、自分の欲望のために、人類を自由自在に操り世界を我が物にしようと考えとるんや。そのためやったら、悪魔とでも手を結ぶやろう。そして、その悪魔いうんが実際にあいつの周りにようけ集まって来とるんや」
 「あのおっさん、ほんとにそんなことを考えとるんか。たしかに、あんな傲岸不遜な男は今まで見たこともないけど、そうやからと言って、化け物扱いして殺してしまうんは、ちょっとやり過ぎやないか」
 「こうちゃんは、まだよう分かっとらんようやな。わいらがMRIに入ったやろ。そのときから、世界はがらりと様相を変えてしもうたんや」
 「鎮男ちゃん。ちょっとワインの飲みすぎちゃうか。だんだんと、話が現実離れしてきとるような気がしてきたで」私は、本気で鎮男が酔っ払ってきているのだと思い始めていた。
 「わいは、いくら飲んでも酔ういうことはない。それに現実離れしてきとるいうたけど、実際にわいらは今、その現実から離れたところにおるんや。気がつかなんだか?」鎮男は、大きな足を前に投げ出し、後ろに片手をついた楽な姿勢をとりながら言った。
「いいや。さっぱり分からん。いったい、どんな風に現実が変わったんや」
「逆にこっちから聞こう。そしたら、明彦と会うたんは、あれは、どっちの世界でのことやったんや」
「どっちの世界って……。あれは、向こうの非現実の世界でのことやろ」
「ほんとにそうやろうか」鎮男の目は微かに笑っているように思えた。
「どういう意味や、それは」
鎮男は、おもむろに立ち上がった。そして、ウォールームの方へと歩き始めた。
「こうちゃん。おもしろいものを見せちゃるわ。ついてきてみ」

私は、拳銃を右手にぶら下げたまま鎮男の後に続いた。足を踏み外さぬよう気をつけながら、ゆっくりとウォールームへの階段を降りる。私は間違いなく酔っていた。
 鎮男がリーダーに人差し指を押し付けた。カシャッという音がして同時に扉が滑らかに右にスライドした。
 「やあ」という声がした。その声の主の姿が目に入ったとき、私の心臓は一つ空転した。そこには、椅子に座って片手を挙げている明彦の姿があった。
 「こ、こ、これは、いったいどういうことや」私は、唇がわななくのを感じた。恐怖が全身に鳥肌を立てさせていた。
 「驚かすつもりはなかったんやけど、わいらは、つまりわいと明彦君は、あのとき、MRIで知り合うたときに、すっかり意気投合してしもうたんや。わいと明彦君とは、歳も離れとるし生まれ育った境遇も正反対というてもええくらいに違うとる。そやけど、その思想いうんか、考え方には非常に多くの共通点があることが分かったんや」
 「そら、二人とも大変な天才やもんな」私は、ただ正直な感想を述べた。
 「大友さん」
明彦が、あのときの白い服装のままの明彦が、いつの間にか私の方にまっすぐ椅子を向け直していた。
「あなたは、今さっぱりわけが分からない状態になっておられる。無理もないことと思います。そこで、いったい何故このような、あなたにしてみれば狐につままれたようなことが起こりえたのか、それについて説明をしてみたいと思います」
そのときの私は、まさに明彦の言ったとおり、異界にでも迷い込んだような、自分の身体が自分のものではなくなったような夢現の状態だった。
「まぁ、こうちゃん。わいらも椅子に腰掛けよ」鎮男は、自分の椅子に腰を降ろすと、革張りの椅子の背に手を掛けて自分の左隣まで転がした。
「ぼくは、なんか眩暈がしてきた」私は、拳銃の銃身を持って鎮男に渡すと、椅子に腰掛けながら額に手をやった。額は、汗をかいているのに驚くほど冷たかった。