老狼陋巷に死すべし 第一部 鎮男

2007.8.13

 

鎮 男

 

オマージュ

 

J公園は、アートルム社の企業城下町と呼ばれる新信州市の高台にあり、そこからは、四季折々に装いを変える山々や、市街を縫うように流れるS川を一望することができる。

公園はとても広く、天文台付きの少年科学館や、真っ白な水をときおり間欠泉のように勢いよく噴き上げる噴水や大きな花時計のある広場、それにアルパカやバーバリーシープなどのいる動物園、お猿の電車が走る遊園地まであって、休日には家族連れや若いカップルたちで賑わう。

 

その公園の公衆トイレの傍に、ひっそりとその銅像は立っている。円縁の帽子をかぶり、大きな体にトレンチコートを巻きつけるように着た、まるでホームレスのようないでたちの、高さ2メートルほどもある歳のいった男の像である。男はしかし、高い台の上に自然体で立ち、誇らしげに市街を見下ろしているかのようにも見える。

たまたまこの公園に遊びに来て、小用を足そうとふとこの像に目をとめた者は、自分の切迫した事情も忘れて、なぜこんなところに、このような芸術作品とも思えないホームレスの像があるのだろうと首を傾げるに違いない。

 

実を言うと、この銅像は他ならぬ私自身が新信州市に寄贈したものなのである。しかし、その謂れについては市長を含め誰一人として知る者はいない。たまたま私は、この国のいわゆる有力者の知己を得たおかげで、はっきりとした建立の理由も示さず、半ば強引に建てさせることができたのである。

 しかし、もしも私がこの銅像を見上げて不審な顔をしている人に、実はこの像は、誰に知られることもなく人類を滅亡の危機から救おうとした、ある名もない人物を決して忘れないために建てたのだと説明しても、さらに冷ややかな一瞥が返ってくるだけのことであろう。

 

 私が銅像のモデルである鎮男に再会したのは、おととしの暮れのことだった。そのときのことを、私は今でも鮮明に思い出すことができる。鎮男とは40年ぶりの再会だったし、それが余りに衝撃的な邂逅だったから、忘れようにも忘れられるはずがないのだ。

なにしろ、その再会のときに私の頭の中で雷鳴のように轟いた彼の言葉は、決して大げさではなく、一瞬にして40年という分厚い時の壁を突き破り、私の骨の髄にまで宿命というものの恐ろしさを染みとおらせるほどのものだったのである。そして、この鎮男という私より二つ年上の、子供のときから寡黙で、まるで影のような存在だった男の尋常ならざる能力を改めて私に思い起こさせるものだった。

 

 40年前の3月。鎮男が中学を卒業したその日は、霙交じりの雨が降っていた。卒業式の後、私と鎮男は、校舎と体育館をつなぐ渡り廊下に佇み、じっとその冷たい雨を見ていた。

 私は、蛍の光に送られ体育館を出てきた鎮男の目に涙があったのを知っていた。それは、私が初めて見る鎮男の涙だった。それを見たとき、なぜか私は、罪悪感のようなものを覚えた。それはおそらく、自分がながく崇めていた英雄が無様に打ちのめされたのを見たときに感じるであろう感情に違いなかった。このときすでに鎮男は、私の心の中で英雄になっていたのである。

 鎮男は、高校には進学せず、というより家庭の事情で進学できず、東京の小さな町工場への就職が決まっていた。

 

「こうちゃん。わいは、これから未来のこうちゃんに向けてメッセージを送るで。そのメッセージを、こうちゃんは40年後に受け取るんや。ええか。わいらは、そのときにまた会うんや。そのときには、二人ともええおっさんや。ええおっさんになって、二人力を合わせて敵と戦わなあかんのや」

あのとき、鎮男は、確かに私に向かってそう言ったのだった。

私は、彼が何を言っているのかさっぱり理解できなかった。しかし私は、彼に何も問い返さなかった。なにしろ、彼は私の唯一の友達で、私もまた彼のおそらくは唯一の友達であったけれども、彼を理解することなど絶対に不可能と私には分かっていたのである。

 

 鎮男は、私の家と田んぼを挟んだ向かいの、方向でいうと西の、粗末なトタン屋根の家に歳のいった喘息持ちの父親と「あほのまあちゃん」と言えば近所はおろか小さな町ながら誰も知らぬ者はない守という名の知恵遅れの兄と3人で暮らしていた。鎮男の母は、彼がまだ3歳の乳が恋しい時期に肺を患って他界していた。

父親は喘息以外にも何か大きな持病を抱えていたため、生活保護と様々な内職によって、3人がどうにか息を潜めるようにひっそりと生活していたのである。

 

 私の家もまた母子家庭で裕福ではなかったが、母がその父、つまり私の祖父と小さな魚屋を営んでいたから、何とか人並みに近い暮らしはできた。

 小学生のころ、家にテレビのない鎮男は、テレビを買ったばかりの我が家によく遊びに来た。そのときには必ずプラモデルを手土産にやってきた。決して手ぶらでくることはなかった。

あのころのことを思うと、私はいつも胸に小さな自責の痛みが走るのを覚える。

あのころ、私と彼は、無言のうちに取引をしていたのである。つまり、鎮男は、私の家にテレビを見たくて来ていたのであり、決して年下の私を慕って来ていたわけではなかった。私の方はと言えば、彼が持ってくる完成したばかりのプラモデルが欲しかった。そして、それは、彼にテレビを見せてやることでほとんど自然に手に入れることができたのだ。

これが、はたして真の友達といえるような関係であろうか。

 

テレビを買ってやりたくとも、生活保護を受けているために買ってやることのできない鶴一という名の、その名のとおり鶴のように痩せた小柄で歳のいった父親は、どれだけ鎮男のことが可愛かったのであろう、彼は、鎮男の欲しがるままに飛燕や紫電改といった戦時中の戦闘機や連合艦隊旗艦長門や大和といったプラモデルを買い与えた。しかしそれは、本当は鎮男が欲しかった物ではなく、私が欲しかったものだったのである。

私の母は、私がいくらねだっても、「そんなもん作っとる暇があったらもっとしっかり勉強せんかえ」と一言の元に跳ねつけ、決してプラモデルなど買ってはくれなかったのだ。

鎮男は、その器用な手でどんなに大きく複雑なプラモデルでもあっという間に設計図も見ずに完成させた。そして、作り上げると、惜しげもなく私にくれた。鎮男にとっては、プラモデルは作ること自体に意味があるのであって、一度作ってしまえば、読み終えたマンガ本と同様に邪魔なだけだったのだ。

 

 ある夏の夕方、開け放した玄関先で、「こうちゃん」と静かに私を呼ぶ声が聞こえた。私は、テレビのアニメから目を離して鎮男を見た。

「飛燕もってきたで」

彼は両手に大きな流線型の戦闘機を抱えていた。西日が射して、入り口に立つ彼の姿は、そのあだ名のとおり、大仏様のようなシルエットになっている。

「わあっ、ごっつうおおっきいなぁ」私は喜びの声をあげた。

それを歓迎のしるしと受け止めると、鎮男はいつものように我が家に上がり、私が見ていたテレビの前に黙って正座した。

そのころ私の家にあったテレビは、白黒のチャンネルをガチャガチャと手で回して切り替えるものだった。細長い足が4本ついていて、長い間畳の上に置いておくと、その足跡がくっきりと畳に残った。そのため、我が家では祖父が蒲鉾の板を4枚足の下に敷いていた。

四隅のまるまった14インチほどの小さなブラウン管の前には、映像を大きく見せるためとかの理由で、青っぽい、中に水の入った凸型のレンズが付いていた。それに、そのころのテレビは大変高価だったから、埃よけのカバーが掛けられ、我が家の中でも高い地位を占めていた。

鎮男は、いつも行儀が良かった。座布団の上にちゃんと正座して、いつの間にかちゃっかりとチャンネルを変え、食い入るようにニュースを見ていた。その姿を、私は今でも鮮明に思い出すことが出来る。

先にも触れたように、鎮男は、近所の子供たちから大仏っぁんというあだ名で呼ばれていた。頭が異常なほどに大きく、体格もふくよかでどっしりしていて、たしかに奈良の大仏を連想させた。

 

私は、その大仏さんの傍らで、貰ったばかりの飛燕に夢中になっていた。

「鎮男ちゃん」と、私はテレビに見いっている彼に声をかけた。「飛燕はなぁ、水冷式なんやで。知っとちゃったか」

「うん」

鎮男は、ちょっとめんどくさそうにテレビを見たまま私に答えた。「ほんまは、液冷式いうんや」

「ほんとけ。なんで? 水冷式と何が違うん」

「普通の水やったら、上空で凍ってしまうやろ。飛燕には車のラジエーターに入っとるのと同じような不凍液が入れてあるんや。恐らく、ガスケットや鋳型の精度がようなかったんやろうな。それで冷却水がよう漏れて困ったそうや」

 

私は、鎮男が大変な天才であったことを知っている。世の中にはいろいろ天才と称される人たちがいるが、彼は、知能の面において紛れもなく天才であったし、おそらく身体的にも途方もない力を秘めていた。彼は、小学生のころから、その丸まっちい身体からは想像もできないほど早く走った。

そのころ、私たち近所の子供は、小学校の低学年から中学生までもが一緒になって野球をはじめいろんなことをしてよく遊んだ。

あるとき、ひろちゃんという私の同級生がストップウォッチを自慢そうに持ってきたことがあった。それで、近くの野球ができるほどの空地にみんなが集まって、50mのタイムを競うことになった。それに鎮男も参加した。大抵の者のタイムは8秒台か早くても7秒台後半だった。しかし、鎮男は6秒フラットのタイムをたたき出した。みんな、初めて見る鎮男のその疾走ぶりに息を呑んだ。タイムそのものも驚異的だったが、そのようなダイナミックな走り方はいままで見たことのないものだったのだ。

しかし鎮男は、決して学校ではそのような能力を見せることはなかった。運動会でもたいてい普通のでぶのような走り方をして、6人中の3位か4位の平凡な成績で終わった。

 

鎮男は、超能力といわれるような力をたしかに持っていた。私はうすうすそのことに気がついていた。しかし、そのことを誰かに話すことはなかった。たとえば、鎮男にはテレパシーの能力があるとか未来を予知できるといったことを話して笑われるのが嫌だったのだ。おそらく、当時そのことに気づいていた者は、鎮男の父親も含めて一人もいなかった。鎮男本人は、間違いなくその能力に気がついていたが、それを口にしたり世間に晒したりすることは決してなかった。

そのころの私は、鎮男の超能力について良く考えることがあった。そして、鎮男がその特殊な能力を決して衆目に晒さない理由について、子供ながらに次のように考えていた。

それは、仮に人類というものがすべて盲目であったとしよう。しかし、ほんの僅かな者だけが神から特別に光というプレゼントをもらったとする。人類の大部分は、そのような光の感覚をまったく理解できないわけだから、それを理解させるには、相当な困難を伴うに違いない。いや、それどころか、批難や弾圧を受ける恐れの方がはるかに大きいだろう。鎮男には、そのことがよく分かっていた。

だから、鎮男は孤独な、いや孤高の天才だったのだ。

 

 

今でも私の心に鮮烈に焼きついていることがある。それは、私が小学5年のある夏の日のことだった。

猛烈な雷雨がトタン屋根を機銃掃射のように打ちつけはじめた。古びたトタンの隙間や茶色く錆びて開いた小さな穴からそのしぶきが霧になって家の中に舞い込み、鎮男の家に遊びに来ていた私は、家まで走りぬければたかだか1,2分の距離だったが、傘など何の役にもたたないほどの豪雨に、思い切って帰ろうかそれとももう少し様子を見ようかとぐずぐず迷っていた。

雨戸を閉め切った鎮男の家は、独特な生活臭を漂わせていた。体臭と便所と黴の臭いが入り混じって、初めて訪れた胃の具合の悪い者なら吐き気を催したかもしれない。けれども、私はその臭いが特別に嫌だったわけではない。今でも私は思い出そうと思えば、その臭いを懐かしさと共に鼻腔の内に感じとることができる。当時の家庭は、今とは違ってどこでも特有の臭いというものを持っていたのだ。

ただ私は、鎮男のようにいつまでも静かに漫画を読んでいるような真似はできなかった。

 私は、鶴いっつぁんの方を伺った。鶴いっつぁんは、内職に余念がなかった。新聞紙を何枚も重ねて敷いたちゃぶ台の上に広げた小さなトランスの部品――E字型をした薄い鉄片を筒状をした二つのコイルの中に左右から交互に入れ、コア(鉄心)を作る作業をしていたのだ。

鶴いっつぁんは、綿のはみ出た薄っぺらな座布団の上に胡坐をかいていた。そのすぐ傍には、完成したトランスが箱詰めになって積み上げられている。

そのとき、私が所在無げなのを気遣ったのか、ふと、その鶴いっつぁんが内職の手を休めた。そして、胡坐をかいたままその手を小さな箪笥の引き出しに伸ばした。中から三つ折りになった白い文庫本ほどのサイズの紙が出てきた。それは鎮男の通信簿だった。

「こうちゃんなぁ、嘘やと思うかも知れんけど、鎮男はなぁ、小学校の1、2年のときは、本当にびっくりするくらい成績が良かったんや」

鶴いっつぁんは、ちょっと確かめるように通信簿を広げて見ると、ちゃぶ台の上越しに私に渡した。

 

それを見たとき、私は目の前に雷が落ちたような気がした。

「なぁ。びっくりしたやろう」

鶴いっつぁんは、内職の手を休めぬまま私の方を見ると、すっかり歯の抜けてしまった口を開け弱々しく笑った。そして、笑いながら痰のからんだ弱々しい咳をした。

私は、鶴いっつぁんの手を見た。小さな身体にそぐわぬ大きな節くれ立った両の手が、まるで手品師がトランプのカードでも切るように素早くE字型をした鉄片を二つのコイルの中に互い違いに差し込んでいる。

外では雷鳴がいつ止むとも知れず山峡の小さな村に轟きわたっていた。私は、しばらく言葉を失っていた。私は、鶴いっつぁんの機械のように正確な手の動きを見るともなしに見ながら、頭の中に自分の通信簿を思い浮かべていた。

私は、決して成績の悪いほうではなかったが、主要な科目の1つか2つに5がある程度で、これから先いくらがんばっても、すべての科目に5が付くことなど決して有り得ないことは分かっていた。それを、今まで軽くどころか自分より下にさえ見ていた鎮男が、そのまさかのオール5を取っていたのだ。

それは、私にとって二重のショックだった。一つは、身近な鎮男がこんなに頭のいい奴とは知らなかったことに対する単純な驚きによるものだったが、もう一つの方は、ちょっと捻くれていた。つまり、これまで鎮男は、年下でもあり、お頭の程度の方も自分と比べてはるかに下であることを知りながら、私のレベルに合わせて付き合ってくれていたことになる。私はそのことにようやく今気づかされたのだという、怒りと嫉妬の入り混じったショックだった。そしてまた、そのような鎮男の態度は、私のまぁちゃんに接する態度とまったく同じだった。

 

私は、鶴いっつぁんの顔を見た。私に通信簿を見せたのは何か思惑あってのことではないかと疑ったのだ。しかし、鶴いっつぁんの頭のスイッチは、すでに内職に切り替わっていた。直接聞き質しでもしない限り、私の疑いに決着をつけることはできそうになかった。

私は、鎮男に視線を移した。鎮男は、すぐ傍で自分の成績が取沙汰されていることなどまったく意に介する様子もなく漫画を読み耽っていた。私は、そのしれっとした態度に幼い嫉妬と怒りを募らせた。

 

「なんで、勉強せんようになってしもうたんかなぁ」

だいぶ間を置いてから、急に思い出したように鶴いっつぁんが愚痴をこぼした。

「なんで?」と、私は鶴いっつぁんに訊いた。「そねーに成績が下がってしもうたん?」

「そうなんや。ほんまに酷いもんや。今はもう、2か3ばっかりや」

そう言って、鶴いっつぁんは奥の座敷に目をやった。

「まぁのあほと引き換えに、神さんは弟の鎮男には本当にええ頭を与えてくださったんやと喜んどったんやけどなぁ」

まぁちゃんは、小さな仏壇のある奥の部屋でせんべい布団に大の字になって寝ていた。乗馬ズボンに薄汚れたランニングシャツという格好で雷に負けぬほど大きな鼾をかいている。

まぁちゃんは、大柄な鎮男とは違い父親に似たのか小柄で痩せていた。父親にバリカンで刈ってもらったらしい丸刈りの小さな頭には、喧嘩をした猫のように小さな傷があちこちにあり、十文字や一文字の禿になっていた。

 

まぁちゃんのあほの程度は相当なものだった。おそらく、まあちゃんには4,5歳児程度の知能しかなく、お金の価値などまるっきり分からなかった。まぁちゃんにとっては、100円札や500円札はただの紙に過ぎず、10円玉や金色に光る5円玉の方により価値があった。

 

それは、日のかんかん照る夏の最中のことだった。私は、学校の帰り道でまぁちゃんに会った。まぁちゃんは、黄色いヘルメットを被って道路工事の旗振りをやっていた。一方通行になった国道の向こうとこっちとで赤と白の旗を上げたり下げたりして、交通整理をする単純な作業だった。思うに、まぁちゃんは、現場監督から向こうにいる相方が白旗を上げれば赤旗を上げ、相方が赤旗を上げれば白旗を上げるようにと言い聞かされていたのに違いない。そうして、五百円とか六百円といったわずかばかりの日当を貰っていたのだ。

 

「おえっ!」

そのまぁちゃんがランドセルを背負った私をめざとく見つけて太く大きなだみ声で呼びかけた。まぁちゃんは、ちょくちょく自分の家に遊びに来ている私の顔をもちろん良く知っていたが、いつまでたっても名前が覚えられなかった。

私は、いったい何を言いだすのかと身構えながら彼に近づいた。

「じこ、あったんやど。ぶつかって、ちぃがようけでとったんやど」

まぁちゃんは、まだ10mも離れている私に大声で告げた。何か大変な発見でもしたかのように喜色満面だった。

私は、その事故がまぁちゃんの旗振りのせいで起きたものではないことを祈った。

 

しかし、そうしてまぁちゃんが稼いだ金は、途中でどういう魔法に会ったのか家に帰ったころにはわずかばかりの10円玉と5円玉に化けていた。

「なぁ、こうちゃん。ほんまにあほやろ。ポケットの中を小銭でじゃりじゃりいわせて喜んどるんやさけぇのぅ」

鶴いっつぁんが私に嘆いてみせたが、今になって思いだしてみると、その声には不憫な息子を思う父親の哀切の情が滲んでいた。

 

私は、まぁちゃんが目を覚ますことを恐れていた。彼が突如として起きだして、辺り構わぬ大きなだみ声で、何の脈絡もない小さな子供のような戯けたことを話しかけてくるのが嫌だったのだ。

しかし、まあちゃんはよく寝ていて、当分起きる恐れはなさそうだった。家の近くに時空を切り裂くような音をさせて雷が落ち、襖や障子をびりびり震わせると、電気が流れたかのように首から上だけが大げさな痙攣を起こしたが、すぐにまた鼾をかきはじめた。

 

私は再び鎮男を見た。おそらく、その時の私の視線には、通信簿を見せられる前とは違った、鎮男に対する尊敬と嫉妬と疑念とが綯い交ぜになっていたことだろう。しかし、鎮男には、仮にそのような私の感情に気がついていたとしても、そんなものはどこ吹く風であった。彼は、静かに魅入られたように漫画を読み続けていた。

 

私は、だんだんといらいらを募らせていた。

そのとき、胡坐をかいて漫画に集中していた鎮男がふと目を上げ、雨戸の方を見てぼそぼそと何か呟いた。

「えっ。今なに言うたん」鎮男の一挙手一投足に神経を尖らせていた私は、その微かな呟きも聞き洩らさなかった。

「薔薇を糞と呼び、糞を薔薇と呼ぶことにしても、薔薇は薔薇の香りがするし、糞はやっぱり糞の臭いがするやろ……」

鶴いっつぁんが手を止め、顔を上げて私を見た。

「なっ、こうちゃん。鎮男はいっつもこんな調子なんや。こんなわけの分からんことばっかり言うて、わしらを煙に巻いてしまうんや」

「いま鎮男ちゃんの言うたことと、成績が下ったことと何の関係があるんか、わいには、さっぱり分からんわ」

鎮男は、それにはまったく答えようともせず、再び漫画本に神経を集中させていた。

 

しかし、上の謎のような言葉は、実は鎮男がはるか未来に起きる、いや、今となっては、起きてしまったというべきある現象について、予言したものであったと私は断言することができる。

 

邂 逅

 

最初に述べたように、私が鎮男と再会したのは、新信州市にあるJ公園だった。そのときの鎮男は、銅像と同じ姿をしていた。すなわち、カーキー色をした円縁の帽子を被り、ずいぶんと年季の入った帽子と同色のトレンチコートを着ていた。秋は深まっていたが、まだコートの時期ではなかったから、そんな格好は嫌でも人目を引いた。彼は、目立つことが好きではなかったはずだから、最初にそんな格好の鎮男を見たときには、すっかりホームレスになってしまったのかと思ったほどだ。

しかし、彼はファッションや流行にまったく頓着しなかったから、それがときに目立つことの嫌いな彼をかえって目立たせてしまう結果になることがあったのだ。

 

その日、私は本社のある東京から若かりしころに10年ほど住んだ思い出の深い新信州市に所用があって一人で来ていた。午後遅くになってその用事が済んだ。

私は、ふと思いついて車でJ公園まで上った。そしてトイレの脇の見晴らしの良い場所に立ち、手摺に凭れて懐かしい市街を見下ろしていた。

 

「こうちゃん」

突然に声をかけられた私は、びくっとしてその方を見た。最初は、新信州市に住む昔の知人にでも見つかったのではないかと思って、その異様な格好をした男をまじまじと見たが、誰も思い当たる者はいなかった。

どうやら、その男は、打ちっぱなしのコンクリートとブロックガラスで作られた真新しい四角いトイレの中からふいに現れ、まるで私がここに来ることを予期していたかのように、まったく驚いた様子も見せず子供の頃の呼び名で私を呼んだのだった。そう考えると、私は、なにか背中にぞっとするものを感じた。

「わいや」

私の強張った顔をみると、男はそう答えた。

 

鎮男は、自分のことを「わい」と呼んだ。それでも私は、まだその男が鎮男だとは気がつかなかった。

「鎮男や。40年ぶりやな」

その言葉だった。突然、その40年ぶりという言葉が雷となって私の頭を直撃したのだ。

 

「ほんとに鎮男ちゃんけぇ。ほんまに久しぶりやなぁ」

ようやくショックから立ち直った私は、鎮男の姿をまじまじと見ながらそう言ったが、まだ、どこか頭の焦点が合っていないような思いに囚われていた。

「そやけど、こんなとこで何しとってん?」

「ここのトイレの中に面白いものを見つけたんや」

 

しかし、それこそが、まさに鎮男であることの証明だった。――鎮男は、子供のころとまったく変ってはいなかった。あのころとまったく同じように、まるで奇襲攻撃のような、そんな奇妙なことをさらりと言ってのけたのだ。

私は、安堵とともに軽い眩暈を覚えた。50をとうに過ぎた大の男が公衆トイレの中で面白いものを見つけたとは……。

「落書きや。ちょっと、一緒に入ってみよう」

鎮男は、少しも笑ってはいなかった。

「トイレの落書きって、かみにたよるな、うんは自分の手でつかめとか、そんな類のものと違うんか」

私はあきれ気味に言った。

「違う。もっと面白いもんや」

鎮男は、まじめくさった顔でそれだけ言うと、一人トイレに入っていった。私は、仕方なくその後を追った。

 

今日では多機能トイレと呼ばれるそのスライド式のトイレの扉の裏に落書きはあった。しかし、それは、普通には絶対にそこに落書きがあるとは分からない方法で書かれていた。

鎮男は、自動扉のボタンを押して私を先にブースに入れると、続いて自分も中に入り、コートのポケットから小さなライトを取り出した。それは、紫外線を発するLEDを仕込んだもので、その光を当てると落書きの文字が見事に浮かび上がった。

それは、フェルトペンのような太字の特殊なペンで最上部から床上50センチくらいまで記号と幾何図形でびっしりと書き込まれていたが、扉の下の方までくるとインクがなくなってきたのか文字がかなり掠れていた。

それが決してでたらめではない、何かの難しい数式であることは私にも直感できたが、何を表すものなのかはさっぱり見当もつかなかった。

フェルマーの最終定理を独自のやり方で証明したものや」

鎮男は、どうってこともないという風に私に告げた。もちろん私も、フェルマーの最終定理が世の天才といわれる人たちを総動員してもなかなか解けないほどの難問であることは知識としては知っていた。

「一昨日見つけたんや。それで、誰かに消されんうちにと思うてデジカメに撮っておいた。それで、家に帰ってよう検証してみたら、見事な証明やった」

鎮男は、独り言でもしゃべっているように言った。

 

鎮男は、J公園まで車で来ていた。ただ、その車というのは、着ているコート同様に年季のはいった、紺色をしたホンダのN-360、通称Nコロだった。

 

「ちょっとエンジンを改良しとるさけぇ、よう走るで」

鎮男は、ドアを開けると身体を折りたたむようにして車に乗りこんだ。その紺色をしたおんぼろの軽自動車と擦り切れたトレンチコートを着た大柄の鎮男の姿とが私には何とも云えぬいい絵になっているように思えた。

「鎮男ちゃんの趣味によう似合うとるみたいやな」

私は正直な感想を述べた。

「今の時代にぴったりやで。リッター30キロ走るんや」

鎮男は、サイドウィンドーを手で巻いて下げながら言った。

「ほんとにけぇ?」

私は半信半疑だった。こんな昔の車が、たとえ軽とはいえ30キロも走るとすれば、それは本当にノーベル賞級の驚異に思えたからである。

 

私は、自分のハイブリッドカーに乗り込むと、鎮男の後を追った。鎮男は、私に家まで遊びに来るよう誘ってくれていたのである。実は、たった今公園のトイレで見た数式には、とても重要なメッセージが込められていて、それをおまえにだけ教えてやると言うのだ。

ほかに特別用事もなかった私は、強い好奇心に促されるまま鎮男の家に付いて行くことにした。

 

鎮男は、新信州市内とは言うものの人家を遠く離れた山奥に住んでいた。その家は、子供のころに鶴いっつぁんと住んでいた家を髣髴とさせるトタン屋根の平屋だったが、それよりも何倍も大きかった。

鎮男は、百姓をやっていて米や農機具などを納めるためにガレージ兼用の大きな納屋を建てていた。今、その納屋の大きな戸を跳ね上げ、鎮男はNコロをバックで突っ込んでいた。

 

私は、車から降りると大きく伸びをしながら辺りを見回した。家のすぐ脇を谷川が流れており、そのせせらぐ音が耳に心地よく届いた。

私の目は、いつしか遠くにくすんで見える冬枯れの小高い山の方に向いていた。そして、その麓を切り開いて作ったと思しき畑の中に、夕日を浴びて光る一本の鉄柱を見つけると、そこに凝固してしまった。

「あれは……」

オレンジ色に塗られた鉄柱は、私に馴染みの深いあるもののように思えたのである。しかし、なぜあれがこんなところにあるのだろう。

私は、訝しく思いながらも、どういうわけかそのことを鎮男に問うのを忘れていた。

 

私は、家の周辺に注意を戻した。広い庭には矮鶏や鶏が放し飼いにされており、金網で囲った立派な鶏小屋が大きな栗の木の下に拵えてあった。鶏たちの何羽かは、早々と止まり木に寝支度を始めていた。黄昏時に青い金網を通して鶏たちの赤い鶏冠と白い羽が浮きたって見えた。

まだ腹が満たない多くの鶏たちは、おそらくミミズや小さな百足などの昆虫を啄ばんでいるのであろう、しきりに蹴爪であちこち土を穿り返しては嘴で突付きまわしていた。

どこから現れたのか、柴のような中型の雑種犬がいきなり私の足にまとわりついた。歓迎の徴なのか尻尾を左右に大きく振りながら私の足に体を擦り付け、ウール地のズボンに茶色い毛をいっぱい付着させる。そうして、犬歯の間から舌を長く垂れさせ、暑くもないのにはぁはぁいいながら眠たそうな細い目で私を見上げた。

 

「まぁ」

鎮男が大きな声でその犬に呼びかけた。私はびっくりして鎮男の顔を見た。犬は、すぐに鎮男の方にとんでいくと、今度は彼の足元に体を密着させながらぐるりと一周回った。

「そうや。死んだ兄貴の名前をつけてやったんや」

鎮男は、私の顔をちらっと見てそれだけ言うと、犬と一緒に家の中に入っていった。

 

鎮男の兄、守は28歳で死んだ。死因は敗血症ということだった。しかし私は、この兄が、その判で押したような病名とはまったく別の大変悲惨な目に遭った末に亡くなったことを知っている。そして、それとほとんど時を同じくし悲嘆にくれた鶴いっつぁんが亡くなったことも。

無論、鎮男も、そのことは風の知らせに聞いていたはずだ。というよりも、彼ほどの人知を超えた能力の持ち主であれば、自分の身内のことごとくを知っていたのではなかろうか。

しかし鎮男は、そのたった一人の兄の葬儀にも鶴いっつぁんの葬式にも姿を現さなかった。そのために、私の実家の近所では、いつの間にか鎮男はどこかで野垂れ死んだということになっていた。

ところが、鎮男はこうして立派に生きていた。自分の飼い犬に死んだ兄貴の愛称をつけて、子供の頃に住んでいたと同じトタン屋根の、一見おんぼろの家に住んで生きていたのだ。

 

私は鎮男の後に続いて家の中に入った。最初は、照明が点いておらず、暗くてよく分からなかったが、鎮男がスイッチを入れると、蛍光灯の灯りのもと魔法のように現れたのは、土間の上に所狭しと置かれたさまざまな工作機械や工具類だった。

黄色くペンキで塗られた大きな古い木の工作机が土間の真ん中に置かれ、その後ろには最新式のNC旋盤が据えられていた。スチール製の棚には、鉄やステンレスの丸棒、それに様々な形の鋼材が並べられ、奥の壁にはモンキーレンチやスパナやドライバー、ハンマーなどの形を描いた赤い大きなスチール製の板が掛けられ、その形どおりに工具が収まっていた。

私は、再び鎮男に驚かされた。最初はホームレスかとさえ思った男が、実は家の中にこんな高価な機械を隠すように備えていた。

この男は、いったい何をやろうとしているのだろう。

それは、衝撃というほど急速ではなかったが、じっくりと私の五臓六腑に効いてきた。まるで、口当たりのよいカクテルでも飲まされたときのように。

 

「鎮男ちゃんは、いったいいま何をしとってん」

私は、胃袋がぎゅっと鷲摑みにされるような感覚を覚えながらも、意を決して訊いてみた。彼が何か良からぬことを企んでいて、私を巻き添えにしようとしているのではないかと勘ぐったのである。

「わいは、今までずっと発明で食ってきたんや」鎮男は、短くそれだけ答えた。

「発明?」私は、その言葉に新たな衝撃を受けた。が、一方でなるほどとも思った。子供のころの、鎮男のあの器用さ、頭の良さ、それに孤独癖を考えると、発明家というのは鎮男にぴったりの天職のように思えたのである。

 

「こうちゃんは、飛行船会社の社長やろ。その飛行船にもわいの発明が使われとる」

鎮男は、私を畳の居間に上げると、薄っぺらな座布団を寄こし、小さな昔ながらのちゃぶ台の前に座らせた。そして、すぐ傍の台所から湯呑み茶碗を二つと黒っぽい液体の入った一升瓶を持ってきた。ちゃぶ台に湯飲み茶碗を二つ並べ、一升瓶に半分ほど入ったワインらしき液体を注ぎ始めた。

まぁは、土間の上に寝そべりじっと私たちの様子をうかがっている。

「それはほんまか」

私は、酒を注ぐ鎮男の手元を見るともなしに見ながら訊ねた。心臓が大きく音を立てて飛び跳ねていた。鎮男が私の身辺について良く知っているらしいことに驚かされたのと、わが社の飛行船にまで彼のいわゆる発明が使われているということにさらなるショックを受けたのだ。

「あの飛行船の推進装置は、こうちゃんの会社の実用新案になっとるけど、ほんまはわいが考えて、いわば大友飛行船株式会社に無料提供したものなんや」

「なんやって」

怒りのために声が大きくなった。しかし、その一方で我が社のプラズマ推進装置にまつわる謎がついに解けたという気がしていた。

「それがほんまやとして、なんでそんなことしてくれたん」

「40年前に言うたやろ。わいらは協力してこれから強大な敵と戦わなあかんのや」

鎮男は、湯飲み茶碗を私に手渡すと、自分の湯飲みに口を付けた。

確かに私は、40年前の鎮男の言葉を鮮明に憶えていた。それは、消し去ってしまうには余りに深く私の心に刻まれていて、本気で忘れてしまうには鎮男の記憶ごとすべて消し去ってしまうしかなかった。

「あのときの鎮男ちゃんの言葉は、忘れてへんで」

私は、湯飲みの中身を舐めるように少しだけ舌の上に乗せた。そして、しゃべるための舌を失った。いや、何を言おうとしていたのかさえ忘れてしまった。

私は、かなりのワイン通であると自負しているが、かつて味わったことのないほどの馥郁たる香りが鼻腔いっぱいに拡がった。私は、鎮男の顔をまじまじと見た。鎮男は、黙ってそのワインを飲んでいた。それは、あの夏の日、自分の通信簿が話題になっているのもどこ吹く風と静かに漫画を読んでいた姿とまったく同じだった。

私の胃袋が、いや喉が早く飲ませろと不平を上げた。それに負けて一口飲み下すと、金色の光芒のような至福が訪れた。

長い空白の後、私は夢の続きのように言葉をつないだ。

「忘れてへんどころか、機会あるごとに思い出しては、あれはいったい何のことやったんやろと考えとったんや。それで、今こそええチャンスや。なあ、教えてぇな。敵とはいったい何のことや。ぼくには、何のことやらさっぱり見当もつかん」

「それは、今日公園で見たあの落書きと関係があるんや」

「あのトイレの落書きが……」

「そうや。あの落書きの犯人が世の中をひっくり返してしまうほどの計画を考え、実行段階に移したんや」

「それで……」私は、ワインの酔いも手伝って、鎮男の話にぐいぐいと引きずり込まれていくのを感じた。

「あの落書きの犯人は17歳の大学生やった。そやけど、彼はもうこの世の人間やない」

「死んでしもうたんけ」

「そうや。自殺やったらしい」

「そやけど、死んでしもうたんやったら、なんで世の中をひっくり返すことができるんや?」私は、鎮男の顔を注視した。

「彼は、死ぬ前に大変な仕掛けを残していったんや。彼は、この世に対する、いやこの世を作った神に対する強烈な憎しみを数式にして世界中にばら撒いた」

「神に対する憎しみ?」

「そうや。そやけど、それはわいにもよう分かるんや。こうちゃんもよう知っとるやろ。わいの父親も兄も悲惨な生活の末に死んだ。それにわいのおかんも病気とは言うものの可哀想な死に方をした」

「ああ。よう知っとるで。まあちゃんは、ほんとにかわいそうやった。あの話を聞くと、ぼくは腹の底から怒りがこみ上げてくる」

私は、まぁちゃんがどのような死に方をしたか、新聞や近所の人の話を聞いて強い義憤を感じていた。しかし、さすがに鎮男を目の前にすると、その腹の奥から噴き上げそうになる憤怒も固く蓋を閉ざしてしまって、彼の兄を襲った惨劇についてしゃべる気にはなれなかった。

 

「こうちゃん。実はなぁ」

鎮男は、黙り込んだ私を見て話題を変えたように思われた。

「わいは、母親のことをよう憶えとるんや」

 

鎮男が突然、自分の母親について話し始めたのだ。

私は、小さな子供だったころに祖父からその母親について聞いたことがある。私の記憶が正しければ、鎮男の母はどこか東北地方の神主の娘だったはずである。しかし、それがどのような成り行きで近畿地方の片田舎までやってきて、鶴いっつぁんのような喘息もちのひ弱な男と一緒になり、二人の男の子をもうけるまでになったかまでは、まったく分からなかった。

祖父の話によると、鎮男の母ミクは、長身で色の白い大変な美人だったらしい。そして、何よりも私の印象に残っているのは、彼女が近所でも評判になるほど霊感の強い女であったということだった。しかし、ミクは決してそれを商売にするようなことはなく、まためったに人を占ったりすることもなかったという。

 

あるとき、それは、まだ私が生まれる前のことだったが、祖父が大切にしていた金時計を失くして、ミクに透視をしてもらったことがあったらしい。

「それは、もう外に出ていますなぁ。そやけど、一月ほど経ったらふとした偶然から見つかることになりますやろ」

それがミクの答えだった。

果たして、一月後、母が隣町の質屋でその時計を見つけた。愛用の時計を失くしてしょぼくれている祖父を可哀想に思った母は、代わりの時計を買ってやろうと、隣町の市場に魚の買い付けに行ったついでに、これまで一度も足を踏み入れたことのない質屋などに入ったのだ。

そして、様々な時計やカメラなどが整然と並べてあるショーウィンドーを覗いた母は、奇跡でも見たかのような衝撃を受けた。見慣れた金時計がそこにあったのである。

母は、質屋の主人にわけを話し、その時計を手にとって見た。見紛うはずもない祖父愛用の時計だった。母の様子を見て、質屋の主人から先に時計を持ち込んだ人物の風体について話してくれた。それを聞いた母は、すぐにピンときた。それは、手癖が悪いことで有名なわが家の近くに住むサダという親戚の女だった。

事情を知った質の主人は、その時計を買値で売ってくれたが、母にとって大きな出費になったことは間違いなかった。

それはそうと、後日、我が家の法事で親戚の者が集まった。祖父にとっては、サダに一泡吹かせる絶好のチャンスが訪れた。法事が終わり食事になったとき、祖父は何食わぬ顔でサダの左に席を占めた。そして、ワイシャツの袖をわざとらしく右手でずらすと、その下に注意深く隠していた件の時計を細めた目から遠く離して、サダの視界に入るようにして時刻を見る振りをした。それでも飽き足らず、「サダちゃん、今、何時や」とサダの鼻先に左手を突き出してみせた。しかし、この歳を経た雌狸は、

「まぁ、重ちゃん。ええ時計をしとってぇなぁ」と平然と言ってみせたそうである。

 

そういう話を聞いていたこともあり、また、私が生まれたときにミクがくれたという、いつも肌身離さず付けている安全祈願のお守りのこともあって、私は鎮男の言葉に非常な関心をもって耳を傾けた。

 

「わいのおかんは、わいが3つのときに死んでしもうたけど、おかんがわいを背中に背負いながら聞かせてくれた言葉は、一時たりとも忘れたことはない。それはなぁ、『しずちゃん、おかあちゃんがこれから言うことをよう聞くんやで。あんたはなぁ、神さんから大変な使命を受けてこの世に生まれてきたんや。おかあちゃんは、あんたに重たい重たい責任を負わせて生まれさせてしもうた。しずちゃん、ごめんな。おかあちゃんを許してぇな。そやけど、その使命いうんは、あんただけにしか果たせへんのや。神さんは、あんたを特別にお選びになったんや。そやから、あんたは、その使命を立派に果たさなあかんのやで。全身全霊を傾けて果たさなあかんのや』と、そういう意味の言葉やった。それをおかんは、わいの心に直接語りかけてきたんや。そのとき、わいはおかんの背中でわんわん声をあげて泣いた。わいはなぁ、とても信じてはもらえんやろうけど、自分の宿命をたった3歳にして悟ったんや。それはもう、恐ろしゅう辛い、悲しい体験やった」

 

私は、静かに語る鎮男のその言葉を信じた。3歳で自らの運命を悟ったという鎮男の言葉を真実だと直感した。それは、何世紀かに一人の割合でこの世に生まれてくる稀有な人間の言葉だった。目の前の、底に茶渋の色の残る湯飲み茶碗で、違法な自家製のワインをすすり飲んでいる小汚い身なりのこの男こそ、間違いなくその奇跡なのだった。

 

「そやけど、鎮男ちゃん。その死んでしもうた大学生は、なんでそんなに神さんが憎かったんやろ」

「それが、わいにもよう分からんのや。彼は、わいなんかから比べたら、ものすごう恵まれた環境に生まれ育っとる。両親ともに最高峰の学問を究め、父親は、現在もアートルム社で新しいコンピュータの開発責任者をやっとる。本人は、14歳にして数学オリンピックで金メダルを取ったほどの天才やし、それで騒がれるのが嫌でイートンに1年留学しとった。そのときに彼が発表した数学の理論は、世界をあっと言わせるほどすばらしいものやった。そのころの彼は、フィールズ賞に最も近い日本人と言われていた。――ただ、母親の方は、一昨年交通事故で亡くなってしもうとる。それが唯一、彼の自死につながる原因いうたら原因かも知れん」

「そやけど、それだけでは、なんで世間か神か知らんけど、そんなに憎むようになったかは分からんなぁ。いったいなんでやろ?」

「それは、さっきも言うたように、ほんとのところは、わいにもよう分からん。しかし、わいは、それを外的な要因に求めるのは間違いやと思うとる。彼は、神を憎むことの、言い換えたら、この世と人間の存在価値を問うために生まれてきたある種の改革者やったんやないやろうか」

「そんな人間が長生きすることは、それ自体が矛盾になるっちゅうわけか」

「そうや。ともかく彼は、自分が自殺するだけではなく、この世の中全体が自殺するように、ある仕掛けを残して死んでいった」

「この世の中が自殺するような仕掛け?」

私は、ますます深まっていく謎に、そして今その大きな渦の中に自分自身が深く呑み込まれようとしていることにわなわなと全身が震えだすのを感じた。

 

私は、東京の本社に戻ると、早速頭の中にもやもやとしていた疑念を払拭するために、プラズマ推進装置にかかわる実用新案について調べた。

それは、私も既に承知していたことだったが、ある篤志家による我社への寄贈であった。私は、技術開発部長にそのときの話を詳しく聞き直した。

それによると、最初、オリーブグリーンのサムソナイトを引きずった汚らしい身なりの男の訪問を受けたとき、塩川というその部長は、ホームレスのようなその姿に、何かの詐欺か良からぬ与太話に違いないと考え、さっさとお引取り願おうとさえ考えたそうである。私は、そのときの塩川の顔と鎮男の様子が目に浮かぶようで、独り可笑しくてしようがなかった。

しかし、鎮男らしきその男がサムソナイトの中から推進装置を取り出し、塩川の机の上に広げて実演して見せたときには、天地がひっくり返るほどのショックを受けたそうである。

チタン製の薄いダンボールの板のようなものが、スイッチを入れた瞬間、ペーパー電池の電力によって俄かに強力な推進力を生み出し、何冊もの紙ファイルを上に載せたまま机の上を滑り出したのだ。それを目の当たりにした周囲の者たちからは、大きなどよめきが沸き起こった。誰もがこれは飛行船の強力な推進装置になると確信した。

そのころの我社は、飛行船や気球による広告収入も販売も地を這うような状況にあったから、この無償の実用新案供与が会社を浮揚させる大きな力になると誰もが胸をときめかせた。そして、その予測通り、我社は危機を脱したばかりか、その実用新案の応用により新境地を切り開き、大きな飛躍を遂げたのである。

ただ、なぜ、これまでこのような重要なことが私の耳に入ってこなかったかという理由を訊ねると、塩川は、「社長には絶対にこのことを知らせてはいけない。これだけが、この発明を貴社にお譲りする条件だ」と言われたものですからと答えた。

 

いずれにせよ、これでいよいよ私の運命が鎮男とは切っても切れないものであることがはっきりしてきた。いや、というよりも、私の運命そのものがずっと鎮男によってコントロールされてきたようにさえ思えてきた。鎮男は、間違いなく、初めから私を彼のプランに巻き込もうとしていたのである。そのために、私に恩を売った。そして、私はその恩に報いないわけにはいかなかった。

私は、内心慄いていた。しかし、その一方で、それをどこかで楽しんでいる自分がいることにも気がついていた。案外、私はタフな男のかもしれない。私は、これから戦場に赴く物夫を思い、身体が熱くなるのを感じた。

 

モンスター

 

私は、鎮男に言われたとおり、インターネットで武藤明彦について調べた。彼こそが我々人類を絶滅の淵に追いやろうとしている姿なき敵、モンスターだったのである。

明彦は、199x年の4月20日に生まれていた。ヒットラーと同じ誕生日であった。彼のデータをいろいろ調べたところ、まず非常な長身で190センチ近くもあった。

彼の顔写真も見つかった。淡いピンクに染めた髪に弦の部分がピンク色をしたリムレスのメガネを掛けており、その顔は磁器のように白く、凛とした、というよりは、私には酷薄な印象を与えた。

 

鎮男が私のためにコピーしてくれた彼のブログには、次のようなメッセージが記されていた。

「まず、君がここにたどり着いた初めての人間であることに敬意を表しておこう。君がぼくと同じくらいの天才であると認めたということだ。

さて、ぼくは、一度君に会って話もしたかったが、残念ながらもうこの世の人間ではない。つまり、自分で自分に結末をつけてしまったということだ。そして、ぼくの代理人がこの世の始末をつけてくれるようにしておいた。しかし、この世が存続していくほんの僅かな蓋然性も残してはおいた。この世が、いや人類が、これからもとり済ました顔をして存続していく価値があるかどうかは、ひょっとすると、この扉を開けてしまった君の双肩に懸かっているのかもしれない。詰まらない喩だが、君はパンドラの箱を開けてしまったのだ。承知のように、最後までこの箱の中に閉じ込められていたのが『希望』という名の悪だったように、ぼくは、人類にごくわずかな生存への希望を残してこの世とおさらばをしたというわけだ。

しかし、君は、余り自分を買いかぶらないほうがいいと忠告しておいてあげよう。ぼくの企てた計画はそれほど甘いものじゃない。もしも君が救世主を気取りたいのなら、重い十字架を背負う覚悟でやってみることだ。決して報われることはないとは思うが、しかし、それがセーバーってもんだろ……」

 

私は、この明彦というわずか17歳で自死を遂げた少年の挑戦的な文章に身体が震えるのを感じた。おそらく、この文章だけからなら、決して私はこれほどに恐れはしなかっただろう。しかし、あの鎮男が本心から恐れ戦いている姿を見て、ようやく私にもこの少年の企みの恐ろしさが分かってきたのだ。その企てなるものの正体は、実はまだ杳として知れなかったが、そのときにはすでに何か恐ろしいウィルス病のように深く潜行していたことは間違いなかった。

 

潜 伏

 

私は、鎮男から密命を受けていた。もともと、私の大友飛行船は、その事業収入の30%を広告から得ていた。一般企業から官庁、さらには個人のバースデーやクリスマスのメッセージなど、その商売は広範囲に及んでいた。

たとえば、ある日の深夜零時ちょうどにレインボーブリッジ上空に、突如として極彩色のイルミネーションに包まれた謎の物体が現れ、孔雀の羽根のような青いきらきらする文字で恋する男からのプロポーズのメッセージを発信する。

「尚美。ぼくは全力できみを守る」

この費用は、3分間で10万円である。

あるいは、

「清様、わたしは永遠にあなたのものよ」

これも3分、10万円。

こうして1時間、レインボーブリッジ上で200万円稼いだわが飛行船は、翌朝02時11分、東京タワー上空をオレンジ色の光を点滅させ、地震事前警報を通告しながら旋回する。これも相当の収入になる。

 

鎮男が私に頼んだのは、飛行船を使ってウィルスの脅威についての警告文を流して欲しいということだった。最初、私はその意味が掴みかねた。しかし、聞いているうちに、ようやく彼の恐れていることが分かってきた。

それは、明彦がコンピュータウィルスを全世界にばら撒いたのではないかという危惧からきていた。それも単純な悪戯などではない、本当のウィルスそっくりの生命力と毒性を持つウィルスであり、ワクチンやファイヤーウォールや免疫などに対抗して、自身で進化していくという恐るべきものだった。

 

「おそらく、このウィルスはすでに潜伏期に入っとる」

私は、あのときワインを飲みながら言った鎮男の言葉を思い起こした。

「今は、静かに世界中のあらゆる電子機器の中で増殖しとるはずや。しかし、まだ、その毒性を顕すまでにはいっとらん。たぶん、それも明彦の計画のうちなんやろう。一気にアウトブレークさせるつもりや」

「それで、そのウィルスは、いったい何をやろうとしとるん?」

「ウィルスは、おそらく多種多様にわたっとるやろう。そやから、その戦術的目的も様々や。そやけど、その究極の目的は、人類を滅亡させることや。逆に言うたら、人類を滅ぼすためにはありとあらゆることをやってくるやろう。それは、ちょっと予想不能や。しかし、コンピューターネットワークを使ってこのウィルスの危険を知らせて対抗しようとするのは危険なばかりか返って火に油を注ぐことになってしまうやろうな。明彦は、その辺のことはきっちり計算しとるはずやからな」

 

鎮男は、わが社の飛行船を使って、徐々にこのウィルスの危険性を世間に知らせていこうと考えたのだ。しかし、彼も予想していたように、それとても大きなリスクを孕んでいた。なぜなら、この高度に情報化された社会で、秘密裏にこのような作戦を遂行することなどまず不可能だからだ。我々の企てが電子化されて、彼の作り上げた精妙な蜘蛛の巣に引っ掛かったら、明彦の作り上げたシステムは、直ちに全力を挙げてその排除に取り掛かるであろう。それは、私たち二人の死を意味した。

しかし、我々としては、少しでも早くこの世界の危機を世間に知らせる必要があった。目に見えぬ敵に対し、彼らが勘付くよりも早く世界中のあらゆる方面のリーダーたちにこの危機を知らせる必要があったのだ。

 

最初は、コンピューターセキュリティーの会社とタイアップしてウィルスの脅威を宣伝することからはじめた。

「進化するウィルスには、進化する免疫ソフトを」

コンピュータウィルスが生命を滅ぼす!?」

「工業、学術、医療、交通……、あらゆる場にウィルスの侵食が」

コンピュータウィルスが生物ウィルスに変わる日」等々、余り目立ちすぎないように気を使いながら、それでも一部の選ばれた者たちにはわれわれのメッセージの意味に気がついてもらえるように配慮したのだ。

また、その分野の権威で信用のおける人たちには手紙を書いた。そのうちの99%は、この手紙を無視するか、すぐに屑籠に放り込むであろうが、残りの1%が頭の隅に我々の危機感を感じ取って憶えていてくれることを期待して。

その手紙は、世界中のあらゆる言語で書かれ、その総数は1万通を越えた。いずれも政治や経済、科学技術、医療、交通などの各分野で権威や権力を持つ人たちへ私と鎮男の連名で送ったものだった。

予想したとおり、返事はごく少数からしか返ってこなかった。それも大部分が儀礼的で本人が書いたものは極々小数だった。

 

曰く、「貴兄らの危惧されるところは、我らもかねてより強く懸念しているところであります。しかしながら、生物の進化にウィルスが深く関わっているように、コンピュータウィルスも情報化社会の発展に欠かせないとは云わないまでも、云わば必要悪として、ある種の生存権を得ていることは真実であります。この完全なる根絶はきわめて困難であり、その労力に対する効果は極めて小さいと考えざるを得ません」

 

私は、東京から新信州市までたびたび車を運転して行き、鎮男に直接これらの手紙を渡した。鎮男は、静かに手紙を読み終えると私に落胆の顔を向けた。

「こうちゃん、人間いうんは、ほんまにあほな生きもんやなぁ。茹蛙と一緒や。ゆっくりゆっくり温度を上げていくと、蛙は身動きもせんまま鍋の中で茹であがってしまういうこっちゃ」

「そやけど無理もない思うで」と、私は答えた。「まだ、鎮男ちゃんが心配しとるようなことは何にも起こっとらんわけやし、そもそも、こちらとしてもただ危機を仄めかすだけで、それがどのような危機なんかを具体的に説いてまわるわけにはいかんという、なんというかほんまにじれったいことをしとるわけやからな」

「まぁな」鎮男は、静かに立ち上がった。

どこへ行くつもりかと見ていると、隣の部屋へと続く扉を開けた。私は、この家にはもう何度となく訪れていて、居間の隣にもう一つ部屋があることを知っていた。しかし、その安っぽい木の扉の向こうにはまだ足を踏み入れたことがなかった。

鎮男は、振り返って私についてくるよう促した。

驚いたことに、その扉の先にあったのは部屋ではなく、地下へ降りる階段だった。

深く急な「コンクリートの階段を降り切ると、右の壁にステンレス製の自動扉があった。鎮男は、扉についた指紋認証センサーに指を触れた。電子錠が解除される音がして、扉は右にスライドして開いた。

酒に卑しい私は、扉が開く直前までてっきりそこがワインセラーだと思っていた。しかし、とんでもない間違いだった。

広い地下室は、電子機器で溢れていた。左の壁に100インチもの大きなディスプレイが取り付けられ、冷却ファンの回る音と様々な色をした表示灯の明滅に部屋中が満たされていて、これで女の子が踊っていればディスコクラブと間違えたかも知れない。

しかし、水冷式のスーパーコンピュータが手前右奥のコーナーに置かれ、これにリンクした何台ものパソコンが四角い部屋の奥、7,8mもある一辺すべてを占める長い作りつけの机の上に並んでいるのを見て、ようやく私は、ここが電子の要塞であることに気がついた。

鎮男は、革張りの椅子に腰を降ろし、キャスターの付いた立派な椅子を私にすすめた。私はディスプレイの正面にその椅子を移動させ、そこに腰掛けた。

 

ディスプレイには、明彦の写真が映っていた。それは、彼が小学生のときのものだった。明彦は、ジーンズに白いTシャツという姿で、水色のワンピースを着た母親らしき理知的な顔立ちの婦人と肩を並べ、少年らしい満ち足りた、誇らしげとも映る微笑を浮かべ、木漏れ日の下に立っていた。母親の白い帽子やワンピースに、そして明彦のTシャツやジーンズにも、その幸福のシンボルであるかのように、太陽の落とし児の小さな豹のような斑が浮かんでいた。

 

「わいは、武藤明彦にはずいぶん前から注目しとったんや。明彦は、小学生くらいのころから既に数学界ではガウス級の天才少年として評判になっとった。そやけど、マスコミの手からは巧妙に逃げとった。それは、彼の父親が大のマスコミ嫌いやったからや。その辺がどうもすっきりせんのやけど、明彦の父親は、自分の息子が新聞やテレビに取り上げられることに異常なくらい嫌悪を感じとったらしい。彼は、それを、明彦が晒し者にされるいう言い方をしとった、いうことや」

ディスプレイの画面が変った。そこには、何か手書きの数式が映されていた。大学ノートにびっしりと書き込まれたそれらの数式の意味は、私にはまったくちんぷんかんぷんだった。ヒエログラフの方がまだしっくりきそうだった。

「彼がイギリス留学中に発表した数学上の発見を書き留めたものや」鎮男は、静かにつぶやくように言った。「彼のこの理論は、まだ正式には定説にはなっとらん。そやけど、わいには、この理論の正当性がよう理解できる。恐ろしいほどに緻密で美しい数式や。これを完璧に理解できる人間は、おそらく世界広しといえども数えるほどしかおらんやろう」

「まるで、アインシュタインが一般性相対理論を唱えたときみたいやなぁ」私は、鎮男の顔を見て言った。

「いや、そんなもんやあらへん。これは、ほとんど神の領域にまで踏み込んだ恐るべきものや」

私は、何とも答えようがなかった。鎮男にどのように解説されようとも、この数式を理解することは金輪際不可能であろうことだけはよく分かった。

 

アウトブレーク

 

その日のニュースを見て、私はついに鎮男の予言が成就されたと感じた。ついにアウトブレークが始まったのだ。しかし、それは思いがけない始まりようだった。

 

「世界中で驚くべき犯罪が多発しています。これまで温厚でまったく犯罪傾向のなかった人物による凶悪な犯罪が、様々な国で次々と起こっているのです」髭の剃り跡がうっすらと残るニュースキャスターの顔は、心なしか青ざめて見えた。

「イギリスで、有名な物理学者が同僚を銃で撃ち殺すという事件が起きたのは、まだ耳に新しいと思いますが、本日、アメリカで高名な大学教授が学内で銃を乱射して多数の学生や教授が死傷するという事件が起きています。

また、今も報道していますとおり、ここ日本でも、脳外科医として著名な大野徹治氏が病院内でライフル銃を持って立て籠もっています。大野氏は、つい先ごろ、自らの脳腫瘍のためガンマナイフによる治療を受けたばかりとのことです」

テレビの中継は、都内のある大きな病院を映し出していた。その病院のあちこちに警察車両が赤色等を点滅させながら警戒している。

「大野氏は脳外科の権威ですが、今年の4月より自らも悪性の脳腫瘍を患い、この病院で治療を受けていました」

そう報道するニュースキャスターの手元に何かのメモが渡されるのが画面の隅に入った。

「新しいニュースが飛び込んできました。アメリカ議会下院のオズボーン氏が議会で小銃を乱射し、多数の死傷者が出ている模様です。詳しいことは、この後、随時放送していきたいと思います」

 

おそらく、これらの事件の背景に何らかの強い共通性が感じられたからであろう。それからほどなくして、各放送局は特番を組み始めた。あるいは、同時多発テロという言葉が思い起こされたのかも知れない。確かにこれらの事件は余りに異様で、人々の不安を募らせはじめていた。

 

そうこうするうちに、事態はさらに深刻なものになっていった。日本では、自衛隊の内部でクーデターが起こったとの噂がたった。また、各国の軍隊内部でも将校やトップの幕僚たちが異常な行動をとりはじめているらしいとの情報も飛び交っていた。

 

日にちが経つにつれ、自衛隊内部で何かが起こっているらしきことは誰の目にも明らかになってきた。しかし、政府は非常事態宣言を発し、全てのマスコミに対し報道の規制をかけた。このため、新聞もテレビもまたインターネットでさえ、何らこの事態に対し国民の知る権利に寄与出来なかった。

しかし、大変なことがこの日本においても起こり始めていることは火を見るより明らかだった。東京でも市ヶ谷辺りがただならぬ気配を漂わせていたし、朝霞も習志野も騒然としていた。

 

この事態の真相を確かめるため、私と鎮男は、頭上を何機ものCH-47輸送ヘリやAH-64D戦闘ヘリが西を目指して飛び過ぎるのを見ながら、西を目指して車を走らせていた。

車は、鎮男のN-360だった。私の大型ハイブリッドカーでも良かったのだが、鎮男がどうしても譲らなかったのだ。

大柄の鎮男が運転席に座ると、ただでさえ狭い軽自動車の助手席は、息も詰まるほど窮屈になった。私は、東名に入るとすぐにSAでの休憩を要求し、後部座席に移った。

狭いことを除けば、鎮男の車は快適そのものだった。エンジンは360cc足らずのはずだが、その加速感や静粛性には瞠目すべきものがあった。

「鎮男ちゃん。これ、ほんまに軽か」

私は、鎮男が走行車線を走る高級車を軽く追い抜くのを見て、素直な驚きを伝えた。

「なぁ、びっくりするやろ。実は、この車にはわいの発明した冷却装置と過給器がついとるんや。この車のエンジンはなぁ、純水をシリンダー内に直接噴射して冷却するんや」

「過給器って、ターボのことか」

「そうや。ターボチャージャーは、排気ガスからエネルギーを回収して出力をアップさせるものやから、本来は省エネに貢献するはずやろ。そやけど、小さなシリンダーの中で過剰な燃料を燃やすと、その熱でシリンダーがいかれてしまうんや。それで、これまでその冷却のために、メーカーは何をやっとたと思う」

私は答えに詰まった。あらゆることが頭をかすめたが、鎮男の求めている答えは一つのように思えた。

「ガソリンで冷やすんか」

「そうや、その通りや。過剰にガソリンをつっこんで、その気化熱で冷却しとった。それを、わいは水で冷やすことにした。そやで、この車は、360ccとはいうものの実際にはリッターカー以上の出力が得られるんや」

「なるほど」私は、後部座席で独りうなずいた。

 

東名高速も、足柄から御殿場に近ずくにつれて、何か異様な雰囲気が漂ってくるようになった。警察車両がやたら目につきはじめた。はるか西の自衛隊東富士演習場と思われる地点上空を自衛隊のヘリが黒いカラスの一群のように輪になってホバーリングしている。

さらにF-15の編隊が高速道路上空をものすごいスピードで通過していった。

「何か、大変なことが起こっとるようやなぁ」

私は、高まる胸の動悸を抑えながら言った。

「恐らく、これから先は検問があるで」鎮男はしっかりと前を向いたまま言った。「高速から降りるとすぐに検問されるやろ。現場に行くのはかなり困難や」

「現場って、鎮男ちゃんはどこまで行くつもりなんや」私は、後部座席に半ば身を横たえていたのだが、思わず起き上がって訊いた。

「とにかく、何が起こっとるんか、この目で見てみぃんことには、今後の戦略もたてられへんやろ」

「それで、どこまで行くつもりなん?」

「現場は、間違いなく陸上自衛隊富士駐屯地、そして東富士演習場や」

「そこで、一体何が起こっとるんやろ」

「それをこれから確かめに行くんやんか」

「そやけど、途中で検問におうたら、それまでやろ」

「心配せんでもええ。そんなことはとっくに計算しとるわ」

鎮男は自信ありそうだった。

しかし、案の定、御殿場インターを降り、御殿場ステーションホテルを少し行った交差点で検問にあった。そこから先の道路は黒と黄色のバリケードでブロックされていた。

どうやら検問は、富士方面への通行を一切禁止するものらしい。警察は、東名西側道路のいたるところに検問所を設け、自衛隊駐屯地を中心とする半径5km圏内を完全に封鎖している様子だ。

検問所までの僅か数百メートルは大変込んでいた。ようやく検問所までたどり着くと、鎮男はウインドーを手で巻いて下げ、機動隊らしき警察官に大声で告げた。

「富士山へは行けませんか」

「だめだめ。今あの辺で何が起こっとるか、だいたい察しがつくでしょう。引き返すか、何か別のことを考えてください」警官は、怒鳴らんばかりの口調で答えた。

「そうですか」鎮男は、それだけ言うと、交差点を右折した。

「これからどうするん?」

「さあなぁ」

「そやけど、鎮男ちゃんは、こうなることは最初から分かっとったんやろ」

「ああ、分かっとった」

「それで、これからどこへ行くんや」

「まあ、任しといて」

 

それから鎮男は、迷うことなく車を走らせ、ある高層ホテルの地下駐車場に入っていった。

「こんなとこへ入って何をするつもりなん?」

「まぁ、任しといて」

鎮男は、B2Fまで車を下ろし、柱の陰の駐車スペースに車を停めた。私を車から出すと、彼は後部座席の背もたれを前に倒し、パラシュート材で作られた灰色の大きな鞄を取り出した。それを肩に斜め掛けすると、まっすぐエレベーターに向って歩き出した。

 

鎮男は、ホテル最上階を予約していた。なんと、そこはスイートルームだった。

「こんなときに豪勢なことやな」

フロントでチェックインの手続きをしている鎮男を横目に、私は皮肉を言った。

クラークは、鎮男の風体をあからさまに品定めしていた。それはそうだろう。最上階の一番値の張る部屋を予約した男の風体はと言えば、擦り切れて色の褪せた革ジャンにぼろぼろのジーンズだし、その連れの男の方も、もう少しましな格好をしているとはいうものの、どう見てもスイートというジグソーパズルにぴったり嵌るものではなかった。

鎮男は、カードを受け取ると足の間に挟んでいた鞄をまた斜めにかけ直してエレベーターに向かった。

 

「ロビーの雰囲気を見たやろ」

エレベーターが動きだすと鎮男が口を開いた。かごの中はわれわれだけだった。

「えっ」

「それに、地下の駐車場は、運転手付の特別な車ばっかりやったで」

「それは、ほんまか」

「気がつかなんだんか」

「いいや」

「政治家や自衛隊関係の車で一杯やった。わいは、この部屋を十日も前から予約しとったんやけど、昨日の夜、ホテルの支配人を名乗る男から、他の部屋に代わってもらえんかいう電話をもろうたんや。理由は、はっきり言わなんだけど、恐らく政治家かなんかが今度の事態がらみで使いたかったんやろうな」

「そやけど、鎮男ちゃんは、一体何が目的でこのホテルを予約したん」

「それは、見てのお楽しみや」

 

チャイム音とともにエレベーターの扉が開いた。すぐに目に入ったのは、右側の廊下に折りたたみ式の衝立があって、その前にスーツ姿のがっしりした男が二人、こちらを向いて立っていたことだ。鎮男が予約したスイートは、反対側の端の角部屋だったが、そこまで歩く間、男たちの鋭い視線を背中に感じなければならなかった。

鎮男は、動じる様子もなく、カードをリーダーにかざした。電子錠が解除される軽快な音がした。

鎮男に続いて部屋に入るとき、私は男たちの方をチラッと横目で見た。何気ない風を装ってはいるが、明らかに彼らはこちらを観察していた。しかし、50を過ぎた男が二人、同じスイートに入っていく、その光景は誰が見ても奇異には違いなかった。

 

私は、冷や汗をかいていた。

「あの男たちはいったい何やろう」

扉を閉めるなり、私は鎮男に訊いた。

「分からんか」鎮男はあきれたように言った。「SPや。あの部屋の中には政治家がおって、今回の件で指揮を執っとるんやろ」

防衛大臣か?」

「おそらくな。――この件の始末しだいでは政権が吹っ飛ぶで」

「そやけど、それにしては静かなもんやなぁ」

「水の上は、いつもそんなもんや」

そう言いながら鎮男は、机の上にラップトップをセッティングしている。パソコンの隣にマウスと並んでジョイスティックがセットされた。

「そんなもん出して、いったい何をする気なん」

「実は、こうちゃんには秘密にしとったんやけど、大友飛行船にも協力をしてもろうとるんや」鎮男はパソコンの立ち上げに余念がない。

「えっ」私は、驚いて鎮男の横顔を見つめた。

「そねーにびっくりせんでもええがな。それより、ちょっと、窓のカーテンを開けてぇーな」鎮男は、パソコンを見たまま私に言った。

私は、苛立ちを感じつつも窓に歩み寄り、カーテンを開けた。さーっと、眩い光が部屋になだれこんできた。ごくごく間近に冠雪を戴いた雄大な富士の姿があった。カーテンは、このためにわざわざ閉めてあったのかと思わせた。

黒々とした森や薄茶色に冬枯れた木々、棚引く煙や飛び立つ鳥の群れなどが描かれた静謐な青紫色をした裳裾の味わいを台無しにするかのように、自衛隊のものと思しき十機以上のヘリが相変わらず野暮なホバーリングを続けていた。

「なんや知らんけど、膠着状態が続いとるようやで」私は、鎮男の方に振り向いて言った。

鎮男は、私の言葉が聞こえないほどパソコンに集中していた。

「こうちゃん」

その鎮男がふいに私を呼んだ。私は、鎮男がパソコンのディスプレイを覗き込んだまま手招きしているのを見た。

私は、彼の傍まで戻って、そのパソコンのディスプレイを見た。

[盗聴されとる。あんまり彼らを刺激するようなことは言わんように]

私は、驚いて鎮男の顔を見た。

「何が起こっとるんか知らんけど、そのおかげでわいらの富士登山もお預けや。せっかく40年ぶりに会うて、長年の約束やった富士山へやっと登れる思うとったのになぁ」

一瞬、私は鎮男の顔を見て、ほんとにそんな約束をしたことがあったかと訊きそうになった。

「ほんまにしょうがねぇーなぁ。まぁ、今日は、窓からその姿を拝ましてもらうだけで辛抱しよう」

幸い、すぐに私の頭にも即興の台本が浮かんだ。

鎮男は、微かに笑ったように思えたが、再びパソコンに注意を集中し始めた。私は、椅子を彼の近くに引き寄せ腰を降ろした。

 

「なんや、それは」

いつの間にか、ディスプレイには航空写真らしきものが映っていた。それは、ごくゆっくりした速度で動いている。

鎮男は、黙ってパソコンに文字を打った。

[分かるやろ。こうちゃんとこの飛行船や]

「えっ」私は思わず声に出した。

鎮男は、唇に指を当て私をきっと睨んだ。

そして、彼は再びキーを叩きはじめる。

[この飛行船は、ここから自由に動かすことができるんや。いまこっちに着々と近づいとる]

鎮男は、キーを打ち終わると私を見た。

「窓の外の様子をデジカメで撮っとくんや。後でマスコミに売れるかも知れんで」

「そんなことをして、向こうの部屋からクレームが来るかも知れんで」私も鎮男に合わせた。

そうこうしているうちに、画面の航空写真は、御殿場付近に近ずいてきた。私は、思わず窓に駆け寄って周囲を見回した。

見えた。わが社の飛行船だった。横腹に青いディスプレイを煌かせながらゆっくり富士の方向に移動している。

「……」

私は、何かを言いかけて止めた。何を言おうとしていたのか、自分でもはっきり分からない。

鎮男のところに戻り、パソコンを覗くと、[高度を上げ、遥か上空から現地を映す]との彼のメッセージが打たれていた。

私は、再び窓に視線を移した。飛行船は、水平を保ったまま急速に高度を上げていた。再び、ディスプレイを見ると、御殿場の市街が少しずつ小さくなっていった。

そのときだった。自衛隊のヘリ1機が猛スピードで飛行船に近ずいてくるのが見えた。ヘリは、飛行船にローターが当たるほど接近すると、そのまま飛行船と同じ速度で上昇していく。

それから数分後、私の携帯が鳴った。

会社の秘書からだった。

「私だ」悪い予感に身を固くしながら答える。

「社長。いったい今どこにいらっしゃるんですか」と言う、その声は心なしか震えている。

「なぜ、そんなことを訊く」

「実は、たった今、ここに防衛省から電話がありまして、わが社の飛行船が自衛隊近傍の飛行禁止地域上空にあって作戦に支障が生じている。邪魔だから、即刻退避させろとのことでした」

私は、鎮男に目で合図を送った。

「分かった。心配するな。何とかする」私は、短く答えると携帯を切った。

私は、鎮男の傍らから片手でキーボードを打った。

[ひこうせんがじゃまだ、ぼうえいしょう]

鎮男がそれに答えて、キーを叩く。

[分かった。ただし、もう少し、時間を稼ぎたい]

鎮男は、飛行船のカメラの一つをヘリの方に向けた。ディスプレイは、今左右2分割になっていて、胴体右のカメラがヘリをはっきりと捉えている。

「OH-1」と鎮男がキーを叩く。つづいて、[偵察観測用ヘリ]

カメラは、ズームアップしてパイロットと後部座席乗員の表情まではっきりと映し出した。その表情は、二人とも固く厳しい。

 私は、少し慌てていた。思わずキーを叩く。

[はやく、たいひさせんとうちおとされる]

[そんなことは絶対にあらへん]鎮男がすぐにキーを奪う。

[なんで、そんなことがわかるんや]

[彼らにそんな決断をする余裕はない]

鎮男の言葉は確信に溢れていた。

「そうか?」

私は、窓際に歩み寄った。――OH-1は、ぴったりと飛行船に寄り添いながら上昇を続けていた。高度は、おそらく上昇限度の2千メートルを越えているだろう。

「こうちゃん」

そのとき、鎮男が再び私を呼んだ。

「ちょっと見てみ」

私は、パソコンを覗いた。自衛隊駐屯地の様子が映し出されていた。一目瞭然で途轍もないことが起きていることが分かる。赤旗、白旗をアンテナに掲げた何十台もの戦車が皆一様にその筒先を駐屯地の方に向けて取り囲んでいるのだ。

「これは、いったい」

見ると、鎮男は唇に左手人差し指を当てている。そして、右手で器用にキーを叩く。

[反乱や。いったい誰が首謀者なんやろ]

私もたまらずキーを叩いた。

[それにあきひことのかんれんは?]

[それは、これからや]

鎮男は、鞄からヘッドホンを取りだした。パソコンにジャックを差し込み自分の両耳に装着すると、ジョイスティックを使って飛行船のコントロールを始めた。3次元のコントロールとスピード調整が自由自在に出来るのだ。鎮男は、飛行船の上昇を止め、船首を僅かに上下に振る動作をさせた。そして、次に彼は、マウスを使ってディスプレイ上のアイコンの一つをクリックした。

いったい何が起きるのだろう。息を呑んで見ていると、鎮男が私宛のメッセージを打った。

[自衛隊の無線や。暗号をデコードしとるから、明瞭に聞こえるで]

鎮男は、自分の耳からヘッドホンを外し私に手渡した。私は、それを耳に当てる。

「……CRF第一ヘリ団、小林一尉より、幕僚長。飛行船の側部ディスプレイに我が方宛と思われるメッセージらしきものが表示されました」

「こちら、CRF幕僚。その文言を口述せよ」

「了解。読み上げます。ご迷惑をおかけしました。これより、退避します。以上であります」

「よし、小林一尉、飛行船の退避行動を確認後、直ちに帰還せよ」

「了解。退避確認後、直ちに帰還いたします。以上」

私は、鎮男を見た。彼は、にんまり笑ってみせた。

[実は、自衛隊の無線は、ほとんど傍受してパソコンに収録した。それに、現地の詳細な映像もな]

「やったな」私は、声に出して言った。そして、その言葉の続きはキーに打った。

[そやけど、crfってなんや]

[中央即応集団と呼ばれとる。今回のような事態が起きたときに最も頼りにされるチームやな]

そのときだった。誰かが扉をノックした。

鎮男は、手際よくパソコンを片付け始めた。そして、薄っぺらなメモリーカードを抜き取ると、私に渡した。

「万一の時のためや」

 私は、その大容量のカードを受け取ると、首にぶら下げているお守り袋の中に隠した。

 

私は、ゆっくりと扉に向かった。鎮男は、すでに片手に鞄を下げていた。そして、隣の部屋へのドアをそーっと開けている。私の顔を見ながら、隣の部屋に移りそっと扉を閉めた。

それを確認すると、私は、入り口の扉に向かって声をかけた。

「はい。どなた様でしょう?」

「大友さんですね。防衛省の者です。すぐにドアを開けていただきたい」その声は、ひどく強圧的に聞こえた。

防衛省? 防衛省がいったい、私に何の用があるんですか。――たとえ、防衛省でも税務署でも理由を聞かない限り、簡単に開けるわけにはいきませんよ」 

「いいから、開けなさい。さもなければ、公務執行妨害で逮捕する」

「逮捕?」私は、心底驚いた。まさか。冗談だろうと思った。

「われわれに協力しないなら、威力を行使してでも扉を開けるまでだ」

もう一人扉の外にいた。この男の声は、ヒステリックだ。

「はいはい、分かりました。そんなに威張らなくとも開けて差し上げますよ」

 私は、むかっ腹を抱えながら扉を開けた。

 男二人が扉を引き開け、まるで押し入りのような勢いで飛び込んできた。一人が扉の前に立ち、もう一人が窓際に位置を占めた。

「大友飛行船社長の大友康太郎だな」扉の前の180センチくらいはある大柄の男が呆然自失の私に訊いた。その男は、陸上自衛隊の幹部自衛官だった。制帽をかぶり、金色の短冊二つに桜星一つの肩章がついた濃紺の制服を着ており、棒でも飲んだように背筋をまっすぐ伸ばしている。

「そうですが……」

「貴殿は、現在の騒擾について、どのように考えておられるのか」

「現在のそうじょうと言いますと……」私は、少し戸惑っていた。なぜなら、彼らは、一向に寝室の方を探すそぶりを見せないし、最初からこの部屋には私一人しか宿泊していないと信じているような態度だったからだ。

はっと気がつくと、扉の前の男が顔を顰めていた。

「いえいえ、けっして冗談を言っているわけではありません。本当に何を仰ってるのかよく分からないんです」

「それなら、あの飛行船はどういうことですかな?」背後から声が聞こえた。

振り向くと、上官らしき男が帽子を小脇に挟み窓の外を見ている。そこにはわが社の飛行船が、このホテルのまさにこの階に横付けするかのように、その横腹を見せたままの姿勢で接近していた。鎮男の発明であるプラズマ推進装置ならではの動きだった。

「なんだとっ」突然、その一等陸佐らしき窓際の男が飛行船を見たまま叫んだ。

見ると、飛行船の腹にある巨大な有機ELディスプレイに虹色に輝く文字が現れ、左にゆっくりと流れていく。その文字は、何度も何度もスクロールを繰り返しながら、以下の内容を伝えていた。

[この騒乱は、もうすぐ終息します。防衛大臣、過剰な心配はご無用です。それよりも、ご自身の心臓にはくれぐれもご注意を……。以上、老婆心ながら]

「なんだと……」その怒声に思わず身体を翻すと、いつの間にか扉の前にいた男が私のすぐ後ろに立っていて、近眼なのか、目を凝らすようにしてディスプレイを見ていた。そして、芝居がかった、どすの効いた声で私に言った。「貴殿は、われらを愚弄する気か」

「とんでもない。私はさっきからずっとここにいるんですよ。あんな芸当が出来るはずがありません」

「それでは、いったい誰が……」

「さあ」私は、その三佐らしき男の間の抜けた顔に吹きだしそうになるのを辛うじてこらえていた。

「まあいい」

窓際の一等陸佐が部下を宥めるように言った。「とにかく、大友さん。あなたには防衛大臣が会いたがっておられる。一緒に来てもらいたい」

私は、再び彼の方に向き直った。

「大変光栄と言いたいところですが、どうもありがたくはありませんな」

 

しかし、否も応もなかった。すでに、三佐は扉を開けて私を待っていた。私は、彼に顎で促されるまま外に出た。廊下には、背広姿のSPが二人立っていた。

「ご足労をお願いいたします」痩せぎすで、顎の尖った背の高い男が私に軽く頭を下げた。そして、もう一人の背は低いががっしりとした体格の男と二人、私を挟むように両側に並ぶと反対側のスイートへと私を導いた。

「大臣、お連れいたしました」

背の高いSPがドアを3回ノックしてから中に呼びかけた。

「ご苦労さん」という、大きな明るい声が中から返ってきた。

 

石田防衛大臣は、大柄で非常に明朗な人物だった。私は、一目で好感を持った。

「まぁまぁ、どうぞ、お掛けください」彼は、この危急の折にも関わらず、にこやかに立ち上がって私を席に座らせると、自らも椅子に腰を沈めた。それを合図のように、SPも幕僚幹部らしき男たちも、また先ほどの幹部自衛官や秘書官ら10人以上いた大臣の取り巻きは一斉に隣の部屋へと移った。いったい何事が始まるのかと身を固くしている私を見て、大臣がこほんと一つ咳払いをした。

そして、

「大友さん。あなたには、大変な失礼をしてしまいました。心よりお詫びを申し上げたい」そう言って、頭を垂れた。

しかし、次に大臣が顔を起こしたときには、岩のような厳しい表情が宿っていた。

「しかしながら、私は、あなたにただお詫びをするためにお越しいただいたわけではありません。実は、あなたもご承知の通り我が自衛隊内部は、陸海空の全てにおいて極めて憂慮すべき事態となっております。このようなことを一民間人であるあなたにお話しするのは、極めて異例、かつ不自然なことであり、あなたが驚かれておられるのも無理からぬことと承知はいたしております。しかし、実はつい今しがた、ある重大な情報がアメリカの政府筋から日本政府にもたらされたのです」

「はぁ」私には何のことだかさっぱり分からなかった。私は、無力感に襲われた。隣に鎮男がいないことがかくも私を無力にさせていた。

「その情報と言うのは、最高機密とされているのですが、こうしてあなたにお話をしているのは、それがあなたとあなたのご友人に関することだからなのです」

大臣は、私の顔色を窺うように見ている。

「何か、お心当たりがおありですかな」

「……」私は、少し言葉に詰まった。「私の友人と言えば、鎮男という名の私より二つ年上の男のことしか思い浮かびませんが」

「ほうっ」大臣は、興味深そうに声をあげた。「それで、そのご友人は、今どこに」

「大臣……」

私は、先ほどから気になっていたことをついに訊く決心をした。

「あなた方は、私たちのことをずっと見張っておられたのではないのですか」

「ええ。確かに、仰るとおり、私どもはあなたの行動には重大な関心を寄せておりました。それは、今回の事態収拾のためにこのホテルに対策本部を置いたときからのことです。私が知るところによると、あなたは10日前にこのホテルの1501号室、つまりこの部屋とは反対のスイートを予約されています」

「ちょっと、待ってください」私は驚いて大臣の言葉を遮った。「私ではありません。このホテルを予約したのは、私の友人の平鎮男です。彼のことは、あなたがたも知っておいでのはずです」

「しかし、私が受けている報告では、確かにあなたの名前で予約がなされているとのことでした。それに、あの部屋には、あなたお一人だけで宿泊されており、鎮男なる人物の宿泊は確認されておりません」

「そ、そんなばかな」

驚きながらも大臣の顔を見ると、彼の方もあっけに取られたような、気分を害したような表情を浮かべていた。

「しかし」と、大臣は、すぐに表情を和らげ私をまっすぐに見つめながら話し始めた。「あなたのご友人については、私もその存在を疑っているわけでは決してありません。なぜなら、NSCからの……、アメリカ国家安全保障会議からの連絡によると、今回の世界的異常事態の背後には、何らかの大掛かりな陰謀があり、その陰謀により世界中にばら撒かれたコンピュータウィルスが原因ではないかと疑われています。そして、そのウィルスの脅威をいち早く予知し、その危険性を世界中の科学者や政治家に訴えていた人物が日本におり、その二人の人物の名前が大友康太郎氏と平鎮男氏であるということをNSCが合衆国大統領の署名入りで知らせてきたのです」

私は固唾を呑んで大臣の話を聞いていた。アメリカのNSCが乗り出してきているということは、この事件が鎮男の恐れていた通りの、そして、まさに明彦が宣言した通りの、人類を滅亡に至らしめるに足る、途方もなく大規模で、かつ緻密に計算された計画であることを証明していると思われたのだ。そしてまた、もう一つの疑念も同時に生じてきた。それは、NSCが、そして日本政府が、私と鎮男をその陰謀の立役者として考えているのではないかということだった。

「世界中の軍隊がわけの分からぬ混乱に陥っています」石田大臣は、じっと私の顔を見据えたまま言葉をつないだ。「アメリカもイギリスも中国も、そしてフランスやロシアまでもが決してクーデターや反乱ではない、かつて想像すらされたことのないほどの……、未曾有の……、カオスに陥っているのです。このままでは、世界は、偶発的核戦争によって滅亡しかねない」

大臣の顔色は、心なしか青ざめてきたように思えた。

「その原因をNSCは掴んでいるのでしょうか」

「ええ。どうやら、それが何らかの陰謀による、大掛かりな一種の集団催眠であるということまでは分かっているようです」

石田大臣は、私の表情から何かを汲み取ろうとしていた。

「集団催眠?」

「はい。しかし、勿論それは、催眠とは言っても催眠術によるようなものではなく、人工的な機械装置によるものだそうですが」

防衛大臣は、その装置の名前を口にしなかったが、私にはおぼろげながら、その装置の映像が頭に浮かんでいた。それはMRIだった。しかし、私は敢えてその名を発するのを控えた。

「大臣。あなたは、われわれがウィルスの脅威について世界中に訴えていたと仰った。そのことと集団催眠とにどのような関連があるとお思いなのですか」

「それは、あなた方のほうが詳しいはずでは……」

 私は、意を決した。鎮男も決して反対はするまい。

「大臣、正直に申し上げましょう。私と平鎮男は、武藤明彦と言う少年のことを追っていました」

「武藤明彦? どこかで聞いたような気もするが……」

「彼は、この世にはすでに存在しません。数年前に亡くなっています」

「ほう。それで、すでに亡くなっている人物を追っているというのは……、いったいどういうことですかな」

私は、その言葉で、さすがのNSCも明彦のことまでは掴めていないとの確信を持った。

「武藤明彦は、その頃、もっともフィールズ賞に近い日本人と言われた数学の天才少年でした」

「おおっ」大臣は、小さく驚きの声を上げると、頭の中のしこりが氷解したような、すっきりした表情を示した。「あの少年でしたか」

「はい。しかし、残念なことに、彼は自死を遂げました。詳しい理由は分かりませんが、彼は、この世に強い憎しみを持ったまま死んでいったようです」

「しかし、それと今回の件とにどのような関係が……」

「はい。平鎮男によりますと、彼、明彦は、死ぬ前に世界を破滅させるようなある種の数式をウィルスにしてばら撒いたと言うのです」

「なるほど」大臣は大きく頷いた。「しかし、どのようにしてあなたのご友人である平さんは、そのようなことをお知りになったんでしょう」

私は、これまでの経緯を詳しく大臣に話して聞かせた。

 

会談は、というより密談は30分以上にも及んだ。この奇妙な話し合いで、私たちはお互いの心情を吐露しあい、私は、石田氏の明朗で正直な人柄や政治家としての責任が良く理解できたし、防衛大臣に相応しい資質と力量の持ち主であると確信できた。

「大友さん。これは、人類全体の存続に関わる、しかも危急の問題です。私は、あなたを信用してはいるが、何しろ、個人の信頼関係を越えたデリケートな扱いを要する問題なので、恐縮ながら、今後もしばらくは引き続きあなた方を観察せねばならない。そこのところは、どうぞお汲み取り願いたい」

別れ際、大臣は、立ち上がって私に握手を求めた。私は喜んでそれに応じた。

「大臣。正直申し上げて、飛行船のメッセージにあった心臓病云々という文句は、決して私からのものではありません。しかし、もしも何か本当に心臓にご病気がおありなら、どうぞくれぐれもご無理をなさらぬようにとご忠告申し上げます」

「うむ。ありがとう。あのメッセージにはいささか私も驚かされました。なにしろ、私の心臓の爆弾については、ほんの一握りの者しか知らないトップシークレットだったのでね。しかし、あのメッセージ通りに今回の件が終息してくれるなら、私の命など安いものです」

大臣は、大声で笑いながら私を戸口まで送ってくれた。

 

私は、こうして様々な疑問を胸に抱えたまま帰京した。

その疑問の一つが、鎮男がどのようにしてあの警戒厳重なホテルから外に出たのかという点であった。あるいは、飛行船を使って脱出したのではないかとも考えてみたが、よくよく検証してみると、そのような考えは絵空事としか思えなかった。

そもそもあの後、私は地下駐車場にまで行って鎮男の車を探したのだが、Nコロの姿など影も形もなくなっていたのである。それで私は、仕方なく新幹線で東京に帰ってきたのだ。

鎮男は携帯を持たなかったし、固定電話さえ使うのは危険だとの理由で応じなかったので、もっとも確実な連絡方法といえば、直接私が彼の所に出向いていくしかなかった。

そうして、行こうか行くまいか、2,3日会社の仕事に追われて迷っているうちに、世界中で勃発していた異常事態は、霧が晴れるように急速に終息へと向かっていった。

 

そうした折、鎮男から先に連絡がきた。

「わいや。どうや、こうちゃん。あの飛行船のメッセージどおりになったやろ」

「ああ、ほんとやな。そやけど、鎮男ちゃん。あのとき、どうやってホテルを脱出したん?」

「そんな話は後や。それに、この電話は傍聴されとるで。エシュロン、知っとるやろ。みんな筒抜けや。NSCに漏れた情報は、即彼の知るところとなる。こうちゃん、明日ここで話そう」

「分かった。明日そこに行くわ」

冬至の曇り空の下、窓の外にはクリスマスのイルミネーションが鮮やかに明滅していた。私は、電話を切ったその足で車に向かった。地下駐車場へと降りながら石田大臣の言葉が頭の隅をかすめた。

[今後もしばらくは、あなたがたを観察せねばならない]

 

 

転 生

 

私は、夜の中央高速をひたすら走った。Nシステムは、間違いなく私の行く先を追っていることだろう。あるいは、遥か上空から偵察衛星が私の行く先々を監視しているかも知れなかった。なにしろ、一国の政府が全力を挙げてわれわれを緩やかな軟禁状態に置いているのだ。その網を掻い潜るのは至難の業に違いなかった。

しかし、救いの手はすぐに現れた。それは前方に現れた小型の飛行船だった。見紛うはずもないわが社のものだ。その腹に「00101V10」という青色のごく短いメッセージをしばらく点滅させていたかと思うと、次に「GO INTO NEXT SA」と、今度は明るいオレンジ色で表示した。

それは、明らかに鎮男からの私に対するメッセージだった。私は、次のサービスエリアに入った。

私が駐車スペースの一つに車を停めると同時に、紺色のNコロが右隣に滑りこんできた。

「待っとったでぇ」

鎮男は、車を降りて私の傍まで廻りこんでくると、いつもながらの無愛想な顔でそう言った。擦り切れた革ジャンにジーンズというあのときと同じ格好だった。

「なんで、ぼくが来ることが分かったん?」私は、車に乗ったまま窓越しに彼を見上げた。

「こうちゃんの行動パターンくらい、手に取るように分かるわ」

「そんならぼくは、お釈迦さんの掌に載せられた孫悟空いうわけか」

「まぁ、そんなとこやな」

「そやけど、これからどうするつもりや。ぼくらは二人とも政府のげーんじゅうな観察下に置かれとるんやで」

「そんなもん、たいしたことあらへん。わいの車は、Nシステムには絶対に引っ掛からん。このハイブリッドカーはここに置いといて、わいの車で家まで行こいや」

私には、なぜ鎮男のNコロがNシステムに引っ掛からないのか理解が出来なかったが、黙って鎮男の言うことに従った。

「また、二人で長いドライブかいな」私は、窮屈な助手席に座るのに懲りていたから、初めから後ろの席に乗り込みながら言った。

 

道中、鎮男は、ホテルでの脱出劇についてこう話した。

「……あのとき、こうちゃんがSPに連れられて大臣のおる部屋に入ったときに一瞬の隙が出来たんや。わいは、その隙に乗じてごく普通に非常階段を使って下に降りた」

「ほう」と答えたものの、私は釈然とはしていなかった。なぜなら、鎮男はホテルを出るときのみならず、大臣によると入るときにも何ら形跡を残していなかったからである。

「そんな話はともかく、電話でも言うたように事態は一応の収拾を向かえとる」

鎮男は、こちらがひやひやするくらいの猛スピードで高速を飛ばしながら、いつものように静かな調子で話しかけてくる。

「そやけど、狐につままれたような話やなぁ。なんで、あれほどの異常事態がまるで蜃気楼かなんかのように急速に終息してしもうたんやろぅ」

「それは、こうちゃんも知っとる通り、あの事件自体が一種の集団催眠によるものやったからや。その催眠術言うんは、実は人間の脳に直接に作用するものやった。多くの自衛隊や外国の軍隊の仕官クラスがかなり以前からある種の洗脳を受けとったんや。しかし、普段は本人も含めまったく誰もそんなことには気がつかへんくらいに巧妙な洗脳やった。そして、ある時一斉にその洗脳状態を活性化する魔法の呪文が唱えられた。それが、トリガーとなって世界的な軍隊を中心とする異常事態が勃発した。

しかし、わいは、ついに洗脳の呪縛を解くコードを見つけた。そのヒントは、彼らが取り交わしとる無線の中にあった。あのときにも言うたように、彼らの無線は、すべてコード化されとって普通にはまったく意味不明の雑音にしか聞こえん。そやけど、わいは、すぐにそれをデコードした。しかし、いくらデコードをしても意味がまったく不明な言葉がときどき飛び交うのに気がついた。それが実は、明彦が洗脳のために使った符号やったんや」

「それで、その意味不明な言葉とはいったい何やったん?」

「わいらがまだ小さかったときに、一度こうちゃんに言うた言葉があったやろ」

「さぁ、なんやったかいなぁ」私は、後部座席で半分横になったまま記憶を呼び起こしていた。

「薔薇を糞と呼び、糞を薔薇と呼んでも……というあの言葉や」

「えっ」

私は絶句して身体を起こした。何か、今までに経験したことのない奇妙な感情が私を襲った。それは、神秘と懐かしさの混交する不思議な気持ちだった。40年以上もの時を飛び越え、あの雷雨の日の出来事が突如として私の頭に蘇ってきたのである。それは、デジャ・ブーにも似た、いや、それとはまったく反対の、預言が成就するのを目の当たりにした者だけが感じることの出来る至高の感情だった。

私は、あの遠い日の黎明に「そのような方は存じあげません」と3度目に唱えた直後、二番鶏が甲高く鳴くのを聞いた、その瞬間のペテロの驚愕を知った。

私は、何か途方もない巨大な渦に巻き込まれてしまった恐怖に、改めて身体がぶるぶると震えだすのを感じながら、一路、鎮男の家へと運ばれていた。

 

鎮男がウォールームと呼んでいる例の地下室で、私たちは今後の戦略について話し合った。

「わいは、今回の件で、これまでの自分の考えに疑いを持つようになった。それは、ほんまに明彦は、人類殲滅なんていう大それたことを考えているんやろうか、ということや」

「そやけど、現に尻すぼみにはなってしもうたけど、世界中の軍隊をまかり間違ったら世界大戦やいう状況にしてしもうたわけやろ」

「確かにそうやけど、結果的には途中で雲散霧消してもうた」

「そやけど、それは鎮男ちゃんが手を打ったさかいやんか」

「そうや。そやけど、もしも明彦が本気で世界を滅ぼそうと考えとるんなら、わいらの力なんかそれこそ赤子の手を捻るようなもんやないかと思うんや。それを彼は、まるで寸止めのようにあと一歩いうとこで止めてしもうた。言うたら、ゴール直前にストップしてしもうたわけや」

「それがほんまやとしたら、なんでやろ。なんで明彦はそんなことをしたんやろ」

「何かわいらに訴えたいことがあるんやないやろうか、言うんが今のわいの考えや」

「死んでしもうた人間がけぇ」私は、鎮男の顔をまじまじと見た。「まるで、亡霊にでもなってしもうたみたいな言い方やなぁ」

「案外、明彦は霊になって何かを訴えようとしとるんかも知れんで」鎮男は、なぜか私から目を逸らせて言った。「人間いうもんは、どんな天才やいうても、なかなか不条理な死に方はできんもんや。そこには、他人には分らん現実的な理由が必ず存在する」

「形而上的自殺はない言うことか」

「そういうことや。巌頭の感で有名な藤村操も形而上学的原因で死んだわけやない。確かに人間は不可解やし、この宇宙自体も実に不可解やけどな。ところで、こうちゃん。そもそも形而上という言葉の由来を知っとるか。――形而上を英語で言うたら、メタフィジックスや。アリストテレスが死んだとき、フィジックス、つまり物理学の本の上に彼が研究していたその種の著作がたくさん残されていた。弟子たちが、その偉業を整理しようとしたときに、さて、これらをどう分類しようかと困った。それで、便宜的に、物理学の著作の上に置かれていたもの、つまりメタフィジックスとしたというわけや。

それはともかく、わいは、……明彦の場合は、最初は、あるいはとも考えたが、どうもそうではないという気がしてきたんや」

「そやけど、そうやとしたら、明彦は、いったい何を僕らに訴えかけようとしとるんやろ」

「そこが問題なんや。それを解決せなんだら、今回のような事件は繰り返し何度でも起きるで」

 

鎮男は、コンピュータを使って、明彦の父親である武藤良也のことを調べ始めた。彼のコンピュータは、インターネットにではなく専用回線によって、ある研究機関のコンピュータとリンクしていた。そうすることにより、世界中に張り巡らされた電子の網に絡め取られることを辛うじて避けていたのだ。

 

武藤良也は、アートルム研究所の取締役技術開発本部長の地位にあり、この会社のNo2であった。しかし、社長である武藤真一氏は、高齢に加え大きな持病を抱えていたため、その実権は良也が握っていた。武藤良也は、もともと物理学者であったが、20年ほど前に研究者としてアートルムに招聘され現在の地位にまで上り詰めた。ただ、残念なことに、その辺の事情については、いくら調べてみても詳らかではなかった。

「アートルム研究所いうんは、最近成長著しいというあの会社のことかいな」

私は、企業人というのが恥ずかしくなるくらい財界、経済界について疎かった。

「この会社の年間売り上げを知っとるか」

「いいや」

トヨタの次やで」

「えっ、それはほんまか。なんでそんなに儲かっとるんや?」

「医療機器や介護支援ロボット、その他の精密機械の開発。それにバイオ関連。病院や学校経営。それに最近では新世代のコンピュータ開発に力を注いどる。今やこの新信州市は、アートルムの企業城下町や」

「そしたら、MRIなんかも扱っとるんやろうか」

「その通り。アートルムのMRIは、世界シェアーの2割を占めとる。ついでに、こうちゃんがMRIを口にした理由も、わいにはよう分かっとるで」

「なんでや」

「いや、実はわいも、今回の事件にはアートルム社製のMRIが深う関わっとるんやないかと睨んどるんや」

「やっぱりそうか」私は、自分の推理がまんざらでもなかったことに満足しながら言った。「そやけど、MRIは、言うたら単なる入力装置やろ。何でそれが洗脳なんかに使えるんやろ」

「おそらく、アートルム社製ののMRIには、何か特別な仕掛けがあるんや。それも意図的に仕組まれた仕掛けが」

「意図的に、仕組まれた……。それをやったんは、明彦やろうか」

「さあ。その辺はまだよう分からん。これから、それを調べにいこ」

 

鎮男の動きは早かった。いや、彼は、私に会う前からすでに計画を練り上げていたのに違いなかった。彼は、まず私に防衛大臣に連絡を取らせた。

「国を利用するんや。手の内にある駒は何でも利用せな、この戦いにはとても勝てん」

「そやけど、携帯なんか使こうて大丈夫かいな。天網恢恢やないけど、明彦が聞き耳を立てとるんやろ」

「それは一種の賭けや。わいは、明彦がわいらに何かを訴えかけとるという方に賭けたいんや」

私は、大臣から教えられた携帯番号に電話をかけた。すると、いきなりあの朗々とした大臣の声が飛び込んできた。私は、自分が掘った落とし穴に落ちてしまったように驚いて声を上げた。大臣の携帯に電話をしたのだから、石田大臣が出てくるのは当たり前のことだったのに。

「おお。大友さんでしたか。こちらでは、あなたのことでちょっとした騒ぎになっておるようですよ。なんでも、中央高速から忽然と姿を消されておしまいになったとかで……」

電話の向こうで、大臣は大きな声を上げておもしろそうに笑っていた。

「はぁ」私は少し恐縮しながら答えた。「いえ、私一人の力ではとてもああいうことはできません。前にもお話しましたとおり、私には、鎮男と言う頼りになる味方がおりますものですから」

「なるほど、なるほど。ところで、ご用件の方は、何でしたかな」

「実は、今回の事件を解決する糸口を発見したと、その平鎮男が申しておりまして……」

私は、鎮男と二人で話した内容をそのまま大臣に伝え、武藤良也とコンタクトを取るために力を貸してほしいと頼んだ。

「ほう。驚きましたな。あの大企業にそのような疑いを持たれておるのですか」

私は、ちょっと奇妙な印象を受けた。驚いたとは言っているものの、少しもそういうふうには感じられなかったのだ。ひょっとすると、国の方でもアートルムについて何らかの情報を掴んでいるか、あるいはこちらの言うことを根っから信じていないかのどちらかであろうと思われた。

「そういうことでしたら、こちらとしても座視して待つというわけにもいかなくなるが、ここはひとつ、私が大英断を下すとしましょうか。――よろしい、あなた方にすべてを任せます。要は、私がこの話は一切聞かなかったということにすれば良いわけです。ただし、あなた方には自分たちの分を十分に弁えて行動してもらわねばなりませんよ。それともう一つ、経過については逐一私に報告してもらいたい。よろしいですかな」

「分かりました。ありがとうございます」

 

アートルム研究所本社は、楓や紅葉、銀杏、それにポプラなどの木々で囲まれた新信州市郊外の広大な敷地の一画にあった。少し前までなら、これらの木々があたかも金屏風のようにその奥にある空間を神秘的にしていたはずだが、今はすっかり金や銅色した葉を落とし、針金細工のような細い梢が湿気を帯びた薄青の空にシルエットを残しているだけだった。

パステルカラーに塗られた工場や研究施設、それに体育館などの福祉施設が整然と配置されているのが車窓からもよく確認できた。

その一際立派な本社の駐車場に私たちは車を滑り込ませた。10階建ての本社ビルは、ベージュ色した大理石の肌を持つ瀟洒な造りで真新しかった。

私たちは、女性秘書に案内され9階にある武藤取締役の執務室に入った。そこは広々とした、シックなペルシャ絨毯の敷きつめられた豪勢な部屋だった。大きなガラス窓のはるか向こうにペールグレイの寒々とした雪山の連なりが見えた。

その窓を背にして、武藤良也は、彼自身がひどく小さく見えるほど大きな机を前にパソコンのキーを打っていた。

彼は、女性秘書に2度目に声を掛けられ、ようやく気がついたかのように顔を上げると、無愛想な表情のまま立ち上り、われわれに応接間を指さした。

 

この最初の印象どおり、武藤良也は倣岸極まりない無礼な輩だった。背の高さは、およそ170センチで小太り、茶のスリーピースに黄色いシャツ、趣味の悪い火炎模様の真っ赤なネクタイを締めた猪首の上に不快という字を大書した顔があり、くせ毛の強い白髪混じりの髪がその上に乗っている。

縁のないアンバー色をした眼鏡を掛けていて、その奥に猜疑心の強そうなぎょろ目がある。鼻も口も大きいが、それら三つのパーツが相俟って大らかさというよりは暴力的な雰囲気を醸し出していた。

よほどゴルフにでも精を出しているのであろうか、白いものの混じる頬髯と顎鬚がタン色に日焼けした顔の輪郭を隠していたが、およそ明彦の端正な顔とは違い、顎の張った醜男の典型とでも言うべき容貌をしていた。

「おやじが是非会ってやってくれというから、どのような重大な用件かと思えば、飛行船会社の社長さんとは、これはまた、最初から中身のある話とは思えませんな」私の名刺を受け取ると、いきなりそう曰わった。

半分冗談なのだろうと憤る腹を納めたが、どうもそうではないらしい。自分から先に応接の椅子にどっかと身を沈めると、顰め面をしたまま、それでも私たちに座るよう手を伸ばして見せた。鎮男は、自身を紹介する機会を失していたが、まったく気にもしていないようだった。

私は、良也の背後に仏像の光背とはまったく正反対の気味の悪い赤紫色をしたオーラが漂っているのを見た。何食わぬ顔とはよく言うけれども、口の周りを今食ったばかりの鼠の血で真っ赤に染めた茶色い猫を見たような気がした。やはり、鎮男が正しかったのだ。それは、この男に巣くう悪を、そして過去の悪行を表しているのに違いなかった。

私は鎮男の顔を見ながら座ったが、彼の方はいつもどおり不動の表情を崩さない。ただ、いつもと違うのは、誰の目にも最高級品と分かる仕立ての良い銀ねずのスーツを着こなしていることだった。真っ白なシャツに真っ赤な幾何学模様のネクタイが良く映えている。私は、そっと安堵のため息をついた。今このような倣岸不遜な男を前にすると、如何に鎮男が頼りになるかが分かる。

「それで、どのような用件ですかな。まさか、うちに飛行船を買ってくれなどという話ではないと確信しますが」

「明彦君は、あなたの本当の息子さんですか」

落ち着いた静かな声だったが、鎮男のその奇襲は、良也に痛烈な打撃を与えた。陽に焼けた顔がたちまち葡萄色に変った。

「なんだとっ」良也は、唾を飛ばして叫んだ。「いきなり、無礼にもほどがある」

「思ったとおりだ。やはり、違うらしい」鎮男がまったく動ぜずに言った。「いえね。写真で見る明彦君とあなたの容貌、体格が余りに違うので、つい訊ねてしまったのですが、明彦君は、あなたの亡くなった奥様、武藤淑子さんの前夫で、わずか25歳で夭折した天才物理学者、伊地知義明氏の忘れ形見ということで間違いありませんな」

私は驚いて鎮男の顔を見た。その表情は凛として動かない。

さすがの良也も気圧されたように、しばらく言葉を失していた。

 

「そんなことを、そんな私のプライバシーに関わることを調べたくてここにやってきたのか」

ようやく落ち着きを取り戻すと、良也は鎮男を睨みつけるようにして言った。

「いいえ。そうではありません」鎮男がきっぱり否定する。「ただ、あなたもご承知のように、つい先日まで自衛隊、そして世界中の軍隊という軍隊が非常に混乱した危険な状態にあった」

「ああ。そんなことなら子供でも知っておるわ」

「その事件に、どうもあなたの義理の息子さんが関わっているようなのです」

そのとき、良也がふんと鼻を鳴らしたような気がした。

「その明彦ならずっと前に死んでおる。ご存じではなかったのかな」

「勿論、承知しております。そしてまた、あなたの義理の息子さんは、伊地知氏の血を引かれただけあって、大変な天才だったとも聞いております。実は、その彼がわれわれにあるメッセージを残してくれていたのです」

「あんたがたにメッセージを」良也は怪訝な顔をした。「あなたがたと明彦にいったいどのような関係があったと言うのですか」

良也の口調が少し丁寧になった。そして、それと歩を合わせるかのようにその顔に少しずつ警戒の表情が浮かびはじめていた。

「彼は、明彦君は、自分と同程度以上の頭脳の持ち主にしか気づかれないような方法でメッセージを残すことを考えたようです」私は、鎮男に代わって良也に説明した。

「ほう」良也は、馬鹿にしたように私を見た。「その天才がまさかあなたということではありますまいな」

「もちろん、違います」

「そら、そうでしょうな。そんな天才であれば、飛行船会社の社長などで止まっておられるはずがない」

私はいい加減辟易していた。こいつは、まったく口の減らないガキのような男だ。しかし、ここで怒りを爆発させたのではこれまでの辛抱が水の泡だ。

「その通りです。しかし、私の隣の男こそがその明彦君に匹敵する天才なのです」

「ほう、そうですか。それは、それは、大変お見逸れした」良也は、鎮男に視線を移し舐めるように見た。

「私は、残念なことに、自分のことを天才などと思ったことは、ごくごく小さいときを除いてほとんどありません。おそらく、明彦君もこの点では同じだったと思います。天才などどこにでもいるものです」

「なるほど、ありがたい天才の言葉をお伺いできて光栄ですな」

「ところで、その明彦君が残したメッセージについてですが、お知りになりたくはありませんか」

鎮男は、良也の一瞬の表情の変化も見逃さないかのように身じろぎもしないで見ていた。

「別に知りたくはありませんな。しかし、それが今回の件と何か関わり合いがあると仰ってるからには、私にも親として知る義務があるぞということなんでしょうな」

「あるいは、アートルム社の経営者として」

「それは、どういう意味ですかな」

「実は、御社の製造になるMRIにも今回の事件に深く関わっている疑いがもたれています」

「ほう」と、良也は驚いた様子を見せない。「わが社のMRIがどのようにあの事件と関わっていると仰るのですか。場合によっては、名誉毀損で訴えることも辞しませんよ」

私は、だんだんとボクシングの試合を見ているような気になってきた。初め、良也は嵩にかかった態度で攻めかかってきた。しかし、鎮男にはそんなはったりはまったく通用しないばかりか、逆にボディーブローを2度3度と浴びせられ、ジャブやストレートを打って逆襲を図るもいとも簡単にスウェイで逃げられてしまう。こいつは、とても手に合う相手ではないと分かってくると、クリンチで逃げたりサミングをやったりと、ダーティーなボクサーの本性を現してきたのだ。

「御社のMRIには、人間の脳にアクティブに作用する要素が組み込まれています」

鎮男は、確信でもあるのか、まったく私が知らないことをここで明らかにして見せた。

「何か証拠でもお持ちですかな」

見ると、良也は不快そうに腕組みをしている。

「それを証明するのは、それほど難しいことではない。私の知り合いに頼んで、御社のMRIを徹底的に調べれば分かることだ」

「なるほど。しかし、まだそれをやってはいないということですな」

「武藤さん」鎮男が隣の私も驚くようなどすの効いた声で凄んだ。「とぼけるのはそろそろ止めた方がいい。あのMRIを開発したのはあんたでしょう」

「誰がどのようなものを開発しようが、あんたにとやかく言われる筋合いはない。だいたい、他人の会社にやってきて失礼にもほどがある。これ以上、私はあんたがたと話をする気はない。帰ってくれ」

 

鎮男が静かに立ち上がった。私もそれにならって立った。気がつくと、秘書らしき若い女性が両手に盆を持ったままじっと立っていた。鎮男は、その盆から茶碗を取ると一息に飲んだ。

「ありがとう。おいしかったよ」そう言って、茶碗を盆に返すとにっこり笑ってみせた。そして、そのままトップコートを掴むと何事もなかったかのようにドアに向かった。私も彼女に会釈を返して彼に続いた。

 

帰り道、車の中で鎮男が独りつぶやくように言った。

「これは、ちょっと、わいが見立てた筋書きと違うてきたようやな」

私は、彼の隣に座っていた。

「どんな具合に違ごうてきたんや」

「分かるやろ。今回の件には、あのおっさんが絡んどる。間違いない」

「どんな風にからんどるんや。あんまり、めったなことは言わんほうがええで。なにしろ、相手は大企業のトップなんやからな」

「そやけど、ことは人類の存亡に関わる問題や。手を拱いとるわけにはいかんで」

「何をするつもりや」

MRIや。あの会社のMRIを徹底的に調べ上げる」

「そんなことを言うたって、どうやってMRIを手に入れるんや」

「手に入れるわけやない。MRIの被験者になるんや」

「なんやって?」

「被験者になって何が起こるのかを確かめる」

「そんなことをして、洗脳されても知らんで」

「心配せんでもええ。わいには考えがある」

「ほんとに大丈夫なんやろうな」

 

私たちは、その足でR研究所に向かった。そこは、鎮男のスーパーコンピュータがリンクしている唯一の施設だった。

3階建ての建物は随分と古く、あちこち傷みが目に付いた。モルタルを塗り固めた外壁は、老人の皺のようにクラックが無数に走り、青黒い苔や黴が老人班のように覆っていた。

「ここには、わいも十分寄付をさせてもろうとるから、大概のことは聞いてくれるやろう」

鎮男は、ここの理事長と懇意のようで、またしても私に携帯で連絡を取らせたのである。

 

理事長は愛想よく二つ返事で面会に応じてくれた。

「確かに、ここにもアートルム社のMRIはおまっせ。しかも最新式のや。なんせ、あそこのこの手の製品には、他社の追随を許さんもんがありまっさかいな」

理事長は、関西弁丸出しでしゃべる気さくな人だった。日焼けした頭にわずかばかりに残る髪は真っ白で、それが霜柱のように立っていた。

「そやけど、いったい何を調べにならはるんですか。なんぞ、あの装置に欠陥でもありますんかいな」分厚い眼鏡の奥から小さな目が怪訝そうに鎮男を見つめている。

「いやいや、そういうことではありません」私は、鎮男に代わって答えた。「ただ、この人が新たな発明をするのにどうしても必要らしいんです」

「ほう。なるほど、そういうことでっか。そんなら、きっとまた世の中をあっと言わすような、ええもんができますな。そういうことやったら、こちらとしても喜んでお貸しいたします。どうぞ、どうぞ、存分に御研究なさってください。担当の者には、私からあんじょう言うときますから」

 

私たちは理事長に礼を述べ、早速MRI室に入らせてもらった。

入る前、私は時計を外し、そして両手を合わせた。なぜなら、そこが仏殿のような気がしたからである。もちろん、仏はMRIであり、それを納めた仏殿であるMRI室の扉には、一切の金属製品を身から取り外すよう注意した大きな黄色いステッカーがお札のように貼られていた。

「鎮男ちゃん。良かったなぁ。これ貸し切りやで」

私は、その分厚いステンレス製の扉を開けて中に入ると、何か目新しいものを見た時の浮かれた気分になって言った。

「アートルム社製、∇-20XXや。ほんまにこれ最新式や。この研究所は、外見に似合わずこんな高価なものを入れとったんや」鎮男は、装置のドーナッツ型リングを撫でながら感心したように言った。

「なんぼくらいするもんやろ」

「さあな。億に億を重ねんとあかんやろうな」

「とにかく、これで念願のMRIは手に入ったわけやけど、これからどないするつもりや。誰が、この輪っかの中に入るんや。――まさか、ぼくに入れ言うんやないやろうな」

「もちろん、わいが入る」鎮男はそう言って、スーツの内ポケットから折りたたんだ紙を取り出した。「こうちゃんは、これからこの紙に書いたとおりの操作をしてくれたらええんや」

鎮男は、いつもながら抜かりがなかった。常に先のことを読んで行動していた。それもまるで神がかりのような用意周到さで。

 

「ええか」

私は、鎮男が頭にヘッドギヤのようなものをセットしてMRIの上に横になったのを確認するとスイッチに手をかけた。

「いつでもええで」

天井のスピーカーから鎮男の何の抑揚もない声が流れた。

私は、スイッチを押した。何事が起こるのかと、私は、操作室の窓からずっと様子を見ていたが、鎮男には何の変化も起きなかった。30分ほど経過して鎮男の頭部のスキャンが終わった。

 

「30分間、ずっと立て続けに頭をハンマーで殴られとるようやったわ」両手で頭を押さえ、ちょっとふらつくようにして寝台から降りながら鎮男が言った。

「ほんまか」

「嘘に決まっとるやろ」

「そうやろうな。そやけど、なんか分かったか」

「ああ。大変なことが分かったで。実は、明彦君は、死んではおらんかった。ちゃんと生きとったんや」

「なんやって」私は、鎮男の顔をまじまじと見た。これまで、「明彦」と呼びつけだった鎮男が彼のことを君付けすることも気になった。しかし彼は、そのまじめな表情を少しも崩さない。「また鎮男ちゃんらしゅうもない。そんな他愛もない嘘を言うて、ぼくをからかうつもりか?」

「いや嘘やない。これは、だいたい予想しとったことやけど、明彦君はやっぱり生きとったんや」

「それは、いったいどういうことや。そしたら、今日会うたあのおっさんは、義理のとはいえ、自分の息子が生きとることを知らん言うんか」私は少し興奮していた。

「まあ、わいの言うとる意味がほんとに知りたかったら、この機械の中に頭を突っ込んでみることやな。そうでもせんかったら、とても信じてはもらえんやろ」

 

そのときからだった。私の信じる、慣れ親しんだこの世の中の、この宇宙というものの様相がすっかり変ってしまったのは。

 

私は、鎮男の言うとおりにMRIに入った。まな板の上の鯉になった気分で寝台に仰向けになり、カーン、カーンという潜水艦を叩くソナーのような物寂しい音を聞きながら、強力な電磁石に自分の脳味噌のでき具合を調べさせていた。

しかし、それは最初のほんの数分間だけで、突如として私は幽体離脱を体験したのだ。もちろん、それまでにそんな経験をしたことなどなかったから、果たしてそれが本当の幽体離脱というものなのかどうかは分からない。ひょっとしたら、私は単に夢を見ていただけなのかも知れない。

しかし仮に夢だとしても、それは余りにリアルで、私の五感のすべてが頑なに理性という計器の指示を否定した。

私は、幽体離脱をし、鎮男が言ったように明彦に会ったのである。そのとき、明彦は、なんとMRIのすぐそばに立って、微笑みながら私を見ていた。非常な長身で、痩せていて、色白の、絹糸のように細い長髪を淡いピンクに染めた、弦の部分が髪と同じピンク色の眼鏡をかけた少年が、にっこり笑いながら、私の手を取ってMRIから立たせてくれたのだ。私は、今でもそのときの柔らかで温かな手の感触を左手に感じることができる。

「君が明彦君ですか」私は、ひどく驚きながらも、自分の声帯が乾いた声でそう言うのを確かにこの耳で聞いた。

「はい。武藤明彦です。大友さんでいらっしゃいますね。つい先ほどは、平さんにもお会いして、多くのことを語り合いました。大変素晴らしい方だと感銘を受けました」

「ありがとうございます。おっしゃる通り、鎮男は、私が心底から誇りにできる数少ない友人です」私は、立ち上がって、明彦と相対しながら、自分が17歳の少年に敬語を使うのに内心苦笑していた。

「平さんにも言いましたが、あなたがたは、かなり核心部分に近付いてはこられたようです。しかし、まだまだ真実とは程遠い所におられる」明彦は、笑いながらそう言った。

「その真実を、今ここで話してもらうわけにはいかないでしょうか。なぜ、人類せん滅などという愚かなことを考えるようになったかについて」

「愚か? ですか。それは、見解の……、視点の違いとしか言いようがありませんね。ぼくは、こんなにも不条理でこんなにも愚かな人間という生き物は、もうそろそろ滅ばなければならないと思っています。しかし、まだ本当に手を下してしまうには少し迷いもある。なぜなら、あなたがた二人がここまでやって来たから……。いや、やって来てくれたから、と言っておきましょう」明彦は、MRIのドーナッツ型のリング部分に片手をつき、しなやかな身体を斜めにしていた。真っ白な、膝までも丈のあるカラー付きのシルクのような光沢を持つ上着に、やはり同じ生地で作られた白いスラックス、そして素足に白いサンダルを履いていた。

「ところで、私の友人は……、平鎮男は、君に訊ねなかったでしょうか。君が自殺した理由について」

「いいえ。確かにぼくは自殺をした。しかし、今こうしてあなたとお話をしている。平さんは、たぶんこれがどういうことかをお考えになられたのではないでしょうか。そして、そのお考えになられた通り、これこそが、ぼくの目的であり、手段でもあったのです」

「自殺が目的でもあり、手段でもあった? と言われるのですか」

「ええ。その通りです」

 

 

そのとき、私は、遠くの方で鎮男が私を呼ぶ声を聞いた。明彦もふとそちらに気を反らしたかのように思えた。

 

「こうちゃん。どうやった?」

「えっ」私は、その方を見た。私は、自分が寝たままの姿勢であることに気がついた。明彦ではなく、鎮男が笑いながら私を見ていた。

「どうや。わいが言うたことはほんまやったやろ」

「いったい、どういうことなんや」私は、そのときになって初めて驚きの叫び声を上げた。「ほんとに明彦は生きとるんか。それとも、わいらはこの機械によって幻覚を見せられとるんか」

「ほう。なかなかええことを言うやんか。幻覚を見せられとる……。たしかにそう取れんこともないなぁ」鎮男は、妙に感心したように言った。

「なんやいな、その言い方は」私は、寝台から起き上がりながら不服を言った。「幻覚なんか、それとも本当に明彦が生きとるんか、どっちなんや」

「さあな。わいにもよう分からん。そやけど、仮にさっきのが幻覚やったとしても、誰が何の目的でそんな大がかりな仕掛けを作ったんや。そして、あの自衛隊による大騒ぎは何やったんや」

「そうやなぁ。考えれば考えるほど、明彦の張ったクモの巣に絡まっていくような気がするわぁ」

「なぁ、そうやろう。彼は、かつて地上に存在したことのないほどの、ものすごい天才や。それは間違いない。その天才が今やろうとしとることは、こうちゃんが今言うた、蜘蛛の巣のように張り巡らされた情報網を自由自在に駆使して、愚かな人間どもを駆逐し、自分が理想とする世界を作り上げることなんや」

「そらぁ、理想的な世界を作るんは一向に構わんけど、そのためにぼくらまで殺されてしまうんやったら、そら、どうぞお好きなようにと言うわけにはいかんわなぁ」

「そやけど、彼も言うとったやろ。まだ、手を下してしまう決心がついてはおらんと。わいらの命運は、今まさに風前の灯いうことや。しかし、まだそこには一片の希望も残されとるということでもある。つまりやなぁ、彼が何でこんなに人間を憎むようになったか、その辺を調べて見る必要があるんやないか、ゆうこっちゃ」

「なんか、心当たりでもあるような感じやなぁ」

「目指すは、アートルム研究所や。それは、明彦君から聞いた。あそこに今回の事件を解く鍵があるとな」

「明彦君がほんまにそんなことを言うたんか」

 「ああ。ほんまや」

 

 

 こうして、私たちは再びアートルム研究所に向かうことになる。しかし、今度は穏やかな方法でではない。大臣からは、自分たちの分をよく弁えて行動するようにと諌められていたが、鎮男はそんなことなどお構いなしだった。そんな、悠長なやり方では、人類は今すぐににでも滅びてしまうかも知れないというのが彼の主張だったのだ。

 

 鎮男は、私を連れて一度彼の家に引き上げた。そこで、新たに作戦でも練り直すのかと思ったが、そうではなかった。

私たちは、お互い普段着に着替え、居間のちゃぶ台を前に座っていた。ちゃぶ台の上には、すでに例の一升瓶があった。鎮男と私は、ローストビーフをつまみにグラスを傾けていた。突然、彼が箪笥の引き出しからタオルに包んだ何かを取り出した。

 「こうちゃん、これの使い方分かるか?」

 受け取ると、ずしりと重かった。それは、拳銃だった。銀色に光る38口径らしきリボルバー。しかし、それは正規の拳銃ではなかった。と言って、安物のモデルガンを改造したものでもない。それは、鎮男のハンドメイドだったのである。

 「こんなもん、いったいどうやって作ったんや」そう言ってしまってから、はっと気がついた。私の目は、自然に土間に置かれたNC旋盤の方に向いた。

 「あれは、このためのもんやったんか」

 「いや、そういうわけやない。あれは、わいの発明のために必要欠くべからざるものや。しかし、その拳銃は、たしかにあれを使って作った。その銃口をよう覗いてみ。ちゃんとライフルも切ってあるやろ。あの旋盤にはそういうこともできる機能がついとるんや。それに弾もようけ作って、試し撃ちいうか、発射実験もやっとる。絶対に暴発したりすることはない。その点は安心してもろうてもええ。それに第一、その拳銃にはまだ弾は入っとらん」

 「安心してもろうてもええて、いったい何を言うとるんや。僕に人殺しの真似をさせるつもりか?」

 「いいや。真似やない。実際にそれを使って、これから大勢の人間を、いや人間の姿をした化け物どもを殺しに行かなあかんのや」

 「人間の姿をした化け物?」

 「そうや。あのアートルム研究所は、文字通りの化け物の巣になってしもうとる」

 「なんで、そんなことが分かるんや。明彦君がそう言うたんか」

 私は、ローストビーフを口の中に放り込みながら言った。

 「いや、明彦君は、ひょっとしたらそのことには気がついてはおらんかも知れん」

 鎮男は、そう言ってワインを喉に流し込んだ。

 「そしたら、なんで鎮男ちゃんは、それが分かったんや」

 「それは、一口には説明できん。ただ、わいには不思議な霊感があって、人間と化け物が臭いで分かるんや」

 「それで、あの武藤良也には化け物の臭いがしとったと、こういうわけやな」

 「そのとおりや。一目見たときからそれには気がついとった」

 「しかし、仮にそうやったとしても、あのおっさんを殺したら殺人になるで。いいや、あいつは人間ではないんです、ほんとは化け物なんです言うても、そんなことは誰にも通用せえへんで」

 私は、いささか酔いが回ってきていたが、それでもそれだけのことが言える理性は残っていた。

 「そんなことはよう分かっとる。そやけど、奴が企んどることは、明彦君の考えとることよりもはるかに恐ろしいことや」

 「なんや、それは。いったいどこから、そんな情報を引っ張り出してきたん?」

 私は、鎮男が酔っ払ったのかと思い、少しずつ自分の酔いが醒めていくのを感じた。

 「いいや。これは嘘でもなんでもない。わいは、あのときにはっきりとそれを感じたんや」

 「あのときって、MRIに入ったときか。――とにかく、あそこで何を感じたんか知らんけど、ぼくは人殺しの手伝いなんかさせられるんはまっぴらごめんやで」

 「あいつが考えていることが、全人類を奴隷にしてしまうことでもか」

 鎮男の顔つきが厳しくなった。

 「なんやって?」

 私は、激しい眩暈を感じた。明彦の件が未解決だというのに、鎮男は、アートルムなどという新たな魔物を発見してしまったのか、あるいは作り出そうとしているのだ。

 「あいつは、アートルム研究所を利用して、人類の奴隷化を計画しとる。それをわいは、MRIに入ったときに知った。あの中で、明彦君と話をしとって、アートルムの中で何かたちの悪い計画が実行に移されようとしていることに気がついたんや。その首謀者が武藤良也や」

 「それで、明彦の計画の方は?」

 「明彦君の計画は、言ってみれば、純粋な動機に基づくもので、人類を滅亡させるとは言うても、そこにはある種の少年らしい感情がある。ところが、義理の親父である武藤良也の企みには、腐った贓物の悪臭が漂うとる」

 「ほう。鎮男ちゃんには、そういう正義感があったんやなぁ。ぼくは、もうちょっとクールな男や思うとったんやけどな」

 その言葉に、鎮男は過敏に反応した。私の方に目を剥いて言った。

 「こうちゃん。正義と言うのは何や。善と悪の境目はいったいどこにあるんや。そんなもん、相対的なもので、わいは言うんも恥ずかしいけど、波動性と量子性の問題のように、同じひとつの行いが見方によっては善にもなり悪にもなるアンビヴァレンツなものやと思うとる。逆に言うたら、すべてのものには必ず善悪両方の要素があるわけや。こっちから行くと右カーブでも反対からやと左カーブになるやろ。それと同じことや。――ライオンがインパラを襲って食う。それは、ライオンにとっては、小さな自分の仔を養わなあかんわけやし、自分自身も生きていかなあかんわけやから、それは当然善いことやわな。そやけど、インパラにとっては、大変な悪行なわけや」

 「だんだん、話が難しゅうなってきたな」私は、少し食傷気味だった。

「そやけど、今回の事件の核心はまさにここにあるんやで」

 「核心がそこにあるって。そんな思想的な事件なんか、今回のこれは……」

 「何事にもその核心には何かしらの思想があるんや」

 「そら、そうやけど」

 「そして、その核心は、追及していけばいくほど、だんだんと迷宮の奥深くに迷い込んでいくことになる。この事件の核心にも人間性の深い闇が潜んどる。明彦が人類滅亡を企んどる。しかし、人類を滅ぼすことが悪か善かは、誰にも分からん」

 「そんなことはないやろ」私は反論した。「今さっき、鎮男ちゃんも言うたやんか。ライオンにとっては善でもインパラには悪やと」

 「それは、たしかに人類にとっては、滅亡はもっとも避けたいことやから、悪という見方もでける。しかし、明彦が考えとるんは、人類滅亡後の新しい何物かの創生や。彼は、人類などという下らない生き物はもう終わりにして、新しいものの時代にしようと考えているんや。それが果たして悪やろうか」

 私は、鎮男の言おうとしていることが分からなくもなかった。明彦は、人間という存在の下らなさに絶望した。そしてこんな生き物は全滅させた方が良いと考えるようになった。たしかにそれは、少年らしい純粋さから発する考え方ととれなくもなかった。しかし、おそらくそれは、ほんの一時の激情、言ってみれば、麻疹にすぎないのではなかろうか。

「――それで、もう一方のあのおっさんはどうなんや。あのおっさんの方は、明らかに悪なんか?」

 「武藤良也の企みは、明彦とはまったく違った動機から発生したものや。あいつは、自分の欲望のために、人類を自由自在に操り世界を我が物にしようと考えとるんや。そのためやったら、悪魔とでも手を結ぶやろう。そして、その悪魔いうんが実際にあいつの周りにようけ集まって来とるんや」

 「あのおっさん、ほんとにそんなことを考えとるんか。たしかに、あんな傲岸不遜な男は今まで見たこともないけど、そうやからと言って、化け物扱いして殺してしまうんは、ちょっとやり過ぎやないか」

 「こうちゃんは、まだよう分かっとらんようやな。わいらがMRIに入ったやろ。そのときから、世界はがらりと様相を変えてしもうたんや」

 「鎮男ちゃん。ちょっとワインの飲みすぎちゃうか。だんだんと、話が現実離れしてきとるような気がしてきたで」私は、本気で鎮男が酔っ払ってきているのだと思い始めていた。

 「わいは、いくら飲んでも酔ういうことはない。それに現実離れしてきとるいうたけど、実際にわいらは今、その現実から離れたところにおるんや。気がつかなんだか?」鎮男は、大きな足を前に投げ出し、後ろに片手をついた楽な姿勢をとりながら言った。

「いいや。さっぱり分からん。いったい、どんな風に現実が変わったんや」

「逆にこっちから聞こう。そしたら、明彦と会うたんは、あれは、どっちの世界でのことやったんや」

「どっちの世界って……。あれは、向こうの非現実の世界でのことやろ」

「ほんとにそうやろうか」鎮男の目は微かに笑っているように思えた。

「どういう意味や、それは」

鎮男は、おもむろに立ち上がった。そして、書斎の方へと歩き始めた。

「こうちゃん。おもしろいものを見せちゃるわ。ついてきてみ」

 

私は、拳銃を右手にぶら下げたまま鎮男の後に続いた。足を踏み外さぬよう気をつけながら、ゆっくりとウォールームへの階段を降りる。私は間違いなく酔っていた。

 鎮男がリーダーに人差し指を押し付けた。カシャッという音がして同時に扉が滑らかに右にスライドした。

 「やあ」という声がした。その声の主の姿が目に入ったとき、私の心臓は一つ空転した。そこには、椅子に座って片手を挙げている明彦の姿があった。

 「こ、こ、これは、いったいどういうことや」私は、唇がわななくのを感じた。恐怖が私の全身を泡立たせた。

 「驚かすつもりはなかったんやけど、わいらは、つまりわいと明彦君は、あのとき、MRIで知り合うたときに、すっかり意気投合してしもうたんや。わいと明彦君とは、歳も離れとるし生まれ育った境遇も正反対というてもええくらいに違うとる。そやけど、その思想いうんか、考え方には非常に多くの共通点があることが分かったんや」

 「そら、二人とも大変な天才やもんな」私は、ただ正直な感想を述べただけだった。

 「大友さん」

明彦が、あのときの白い服装のままの明彦が、いつの間にか私の方にまっすぐ椅子を向け直していた。

「あなたは、今さっぱりわけが分からない状態になっておられる。無理もないことと思います。そこで、いったい何故このような、あなたにしてみれば狐につままれたようなことが起こりえたのか、それについて説明をしてみたいと思います」

そのときの私は、まさに明彦の言ったとおり、異界にでも迷い込んだような、自分の身体が自分のものではなくなったような夢現の状態だった。

「まぁ、こうちゃん。わいらも椅子に腰掛けよ」鎮男は、自分の椅子に腰を降ろすと、革張りの椅子の背に手を掛けて自分の左隣まで転がした。

「ぼくは、なんか眩暈がしてきた」私は、拳銃の銃身を持って鎮男に渡すと、椅子に腰掛けながら額に手をやった。額は、汗をかいているのに驚くほど冷たかった。

 

ネオゾロアスター

 

明彦の話は、要領を得ていて実に論理的だった。それによると、アートルム社は、長年の間、極秘裏に量子コンピュータの開発をしていて、ついに実用段階にまで達した。亡くなった母の意志を継いで、その量子コンピュータを実現に導いたのが明彦だった。明彦は、量子コンピュータの可能性確認のため、量子縺れを利用した量子解析装置まで開発し自らその実験台となった。そして、それが彼の目的を実現するに十分な性能を持っていることを確認すると、自殺を図った。

 

「……だから、ぼくは本当に死んでしまったわけではないのです。ただ、肉体を失い魂だけの存在となった」

「しかし、君は人類殲滅を計画している。それをいったいどのような方法で実現しようとしているのか知らないが、もしも人類が一人残らず滅びてしまったら、君は、君の魂は、たった一人で生きていかなきゃならなくなる。それは、とても寂しいことではないですか」

私は、明彦がなんと答えるのか耳を欹てていた。

「おっしゃるとおり、それではとても寂しく詰まらないことでしょう。でも、ぼくは、決して一人ぼっちになるつもりはありません。人類は、全体としては非常に下らない愚かな生き物ですが、ほんのごく一部には、平さんのような、素晴らしい魂を持った人間もおられる。ぼくは、これらの、ぼくの思う純粋な魂だけを選んで、この世界に住まわせようと思うのです」

「いずれにせよ、私は抹殺されるほうの人間なわけですね」

私は、彼のいう純粋な魂に鎮男は選ばれても決して自分が選ばないであろうことに嫉妬と劣等感、そして恐怖を感じた。

「それは、違います。現にあなたは、こうして私と話をしておられる。このことの意味をよく考えてみてください」

「……」私の頭は、濁った川の水を透かして見るように、なかなか川底の石が見えないでいた。

「こうちゃん。明彦君の言うてる意味は分かるやろ。わいらは二人ともアートルム社の量子コンピュータに取り込まれてしもうたというわけや。明彦君は、その目的のためにMRIのいくつかに量子解析装置をしかけとったんや。そして、自分の目的にかなう人物だけを量子コンピュータの中に取り込んだんや」

「それやったら、ぼくらの肉体は今どこにあるんや。この身体が本物やのうて、ただ、魂がこれを現実やと思いこんどるだけやったら、本物の身体はいったいどこにいってしもうたんや」

私は、隣の鎮男に噛み付いた。

「それは、R研究所のMRI室の中や」

「そしたら、鎮男ちゃんの肉体はどうなんや。ぼくは、MRIから鎮男ちゃんが出てきたんをちゃんと見とるんやで」

私は、御殿場のホテルでの件といい、今回の件といい、鎮男には何か重大な隠し事があるように思えて仕方がなかった。しかし、何故かそれを徹底的に追求するだけの勇気が起きない。謎を突き詰めたいという欲求はあるのだが、いざ実行しようとすると急にブレーキがかかってしまって一向に前に進めないのだ。

「大友さん」鎮男に代わって答えたのは明彦だった。「平さんは、私などよりもずっと以前から、自分の肉体と精神を自由にコントロールする術を発明された大先輩なのですよ」

私は、鎮男の反応を確かめようと顔を見た。そして、そのうなだれたような表情に愕然とした。それは、あの中学の卒業式のときに見た顔とまったく同じだったのである。私は、それ以上何も言うことが出来なかった。酔いは急速に醒め、ドンちゃん騒ぎの後のような後味の悪さだけが残った。

 

鎮男が、静かに椅子から立ち上がった。

「まだ、見せなあかんもんがあるんや」

「いったい、何や?」

「一緒についてきて」

 

鎮男と私は、明彦を残したまま階段を上がった。

外に出ると、頭上には煌々とした満月がかかっていた。凍てついてざっざっと音のする道を鎮男と私は納屋の方へと歩を進めた。

そのとき、私たちの足音とは別の微かな足音が近ずいてきた。かと思うと、いきなり私の右の脹脛に何か弾力のあるものがぶつかった。まぁだった。彼は、はぁはぁと白い息を吐きながら嬉しそうに私の顔を見上げている。

 

鎮男がガレージを兼ねた納屋の戸を跳ね上げた。冷気の中、藁の匂いが鼻孔をついた。鎮男が電気を点けると、Nコロの向こうに色鮮やかな耕運機や小型のトラクターが見えた。鎮男は、それらをすり抜けるように先に歩いてゆく。納屋は非常に奥行きがあって、突き当りは、ロフトになっている。その上には、稲藁がぎっしりと束ねて積んであった。

鎮男は、その手前のコンクリートの床に敷かれた分厚い茣蓙の前で立ち止まった。茣蓙の上には平たくなった大きな麻袋が一つ置かれている。それがまぁの寝床らしく、ところどころが擦り切れたり噛み切られていたりしていて、短く切って詰めた藁がハリネズミのようにつき出ていた。鎮男は、中腰になって茣蓙の端を両手で持つと、自分の方に2mほど引き寄せた。

まぁは、抗議の目を鎮男に向け、仔犬のような甘えた声で鳴いた。

「まぁ、心配すんな。後でちゃんと元に戻しちゃるで」鎮男が子供を宥めるように言った。

茣蓙の下には、たくさんの藁屑と何匹もの団子虫や小さなムカデのような虫が驚いて這いまわっているほか、特別何か変ったものがあるようには見えなかった。何十年も昔の、陶器の傘がついた100Wの白熱電球が織りなすオレンジ色の空間の中で、床のコンクリートだけが微かな青みを放っていた。しかし、いくら目を凝らして見ても、茣蓙の下のコンクリートは、幾分色が白っぽいものの他の部分と変りがあるようには見えない。

不思議に思っていると、いつの間にか鎮男は、納屋の隅からブリキのバケツとハンマーを下げて戻ってきた。バケツを傍らに置いてしゃがむと、ハンマーでコツコツとその白っぽい部分を打ち始めた。クラッカーでも割るようにすぐに大きなひび割れが走った。まぁがハンマーの音に興奮したのか、両足で土を踏み均すような仕草をしてみせた。

鎮男は、軍手をはめた手で割れたモルタルの破片を手際よくバケツに収めていく。その下にコンクリートブロックが姿を現した。鎮男が慎重にブロックの一つを取り除くと、その下に何か銀色に光る物があった。

私は、鎮男を手伝って、合計12個のコンクリートブロックと四角い穴の真ん中に入れられていた逆T字型をした鋼材を取り除いた。120cm×75cm角のジュラルミン製のコンテナが深さ7,80cmほどのコンクリートの空間に納まっていた。

二人でそのコンテナを引き上げる。随分と重かった。30kgはあるに違いない。いったい何が入っているのか。

鎮男がダイヤルの数字を合わせてコンテナのロックを解除した。蓋を開けると、その中に30cm角ほどの木箱が二つと70cm×80cmほどの木箱が入っていた。

「こうちゃん、何か分かるか?」鎮男が立ち上がって背筋を伸ばしながら私に訊ねる。

「いいや」私は、そう答えたものの、その声が不気味な予感に小さく震えているのを感じた。

「小さい方の箱には、兄貴と親父の骨壷が入っとる」

「やっぱり、そうやったか」私は、白い息とともにその言葉を吐き出した。

「そやけど、わいが見せたかったんは、こっちの大きい方や」鎮男は、何の感情の移ろいも見せず大きな木箱の蓋を開けた。

中には、新聞紙に包まれた銃器類が詰め込まれていた。実包らしきものの入った紙の箱もある。

「こんなことをして、戦争でも始めるつもりか?」

すっかり酔いの醒めた私は、腹を立てて言った。

「言うたやろ。わいらは40年後に一緒に戦わなあかんのやて」

「あの会社とかいな」

「武藤良也とや」

「繰り返しになるけど、ほんとにあのおっさんがそんな悪人なんか?」

「こうちゃん。気持ちはよう分かるけど、どうかわいを信じて協力してくれ」

鎮男は、訴えるように私を見た。

私は、鎮男のその真剣な眼差しに何も言えなかった。そして、彼の言うとおりやれるだけのことはやってみようと腹を決めた。

「よし、分かった。こうなったら、一蓮託生や、どこまでも付いて行っちゃるわ」

 

私は、鎮男に倣い、新聞紙に包まれた自動小銃やオートマチックピストル、それにクリップを取り出し、一つ一つ丁寧に点検した。そして、そのすべてに弾を装填し、鎮男が車から持ってきたキャンバス地の大きな黒いバッグに詰め直す。

ステンレスパイプ製のストックを取り外した自動小銃が2丁、オートマチックピストルが4丁、予備の弾を入れたクリップがそれぞれ2組ずつ、それらは皆、みな鎮男のハンドメイドだった。全てがステンレス製で、黒いバッグの内側で妖しい銀色の光を放っている。

私は、クリップに実包を込めながら、いったいどのようにして弾を作ったのか鎮男に訊いた。

「弾頭も火薬も薬莢もファイヤーリングピンもみんな手製や。特に火薬は、わいが発明したもので、通常火薬の2倍近い威力があるんや。材料を集めるのには相当苦労したけど、百姓がええ隠れ蓑になった」

鎮男は、涼しい顔でそう答えた。私は思わず身震いした。このような男がもしも決意をもって悪の道に足を踏みいれたとしたら、いったいどういうことになるのだろう。

そんな私の危惧を尻目に、鎮男はバッグのファスナーを閉め、軽くなったコンテナを一人でそっと穴に戻しはじめていた。私は、はっと居眠りから醒めたようになった。しゃがんで鋼材を手に取ると、穴の中にすっぽり納まったコンテナの上にセットした。そうして鎮男と二人、ブロックを元通りに並べ終えた。30分でまぁの寝床は元に戻った。まぁは、嬉しそうに麻袋の上に乗ると2,3回ぐるぐると落ち着かない様子で回っていたが、やがて尻尾を巻いて丸くなった。

 

鎮男は、一人でバッグを持つとNコロの後部座席に積み込んだ。そして、そのまま運転席に座ると、エンジンをかけ、私に乗るように声をかけた。

「こんな夜中から戦争をおっぱじめるんか」

私は、助手席に身体を乗り入れながら嫌味を言った。

「そうや、今夜こそが決着をつけるに最良の夜なんや」

鎮男はヘッドライトを点灯させ、ダッシュボードに付いたシフトレバーをローに入れた。Nコロは、前輪をスリップさせながら猛然とダッシュした。しかし、しばらく走ると、町の方ではなく山側の緩やかな斜面に作られた広い畑の方に向きを変えた。そのまま畑の中へ入る。さすがにスピードを落とした。凍てついた土がタイヤハウジングやアンダーボディに当たって鈍い音をたてた。高出力のHIDライトが照らすうねった黒い畑の土が私を異空間へと誘うかのようだ。

 

「いったい、どこへ行くつもりなん」私は不審に思って訊いた。

その答えが、いきなり前方の漆黒の闇に浮かび上がった。

[00101V10]

鮮やかな青いイルミネーションが点灯し、続いてプラズマ推進装置のメンブレンが淡いオレンジ色の光を放った。まるで巨大な行灯か提灯に灯がともったかのように、10人乗りの遊覧飛行船OAS15がその巨大な姿を現した。いつのまにか、わが社の飛行船が、畑の中に立てられた係留ポストに大人しく繋がれていたのである。

 

鎮男は、飛行船前部の操縦席近くに車を停めた。そして、エンジンをかけたまま車を降りると、リアドアーを開けドラムコードを下ろした。

私は、放心したように飛行船を見上げながら助手席から外に出た。飛行船の放つ光は、ごくごく弱いものであったが、それでも月明かりの何十倍も明るく、眩かった。私には見慣れたはずのそれが何か異様なもののように思われた。

OAS15は、巨大な紡錘状をした本体前寄り下部に乗客を乗せるための、本体と骨組みを一体化したポリカーボネート製、幅3メートル、長さ10メートルものゴンドラを抱いている。ポリカーボネートは、その大部分が透明で、客室の断面はV字型にわずか傾斜している。これにより、乗客たちは、アイスクリームを舐めながら、あるいはカンビール片手に下方全周にわたって広がる、摩天楼のメタリックな輝き、風がそようつ緑の草原、あるいはイルカたちがジャンプしながら走る紺碧の大海原を、様々な高度から満喫することができるのだ。

 

私は、この船に乗りこむときの客たちの表情をよく知っている。その目はいつも太陽のように輝き、頬は夕焼けのように紅潮している。そして若い娘たちは、期待に胸を膨らませ恋する男の腕を取って搭乗していくのだ。

しかし、私はいま、凍えた黒い畑の土に靴を半ば埋もれさせ、沈鬱な思いで飛行船を見上げていた。

 

「こうちゃん。何をぼさっとしとるんや」

私は、鎮男の叱声ではっと我に返った。

そちらを見ると、鎮男は、リモートを使って船尾の係留綱を引き絞っていた。電動ウィンチの音が、一際高くなったNコロのエンジン音に混じって聞こえてくる。鎮男は、車の助手席に設けたコンセントからドラムコードを伸ばし、DC12VからAC100Vに変成した電気をもらってウィンチを回しているのだった。

「ポストの方も下げるんや。飛行船会社の社長やろ」

最後の一言は余計だった。私は、オレンジ色に塗られたポストに向かって急いだ。ポストの高さは20メートル。コンクリートの基礎の上にしっかりと固定されている。

『こんなものまで作っていたとは……』

私は、改めて鎮男の計画の周到さ、予知ともいうべき先見性に頭がくらくらするのを感じた。

ポストには、ステンレス製の操作ボックスが付いていた。私は、キーホルダーを上着のポケットから出して、その中から扉を開けるキーを見つけた。それは、ごくありふれた、技術屋なら誰でも持っているタキゲンの200番というカギだった。

 

扉を開けると、2mほどの長さのケーブルが付いた黄色いリモコンスイッチがあった。私は、それを引き出し、船首を見上げながらダウンのスイッチを押した。鉄柱がポップアップアンテナのように少しずつ縮みはじめた。

やがてゴンドラの底が地上2メートルほどにまで下がった。鎮男は、車に戻って電源コードを引き抜くと、中に乗り込みゴンドラの真下まで慎重に移動させた。全くの無風で、OAS15はぴくりとも動かない。

私は、リモコンを操作ボックスに収納すると鎮男のところまで戻った。鎮男は、すでにエンジンを切って車を降り、ルーフの上にバッグを乗せ終わっていた。

 

「こうちゃん。その格好では動きにくいで」鎮男は、そう言いながら自分の革ジャンを脱ぐと私に放り投げた。自分自身は、車の後部座席から例の擦り切れたトレンチコートを取って袖を通している。私は、カシミヤのセーターの上にはおっていたジャケットを脱いで車の後ろに放り込み、鎮男の体温の残る革ジャンを着た。ファスナーを締め、手を思い切り上に伸ばしてみたり身体を左右に捻ってみたりした。

私は、鎮男の顔、というより身体をまじまじと見た。私より一回り体格の大きい鎮男がくれた革ジャンは、けして大きすぎることなく驚くほど私の身体にフィットした。そして、見かけとは違って、大変な優れものであることが分かった。いったい何の皮を使っているのだろう。非常に軽く、かつしなやかで動きやすい。

「それに、その靴も履き替えた方がええなぁ」鎮男は、革のハーフブーツを私によこした。

そのブーツも、オーダーメイドしたように履きやすく軽い。私は、嬉しさの余り、まぁが納屋の中でやったように何度も何度も土を踏んでは固めた。

ふと、鎮男はと見ると、円縁の帽子を被り、すっかり公園で最初に出会った時の姿に変っていた。

「そのコートがよっぽど好きなようやなぁ」からかうつもりではなかった。

鎮男が微かに笑ったような気がした。

「こうちゃん。実は、このコートはなぁ。わいの就職祝いにおやじが買うてくれたものなんや。――あほなおやじやろ。もうじき春やいうときにこんなもん買うて」

私は、言葉を失った。そのとき、鶴いっつぁんの声が、――いつも喘息の発作が起きないようそっと言葉を吐く癖のついた、鶴いっつぁんの痰の絡んだ弱々しい笑い声が耳元で聞こえたような気がしたのである。

「なぁ、こうちゃん。おかしいやろ。鎮男は、40年も前のコートをまだ後生大事に着てくれとるんや」

 

鎮男は、そのコートを翻してエンジンフードの上に跳び乗った。そして、すぐにルーフに跳び移ると、ゴンドラのスライド式ドアを開けた。そしてバッグを両手で持つと、投げ入れるように中に入れた。その瞬間、Nコロのルーフがベコッという大きな音を立ててへこんだ。しかし、鎮男は意に介する素振りも見せず、私に上がってくるよう眼で合図した。

「係留索はどうするんや」私はまだ決心がついていなかった。

「心配せんでもええ。綱は、自動で外れるようになっとる」

私は、あきらめてエンジンフードの上に乗った。鎮男は、すでに操縦席で指差ししながら計器類のチェックを行っている。私は、両手を付いて体重の分散を図りながら慎重にルーフに移ると、アルミ製のステップに足をかけ開口部の内側に付いたバーを両手で握って中に入った。

 

私がシートに座ると、すぐに飛行船は、少女の手を離れた風船のように浮かび上がった。係留していたロープは、カチャットいう軽快な音をさせてラッチが外れ、今や上昇を妨げているものは唯一空気の抵抗だけだった。

私は、首を後ろに回して乗客席を見た。当然ながら、5列、10人分の席には誰も座ってはいない。ただ、重量調整のために砂の入ったタンクが座席下に設けられており、いまそのタンクの中は砂で満たされているはずだった。

今夜のクルーズは、私と鎮男の貸し切りだった。ざっと見積もって数百万円の豪華な深夜デートだった。

 

しばらくの間、ぽつんぽつんと木々の中に街路灯らしき電球の灯りが見えるほか、下方には何も見えなかった。ただ一面の黒い闇である。あらためて、いかに人間離れた山奥に鎮男が住んでいるかを思い知らされる。

 

しかし、5分も過ぎると、国道を走る車のヘッドライトや赤いテールランプが見えてきた。かと思うと、すぐその先にクリスマスを彩る新信州市街の煌々たる灯りが現れた。

鎮男は、すでに室内灯を消していた。インストールメントパネルは、さながらクリスマスツリーのように色鮮やかな光のディスプレイに満たされている。

高度は1000m以上を維持していたから、誰かに発見され通報される恐れは少なかった。もっとも、発見されたところで何を恐れることがあろうと私は思うのだが、鎮男は用心深かった。彼が目指しているのは、もちろんアートルム本社だったが、郊外にあるそこまで最短でたどり着くには市街上空を通過せねばならない。しかし、鎮男は、山に囲まれた新信州市の辺縁を辿るコースをとった。それが一番人目につきにくいと考えたのだ。

 

OAS15は、副操縦席である私の席からも操縦ができるリダンダンシーシステムを採っている。コックピットの真ん中にあるスイッチを私の方に倒すだけでそれが可能だった。

「こうちゃん。ターゲットが見えてきたで。最初にわいが降りるさけぇ、操縦を替わってぇな」鎮男は、スイッチを私の方に倒すと客席の方に移動した。

鎮男の言うとおり、前方数キロ先に10階建ての大きなビルが姿を現していた。この時刻――深夜零時を過ぎても多くの窓からは灯りが漏れている。超高感度カメラをズームアップして見ると、その屋上には緑色に塗られた広いスペースがあり、黄色いペンキで円の中にHの文字が描かれている。ヘリポートだった。赤く太い縞が3本入った吹流しがポールから垂れ下がっている。鉄棒にぶら下がって背筋を伸ばす運動をしている人のように見えた。

私は、赤外線カメラにスイッチを切り替えた。案の定、煙突からは高温の排気ガスが上がっていた。恐らくボイラを焚いているのであろう。

後ろを見ると、鎮男は、バッグの握り手にロープを通し、舫い結びに結んでいた。

「こうちゃん、目標上空5mまで降下してくれ」

「アイアイサー」私は、データを打ち込みヘリポートの真上20mで自動的に降下が停止するようセットした。そして右のペダルを一杯に踏む。この船の特徴は、PPUすなわちプラズマプロペルユニットの推進力を下に向けることで急速な降下が可能なことだ。もっとも、このような急降下は遊覧飛行の場合に行われることはない。

私は、レーザー高度計の針の動きに注視した。青い光の針が毎秒10mのスピードで降下していた。計算的には、100秒で目標上空20mに達する。

鎮男は、コートの股を割ってハーネスを装着すると、カラビナのついた太いロープの一端をハンドレールに固定した。そして、手に持ったロープを8環に通し、それをハーネスに付いたカラビナにセットする。

90秒余りでOAS15は降下スピードを落とし、95秒でヘリポート上20mに達した。

「こうちゃん。5mや。5mまで降下させて」鎮男がドアを全開にして言った。

「分かった」と私は答えたが、5mは非常に難しい高さだった。全長70mもの飛行船が避雷針などの突起物や煙突や冷却塔の上昇気流の影響を受けない高度は、せいぜい20mだった。それを鎮男は5mと要求した。

私は、下方に付いたカメラの映像を見ながらゆっくりとペダルを踏み込んだ。高度計は20mから1mずつ表示をカウントダウンしていく。OAS15は微かに振動を始めた。尻の方がヘリポート下方に設置された煙突からの上昇気流を受け、緩やかな円運動をしているのだ。

「5m」と私は叫んだ。

「OK」鎮男は、グローブをはめた手でロープの端に結わえたバッグを下ろし始めた。しばらくして、バッグがヘリポート接触した音が微かに聞こえた。

「こうちゃん。わいが降りたら続いて降りてくれ」鎮男が私を見て言った。

「心配せんでもええ。この飛行船は、このビルの上空で待機してくれとるはずや」

鎮男は、私に座席の上に置いた緩降装置付きのハーネスを示した。

「フックをレールに掛けて、後はその装置に身を任せるだけや」

そう言い残すと、8環を巧みに操って降下を始めた。レーンジャーのような慣れた身のこなしだった。

私は、飛行船の揺れが少し気になったが、鎮男の言う通りオートパイロットに任せてシートを離れた。ハーネスを身に付け、緩降装置のカラビナをレールに引っ掛ける。そして、開口部左右のレールをしっかり握ったまま後ろ向きにしゃがむと、両手で静かに身体を押し出すようにして飛び降りた。何ということはなかった。私の身体は、ゆっくりした一定の速度で降下してゆき、数秒でたいしたショックもなく着地できた。

OAS15は、私が着地したのを見届けたかのようにまっすぐ上に急上昇していった。

 

鎮男は、すでにコートの下に機関銃を吊るしていた。手にも一つ機関銃を持っている。私は、彼からその機関銃を受け取った。バッグの中にはピストルが4丁残っているはずだ。私はバッグを開き、エレベータホールの誘導灯の明かりを頼りにピストルを捜した。2丁をジャンパーのポケットに入れ、残り2丁を鎮男に渡す。バッグの中には予備の弾装と手榴弾が入っている。私は、その3ウェイのバッグをディーパックのように背負った。

見ると、鎮男は、入り口のガラスドアーに向かって拳銃を構えていた。拳銃の筒先にはマッフラーが付いている。私は、鎮男の大胆さに驚いた。が、何か言う暇もなかった。拳銃の音もガラスの割れる音も思ったより小さかった。しかし、音は、プシュッバシッ、キーンと3つに分かれて聞こえ、最後の金属音は、ガラスの向こうからびっくりするほど大きな反響となって聞こえてきた。弾は、ガラスを貫いた後、エレベーターの扉に当たってどこかに跳ねたようだ。ひょっとすると、エレベーターのシャフトを通して、誰かの耳に届いたかも知れない。

鎮男は、ガラスに開いた穴に銃身を突っ込んで割れ目を大きくし、さらに銃把で叩いて手を突っ込めるくらい大きな穴を開けた。彼は、そこから腕を入れるとスライド式ドアのクレセント型ロックを解除した。しかし、ドアは開かない。電気錠がかかっているのだ。このドアは、中から外に出るときにはカードかキーでロックを解除して開け、外から中にはインターホンで警備員を呼んで開ける方式になっているらしい。

そのとき、私は、1階にあったエレベーターの昇降インジケーターが上を向いたのに気がついた。

「鎮男ちゃん。誰かがさっきの音に気がついたんかも知れんで」

 「急がなあかんな」鎮男は、前を開いたコートから機関銃を出すと、腰だめに構えた。すでにエレベーターは、5階まで上がってきている。機関銃の発射音が轟いた。そして、ガラスが粉々に破壊される音。ガラスが滝のように砕け落ちると、目の前のエレベーターに無数の黒い穴が開いているのが見えた。エレベーターのインジケーターが9階で停止した。賢明な判断だ。あるいは、今の銃撃で何かトラブルが発生したのかも知れない。――いや、そうではなかった。インジケーターは8,7,6と下降を示し始めたのだ。

「いよいよ急がなあかんようやで」私は、平然と構えている鎮男に言った。

「だんだんおもしろうなってきたな」鎮男は短くそう言いながら、機関銃のストックでドアの鉄枠に残ったガラスの破片を撫でるようにして綺麗に取り除いている。

 私は、そのうちにパトカーのサイレンが聞こえてくるのではないかと思ったが、その様子はなかった。

鎮男が中に入った。

「非常階段で地下まで降りよう」彼は、続いてエレベータホールに入った私に言った。「このビルの構造は、予めよう調べといた。今ではもう我が家のようによう分かっとる」

 

 鎮男は、非常階段を靴音もさせずに駆け足で降りて行く。私も必死で彼の後に続いた。ターンの度に手摺を握って身体を方向転換させる。そしてまた、太腿とつま先のリズミカルな上下運動を繰り返す。

そうして、ようやく1階に着いたとき、ひどい眩暈を感じた。私は、背中のバッグを床に置くと、手摺に摑まった。じっと摑まっていないとどこかに飛んでいきそうだ。

 しかし、私より歳をくっているはずの鎮男はまったく平気に見えた。息も静かで汗一つかいていない。

 「こうちゃん。ここからは水平に動かなんだら直接地下へは行けんようになっとる。監視カメラもようけ設置されとるで、B2までたどり着くのは容易やない」

 「それに、わいらが侵入したことはとっくに気づかれとることやしな。警察が動かんのが不思議なくらいや」私は、はぁはぁ息を切らしながら言った。

 「警察が動かんのは、けっしてええサインやないな。良也の奴が、誰が何の目的でこのビルに入ったかを知っとるいう証拠やからや」

 「それで、これからどないするつもりや?」

 「これを有効に使う」鎮男は、コートを広げて脇に吊るした機関銃を見せた。「向こうもそれ相当の対応をしてくるやろ」

 鎮男は、一階のエレベータホールへ抜ける防火扉をそっと押し開けた。待ち構えていたように銃弾が唸りをあげて飛んできた。防火扉の内側が5,6箇所、凸型に膨らんだ。

 鎮男は、扉を引き戻した。

 「さっそく撃ってきたで」

 「鎮男ちゃん、どうする」私は、震える声で言った。

 「どうするって、奴らを皆殺しにするまでや」

 鎮男は、ドアの陰に身を潜めたまま平然と言った。銃撃の止むタイミングを見計らっているらしい。銃撃は散発的になったが、それでも数秒に1発くらいの割合で扉が内側に少し飛び出てくる。これを貫通するほど威力のある銃だったら、とっくにわれわれは一巻の終わりだったろう。

それが止んだ。ゆっくり数を数える。…8、…9、…10。鎮男は、ドアを左足で押し出すようにして少しだけ開けた。再び向こうが撃ってきた。鎮男もドアの隙間から自動小銃を掃射する。一瞬、向こうの銃撃が途絶えた。鎮男は、すかさずドアをいっぱいに開けると、滑り込みでもするように頭から床に向かって飛び込んだ。そして腹ばいになったまま銃を撃ちまくる。

 「こうちゃん。出てきて撃つんや」

 私は、すでに自動小銃を構えていた、が、撃とうか撃つまいか迷っていたのだ。広いロビーのどこにも敵の姿は見えなかったが、私は意を決し、腹ばいになった鎮男の上から自動小銃を乱射した。

 突然、鎮男が左横に転がった。転がりながらも銃を連射している。

 「受付カウンターや」鎮男が叫んだ。

受付カウンターは、こちらに正面を向けていた。しかし、そこには誰の姿も見当たらない。が、言われた通り、そこに向かって銃を撃つ。鎮男は立ち上がって、正面玄関側に廻り込むように大きく円を描いてカウンターに向かって走った。

 

 カウンターから何かが姿を現した。

「えっ」思わず声が漏れた。わが目を疑った。それは、女だった。しかもとびっきり美しい。受付嬢の姿をした面長の美しい女が恐怖に震える白い両手を挙げて、カウンターの後ろから立ちあがったのだ。

 次の瞬間、私は、鎮男に向かって大声で叫んだ。

 「撃つな! 撃ったらあかん!」

 しかし、鎮男は、私の声など聞こえなかったかのように、平然と女に向かって連射した。

 女の頭が胴から離れて吹っ飛んだ。私は、目を瞑った。しかし、何かが変だった。すぐにまた目を瞠いて見ると、頭を失った女の胴が緑色の液体を噴き上げながら後ろ向きに倒れ掛かっていた。化け物だ。女は化け物だったのだ。

 「こうちゃん。撃つんや。まだ、何匹も残っとる」鎮男が叫んだ。

 私は、その声に我にかえった。カウンターの陰から恐ろしい姿をした化け物が次から次へと姿を現していた。まさに悪夢だった。この世のこととはとても思えない。

 顔のない、形だけは人間の、軟体動物のように表皮がぬめぬめした化け物が手に手に機関銃を持って撃ってきた。鎮男が丈の高い草でも薙ぎ払うように機関銃を横に掃射すると、白い飛沫を上げながらばらばらになって吹っ飛んだ。

 

 しかし、一息つく暇もなかった。不思議なオーロラのような、様々な色に変化する光がロビー全体に立ちこめていた。突然、そのうちの白い光が急速に収斂して人間の形をとり始めたかと思うと、やがて実体化した。最初それは白いプラスチックのような光沢を放っていたが、やがて白衣を着た医者の姿に化けた。しかし、手には聴診器ではなく銃を持っている。私は、迷わず銃を連射した。すると、そいつは気味の悪い、獣のような、長く尾を引く苦悶の声をあげながら後ろ向きに倒れた。

 「鎮男ちゃん」私は、鳥肌の立つ思いに大声で叫んだ。「こいつらいったい、何なんや」

 「化けもんに決まっとるやろ」鎮男は、怒ったように言った。「それより、早よ下に降りなんだら、限がないで」

 

 鎮男は、エレベーター脇の地下に降りる階段に向かって走った。私も慌ててバッグを持って続く。

 疲れなどとっくに吹っ飛んでいた。アドレナリンが血中に溢れ、全身が熱い興奮に湯気だっていた。

 地下2階まで降りると、そこは迷路のように入り組んでいた。しかし、鎮男は、廊下と小部屋で入れ子細工のようになったフロアーを、磁石に吸い寄せられてでもいるかのように、目的の場所へと歩を進めていた。もっとも、私には彼がどこに行こうとしているのか皆目分からない。それに、あの武藤良也がそうやすやすと私たちを目的の場所に入れさせてくれるとも思えなかった。

 鎮男は、廊下が十字に交差したところで立ち止まると、右側の壁に身を寄せ自動小銃の筒先を上にして構えた。

 「鎮男ちゃん。罠ということはないか」私は、疑心暗鬼になっていた。

 「大いにあり得ることやな」鎮男は平然としていた。「そやけど、それを心配しとったら何事も先には進まん」

 鎮男が右の壁に、そして私は左側の壁に身をぴったりと寄せ、自動小銃を構えた。私は、右肩にストックを当て、筒先を上に向けて、じっと鎮男の合図を待っていた。

 「3」と鎮男がカウントを始めた。「2,1,ゴー」

 私は、筒先を降ろすと同時に身体を左に捻り、引き金を引いた。タンタンタンと咳をするように銃が火を吹いた。しかし、廊下には何もいない。

 「これは、いよいよ罠やな」鎮男は、銃を構えて前方を見たまま言った。「わいらをおびき寄せとるつもりなんやろう」

 「みすみすその罠に嵌るつもりなんか」私は、緊張にはぁはぁ荒い息をしながら、鎮男とは背中合わせになったまま答えた。

 「とにかく、行こう」

 鎮男は、そのまままっすぐ前に進む。その先には、大きなステンレス製の扉が見えた。どうやら、そこが鎮男の目指す部屋らしい。

 「そこに例の量子コンピュータとやらがあるんか」

 「おそらく。それに量子解析装置もな」

 私と鎮男は、扉の前に立った。扉には先ほどの銃撃でいくつも穴が開いている。扉の右下の壁に病院のオペ室のようなフットスイッチが付いていた。鎮男がその穴に右足を差し込んだ。扉が微かなモーターの音をさせて左にスライドした。

 

 中は、壁も床も淡いグリーン一色に塗装された大きな手術室だった。しかし、そこにはCTスキャナーを思わせる青色をしたドーナッツ型の装置が据え付けられており、また天井からはロボットアームのようなものが吊り下げられている。放射線治療を行う手術室とも思われた。ただ、そのスキャナーというのは長さが2mくらいもあって、人間一人が悠々と中に収まる大きさだ。

 「なぜ、こんなところに手術室があるんや」そう言ってしまってから自分の愚問に気がついた。「そうか、ここは医療機器の会社やったな」

 鎮男は、私の独り相撲を無視して機械のそばに寄った。そして、巨大な円筒の側面に付いたコントローラーらしき装置に手を触れている。操作は、簡単そうだった。鎮男が手馴れた様子でいくつかのキーを押すと、スキャナーの中から断面が半月型をしたベッドが静かに押し出されてきた。

 「明彦君は、自ら進んでこれの実験台になったんやろうか」

 「おそらくな」鎮男がまったくの無表情で答えた。「そして、自分の考えた通り、量子コンピュータの中に自分の魂をコピーして保存した。いわば、自分の精神的クローンを作り出したんや」

 「そして、それを確認すると自ら命を絶った」

 

 「その通りだ」

 私は、その声にはっとして扉の方を見た。そこに立っていたのは武藤良也だった。なんと奴は、サンダル履きに茶色のトレーナ上下という格好で機関銃を構えていた。そして、派手な背広姿のいかつい男たちが手に手に拳銃や機関銃を持って、にやにや笑っている。私は、そのとき、この良也という男は、大企業のCEOや物理学者などよりもやくざの親分のほうがよほど似合っていると思った。

 「実は、わしも昨日ようやくそれに気がついた。その点は、おまえたちに礼を言うべきかも知れん。なぜなら、あの後すぐにわしは、死ぬ直前の明彦の行動を仔細に調べてみたのだ。その結果、おまえたちが言った通り、あの坊主は、死ぬ前になかなか面白いことを企み、実行に移していたことが分かった。恐らく、それは、わしへのあてつけだったんだろうがな」

 「おまえに対するあてつけ?」鎮男が唇を歪めて言った。「おまえは、自分を大した者のように思っているらしいが、明彦君は、屁ほどにも思っちゃいなかったはずだぜ。もっとも、虱や南京虫のような男を義理の親に持ったせいで、一時的に人類殲滅などという考えに囚われるようになったことは間違いないと思うがな」

 その言葉に、周りの子分どもが一斉に銃を鎮男に向けた。

 それを良也が左手を横に払って制止した。

 「何とでもほざくがいい。どうせ、もうすぐおまえたちの始末はつける」良也は、にたにた笑いながら言った。「しかし、簡単には殺すつもりはない。今夜はうまいぐあいに我が教会のミサの日でな。ちょうど、我らが神に捧げる生贄が欲しかったところだ。おまえたちなら役不足ということはない。どうだ、有難いとは思わんか」

 子分の一人が良也の言葉が終わるのを待っていたようにつかつかと前へ進むと、私の手からバッグと小銃を奪い、ポケットを探って拳銃も奪った。

 見ると、もう一人の子分が鎮男にも同様のことをしている。そして、最後の仕上げのように鎮男を後ろ手にすると手錠を嵌めた。

 どうやら、私の方は鎮男よりは扱いやすい小物と判断されたようだ。手錠だけは免れた。有難いというよりは、情けなかった。

 

 私たちが連れて行かれたのは、さらに一つ下の階だった。そこへ行くには、エレベーターを使うしかなかったのだが、エレベーター自体が実に巧妙に偽装されていた。かご内パネルにはB2Fまでのボタンしかなかったが、子分がポケットからリモコンを出してパネルに向けると、エレベーターはさらに下に降り始めたのだ。

 

 エレベーターから出ると、私たちは小さな部屋に押し込められ、鉄の扉には鍵が掛けられた。何のための部屋かは分からなかったが、小さいながらも机と椅子があり、ソファもあった。少なくとも監禁のための部屋というわけではなさそうだ。

 鎮男は、コートのまま後ろ手に手錠を掛けられていたが、その顔には少しも焦慮が感じられない。机の前の椅子を足で引っ掛け背もたれを横にして引き寄せると、後ろ手のまま静かに腰を降ろした。

 「あいつは、たしか、わいらを生贄にするといったな」私は、ソファに腰を降ろすと、恐怖を押し殺しながら言った。「いったい、何をするつもりなんやろう」

 「さあな。あのサドのやることや、普通の人間には見当もつかんやろ」

 「見当もつかんて……」私は、恐ろしさに絶句した。

 「まぁ、心配せんでもええって」

 

 そうして、30分ほども部屋の中にいただろうか、ふいに鍵を開ける音がしたかと思うと、勢いよく扉が開けられ、火のような衣装に身を包んだ3人の者たちが中に入ってきた。頭のてっぺんから足の爪先まですっぽりと、絹の光沢をもつ真っ赤な袋のようなものを被っていて、男女の別も分からない。頭の部分は、ちょうど道路工事現場などで見かける赤いコーンのような頭巾になっている。目と口の部分は、三つの三日月型に穴が開けられていて、薄気味悪い笑顔になっている。そして手にはみな拳銃を握っていた。

 「いいな。二人とも大人しく付いてくるんだ」背の高い一人がそう言って、私の肩を押した。「おまえたちは、犠牲の山羊なんだからな」

  

私と鎮男が連れてこられたのは、巨大なコンサートホールのような空間だった。

私は、その舞台から大ホールの観客席が火事のように真っ赤に燃えているのを見て肝を潰した。しかし、その火は、勿論本当の火ではなく、真紅の衣装に身を包んだ、何の宗教かはまったく分からなかったが何百人もの信徒たちの熱狂の炎だったのだ。

しかし、それだけではなかった。大ホール全体をもう一つの怪しい光が覆っていた。それは、一階での銃撃戦のときにも漂っていた物の怪の光だった。それがオーロラのように、照明が暗く落とされたホールの天井近くをのたうちまわっていた。

そして、もう一つ驚かされたのは、舞台の真ん中に地下2階で見たのと同じ量子解析装置が据えられていることだった。

ほどなくして、良也が現れた。観客席から一斉に盛大な拍手が起こった。彼もまた、真っ赤な衣装に身を包んでいたが、フードを外し顔を露わにしていた。

 

「諸君」良也は、右手を挙げて拍手を止めさせると、獅子吼した。「我がネオゾロアスター教の神聖な夜に、まさに飛んで火にいる蛾の如く、自ら生贄が飛び込んできてくれた。いささか歳を食った、決して美しいとは言えぬが、なかなか歯ごたえがありそうな生贄だ」

観客席から、狂ったような拍手と笑いが起きた。

「ネオゾロアスターだと」鎮男が不敵にも口辺に笑いを浮かべて言った。「ニーチェが嘆くぜ」

その言葉は、拡声されて観客たちに伝わり、激しい怒りのブーイングを起こさせた。

「どうだ、諸君」良也は手を挙げて信徒たちを制した。「この通り、口の減らぬなかなか骨のありそうな山羊ではないか」

良也は、余裕の笑みを浮かべている

 「さて、わしは、この生贄については、われらに逆らったことを永劫に悔いるよう無間地獄に送ろうと考えるが、依存はあるまいな」

うぉー、という地鳴りのような響きがたちまちホールを揺るがした。

 良也がまた手を挙げてそれを制止する。そして、目で合図を送ると、赤尽くめの子分二人がそれぞれ、後ろ手に手錠をされたままの鎮男を挟むように肩を取って量子解析装置にまで押していった。良也が装置のコントロールディスプレイの脇に立った。何かスイッチを押すと、リングというよりはチューブと呼んだほうがよさそうな長さが2mもあるスキャナーの中から幅7,80cmほどの寝台がゆっくりと滑るように出てきた。それが10秒ほど掛かって停止すると、赤いクラン団の様な衣装に身を包んだ子分二人が、まるでこれから始まるイリュージョンのアシスタントのように、二人がかりでようやく鎮男を台の上に横たえさせた。

 鎮男は、この間まったく暴れるでもなく、悠然と彼らのなすがままにされていた。

 「彼にいったい何をするつもりだ」私は、そのときになってようやく抗議の言葉を投げかけた。

 良也が醜い笑いを私に向けた。

 「無間地獄に落とすのだよ。言わなかったかね」

 「その無間地獄というのは、いったい何なんだ」

 「それは、良い質問だ」そう言うと、良也は、観衆を前に右手をワイパーのように振った。「信徒諸君。諸君にもこの際、明らかにしておこう。無間地獄とは、われらに歯向ったり、われらを裏切ったりした者どもが落ちる地獄である。この地獄に落ちた者は、良いか、信徒諸君。永遠の生を得ることができる。――ただし、その生とは、一秒たりとも安らぎのない永遠に続く労苦なのだ。永遠の徒労を、シーシュポスの労役を、たった一人で永遠に繰り返すことになるのだ」

 ざわついていた信徒たちが全員、一斉に息を呑んだように静まり返った。

 それを確認すると、良也が声の調子を変えた。

 「しかし、我がネオゾロアスターに裏切り者などいようはずがない。したがって、無間地獄に落ちる信者など一人としていないはずだ。諸君には、その代わりに大いなる楽園が待っておる。わしを信じ、ネオゾロアスターについてくる者だけがこの恩寵を受けられるのだ」

 良也は、鎮男が台に拘束される様をじっと見ていた。そして、満足したように再び信徒達のほうに向き直ると言葉を継いだ。

 「この生贄は、間もなく無間地獄に落ちる。しかし、諸君たちは、わしを信じ、わしに忠実についてくる者たちは、その欲望の恣に楽園で遊ぶことができる。諸君たちは、この世で遂げられなかった、ありとあらゆる欲望を、――酒も、女も、男も、ドラッグも、殺人も、強姦も、その他ありとあらゆる、この世では悪とされ、忌み嫌われ、決して許されなかった、いわば人間としての根源的な欲求をすべて果たすことが出来るのだ。なぜなら、わしがそのように世界を作ったからだ。わしはさしずめ閻魔大王の代理というわけだ。そして、諸君も承知のように、ここにあるこの装置こそ地獄と天国の両方に通ずるトンネルというわけなのだ」

 良也は、そこまで話し終えると、コントロールディスプレイに手を添えた。

 「さぁて。鎮男とやら。最後に言い残すことはないかな」彼は、台の上の鎮男を覗き込むようにしながら、わざとらしい猫撫で声で呼びかけた。

 「ないな」

鎮男は、静かな、それでいて良也には侮辱的に聞こえるであろう口調で答えた。

「ほう」良也の声には明らかに驚愕が混じっていた。大抵の者なら、いくら強がってはいても死刑などよりも遥かに恐ろしいこのような刑罰を受けるとなると、大声で喚いたり、がたがた震えながら命乞いをしたり、失禁をしたり、あるいは気を失ったりと、醜態を曝け出してしまうのが普通だろう。しかし、この鎮男という男は、端然としていてまったく動じる様子がない。

「よかろう」良也は、驚愕の余韻が残る声で言うと、ディスプレイのタッチ式キーを操作した。

鎮男を乗せた台は、滑る様に穴の中に入っていく。

私は、鎮男の足がチューブの中に入っていくのをまさに断腸の思いで見ていた。無二の親友が、いま目の前で酷いことをされようとしているのに何一つ出来ない、それが余りに情けなくて涙が溢れた。

 

しかし、そのとき私は、何かの奇跡が起きたような気がした。見間違いかと思ってよく見たが、鎮男の足は金色に輝く光の微粒子になっていた。

良也の頬がチックのように引きつっている。明らかに彼も驚いているのだ。まったく予想外のことだったに違いない。

やがて鎮男の全身は、金色に輝く光の帯になって宙に漂い始めた。そして、このホールの天井にオーロラのようにのたうっている光の一つになった。

 

そして、その次に起こったことは、信徒たちをも驚愕の渦に巻き込んだ。宙に上がった金色の光と交代するようにオーロラの中にあったピンク色の光が舞台にスーと降りてきたかと思うと、良也と相対するようにチューブの後ろ側で人間の形に実体化し始めたのだ。そして、次の瞬間、初めは白いプラスチックの人形のようだった人物は明彦の姿になった。良也が仰天して背を仰け反らした。

「明彦君」私は、思わず声をかけた。「本当に君なのか」

「大友さん。先ほどはどうも」明彦は、私に笑顔を向けた。

「明彦……」良也は明らかに恐れ慄いている。

「これはまた、たいそうな儀式をやっておられるようですね。お父様」明彦の声は、平坦で、感情の片鱗もうかがわせなかったが、それがかえって継父に対する何か深く複雑に絡まった葛藤を想像させた。

 

いつの間にか、信徒たちが騒然としてきていた。ちょうど野焼きの火が風に煽られて肩を寄せ合ったり離れたりする様に、彼らは隣同士で、あるいは近くの者たちが小さなグループになって舞台で起きていることについてさんざめきあっているのだ。それがやがて、少しずつ火が爆ぜるような音となってにホールを満たし始めていた。

「諸君。どうか静かにしてくれ」良也が慌てて手を挙げた。始めの余裕はどこへやら、明らかに動揺している。それが信徒たちにも伝わったのか、なかなか会場は静まらない。

「静かにするんだ」良也が声を荒げた。それでようやく、燃え盛っていた野火が驟雨に打たれたように静けさが戻った。

 

明彦はと見ると、彼は長身をスキャナーの縁に斜めに凭せ掛け静かに微笑っていた。

「明彦君、鎮男は、いったいどうなってしまったんでしょう」私は、心配になって訊いた。今は、彼だけが唯一の頼りのように思われたのだ。

「心配いりませんよ」明彦は、笑いながら答えた。「あの人は、高いところから私たちの様子を笑いながら見ているんでしょう。そのうちにきっと現れるはずです」

 

「おまえたちはいったい……」良也は余りの衝撃に次の言葉が出てこないようだ。

「死者だよ。つまり死んだ人間だ」明彦の声は、挑戦的な響きに変わった。「その死者が、おまえの悪行を暴きにこの世に帰ってきたのだ」

明彦の澄んだ声は、春雷のように場内に轟いた。雷は、良也の頭上に炸裂し、彼の足元が一瞬ふらふらとよろめいたのが分かった。再び信徒たちから大きなどよめきが起こった。今度ばかりは、良也もなす術がない。しかし、彼は、その代わりに子分たちに目配せをした。忠実な3人の子分は、機関銃を明彦に向けた。信徒たちのどよめきが批難のシュプレヒコールに変わった。子分たちがその激しさに驚いて、良也の方に顔を向ける。

「いいから撃て」良也が命ずる。

「死んだ人間を殺せると思うのか」明彦が声を上げて笑った。相変わらず、片手をズボンのポケットに入れ、スキャナーに身を寄せたまま動じる様子がない。

 

「いいから撃つんだ」

子分たちが至近距離の明彦に狙いをつけて撃った。ダダダダダッと火薬が炸裂する音と激しく金属が往復運動する音を響かせて機関銃が火を吹いた。弾丸は、確実に明彦を捕らえその身体を貫通した。明彦が苦悶に顔を歪めながら身体を前に折った。しかし、彼の口から溢れ出たのは、真っ赤な血ではなく哄笑だった。

「わ、私は、し、死者だ。し、死んでしまった人間なんだ。死んだ人間が銃などで殺せるわけがない」明彦は、ひとしきり大笑いすると、笑い疲れたように少し顎を落とした。

 そのときだった。天井近くから再び金色の光がスーッと降りてきて、明彦の隣で実体化した。鎮男だった。

「鎮男ちゃん」私は、嬉しくなって彼の方に走り寄った。

「心配かけてしもうたようやな」鎮男がにっこり笑った。しかし、急にその慈悲に溢れた大仏様の顔が鬼の形相へと変わった。そして良也を指差して吼えた。

「良也、よく聞け。これから、われわれは、おまえの信者たちに、おまえの正体を暴いてみせてやる」

「なんだとっ」良也の顔が赤黒くなった。「ふざけたことをぬかしやがって」

良也は、傍らの子分から銃を奪うと鎮男に向けて撃った。鎮男が私の両肩を掴んで床に臥せさせた。弾丸が空気を切り裂き、その衝撃波が私の頭蓋骨を削岩機のように激しく打った。目の隅に明彦がすばやい動きで良也に迫るのが見えた。彼は、瞬く間に良也から銃を奪うと、彼の右手を後ろ手にして思い切り締め上げた。

良也が苦痛に悲鳴を上げた。私は、鎮男がもう一人の子分から同様にして銃を奪うのを夢でも見ているように見ていた。

子分たちは、とても叶う相手ではないと悟ったのか、舞台の袖の方にほうほうの態で逃げ出した。

鎮男がコートから手錠を出して良也の両手に嵌めた。

 

 「ネオゾロアスター教の皆さん」突然、明彦が舞台の真ん中に立ち、観衆に向けて話しはじめた。長身の彼が両手を大きく天に向けて差し伸べるように広げると、その真っ白な服に天井のオーロラの光が反射して氷山に陽があたったように神々しい。「私は、皆さん方の教主、武藤良也の義理の息子、明彦です。世間では、この男の巧妙なマスコミ戦術により、私がこの男の嫡子であるかのように思われておりますが、事実は違います。良也は、当時有名な物理学者でもあった私の実父、伊地知義明を殺すと、その研究成果を奪った上、私の母親である武藤淑子と、その父である武藤真一が創立したアートルム社までも奪い取りました」

 信者たちが大きくどよめいた。

 

 「嘘だ」良也が、大声で叫んだ。「まったくのでたらめだ。信徒諸君。息子は、このような被害妄想が嵩じた末に自らを殺めてしまったのです」

 鎮男は、良也の言うがままにさせていた。

「私が息子の実の父親を殺したなどとは、妄想もいいところだ。彼の父親、伊地知君は、私の友人でもあったが、当時精神的に非常に落ち込んおり、ある種の薬に頼っていた。事実は、その薬の過剰摂取による中毒死だった。

世間では、自殺という説も一時流布されたが、身近にいた私が一番真相を知っている。あれは明らかに事故だったのだ。

その後、幼い明彦を抱えた淑子さえも精神的に非常に不安定になり、夢遊病者のような大変危険な状態だった。それを見かねた私が、彼女の御尊父、すなわち武藤真一氏を説得して武藤家に入り、彼女を見守ることにしたのだ。

そうして、何とか彼女も立ち直り、明彦も成長するにつれ天才少年と世間で騒がれるまでになった。もっとも私は、かわいい息子が世間から玩具のように扱われることに我慢がならなかったから、彼をイギリスに留学させたりもした。

――いずれにせよ、私は、我らが神の名にかけても、なんら疚しいところなどない。そればかりか私は、当時はまだ名も知れていなかったアートルム社を今日の姿にまで発展させた。こう言うのもなんだが、感謝されこそすれ、非難を受ける筋合いなどまったくない」

 良也は、最後の方では、怒りを露にするかのように大声で吼え、あまつさえその頬に涙の筋さえ伝わせてみせた。

 

 「言いたいのはそれだけか」

 鎮男がフラットなトーンで言った。

 「な、なんだと」

 「言いたいのは、それだけのようだな」鎮男は、再びフラットな調子で言った。「ところで、おまえの本名は何だ」

 「なんだとっ」良也がちょっとびっくりしたような顔をしてみせた。

 「おまえが、武藤家の養子に入る前の姓はなんだったのかと訊いておるのだ」

 「そんなことを訊いてどうするつもりだ」

 「言いたくないなら、それでもよい。おまえが先ほど天国と地獄に通ずると言った、この装置の力を借りるまでだ」

 

 「皆さん」再び、明彦が信徒たちに向かって呼びかけた。「この量子解析装置は、私がイギリス留学中に発表した理論、すなわち、この世界のすぐ隣にまったく別の世界が存在することを実証するために、アートルム研究陣の手によって開発したものです。私は、この装置と、別に開発した量子コンピュータを使って理想郷を構築しようと考えた。私の継父のような汚らしい人間の行いはどこから来るのか、それは不浄な肉体によってもたらされる。それならば、私は、その肉体を持たぬ、魂だけの人間を作り上げることはできぬかと考えた。この装置は、最初は私のその目的を達成するために作ったものだったのです。そして、私は、その目的が夢幻ではないことを確認すると、自らの理想を実証するために自死を遂げた。

しかし、私の死後、継父は私の理想を踏みにじるばかりか、死者を打擲するの言い通り、異界から化け物まで呼び寄せ、さらには自分の意のままにならぬ信徒を懲らしめる目的で無間地獄などという拷問さえ実現させた」

 信徒たちがいっそう喧しくなってきていた。多くの者たちが頭巾を脱ぎはじめ、男も女も髪を振り乱して口々に何かを叫んでいる。その叫びを聞いていると、良也を非難する口調が7割、逆に明彦を非難する者が3割と思われた。

 

 「諸君。息子の言っていることは、まったくの嘘ではない」良也が大声で叫んだ。観衆の声が一瞬静まった。そのわずかな静寂を利用して、良也が一気にまくし立てた。「嘘ではないが、彼は幻覚を見ているのだ。このような兆候は、彼の父親である伊地知にも見られた。これはおそらく遺伝性のものと思われるが、わしは、そのような悪い遺伝の犠牲になるつもりはない」

 「そうだ、その通りだ。そいつは、被害妄想狂だ」と、最前列に席を占めた禿頭の小柄な男が叫ぶと、それに賛意を唱える者たちが一気に攻勢に出て、会場はまさに火がついたような騒ぎになった。

 「皆さん」

明彦が両手を広げて天に向けて差し上げた。このポーズは、さしもの扇動者たちをもあっと叫ばせるほど神々しかった。

「私は、ここで皆さんと議論をするつもりはありません。私は、この男が実の父である伊地知義明を殺した殺人者だと言った。しかし、事件は20年近くにもなろうとしており、その物理的証拠も、また法的断罪の余地すらもない。

だが、このような男が世界的大企業のトップを、ましてや宗教団体の長を務めるなどということを私は断じて許すことができない。

みなさん、この男が企んでいることは、かつてアートルムを手に入れたように、この世界を我が物に、自分の恣にすることなのです。

――私は、殺人を示す物理的証拠がないと言った。しかし、その殺人の事実は、天知る地知る己知るとの言葉通り、すべてこの男の脳にある。今私は、この男の記憶そのものに語らせようと考えている。

いいですか、皆さん。これから私は、この男をQAにかける。量子解析装置にかけ、この男の記憶を皆さんにリアリスティックにお見せすることにする。あなた方が、これから体験することは、すべてこの男の脳に刻まれていることなのです。そして、これを体験した後、あなた方にかけられたこの男による洗脳も解かれることになる」

 

 明彦が言い終わると、鎮男が軽々と良也を台の上に乗せた。手錠を掛けられたまま良也はじたばた暴れたが鎮男が力でねじ伏せた。手早くハーネスで拘束すると、さすがに観念したのか静かになった。

 信徒たちの一部が暴徒化しそうな気配を見せたので、明彦が自動小銃を取って天井に向けて撃った。照明が粉々に壊れてガラスの破片が落下してきた。付近の信徒たちは、慌てて頭巾で防護したり、机の下にもぐり込んだ。

 「これは、脅しではない。邪魔立てをすれば、私は、あんたたちをためらうことなく殺す」

明彦の言葉は真に迫っていて、私でさえ恐ろしくなった。最前列の禿頭も今は羊のように大人しくなっていた。

 「明彦君」と鎮男が呼びかけた。「準備はできた。いつでもやってくれ」

 明彦が頷いた。小銃を上に向け、もう一方の手で器用にコントローラーを操作する。

 「鎮男ちゃん」私は、手が空いた鎮男に声をかけた。「さっき、良也に旧姓をしつこく訊いとったんは、何でや。あの男を知っとるんか」

 「それは、もうじき良也自身が語ってくれるやろ。それですべてが分かる」

 そう言う鎮男の声は、こころなしか沈んで聞こえた。

 

 良也の身体は、底なし沼に呑み込まれるようにゆっくりと解析装置の中に入っていく。そして全身がすっぽりと沼の中に沈んだとき、赤紫色をした霧が装置の両端から噴出しはじめた。霧は、燻蒸剤のように勢いよく立ち上り、すぐに天井にまで達すると横に広がり緩やかに降下を始めた。それと同時に腐った魚のような猛烈な悪臭が漂いはじめた。嘔吐する者や、もだえ苦しむ者たちでホールは騒然となった。

 私の胃も猛烈な拒否反応を起こし何度も何度も嘔吐いた。そして、苦しみながらも、恐らくこの悪臭こそ鎮男の言っていた「臓物の腐った臭い」だと思い当たった。

 そのうちに幻覚症状が現れはじめた。最初は、余りの悪臭による精神的錯乱だろうとぼんやり考えていたが、ふと明彦の言葉を思い出した。

 「あなた方がこれから体験するのは、すべて良也の脳に刻み込まれたことなのです」

 

 私は、二重人格者にでもなったような気がした。なぜなら、「私自身の意識」は、はっきりとしているのだが、それとは別の、決して夢ではない、しかし見たこともないはずのイメージが眼前に現れ、何ともいえぬ、サディスティックで凶暴な怒りのマグマが噴出するのを辛うじて理性という重たい鍋の蓋で抑えているような感覚を味わわされた。

 

悪 党

 

 伊地知義彦の顔がはっきりと見えた。明彦にそっくりの長身のハンサムな若者だった。頬から顎にかけて青く髭の剃り跡が残っている。

 場所は、大学の研究室だった。白衣を着た伊地知青年は、先ほどから机に向かって憑かれたように何かを書いていた。もう一人の私がその彼にそっと近ずいていく。

 その彼がふと頭を上げ、私を見た。

 「おお、丸田君か。例の薬を持ってきてくれたのかい。どうもありがとう。しかし、近頃ぼくはねぇ、なんだか、もう長くは持たないような気がしてきているんだ。それで、このように、一刻も早く研究を完成させたいと思って頑張っているんだが、なぜか日に日に倦怠感が募るばかりだ」

 「先生。きっとそれは、単に疲れていらっしゃるだけのことですよ。おそらく精神的なものです。先生は、春にはお子さんも誕生して少々張り切りすぎていらっしゃるから、一種の悪循環に陥っておられるのではないですか」

 上っ面だけをみれば、極めて穏当で思いやりに満ちた言葉ともとれた。しかし、この男の腹の中はどす黒かった。こいつは、伊地知青年の研究成果を横取りしようと虎視眈々と狙っているのだ。

 「先生、どうぞこの薬を続けて飲んでみてください」良也は、茶封筒を渡した。

 「ありがとう。ほんとうに、これまでこの薬には助けられた。これのお陰で何とかここまでやってこられたという気がするよ。これを呑むと、俄然活力が湧いてきてへこたれそうになった身体に鞭を打つことができる」

 伊地知は、封筒の中から一包取り出すと流しに行った。包み紙を開いて二つに折り、慣れた手つきでアスピリンのような粉末を口の中に落とし込む。そして、マグカップに水道の水を注いで飲み下した。

 それを見届けると、私、いや良也は腹の中でにやっと笑った。

 「まったく呆れるばかりのあほうだ。おまえなど所詮、大甘のぼんぼんに過ぎん。天才物理学者などといわれてはいても、せいぜいこんな程度のものなのだ」良也の心の声だった。「それにしても、神とは不公正なもんだ。なぜ、こんなくだらない男に数学の才能を与え、淑子のように美しい女を娶らせたのだ。なぜ俺のような、知略も度胸もある男を買わない。しかし、まぁいいだろう。俺は俺自身の手ですべてを掴むまでだ。神が与えなかったものを、俺自身が神となって手に入れてみせる」

 「丸田君」急に元気になって、伊地知が良也に呼びかけた。「ぼくの研究は、もうすぐ完成する。自分でも言うのもなんだが、これは、間違いなく世界をあっと言わせるほどのものだ。いや、大方の凡庸な科学者には、私の理論の意味さえ分からないかも知れない。しかし、たとえ深く長い霧に包まれたとしても、私が成し遂げたことは、まさに金字塔のように人類が存する限り輝き続けるだろう」

 「先生。私は、先生を信じていますよ。しかし、世の中には鵜の目鷹の目で先生の研究成果を狙っている輩が大勢います。利口な先生のことですから、私などが言うまでもないことですが、どうぞ、完成するまでは他言無用でお願いしますよ」

 「ありがとう。分かってるよ。君は、私が世間知らずのお人よしだから心配でならないんだろう。でも、ぼくもまったくのばかではない。少しはその辺のことも考えてはいるよ。しかし、さっきも言ったとおり、これを世間に発表したところで、果たして世界中の何人の物理学者が理解してくれるか甚だ心元ない。そのくらい難解な理論だから、秘密が漏れたとしても何ら心配はいらないんだがね」

 「でも、先生。用心には越したことはありません」

 「ああ、分かってる。君の忠告はありがたく拝聴するよ」

 

 それは、良也が伊地知義明を籠絡し、彼の論文を横取りして殺そうとする場面だった。

私は、良也が伊地知青年に与えたのが覚醒剤だったことを良く知っている。なぜなら、そのとき私自身が丸田良也であったからだ。そして、この丸田という男が想像すらしたこともないほどの大悪党であることを骨の髄まで思い知らされた。

 この男の本質は、妬みと憎悪と怒りだった。これらこそが彼のまさにエネルギー源であり、マグマだった。そして、このマグマは、常に地盤の弱いところを見つけて噴出する機会をうかがっていた。

それはおそらく、この男の幼少期に深く関わりがあった。この男は、幼いときに父親から虐待を受けていた。母親の方も恐ろしく暴力的な父親に阿るあまり、時に幼い良也をいたぶることがあった。

良也の父親は、羽振りの良いやくざの親分だった。大きな事業をいくつもやっていて金はうなるほどあった。やがて良也が中学生になったころ、金にものを言わせて政治的な権力も手に入れた。市会議員になったのだ。

金と権力の両方を手に入れると黒い裏面を隠すことなど造作もなかった。いつの間にか、父親は地方の名士として奉り上げられるようになった。

 良也は腹の底から世間と父親を笑っていた。所詮、この世で幅を利かすのは暴力でしかない。それは、この世を貫く大原理だった。その点では、彼の父久良は良也にとっての良いお手本だった。しかし、彼からすれば、親父のやっていることは中途半端で手緩かった。なぜなら、あきれるほど多くの悪行を行っていながら、親父はまだ殺人に手を染めたことがなかった。

 

幼い俺の身体を年中痣が絶えぬほどに殴ったり蹴ったりしてきたが、また、いつぞやのように金を使い込んだ子分の脛を木刀で砕いて一生杖なしでは歩けぬ身体にしては見せたが、相手が死なぬよう手加減していることは明らかだった。俺には歯痒くてしょうがなかった。「親父よ、なぜ殺さぬ、こんな虫けらのような奴、殺してコンクリート詰めにしてしまえば良かろうが……」俺は、声に出して叫びたかった。

 

 私は、良也の心の中に、いつもこのような呟きがカリオンの鐘のように鳴り響いているのを知った。いや、声だけではない。その心象風景ともいうべき光景は、余りにも殺伐としていて草木も生えぬ月の地表のような荒涼としたものだったである。この男の心には一輪の花も咲いてはいなかった。花を咲かせるための一滴の潤いもなかったのである。

 このような男が今の地位にまで上り詰めたのは、ひとえにその権謀術数によるものだった。マキャベリズム。これがこの男のモットーだった。もちろん、その権謀術数には、彼一流の暴力の味付けがしてあった。

 

 短い時間のうちに私は多くの追体験をした。もちろんそれは、丸太良也のものだった。そして、それはついに核心部分に触れた。

 私は、一挙に鎮男の真の目的を知ることができた。それは、復讐だったのだ。

 

 そのイメージは、ふいに現れた。いや、イメージなどではない。それは、たった今、眠りから醒めたら繰り広げられていたかのような、悪夢の現実だった。そして、それは、恐らくまぁちゃんにとっても同じであったろう。 

まぁちゃんは、ガムテープで猿轡をされ、シャッターを降ろしたガレージの中で作業台の上に仰向けに拘束されていた。その顔は、血がにじみ出そうなくらいに紅潮し、両方の目の端からは小さな子供のように涙が留めなく流れ落ちている。それは、恐怖からくる涙だった。下半身は丸裸にされ、股を大きく開いた格好のまま、両足首を机の脚に縛られていた。天板の上に撒き散らされた糞尿の臭いが事態の深刻さを物語っていた。

 笑い声が聞こえていたが、本当に喜悦の笑い声を上げているのは良也一人だけで、後のものは追従笑いか、自身の恐怖を隠すためのごまかし笑いだった。

 良也は、それを良く知っていた。『こいつらは本当にごみのような奴らばかりだ。世間では悪とか不良とか呼ばれていても、本当は肝っ玉もきんたまも小さい、俺が面倒をみてやらなくてはどうにもならない屑ばかりなのだ』

 その屑どもが机の周りに3人いた。そして、年を食った顔色の悪い女が素っ裸で少し離れた壁際にある鉄のベンチに腰を降ろしていた。女が嗚咽を漏らした。これから始まることに恐怖を感じたのであろう。その戦慄く口には歯が一本もなかった。

 「おい、まぁ」良也がまぁちゃんに呼びかけた。「今日は、いい思いをさせてもろうてよかったやろ。どうやった、梅毒もちの女の味は……。そら、悪かったとは言わせへんで。おめぇは、梅茶漬けを3膳も立て続けに食うたんやもんな」

 周りから笑いが漏れた。

 「うるせぇ」

自分で笑わせておいて、その笑いが気にいらず良也が吠えた。とたんに追従笑いが消え、恐ろしいほどの静寂が薄暗いコンクリート製の狭い建物の中に鎮座した。

 「おい」良也が後ろを振り返り、ジローという丸刈りの小柄な男をぎろりと睨んだ。彼の親父は獣医師だった。

 「おめぇ、あれ持ってきとるやろうな」

 「はっ、はい」ジローは慄く声で答えた。そして、白いキャンバス地の肩掛け鞄の中から震える手で銀色に光る小さなコンテナを取り出した。

私は、昔、小さな子供だったころにその容器を見たことがあった。それは、医者が注射器などを納めるためのステンレス製のコンテナだった。良也たちは、様々な薬を入手するための道具としてジローを重宝していた。

 「おめぇが打ってみいや。おめぇは、親父の跡をついでりっぱな豚や牛の先生になるんやろうが」

 

 ジローには否も応もなかった。彼の言うとおりにしなければ、今度はこの自分がどんな酷い目に会わされるか目に見えていた。

彼は、二つ折りになったコンテナを広げてまぁちゃんの傍に置くと、鞄の中から小さなアンプルを取り出した。その透明な細い首の部分にハート型の鑢を当て円を描くように傷をつける。そして親指で押して折った。ガラスの頭が床に落ちて微かな澄んだ音をたてた。それが神聖な儀式の始まりを告げる合図のように聞こえた。

ジローは、注射器の針をアンプルに差し込むと双方を左手に固定し、右手で中の液体をシリンジの中に吸い上げた。

注射器を上に向け、液体を針の先から少し噴出させる。手馴れているように見えた。しかし、いざ注射する段になると緊張にぶるぶる手が震えた。獣医師の息子とはいえ、それは彼にとって初めての経験だった。震える手で、まぁちゃんの太腿にずぶっと針を差し込んだ。それは、親父が牛や豚に伝染病予防などの理由でやっているのを見よう見まねでやってみたまでのことだった。しかし親父は、彼とは違って見た目は乱暴なようでも決して動物に苦痛を与えない術を熟知していた。

まぁちゃんの右足がピクンと大きく跳ね上がろうとした。しかし、彼の足はロープできつく机に拘束されているため、その反動で腰が捩れるように浮き上がってスチールの机がコンクリートの床面をガ、ガッという音を立てて動いた。

ジローは、注射針の周りから血が太い筋になって机の上にまで滴り落ちるのも構わずピストンを押し込んだ。

まぁちゃんはあっけなく眠りについてしまった。死んでしまったわけではない、麻酔を打たれたのだ。

 「コンドー。こんどはおめぇの番や。このあほのちんちんときんたまを切り取ったれや」

 そのとき、女が口笛を吹いた。全員の視線がそこに集まった。しかし、それは女の声にならない悲鳴だった。

 「おい、女」良也は、ベンチの上の哀れな女をギロリと睨んだ。「このあほのちんちんがそれほど良かったか」

 女は恐怖のために一言も発せないでいる。そして、拘束されているわけでもないのに恐怖のためにずっと身動きさえできないでいるのだった。

 「おぇっ」良也は再びコンドーを睨みつけた。「切り取ったら、この女の口につっこんだれや」

 

 「は、はい」コンドーは、革ジャンの懐からジャックナイフを取り出した。鹿の角が握り手に嵌められていた。その握り手についたボタンを押すと、カシャッという音をさせて10センチほどの刃が飛び出した。

これまで彼は、このナイフをちらつかせて数え切れないほど多くのかつあげをやってきた。そして、やはり数え切れないほど多くの女を犯した。今回のように、良也の指揮でやることもあったが、そういうときには万一にも彼の名が表に出ることがないよう、万全を期さねばならなかった。そのため、犯罪は極めて巧妙、精緻な計画の下に実施された。

 

 今回は、サルの車が使われた。彼だけが18歳で運転免許があったのだ。彼の父親の家業は車の解体だった。解体した車は、大部分が鉄くずとして売られるが、ドアやボンネット、それにエンジンやヘッドライトなどは修理用のパーツとして取られ、大きな収入源になった。

 サルの本名は猿橋努といった。そのあだ名は、あだ名ながらまさに体を表していた。彼の顔はいつも赤く、額には大きな横皺が3本寄っており、鼻から口元にかけてが、まさに猿の口辺を思わせた。それにせわしなく動く小さな眼。このため、たとえ名前が猿橋でなくともサルというあだ名がつけられるのは運命の必然のように思われた。

 ピンクのキャデラックオープンカー。それがサルの愛車だった。前、後席合わせて6人がゆったり乗れた。あるやくざの愛車だったのだが、本人はトレーラーと正面衝突して愛人と共に天国に行ってしまった。

車は、事故調査終了後廃車となってサルの親父のところに持ち込まれた。器用なサルのおやじは、それを手間暇かけて修理し、とても大事故を起こした車とは思えないほどにまで仕上げた。色もマリーンブルーからピンクに塗り替えた。ピンクは幸せな色だからという理由からだった。そして、18歳になった不良息子の誕生日プレゼントとして与えたのだが、息子はもっぱら桃色遊戯に使うようになった。 

 

まぁちゃんが彼らの餌食になったのは、ほんの些細な諍いからだった。いや、というよりも彼らから一方的に因縁をつけられたのだ。

実は、その日の日中、例によって、まぁちゃんは道路工事の現場で旗を振っていた。そこに良也たちを乗せたサルの運転するキャディが幌をオープンにして通りかかった。まぁちゃんは、赤旗を横にして彼らの車を停止させたのだが、彼らはそれを無視して通り過ぎようとした。

「こら、あほ。わいらを誰や思うとんや。人をよう見てから旗を振らんかぇ」サルがまぁちゃんを罵りながら通過しようとした。そのとき、まぁちゃんが弾みで振った旗の先が良也の額に当たった。

サルが交通障害になるのもかまわず道を塞ぐかたちで車を急停車させた。そして、全員が車を降りた。

「こら、まぁ。いま、何をしくさった」良也が赤くなった額に手を当てながら低い声で怒鳴った。

まぁちゃんは、かわいそうに全身をぶるぶる震わせながら怯えている。その様子を見ていた道路工事の作業者や監督たち7,8人が駆け寄ってきた。そして、無言で彼らを取り囲む。遠くの作業者たちも事と次第によってはすぐにでも駆けつけんばかりの様子を見せている。こうなると、不良たちの分が悪かった。

「このあほが良也さんの頭を旗でどつきよったんや」サルが言い訳をした。

「嘘言うな」腕組みをした大柄でいかにも喧嘩慣れした感じの作業員が怒鳴りつけた。「わしはよう見とったで。おめぇらがまぁの旗を無視して行こうしとったんやねぇかぇ。まぁは、ただ旗を横にしとっただけや。おめぇらが勝手に旗にぶつかったんや。文句があるんやったら、警察呼んだるぞ」

良也がサルの肩を押した。

「おぇ、行くぞ。こんなあほらにかかわっとっても時間の無駄や」

「はい。わいの不注意ですいませんでした」サルは、良也に頭を下げた。それから、車に乗り込むと、嫌がらせにクラクションを激しく鳴らしながら過ぎていった。

「ほんま、あいつらは町のダニや」監督が吐き出すように言った。

 

女を見つけたのは、夕暮れの繁華街でだった。夕暮れとは言え、空は、多少の濃淡の差こそあれ墨をぶちまけたように暗い。その灰一色に泥んだ空に飲食店や風俗店の看板やネオンがどぎつい原色を浮き上がらせていた。

女は、飲食店などの入った雑居ビルの角に、一目でそれと分かる薄い黒のワンピースに黒いエナメルのハイヒール姿で立っていた。太り肉の四十をとおに過ぎたいわゆる立ちんぼだった。

台風がらみの風がだんだん強くなってきていた。その風に煽られて女のワンピースがふわっとめくれ上がり、白い下着がもろに目に入った。女は慌てて前を押さえた。

「あのばばぁ、いっちょまえに色気づいとりまっせ」

女の仕草を見てサルが卑猥に笑った。

 

この辺は、良也の親父のいわゆる島で、女は組の支配下にあった。したがって、女も良也がどういう人間かをよく知っていた。

「おぇ」良也が運転席のサルに声をかけた。「あの売女、拾うたれや。まぁのあほをあの女に掛け合わせたるんや。あのあほ、どんな顔しておめこするか、見ちゃろうぜ」

サルとコンドーが手を打って卑猥な笑い声を上げた。良也の右に小さくなって席を占めていたジローも引きつった追従笑いを浮かべた。

 

「おぇ、女」サルが女の前で車を停めた。女は、間違いなく先ほどからこちらの様子をうかがっていたが、声を掛けられるとはじめて気がついたかのように顔を上げて見せた。

「何ぼや」サルが訊いた。女が人差し指を一本立てた。

「3本出しちゃる」良也が後部座席から声をかけた。「前に乗れや。知っとるやろうな。乗車拒否は違法やで。それに、おめぇみてぇなばばぁに3万は破格やろ」

「うちは、客は一日二人までと決めとるんや。あんたら、若い人を4人も相手にしたら死んでしまうがな」

「あほ。誰がおめぇみてぇな梅毒持ちのばばぁを相手にするか。こっちが死んでしまうわ」サルが怒ったように言った。

「そんなら、何のために3万も払うてくれるん?」女が総入れ歯の口を尖らせた。

「それは、後のお楽しみや。そやけど、一つだけ教えといちゃるわ。相手は純真無垢なチェリーボーイや」良也がにこりともせずに言った。

「なにぃ?」女が語尾を跳ね上げ、不審そうな顔をしてみせた。「そのチェリーボーイ言うんわ」

「あほう。童貞や。ついでに教えちゃろか。おめぇみてぇな梅毒持ちの売女は、プラムガール言うんや」

誰も笑わなかった。意味がさっぱり分からなかったからだ。

「ふんっ」良也が鼻を鳴らして軽蔑を露にした。「おめぇらは、みんな話の相手にもならんあほばっかりや」

 

まぁちゃんは、道路工事現場にはいなかった。しかし、工事は夜間も引き続き行われていて、祭りのように賑やかだった。風がだんだんと強くなってきており、雨もぽつぽつ降り始めていたが、コールタールの臭いは相変わらず辺りに漂っていた。照明車が現場を照らし、小型重機のディーゼルエンジンの音と無限軌道のカタカタという音が太鼓の音のようでもあり、道路の片側一車線を区画する赤いライトの点滅が祭りを彩る提灯のようにも思えた。

反射テープ付きの合羽を着た交通整理の男が赤いライトを仕込んだ棒を横にして彼らに近づいてきた。

「ご苦労さんです」良也がオープンにしたままのキャディの後部座席から声をかけた。

「こんばんは」赤いライトを持った男は、ちょっと頭を下げた。

「まぁのあほは、もう帰ったんけぇ」サルが傍若無人に訊いた。

「ああ。まぁなら5時で上がりました。今頃はもうおねんねと違いまっか」

「まだ8時にもなっとらへんで」サルが車に付いた時計を確認するように見た。「あのあほは、いつもそねぇに早よう寝よるんか」

「へぇー。監督の話では早寝早起きだけが奴の取り得らしいですわ。そやけど、あのあほに何か用事ですか」

「おめぇは、余計なことは聞かんでもええ」サルが冷たい目で男を睨んだ。

「へぇ」年配の男はたじろいだように一歩後に下った。

 

女が板戸を少し開けた。音に敏感な鶴いっつぁんとすぐに目が合った。鶴いっつぁんは、この時刻になっても、いつもどおりラジオを付けて内職に勤しんでいた。まぁちゃんは、奥の部屋でほんとに鼾をかいて寝ていた。

「あのう。平さんのお宅でしょうか」女が訊ねる。

「へぇー、そうですけど、今時分に何の御用ですやろ」鶴いっつぁんは、両手に部品を持ったまま固まったようにして言った。

「いえ。あの、まぁちゃん、いえ守さんは帰っておられますか」

「へぇ、まぁのあほなら、もう布団の上で鼾をかいとりますけど、あれがまた何か悪いことでも、しでかしましたんやろうか」鶴いっつぁんは、ようやく部品をちゃぶ台の上に置くと心配そうに女の顔をうかがった。

「いいえ、そうやないんですけど、ちょっと入らしてもろうてもよろしいですか」

「へぇ。そやけど、こんな汚いところに来てもろうても……」

鶴いっつぁんが言い終える間もなく、女は香水の匂いを振りまきながらずかずかと土間に入ってきた。そして、いきなりハンドバッグから芥子スプレーを取り出すや、鳩が豆鉄砲を食らったような鶴いっつぁんの顔めがけて噴射させた。とたんに鶴いっつぁんは呼吸困難に陥いり、胸を押さえて苦しみだした。

その隙に戸口で待ち構えていた3人のチンピラどもがものすごい勢いで座敷になだれ込んできた。サルが用意していたガムテープを素早く切ってまぁちゃんの口に貼り付けた。そして、両手と両足を予め二重の輪っかにしておいたロープを使って、あっという間に拘束してしまった。

鶴いっつぁんは、息も絶え絶えで、胸を掻き毟りながら畳の上を右に左に転がっていた。それを尻目にチンピラども3人が小柄なまぁちゃんを小脇に抱えるようにして通り過ぎた。

 

「顔を見られへんかったやろうな」

車のトランクにまぁちゃんを放り込んで、運転席に乗り込もうとするサルに良也が後ろから声をかけた。

「あのじじい、畳の上でのた打ち回ってましたから、そんな余裕は全然ありません。安心してください」

良也は満足したように頷いたが、ふと思いついたように窓の外に顔を出した。女は、すぐにでも逃げ出しそうな気配を見せていた。

「こらっ、女。はよ車に乗らんかぇ」どすの効いた声で命じる。

女が諦めたように前の席に乗り込み、それを押し込むようにコンドーが乗った。と同時にサルがキャディを急発進させた。濡れた路面を後輪が激しくスリップしキャディは蛇行しながら突き進んだ。

 

彼らは、川沿いの廃棄されたガソリンスタンドに車を停めた。3級国道と2級河川に挟まれた狭く長細い畑と桑畑の続く土地の一端にスタンドはあった。近くに人家はなく、この時間には車もほとんど通らなかった。

良也が合鍵を使ってガラス戸を開け、サルとコンドーが暴れるまぁちゃんをどやしながら中に連れ込んだ。良也が配電盤のブレーカーを入れ照明を点けた。しかし、灯りが外に漏れるのはまずかった。すぐにまぁちゃんと女を6畳の休憩室に入れると、事務所の明かりは消した。

このスタンドは良也の親父の持ち物だったが、スタンドと続きの桑畑をすでに買い上げ、そこに川を見下ろす2階建て20室ほどのモーテルを建てるため一月ほど前から営業を止めていた。久良の計画では、スタンドの地下タンクをそのまま残し、強固な建物は給湯と暖房用のボイラ室に改造する予定だった。

川の反対側に小学校があることから、近隣の住人がモーテル建設には猛反対していたが、そんな羊どもの不満の声など狼の一吼えで雲散霧消してしまうだろう。久良の力をもってすれば、住人の反対を押し潰すことなど赤子の手を捻るに等しかった。

サルが再びキャディに戻った。良也に命ぜられて、いったん自宅にまで車を持ち帰えり、再びバイクで引き返してくるつもりだった。

 

六畳の休憩室では、良也とコンドーが腹を抱えて笑っていた。まぁちゃんは、中年女の上になり夢中で腰を振っていた。

「こら、まぁ。もっと腰を振らんかぇ。そうや、もっと強う突いたれ」コンドーがまぁちゃんを囃し立てる。

「こら、女。おめぇももうちょっと、感じとるような声を出しちゃらんかぇ」良也が女の乳首を靴下を履いた足の先でこねくり回しながら言った。

 

そうして30分ほどが過ぎた。結局、まぁちゃんの股間にあった大事なものは、その短い人生で梅毒もちの立ちんぼ相手にたった3回使われたきりだった。

まぁちゃんのペニスと睾丸は、細い紐できつく止血処置された後、コンドーの手によってあっという間に切り取られた。良也がコンドーに顎で指図をした。コンドーがサージカルグローブをはめた左手に血の滴るまぁちゃんの男性器一式を持って女の方に近づいた。

「や、止めてよ」女がソファから起き上がって逃げ出そうとした。「あんたら、こんなことしてただで済む思うてんの」

女のヒステリックな叫びが良也の神経を逆撫でした。

「おぇ、女。誰に向かってえらそうな口きいとんや。おめぇこそただで済む思うなよ」

女が再び口笛のような、海女が吐き出す息のような悲鳴を上げた。

 

そのとき、表の方で甲高い2サイクルのエンジン音がしたかと思うとすぐに切れた。それから時をおかず、雨水の滴る合羽を着たサルが中に入ってきた。

「土砂降りになってきよりましたぜ」サルが良也に告げた。

「おめぇ、単車はどこに止めた」良也が睨んだ。

「へぇ。ちゃんと分からんように裏に回しておきました」

「よし。そんなら、おめぇはもう一回家へ帰って車を持ってくるんや」

「へぇ」そう応えながらも、サルはコンドーが手にしているものからしばらく目が離せないようだった。

「あほ。はよせんかぇ」良也が怒鳴りつけた。

「は、はい。すんません」サルは慌ててまた外に飛び出した。

 

それからさらに30分が過ぎた。眼下の川は、不気味な音をたてて流れていた。コンドーが畳敷きの休憩室の窓を開けて顔を出し、闇に潜む長大な竜の姿でも探すように見ている。強い風に煽られて窓から雨が吹き込んできた。

「あほう。いい加減に窓を閉めんかぇ」良也の叱声が響いた。

コンドーが慌てて窓を閉めた。

女は、素っ裸のまま気を失って畳の上に転がっていた。まぁちゃんの一物を無理やり口に詰め込まれ、その上からガムテープを貼られていた。顔は、コーラの壜で激しく殴られ原型をとどめぬほどに腫れ上がり赤紫色に変色している。手首と足首はロープで縛られ、畳の上には大きな失禁と血の跡が残っていた。

「これだけの大台風や。明日の朝には海まで流れてしもうとるで」良也が言った。

ジローが部屋の隅で真っ青な顔をして立っていた。

「おめぇとコンドーとで、川に捨ててこいや」良也がそのジローの顔を面白いものでも見るように笑いながら見て言った。

「……」

「なんや? わいの言うことが気に入らんのんか」その声の調子は、猫なで声のように穏やかで顔の方もまだ笑っていた。

しかし、ジローはその意味するところをよく理解していた。

「い、いえ。すみません」ジローは、震える声でそう答える。

「そんなら、はよ、せぇや」こんどは怒声だった。

 

コンドーは、すでに女の足首を掴んでいた。ジローが女の後ろ手に縛られた両脇の下に手を突っ込んだ。そして、女の豊かな胸の前で両手を組み合わせる。女は思ったよりはるかに重かった。その裸体を抱き上げるだけでも、小柄なジローにとっては非常な重労働だった。その上に精神的な負担がさらに重く圧し掛かっていた。

 

「俺はとうとう、殺人の片棒を担がされるはめにまでなってしまった」

その慨嘆は、激しい暴風雨の中、コンドーと二人パンツまでびしょびしょに濡らしながら、冷たい雨に当たって意識を取り戻した女が死に物狂いで暴れまくるのを殴ったり蹴ったりしているときにも、また、スタンドを取り囲むコンクリート塀についた鋼鉄製の扉を開けて裏にまで回りこみ、1,2の3と大声を掛け合いながら3メートル下の川に投げ落とすときにもジローを襲った。しかし、不思議なことに、そのような悲嘆も女が水面をたたく微かな音を耳にしたときから、まるでスイッチが切り替わったかのように晴れ晴れとした歓喜に一転した。

良也の言う通り、明日の朝にはあの女は海にまで流れてしまって、魚の餌になっているに違いない。俺たちが犯人だなどとは永久に分かるはずがないのだ。

 

良也は、ジローに命じてまぁちゃんにパンツとズボンをはかせ、再びキャディのトランクに詰めこんだ。女の着ていた黒いワンピースを下に敷いて、血で汚れるのを防いだ。

 

良也が町中で車を停めさせた。そこは、小さな個人病院の前だった。玄関の看板灯はとっくに消されていた。

雨が激しくキャディの幌を叩きつけ、会話さえままならない。良也は、ジローとコンドーに大声で命じて、その病院の駐車場にまぁちゃんを捨てさせた。口からガムテープを剥がすと、意識の戻ったまぁちゃんは「いてぇいてぇ」と大声で泣き始めた。しかし、猛烈な雨と風の音に消されて、その声が近所に届く恐れはなかった。

 

良也は、1キロほど離れた繁華街の公衆電話の前で再び車を停めさせた。タバコを取り出し一本口にくわえる。すかさずジローがライターの火を差し出した。良也は、一服吸い付けるとしばらく思案していたが、煙を吐き出すと同時にポケットからメモを出しジローに渡した。

「ええか。指紋は絶対に付けんようにせぇ。10円玉にもやで」

ジローは再び土砂降りの外に飛び出した。

僅か数メートル先の公衆電話ボックスに入ったときには、頭のてっぺんから足のつま先までぐっしょりで、青いボールペンで書かれたメモの数字は、すでに判読不能なくらいに滲んでいた。それでもなんとか、ブースのガラスにそれを貼り付け、薄暗い照明の下、良也にどやされるのが怖さに必死で数字をなぞった。そしてダイヤルを回す。しかし、そもそもそれは、良也が思いつきで書いたでたらめな番号だった。

「お宅の駐車場に誰かが倒れとるようですよ」ジローは、電話口に出た眠たそうな声の女にそれだけ告げるとすぐに電話を切った。

 

それから、十分後。良也は、何台もの消防車がけたたましいサイレンを鳴らしながらすれ違うのを含み笑いしながら見送った。

遠くの方で真っ赤な炎が土砂降りの雨に反射しているのが見えた。

「わしの作った時限発火装置がうまく作動したようや」良也は、蚊取り線香の屑とキャディから抜き取ったガソリンを布に染み込ませて作った即席の時限発火装置を頭に思い浮かべた。「これで、証拠はすべて消えたし、保険がおりて親父も喜ぶやろう」

 

これだけのことを体験するのに、いったいどれだけの時間を要したのだろう。しかし、それは、人が死ぬ間際の須臾の間に全人生を回想するというように、ほんの一瞬の出来事にすぎなかった。

私は、鎮男の表情を見ることが出来た。鎮男の顔は、いつもとまったく変らないようにも思えたが、私はその立ち姿に不動明王を見ているような気がした。彼の全身を真っ赤な怒りのオーラが包んでいるように思えたのだ。

そして、信者たちの方を見ると、彼らもまた、その真っ赤な衣装のせいだけではなく、良也に対する怒りで燃え上がっているように思えた。

 

ふいにまったく別のイメージが現れた。

美しい女。決して若くはない。しかし、気品と教養に溢れたその姿は、明彦の母、淑子のものだった。

「やはり、あなただったのね」女は、怒りに震える声でそう言った。

「なにが俺だったのだ」良也が応える。

そこは、つい先日、鎮男と二人で行った良也の執務室だった。良也は、この間のときのように机を前にしており、淑子は秘書のように机の前に立ったままだった。

「伊地知義明を殺したのは、あなたでしょ。その証拠を私は掴んだのよ。私は愚か者だった。夫が私にあなたが犯人だと教えてくれていたことにまったく気がつかずにいた」

「彼が、……伊地知さんがおまえに何を伝えたと言うんだね」良也は、すこし動揺していた。だが、その動揺を表に現すことはなかった。

「義明さんは、あなたが非常に危険な、根っからの悪党だと、そして自分を殺そうとしているということを論文の中に暗号として潜ませていた。それを私は、明彦に指摘されるまで気がつかなかった」

「あの伊地知さんが、私のことを悪党だと言ったというのかい」この段に及んでも良也はとぼけて見せた。それは、淑子からなるべく多くの情報を引き出すための策略でもあったのだ。

「いい加減にとぼけるのはおよしになったら。あなたが悪党だということを誰も知らないとでも思っていらっしゃるの」淑子の声は震えていた。

「それで、俺が悪党だとして、これからおまえは、夫である俺をどうするつもりなんだね」

「ふん」淑子は鼻で笑った。「私は、一度たりともあなたの妻だと思ったことなどないわ。父は私以上に愚かで、まんまとあなたの策略に引っ掛かり、会社まで奪われてしまった。しかし、その父も今度ばかりは私の言うことを信じてくれたわ。あなたの殺人を公にすれば、法的には時効が成立していても社会的にあなたは葬り去られるわ」

「証拠はあるのかね。わたしが伊地知さんを殺したという証拠が……」

「それは、もうすでに世界中に流布されているわ。伊地知理論としてね」

「彼が発表した理論の中に私が彼を殺したと書いてあるというのか。君は恐らく気が狂ってしまったに違いない」

「まぁ、お好きなようにおっしゃってればいいわ。じきに週刊誌が騒ぎ出すから」

「君たちは、私と刺し違える気でいるというわけかね」

「刺し違える?」淑子がびっくりしたような顔を浮べた。「何をおっしゃってるの。私たちは、あなたの被害者であって、世間の同情を浴びこそすれ、批難されることはないわ」

「まぁ、いい。しかし、君が考えているようには、世の中というものはそう単純にはいかないよ」良也は、何か魂胆でもあるのか余裕の表情で言った。

実はその魂胆を、私は、いやこの場にいる者たち全員が知っていた。このとき、すでに良也には淑子を殺す計画が浮かんでいたのだ。

計画は、実に恐ろしいものだった。良也は、既に淑子のすべてを、その心の内を、自分に対する激しい憎しみさえも精確に知っていたのである。

良也は、ちょうど今、自分自身の心がこの場にいる者全員に晒されているのと同じように、淑子について、その過去のすべての記憶を我が身で体験して知っていた。淑子は、良也の巧みな操作によって、アートルム社製最新鋭MRIの被験者になっていたのである。そうして、彼女の人的ネットワークも完全なまでに良也に掌握されていた。

 

翌深夜、淑子は愛車である真っ赤なBMWで湾岸を駆っていた。ドライブは、彼女のストレス解消手段だった。

アートルム社東京研究所、無機生命開発部長である淑子には、いつも心労が絶えなかった。仕事上のストレスはともかく、一番の頭痛の種は、戸籍上の夫である良也だった。

彼女は、良也が何人の愛人を囲い、どのような破廉恥な行いをしていようが蚊に刺されたほどにも感じなかった。ただ良也が自分の夫であるという事実が、そして自分との結婚を利用してアートルムを乗っ取ったという事実が彼女の心を強く押しつぶしていたのだ。

 

淑子は、伊地知義明と暮らしていた本郷の小さな家に明彦と二人で暮らしていた。だが、その明彦も昨年からイギリスに留学しており、今は小さな家がずいぶんと広く感じられた。

良也との結婚は最初から破綻していた。というより、成立していなかった。父親の強い懇願に負けて良也を籍に入れたものの、良也のような男は生理的にまったく受け入れられなかった。1m以内に近づいただけで虫唾が走り、鳥肌がたった。それでも、親類や会社や何かの公式な行事があるときには、二人揃っていかにも仲の良い夫婦であるかのように装わねばならず、また息子を良也の実子であるかのように半ば強制させられるのが苦痛で仕方がなかった。

 

彼女は、走り屋たちに混じって、くわえタバコで湾岸を飛ばしながら、いかにして良也を社会的に葬り去るか、その方策について考えていた。

15歳になったばかりの明彦は、彼女も驚嘆するほど大人だった。彼は、留学先から手紙を送ってきて、良也が自分の父親を殺した犯人である証拠を掴んだと彼女に知らせたのだが、その手紙は極めて冷静で、決して自分が帰国するまでは行動を起こさないよう母親を諌めていた。良也のように危険な悪党は、外堀を埋め、内堀を埋めてというように、よほど慎重に事を運ばないと手痛い逆襲を蒙ることになると彼女を説いたのだ。

しかし、彼女にはそんな悠長なことは出来なかった。彼女のハートは、愛する夫を殺し、会社まで奪った男に対する憎しみで激しくいきり立っていた。それで、昨日、後のことも考えずにあのような宣戦布告をしてしまったのだ。

 

勿論、彼女の考えていた戦術は緻密なものだった。信用のおける友人でもある週刊誌の編集長と会い、彼を説き伏せた。

最初、その古川という編集長は疑心暗鬼でまったく乗り気ではなかった。だが、伊地知の論文と明彦の手紙を見せられ、そして暗号の解読方法を説明されると、はっと目が覚めたようになった。

「これは、凄い」古川は、論文と淑子の顔を交互に見比べるように見ながら驚きの声を漏らした。「これはほんとに凄い。こんな特種は、一生に一度あるかないかだ」

「それじゃ、あんたは、これを週間見聞録に載せてくれるのね」淑子は、期待に顔を上気させていた。

「ああ、勿論だ。早速特集を組もう」古川は、淑子の反応を見て微笑んだ。が、すぐにその顔を引き締めた。「しかし、君の息子さんが言う通り、これは、一つ扱いを間違えると大変なことになりかねない。なにしろ、君の旦那は、世界に冠たるアートルム社の実質的トップだからな。それに、確かにこの論文は、伊地知氏が書いたものであることは誰も否定のできない事実だが、これに書かれていることだけをもって、武藤良也氏が伊地知を殺した犯人と決め付けるには少し無理がある。――それは、君にもよく分かっているはずだ」

古川は、淑子の顔が曇るのを見ながら言葉を継いだ。「――しかし、まぁ、これは間違いなく日本中を、いや世界中を騒がす大スキャンダルになることだけは請合うよ」

 

これがつい一昨日のことだった。彼女には大きな目的があった。それは、このスキャンダルを彼女自身が公表することによって、良也との離婚を一気に成立させることだった。それに、うまくすれば良也を今の地位から引きずりおろすことが出来るかもしれない。

彼女は、一時の気の迷いから、というより一種の錯乱状態から父が強く勧める良也との結婚を諾ってしまった。そして、結婚届に判を押したその瞬間に間違いに気がついた。

「よりにもよって、なぜこのような男と」

彼女は、我が身の愚かさに愕然とした。しかし、それは自分の腹に鎧通しを突き刺してしまってから、しまったと後悔するようなものだった。

 

淑子は、結婚したその瞬間から一刻も早い離縁を願うようになった。良也のような男は、彼女が嫌いな蛇と同じで生理的にまったく受け入れられなかった。そして、明彦も大きくなるにつれ、ほとんど会うこともない継父だったが、良也を極端に嫌うようになった。

明彦は、14歳のときにはすでに数学の天才として世間の耳目を集めはじめていたが、自分が世間から顔立ちも体格もまったく違う良也の実子と思われていることに酷く嫌悪感を抱いていた。しかし、それを否定すれば否定するほど、世間の目は自ずと母と良也の関係に集まり、母の立場を危うくすることになる。それがよく分かっていたから、明彦は自ら進んでイギリスに留学し、世間の好奇の目から逃れたのだ。

 

 

冷静慎重な明彦に比べ、淑子は、生まれついての行動家だった。しかし、今回は余りに性急過ぎた。しかも、戦いの火蓋を切る前に、敵に有利な情報を与えてしまっていた。

 

結局、その判断の誤りを彼女は自らの死によって購わねばならなかった。

彼女は、ステアリングを操りながら時々目の前がブラウン管の砂嵐のようになるのを感じた。危険を感じてすぐにスピードを落とそうとしたが、そのとき、ウィンドシールドに良也の顔がクローズアップになって現れた。

「淑子」良也は、怒鳴るように彼女の名を呼んだ。「おまえは、とうとう俺という人間を一度も愛することなく、この世を去ることになった」

その瞬間、彼女は自分の下半身が他人のものになったように感じた。彼女は、ブレーキペダルに乗せた左足がまったく動かず、代わりにアクセルに置いた右足が自らの意志に反して力いっぱい床まで踏みつけるのを恐怖に慄きながら見ていた。愛車は、キックダウンして強烈なGを発生させ、淑子の背中をシートバックに押し込んだ。そして、そのまま鋭く加速しながらカーブに突っ込み、曲がりきれずガードレールに激しくぶつかった。真っ赤なBMWは、ガードレールに弾き返されて、ひっくり返った亀のように黒い腹を見せて横転し、そのまま水平に激しくスピンしながら路上を滑っていった。オレンジ色の火花が激しく飛び散って、やがて給油口から噴出したガソリンに火が点いた。車は逆さまのまま中央分離帯に乗り上げ、そこでもう一度ひっくり返って元に戻った。

武藤淑子は、「地獄変」に描かれた若い絵師の娘さながらに紅蓮の炎に包まれて死んだ。

 

彼女の記事を週刊誌に発表する予定だった週間「見聞録」の編集長古川も、彼女の死と同時刻に自社ビルの屋上から飛び降りて自殺した。その死に他殺を思わせるものは一切なく、家族宛の遺書には人生に疲れてしまったというような旨の文言が認めてあった。

 

私は、明彦の顔を見るのが忍びなかった。それでも盗み見るように見ると、それは、いつもの冷静でにこやかな彼の顔ではない。青白い、日本刀のように鋭利で冷たい、それでいて激しい爆発力を秘めた怒りが宿っていた。私は、背筋が寒くなるのを覚えた。

そして、さしもの勘の鈍い私にも、とうとう明彦と鎮男の企みがありありと見えてきた。彼らは、最初からこれが目的だった。二人とも良也に対する復讐を果たさんがために結束し、この私をも巻き込んだのだ。

しかしほんとにそれだけだろうか。

私は、いま見せ付けられた良也という大悪党の所業に真の怒りを覚えた。それは恐らく、洗脳を解かれた会場の信者たちも同じ気持ちであろう。なぜなら、会場が煮えたぎる鍋のような興奮と熱気に包まれていたからである。

私は、このような男は、――過去の悪行だけでは物足りず、この世界をこれから自分の思うままに隷属させようと異空間から化け物まで召喚してしまったこのような男は、必ずこの手で葬り去らねばならぬという義憤を感じていた。いや、葬るなどという上品な感情ではない。このような男には釜茹での刑をもってしても足りなかった。

鎮男と明彦も結束し立ち上がった。しかし、それは単に復讐を遂げるためだけのものではなかったはずだ。彼らのような高貴な男たちは、決して私怨を晴らすためだけに他人を巻き添えにしたりはしない。私にはそれがよく理解できた。この男を始末しなければ、人類の未来に大きな闇が落ちるのだ。

 

しかし、やはり良也のような化け物を滅ぼすのは並大抵のことではなかった。空中に散じた良也の紫色の霧の粒子は、今何かの形に変容を遂げようとしていた。

良也は、異空間に住む異形の化け物たちからの支援を受けていた。それは、鎮男が言ったとおり、この世を支配するために良也がその腐った魂と引き換えに得たものだった。われわれのすぐ隣にあるいくつもの異空間。それは、明彦がその論文で預言した無数にある空間の一つであり、人間の心と緊密に繋がっていた。そこから良也は援軍を得ていたのである。

やがて紫色をした光の粒は、巨大で紫色をした塊、サターンのような姿をした固形物へと凝固していった。その高さは5メートルにも達し、人間の下半身に蟹のような足が6本もある胴を乗せた姿をしていた。

会場はパニックに陥った。鮮やかな真っ赤な炎が列を成し、叫喚を発しながらバックドラフトのように一斉に避難口へと向って突っ走り始めた。

怪物は、その逃げ惑う信者たちを背に、くぐもった象のような低音で私たちに向って声を発した。

「キサマラ」その声は、そう言っていた。「ヨクモオレヲコケニシテクレタナ」

そして、次に

「ジロー」と叫んで、一番前の席に一人背中を丸めて座っている小柄な坊主頭の男を、その腕の一本で指した。それは、あの売春婦をコンドーと一緒に川に投げ捨てたジローだった。

「オマエハ オレトイッショニ ジゴクノソコマデ ツイテクルノダ」

ジローは、もはやあのころのおどおどしたガキではなかった。立派な悪党になっていたのだ。

そのジローの姿もすぐに霧のように蒸発し始め、やはり紫色をした帯状のオーロラとなって天井にまで上り詰めた。かと思うと、やがてそれが粒子になって舞い落ちてきて磁石に吸い寄せられる砂鉄のように固まり、ついにもう一匹の化け物になった。それは、紫色をしたヒトデが人のように立っている姿をしていた。ぬめぬめした蛞蝓のような粘液質の表皮を持ち、その5つの星型の縁の部分では、深海魚が放つ光のような紫色した電光がサイクリックに点滅していた。

 

「とうとう化けの皮を剥がす羽目になったようだな。丸田」鎮男が叫んだ。

「キサマガ アノアホウノオトウトダッタトハ サスガノオレモキガツカナカッタ ダガ スグニキサマモ アノアホウトオナジメニアワセテヤルカラ カクゴスルンダナ」

「良也」

叫んだのは、明彦だった。

「ナンダト コノコゾウ オヤヲヨビツケニシヤガッテ」

化け物が明彦の方に少し身体を捻ったように思われた。

「おまえに親の自覚があったとはお笑いだな」明彦が笑った。そして機関銃を構える。「おまえのような悪党を滅ぼさぬ限り人類に平穏はない。覚悟しろ」

明彦が機関銃を連射した。弾は吸い込まれるように化け物の身体に集まり、貫いた。いくつもの小さな穴が蟹の甲羅の部分に開いた。しかし、それはほんの僅かの間だけだった。穴はすぐに塞がり、化け物は何の痛痒も感じてはいない様子だった。

「バカモノメ」良也の声が轟いた。「ソンナモノガ ツウヨウスルト ホンキデオモッテイルノカ」

良也の声が終わるか終わらないうちにヒトデの化け物が通路上をすばやい動きで側転しながら舞台の上の明彦に襲い掛かってきた。

鎮男が機関銃を撃つ。ヒトデは被弾の衝撃でフリスビーのように横に回転し、そして舞台の上で倒れた。紫色の点滅が弱々しくなっている。鎮男がさらに撃つ。ヒトデの腕の一本が千切れて吹っ飛んだ。

点滅が不揃いに、ゆっくりになり、その代わりに全体がぶるぶると小刻みに震えだした。千切れた部分が人間の足に形を変えていた。そして、本体の方もしだいに左足を失くしたジローの姿に戻っていった。その口からは、「助けて下さい……」という、蚊の鳴くような声が漏れていた。

「ナサケナイヤツダ」良也が吐き出すように言った。「オマエニハ イッセンヲノリコエルドキョウガナイ ダカライツマデタッテモ チンピラノママナノダ」

突然、良也が鎮男に向って6本の腕を伸ばした。その腕の先には人間と同様に手と5本の指があった。その腕がもの凄い勢いで伸びて、あっという間もなく鎮男の足と腕を捕らえ宙に持ち上げた。そして、残る2本の腕で鎮男の首を締め付けた。鎮男が苦痛に顔をゆがめている。

明彦が驚いて舞台から観客席に飛び降りると、真下からその腕をめがけて機関銃をぶっ放す。腕の何本かが千切れて吹っ飛び、鎮男は、自由になった手で機関銃を撃ちまくった。残る腕のすべてが胴から離れ、鎮男は背中から観客席の椅子の上に大きな音をたてて落ちた。私は、慌てて舞台から飛び降りると鎮男に駆け寄った。鎮男の意識ははっきりしていたが、腰を強打しており、すぐには立つことができない。私は彼の腕を取って、椅子に座らせると、彼の手から機関銃を奪い、化け物めがけて撃ちまくった。だが、すぐに弾奏が空になった。化け物は、穴だらけになっていたが、それでも倒れなかった。そればかりか、凄い回復力で穴が塞がっていき、吹っ飛んだはずの腕も少しずつ根元から再生し始めていた。

「鎮男ちゃん。いったん逃げよう。あの化けもんを殺すには、何か他の方法が必要や」

鎮男は黙って頷いた。

「平さん」明彦が機関銃を化け物に向けたまま鎮男を呼んだ。「二人で逃げてください。私がこいつを食い止めます」

「明彦君。君こそ逃げるんだ」鎮男がはっと気がついたように叫んだ。「そして、こいつを屠る武器を考えるんだ」

「ナントモウルワシキユウジョウヨノウ」良也が嘲笑った。「イッソフタリデ シリヲマクッテニゲタラドウダ」

 

そのとき、私の頭にふとあるアイデアが浮かんだ。私は、鎮男の手を取った。

「鎮男ちゃん」私は、鎮男の耳に小声で話した。「鎮男ちゃんは、この建物の中が自分の家のようなもんや言うとっちゃたなぁ」

鎮男は怪訝な顔をして頷いた。しかし、私の考えが以心伝心したのか、はっとしたのが分かった。

「行こ」鎮男が短く答えた。

私は、鎮男に肩を貸しながら歩き始めた。化物の腕はまだ再生の途中だった。その化物が私たちを追いかけてきた。その巨大な一歩で私たちは踏み潰されそうになる。しかし、明彦が機関銃を撃ち、カバーしてくれた。弾は、化け物の足に集中しその動きが止まった。

「コノコゾウ」良也が怒りの声を発した。私たちは、その声を背中に舞台に近い非常口から外に出た。

鎮男の回復力は、あの化け物並みだった。少しびっこを引きながらもすぐに一人で歩けるようになった。

「こうちゃん。この階は、設計図にもなかったフロアーや。そやけど、わいらが目指すところはB2にある。あの信者たちが脱出した経路を辿っていったん外に出よう」

「そやけど、明彦君は大丈夫やろうか」

「彼のことやったら心配せんでもええ。それより、良也にわいらの考えを見抜かれんうちにやらなあかん」

鎮男は、長い登り坂になった廊下を走り始めた。私もその後に続いた。突き当りを右に曲がると、今度は折り返しの上り坂になった。登りきったところの右手に非常扉があった。

そこを開けると地下駐車場に出た。ちらほらと赤い衣装が走り回っているのが目に付いた。そして、目に染みる排気ガスの刺激臭。何十台もの車が出口に向って列を成していたのだ。

「へぇー」と私は驚いた。「こんなところに通じていたんか」

「ここは、B1やな」鎮男がつぶやくように言った。「いったん中に入って、階段を使って下に下りよう」

私たちは、階段を使ってB2まで駆け下りた。鎮男は、迷路のような道筋を一度も迷わず最短距離で目的の場所に着いた。

「さあ電気室や」鎮男が独り言のように言った。

「鍵がかかっとるんやないやろうか」私はそう言いながら背の高い大きな扉の前でレバーに手をかけた。レバーはガシャッという音をさせて上に持ち上がった。それを力一杯引くと、扉はスムースに開いた。

「無用心やなぁ」鎮男が冗談のように言った。

電気室の中には、巨大な象のように見える灰色をした変圧器が3台据え付けられていた。それを冷却するファンが唸りをあげている。壁一面にベージュ色に塗られた盤が並んでおり、赤や緑のランプが点灯していた。

「こうちゃん。隣の部屋に発電機がある。まず、非常用の発電機を運転できんようにしとかんと、停電をさせてもそれで電気が活きてしまう」

「分かった」私は、隣の部屋の扉を開けた。そこは、バスケットボールが出来るほどの広い部屋だった。そこには、巨大な箱型のケーシングに入ったガスタービン式の発電機が3台あった。壁の一面に空気を取り入れるための大きな開口があって、それにはフィルターらしきものが取り付けられている。

鎮男が、発電機始動盤と書かれた盤の扉を開けた。中のブレーカーを遮断し、リレーを引き抜き、そのほかにもいくつかの細い線を引きちぎった。バシッと火花が散った。

「これでOKや。後は、停電させるだけや」

鎮男は、すぐに電気室にとって返した。

受電用の盤を開け、制御電源と表示されたブレーカーに手をかける。

「こうちゃん。わいがこのブレーカーを切ったら、すぐに停電になる。量子コンピュータは、恐らく10分程度でシャットダウンするやろう。照明の方は、非常照明が点くから真っ暗にはならんけど、その点灯時間はせいぜい30分や。その間に、あの講堂に引き返して、良也に止めを刺すんや」

「分かった」私は、緊張に全身の筋肉が強張るのを感じながら言った。

鎮男がブレーカーを切った。どこかでガシャンという音がしてすぐに電気が切れた。続いてガシャン、ガシャンという音をたてながら遮断器が次々に落ちていった。

天井を見ると、小さい透明な白熱電球が眩い光を放っていた。

「急ごう」鎮男に促されて私は彼の後に続いた。

 

講堂には、化け物の姿も明彦の姿も見えなかった。薄暗く陰気に静まり返っていた。

鎮男は、舞台の上に飛び上がった。スキャナーの中に赤い衣装を着た良也がいた。

鎮男を見て、良也が「ムムッ」と小さく唸った。しかし、全身を拘束されていて身動きができない。

「おまえもとうとう年貢の納め時のようだな」鎮男が静かに告げた。

しかし、良也は、それを鼻で笑ってみせた。

「この俺も随分と甘く見られたもんだ」

「強がりはよせ」私は思わず良也に怒鳴った。

「ふん」良也は、私の顔も見ずにもう一度侮蔑の声を漏らした。「ところで、俺をどうするつもりだ。お優しいおまえさんたちのことだ。まさか、身動きのできない俺を殺すわけではないだろうな」

鎮男は、私の肩を軽く押して良也から数メートル離れさせると「電話や」と小声で言った。

「電話?」私は意味が分からずに問い返した。「止めを刺すんやなかったんか」

「ええから、防衛大臣や」鎮男が短く答える。

「分かった」と答えたものの、私の携帯は、彼らに捕まったときに奪われて今はどこにあるかさえ分からなかった。

「構内電話を使うんや。構内電話やったら、UPSから電源を貰うとるはずやから、30分くらいは使えるやろう」

「分かった」私は、答えて電話を探しに行こうとした。

「電話やったら、すぐそこにあるで」スキャナーの中から良也が薄笑いを含んだ声で叫んだ。

見ると、舞台の端にコントロールルームがあり、そこで音響や照明のコントロールを行うようになっていた。

私は、何かすっきりしないものを感じながらもその部屋に入った。

操作卓の上に置かれた電話を取り、番号案内で防衛省の番号を聞く。そして、教えられた番号をプッシュした。果たして、こんな深夜に通じるだろうかと思ったが、すぐに通じた。

私は名前を言って、石田防衛大臣に至急話したいことが出来たと告げた。事情を細かく聞くでもなく、その係官は、すぐに大臣とつなげると言った。

その言の通り、大臣は1分ほど間を置いただけで電話に出た。

「今、どこにおられるのですか」大臣が先に聞いてきた。

私は、場所を告げた。

「すぐにヘリを向わせます。それで、武藤氏はどのような状態ですか」

私は、ありのままを伝えた。

「分かりました」大臣はそう答えた。それから少し間があった。「――おそらく、ヘリは30分でそこに到着すると思われます。その間、あなた方は静かに待っていてください」

「分かりました」私は答えた。

 

そして、ちょうど30分になろうかとするころ、静寂の中に微かな靴音が聞こえてきた。風前の灯火のような非常照明の下、迷彩服に暗視ゴーグルを装着し、腕に軽機関銃を構えた自衛隊員が講堂の四方の扉から次々と中に入ってきた。総勢15名ほどだろうか。私は、その物々しさに度肝を抜かれた。

そして、さらに驚いたことには、彼らは私に手錠をはめて拘束したのだ。

「これは、いったいどういうことだ」私は、わけが分からず大声で怒鳴った。

「命令です」指揮官らしい自衛隊員はただそれだけ告げた。

私は、良也の方を見た。嫌な予感が当たっていた。良也は、拘束を解かれ、なんと隊員たちと談笑している。その良也が私の姿を見てにやっと笑った。

「いったい、これはどういうことだ」私は、鎮男に怒りをぶつけようとして、彼が消えてしまっているのに気がついた。と同時に非常照明がふっと消えて、漆黒の闇が訪れた。

「しず……」私は、急に無力感に襲われた。「……あの大臣までもが、良也の傀儡になってしまっていたのか」

 

私は、その大臣ともう一度だけ二人っきりで会う機会を持てた。それは、ここ都内にある警察病院の特殊病棟の中である。

そのときの大臣の顔は、初めてみる険しさを漂わせていた。

「私は、あれほどあなたに自分の分を弁えるよう忠告したはずだ」大臣は、開口一番、そう告げた。

「大臣。私は、いまさらあなたと喧嘩などしたくはないが、それがあなたの弁解というわけですか」私は大臣を睨みつけながら言った。「要するに、あなたは、いや、おそらく日本中のあなたがた政治屋たちが今やあの男の傀儡になってしまっているということでしょう」

「あなたが、何を言おうと勝手だが、何の罪もない大企業の経営者に因縁をつけ、怪我まで負わせた罪は決して小さくはありませんよ」

大臣の声音には、嘘をつく者特有の響きがあった。

「そうですか」私は、短くそれだけ答えた。「それなら、私は素直に罪に服しましょう。しかし、その前に一つだけ、私の頼みを聞いて欲しいのです」

すでに負けを悟っていた私の頼みというのは、もちろん、鎮男のことだった。そのときに私は、アートルム社が見下ろせるあの公園に鎮男の像を建てて欲しいと頼んだのだ。私は、その場で帽子を被りトレンチコートを着た鎮男の姿を描いて大臣に渡した。

「これがあなたの言う平鎮男さんですか」大臣は、私の描いたへたくそな絵を食い入るように見ながら嘆息した。「分かりました。私はあなたには何の借りもないつもりだが、銅像は作ってさしあげましょう」

「ありがとうございます」私は、椅子に座ったまま頭を下げた。

「しかし、不思議ですなぁ」と、大臣が再び長嘆息してみせた。「――実は私は、あれから部下の者に命じて平鎮男のことを調べさせたのです。あなたと平氏の生まれ故郷に部下を赴かせました。部下は、そこが大変のどかで美しい山峡の町だったと言っておりました。

そして、あなたの言われた通り、平鎮男は大変な天才だったらしいと報告してきました。――しかし、その彼は、平鎮男は、15のときに自殺していたのですよ」

「えっ」驚きのあまり、私は目の前が真っ暗になった。「そっ、そんな、そんなばかなことがあるはずがない」

大臣が軽く溜息を漏らした。

「私には、あなたの驚きが嘘偽りのないものであることは良く分かります。しかし、われわれが調べたことに間違いはありません。平鎮男は、確かに中学を卒業したその日に亡くなっています」

 

それからの私は、パニック症候群にでも陥ったように、突然この世界が現実のものではなくなったような感覚に襲われた。そして、自分自身が誰なのかさえ分からなくなってきていた。

 

しかし、大臣の話は容赦なく続いた。

「部下は、平鎮男の実家があったという場所を訪れました。しかし、そこには既に別の家が建っていて、鎮男たち3人が暮らしていた頃の面影はまったくなかったそうです。ただ、その家の裏には鬱蒼とした森があって、その奥に立派な神社があったと言っておりました。

それから部下は、平鎮男が中学3年のときの担任だった衣川先生と会って話をしてまいりました。衣川先生は、だいぶ御歳を召されていましたが、平鎮男のことは大変よく覚えておいでだったそうです。しかしそれは、単に彼が自殺をしてしまったという理由からだけではありません。――実は、平鎮男は、卒業の間際に、数学を教えておられた衣川先生に分厚いノートを郵送していたのです。

衣川先生がそのノートを開いて見たのは、鎮男の葬儀が終わって家に帰ってからのことだったそうです。先生は、そのノートを見るまでは鎮男のことをただただ大人しい平凡な生徒と思われていたようです。しかし、一度ノートを開いて、そこに書かれている極めて難解な数学の証明らしき論文を見るや、全身に怖気のようなものが走りしばらくはその震えが止まらなかったと部下に言われたそうです。そして、そのとき初めて、いかに自分の目が節穴であったかを悟ったとも。

また、先生は、そのノートを大切にずっと手元に保管されていたのですが、ようやく最近になって、そこに書かれていた内容がポアンカレ予想を証明するものであったことに気が付いたのだと言われたそうです。

あなたはご存知かも知れませんが、私が部下から聞いたところによると、ポアンカレ予想というのは今世紀の初めにロシアの天才数学者グレゴリー・ペレルマンによって証明されています。衣川先生は、そのペレルマンが解いた証明と、その証明の拠所となったリーチ流などの理論を含め、鎮男の証明が寸分違わないものであることに気が付いたと私の部下に言われたのです。

そして最後に、衣川先生は、鎮男がそのノートに辞世の言葉を残していたと言われました」

大臣は、上着のポケットから折りたたんだ紙片を取り出すと、それを目の前で広げ読み始めた。

「ぼくは、死ぬに当たって、誰かを恨んでのことではないことを宣言しておきたい。ぼくの死は、社会や人を恨んでのものではない。この社会は、平等でも公平でもないけれども、それは何も今に限ったことではない。過去においても、そしてこれから先の未来においてもそれはずっと変わらないだろう。それが人間の、いや生物の本性だからだ。

それにぼくは、このまま生きていれば、今の境遇など簡単に脱却し、この世で大成功を納めることができるだろう。社会のリーダーになって人類を導くことも出来るかもしれない。しかし、それがいったい何だというのだ。

人間とは何と愚かな生き物か。それこそが、ぼくがずっと思い続けてきたことだ。他のずっと下等な生物でさえ、その存在の奥に固く封印してしまった「死」を、わざわざ大脳皮質に表出させ、それをこねくり回して慰めとしている。そして、その「死」を消してしまう唯一の方法としては、インクでインクの字を消す如くもはや死しかないのだ。

それにしても、もしも創造主がいたとして、よくもまぁ、こんな矛盾に満ちた生き物を創って見せたものだ。

と、こういうような意味の言葉だったそうです」

大臣は、紙片を再び折りたたむと、私の顔を見ながら手渡した。

 

「しかし、残念なことに、そのノートは、ほんの一月ほど前に隣家の火事によるもらい火で消失してしまったそうです」

 

以上が、あの奇妙な像がJ公園に建てられることになった顛末である。


私は今、国立のいわゆる精神病院に収容されている。石田大臣が心筋梗塞で亡くなったこともここで知った。それは、鎮男の銅像が建立されてからほどないころのことだった。私は、ここにも良也の長い魔の手を感じないではいられない。

 

それはそうと、新聞が報じたあの事件の真相は、実に驚くべきものだった。それによると、飛行船会社社長の大友康太郎は、同郷出身でアートルム社のトップである武藤良也氏に大いなる嫉妬心を抱いていた。その嫉妬が嵩じ、武藤氏殺害を夢想するまでになった。その目的のためか新信州市の山地に土地と家屋まで取得した。そして、そこで銃器を密造し、ついに今回の犯行を計画、実行するまでに至った、のだそうである。当然の如く、どの新聞にもまたテレビにも鎮男の名も明彦の名も出てはこない。

 

新聞の報じる通り、やはり私は狂っているのだろうか。鎮男や明彦は、私の狂気が生んだ仮想の人物だったのであろうか。

しかし、よほどナイーブな者でない限り、マスメディアの報じることに大したニュースがないことは誰でも知っている。むしろ、その報じない部分にこそ重大な真実が隠されているのだ。

そのテレビのニュースや新聞記事で、アートルム社が着々と業績を伸ばし、世界中にその量子解析装置QAのシェアーを拡大していることを知るたびに、私の心は深く沈む。そして、鎮男の言っていた、あの「茹蛙」の話が思い出されるのだ。

「こうちゃん、人間いうんは、ほんまにあほな生きもんやなぁ。茹蛙と一緒や。ゆっくりゆっくり温度を上げていくと、蛙は身動きもせんまま鍋の中で茹であがってしまういうこっちゃ」

 

繰り返し言うが、良也がやろうとしていることは、この世界を自分のものにすることなのである。そのために良也は、まず国の中枢である立法府や内閣、そして司法や第四の権力と言われるマスメディアまでをも洗脳し始めた。

あたかも蝶やトンボが蜘蛛の巣に絡め取られ、その体液を吸い取られるように、彼らは、良也がちゃくちゃくと築きつつある人的ネットワークに引っ掛かりその魂を吸い取られているのである。

彼らがそれと知らず、良也の手に落ちた友人、知人の勧めによりアートルムの病院に入る。

「あそこの病院は、ほんとに良心的な低料金で、しっかりと時間をかけて検査をしてくれるよ」

その友人の言っていることは嘘ではない。事実、アートルムは非常な低料金でQAを使った検査をしてくれる。しかも通常の何倍もの時間をかけて、アートルム社が誇る最新鋭QA、∇20XX(通称CENSOR-SHIP)による診断をしてくれるのである。すると、本人がまったく自覚しないままに、その全ペルソナを精査され量子コンピュータ上にデータとして記憶、保管される。

そして、彼らの世間には知られたくない性的傾向や倒錯、男女関係、酒や薬物やギャンブルなどの依存症、人脈や出自に関わる弱みなどはすべて良也に握られることになるのだ。

 

そればかりではない。彼らは、良也が仕込んだ洗脳プログラムの洗礼を浴びることにもなる。その洗脳は、少しずつ少しずつ、しかし確実に彼らの心の深奥にまで浸透し、モラルを低下させ、人格を破壊してゆく。そして、他人を思いやることも、他人のために汗や涙を流すことも次第に無くなってゆき、良也の思うままに操られるお為ごかしの要領のいいエゴイストに仕立て上げられていくのだ。それがいま、良也によってちゃくちゃくと推し進められていることなのである。

そして、亡くなった石田大臣もまたそのような洗脳を受けた一人だったに違いなかった。

 

私は、いや、私たちは、結局良也には勝てなかった。3人が力を合わせても狡猾なあの悪魔には勝てなかった。しかし、少なくとも戦いは挑んだのだ。

いや、そうではない。私はこうして囚われの身となってしまったが、鎮男と明彦は、今もなお良也を葬り去るための戦いを継続させているに違いなかった。なぜなら、彼らこそ人類の良心であり正義だからだ。

 

私は、今これを、この文章を、鎮男が御殿場でくれたメモリーチップに収め終えたところだ。このままでは、これを公にすることは決してできはすまい。

ただ、いざとなったらこの病院の窓から外に投げ捨てよう。難破した船から無人島に流れ着いた者が一片の手紙を瓶に入れ海流に託して放り投げるように、わたしも鎮男の母が私が生まれたときにくれたというお守り袋の中に入れて、雑踏の中に放り投げるのだ。

 

                          2008.6.29 

第一部 完