悲母観音像 4

2013/02/26 10:20


大樹は、自分のその能力を自覚していた。しかし彼は、決してそれを過大評価することはなかった。優れたジャグラーがいくつものボールを両手で自由自在に扱うように、自分は、人の心を精確に見抜き、そして自在に操作することが出来るというだけのことだ。
白幡陽子は、自らの意思によって、大樹へのいとおしさから大樹の世話をしていると思っている。しかし、それは少し違う。一見その感情は、きわめて自然な母性本能に基づくもののように自覚されるかも知れない。大樹のように小さくて無力で不幸なものを見れば、誰しもが同じような感情を抱くだろう。だが、陽子のその感情は、決して自然なものではなかった。それは、夕焼けが太陽の名残の光の反映であるように大樹の意志の反映だったのである。

大樹は、なぜ陽子に不要な干渉をしたのか、そのわけを冷静に分析していた。その結論は嫉妬だった。そしてそれを十歳の大樹は恥ずべきことと考えていた。
「ぼくは、なんて余計なことを陽子に言ってしまったのだろう」大樹は、眼を閉じたまま考えた。「しかし、言い訳ならいくらでも可能だ。第一に、ぼくは女王蜂、いや王子なのだ。陽子は、ぼくがぼくの世話をさせるために作り上げた、いわばぼくの秘書であり、お手伝いであり、家庭教師であり、そして勿論ナースであるとともに、ひょっとしたら……」そこまで考えながら、彼は心臓の鼓動が速くなり、顔が赤らむのを感じる。「ぼくは、陽子に恋をしてしまったのだろうか」

大樹は、その恋という感情が、自分の首から下の問題と密接に結びついたものであることを知っていた。しかし、自分の下半身は、決して、絶対に自分の思いどおりに反応しようとはしない。性器官ばかりか排泄器官さえ意のままにならないことが彼の顔を赤く染めさせたのだ。
「すべては、ホルモンによるものだ。心臓の鼓動が強く速くなるのも、そして、性的な妄想が生じるのも、決して神経を通してのものではない」大樹の場合は、その名前のごとく、大きな木が、その発する化学物質によって昆虫や鳥や小動物を呼び寄せ、あるいは周りの植物と会話をするように、彼の脳がすでにあきらめてしまった神経という経路ではなく、ありとあらゆるホルモンを使って抹消にまで働きかけているのである。
「だがそれは、ぼくの体内で起こっていることに過ぎない」
大樹は、自分の体外に及ぼす力の源についても定見を持っていた。それは重力だった。重力――この不思議な力を、彼は応用し制御しているのだと信じていた。
グラビティ、彼が密かにGと呼ぶ力は、他の三つの力とは根本的に違う。それは、クーロン力や核力などと比べて極端に弱い。この世を構成する他の7次元の空間に吸収されてしまって、残る3次元中では急速に衰えてしまうのだ。
「しかしぼくは、この重力の恩寵を100%使うことができる」
実際、大樹の精神感応能力は恐るべきものだった。それは、対象がどんなに遠く離れていても、あるいは一度の面識がなくとも確実に捉えることが出来た。

陽子は、大樹が拗ねて寝てしまったと思ったのか、清拭を終わると出て行ってしまった。
大樹は、自分が少年から大人に変容しようとしていることに気がついていた。「ぼくのような身体を持つ者にとって、それはいったいどのような季節をもたらすのだろう」
いずれにせよそれは、かつてどのような本にも書かれたことのない、したがって恐れに満ちた地獄の一季になるにちがいなかった。
「でも、ぼくはドゥエル博士とは違う」と大樹は考える。「ぼくは、誰に知られることなく人の心の深奥に入り込み、自分の思う通りに動かすことが出来るのだ」

大樹は、その小説の内容を思い出し、再び恐怖がこみ上げてくるのを感じた。
「ぼくには、身体表現は出来ない。首から上のこと以外は。身震いするとか、足がすくむとか。でも、あの小説を読んだときには、全身に鳥肌が立つのを覚えた。あの小説は、ぼくに一種の変革をもたらした。だけど、ぼくはドゥエル博士のように人に利用されることは断じてない。ぼくが人を利用するのだ。でもぼくは、決して悪のためにそれを使うことはない。いや、正直言って、ぼくには善と悪というものの違いが良く分からない。
同じ人類が殺し合いをする場合には、何らかの大義が必要だ。それが善悪を峻別する、切り分ける刀のようなものであることは良く分かる。
これが、たとえばバイソンや狼のような生き物であれば、人間は、いくら殺してもほとんど罪悪感など持たないだろう。彼らをただプレジャーのために際限なく撃ち殺しても、あるいは害獣として絶滅させてしまってもなんら痛痒は感じなかったはずだ。だが、殺される側にしてみれば、これ以上の悪はないだろう。

あるいは、同じ人間同士であっても、ひとたび宗教が黒人は人間ではないと宣言すれば、たちまち彼らは奴隷にされ、家畜同様の扱いを受けることになる。あるいは、悪魔に憑依されているとジャッジされたヒステリー女は魔女となって焼き殺されてしまうのだ。宗教など、所詮は神の名を騙ったいかさま商売に過ぎない。