悲母観音像 7

2013/02/26 10:24

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男の名前は、丸木良也といった。彼は今、少年刑務所に収監されていた。
この男には、幼児殺しの反省など欠片もなかった。そればかりか、自分が殺したあの幼子のことを思うたびに胸が熱くなった
決して改悛の情に苛まれて熱くなるわけではない。それは、自虐的な感情でさえなかった。幼子が涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら必死に自分に立ち向かってくるその姿。その真っ赤になった顔。そして、その傍らでそんな子供を庇ってやることもできず畳にひれ伏すようにして泣く女。それは、良也の暴力性を掻き立て、性欲の炎ををさらに煽ぎたてた。
「ほら坊主、かかってこい。おまえは俺にとって、ステーキに振り掛けるスパイスのようなものなのだ。おまえをさんざん殴った後、俺はおまえの母親を抱く。この女は、おまえなぞには分からんだろうが、マゾなのだ。俺に痛めつけられることが嬉しくてしようがないのだ。だから、おまえは、俺とこの女が楽しむためのスパイスに過ぎんのだ」
良也は、あと一月ほどでこの檻から解き放たれることを知っていた。
世の中なんて甘いものよ。良也は、鼻でせせら笑っていた。実際、あの餓鬼が家出しておまわりが家を訪ねてきた時は、びっくりしたものだった。しかし、あの馬鹿なマッポは、餓鬼の痣にも気付かないばかりか、俺がこの餓鬼の父親だと本気で思っている様子だった。
「すみませんでした」良也は、子供の頭を撫でながら警官に軽く頭を下げた。「この子は電車が好きでいつも乗りたがっていましたから、一人で乗ってみたかったんだと思います」
「危険な世の中ですからね。ちゃんと見てあげてくださいよ」
そう言い残して警官が帰った後で、良也は幼児を思い切りいたぶった。タバコの火をお灸だと言って子供が引き付けを起こすまで腹に押し付けた。
母親が勤めから帰ってきたとき、幼児はあちこち火傷だらけになって押入れの中で泣き寝入りしていた。それでも母親は、医者に連れて行くこともせず、ただ冷蔵庫の氷で火傷の跡を冷やしてやるだけだった。

良也は、ここから出る日が待ち遠しくてしようがなかった。俺には何もかもが思いのままだ。この世は俺のために存在するのだ。俺は、ここを出たら地元に帰って親父の事業を継ぐ。金を稼いで、いずれは中央政界にも進出してやる。何しろ、俺は未成年だ。ここを出ればすべてがリセットされるというわけだ。

良也の父親は、T市の名士だった。もともとはやくざだったのだが、金の力に物を言わせ、今では黒い経歴を口にする者など誰もいない。彼は、市会議員であるばかりか、あらゆる有力地元企業の出資者だった。実質T市を仕切っているのはこの男だったのだ。
不肖の息子が事件を起こしたときも、さすがにマスコミの口を塞ぐことは出来なかったが、それでも記事の扱いを小さくしてやることは出来た。そして、有力な人権派の弁護士を付け、裁判でもダメージを最小限にすることはできた。あの馬鹿な母親は、ほんのはした金で示談に応じた。

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翌朝10時。大樹は、自分が希望したとおり都築拓海と二人きりで話をすることができた。
「ぼくは、白幡のお姉さんと同じように先生の大ファンなんです。なぜかと言うと、先生の作品には子供に対する愛情が溢れているからです。ぼくは、サリンジャーの小説が好きで、特にキャッチャー・イン・ザ・ライが大好きなのですが、それは、この小説には、サリンジャーの子供に対する深い愛情がいっぱい詰まっているからなんです」
「ぼくをサリンジャーと同じに見てくれて本当にうれしいよ。ありがとう」
都築は、大樹のベッドの傍の円椅子に掛け、大樹の冷たい小さな右手を両手で包みこむように握りながらマッサージをしてやっている。
大樹は、彼のために特別に作られたウレタン性のサポーターを背中にあてがわれていて、そのおかげで都築のほうに身体全体を斜めに向けることができた。大樹は、都築の顔を横から見上げながら、軽い失望を覚えていた。なぜなら、自分がキャッチャー・イン・ザ・ライを口にした意味をこの彫刻家がちっとも気が付いていそうになかったからだ。
「もしもこの男が、『この小説は、メル・ギブソン主演の陰謀のセオリーでも使われたし、ジョンレノン暗殺のヒンクリーも携えていたらしいね』とでも言ってくれれば、ぼくは大喜びしてやっただろうに」

「先生。それで、ぼくには大変なお願いがあるのです」
大樹は、失望を隠しながら話を切り出した。それは、彼が処女作を世に送り出すための最初の一刀だった。

都築は、大樹の話に衝撃を受けた。彼自身も、非業の死を遂げた幼子のことは新聞で知って深く記憶に留めていた。そして彼自身、いたいけな幼子を殺した男に激しい憎悪を感じていた。しかしそれを、こんな小さな子供さえもが、自分以上に激しい憎しみを抱いていたとは・・・・・・。

だが、都築は大人だった。いや、大人でなければならなかった。どれほどこの子に共感を覚えたとはいえ、易々と口車に乗せられ犯罪に手を貸すわけにはいかなかった。

「君の気持ちは良く分かるよ」
都築は、大樹の右手を撫でてやりながら、この子がなぜ自分を選んだのか、そのわけを計りかねていた。
「でもねぇ。いくら悪い奴だからといって、自分たちと関係のない人間を殺すことはできないよ。そんなことをしたら、その男と同じになってしまうだろう」
「先生。ぼくは、その男を殺そうと言っているわけではありません。懲らしめてやろうとしているだけです。そうでないと、たった4歳で、その短い人生の大半を拷問のような仕打ちを受けて死んでいかねばならなかった子供が余りに可哀想ではありませんか」
都築は、この言葉にぐっと胸が詰まった。まさか、わずか10歳の少年に自分がマリオネットのように操られようとは思いもよらなかった。しかし、彼は確実に少年のもつ強力な魔力によって操作されようとしていた。

結局、都築は、古川大樹に負けた。彼のプランの詳細を電子メールで受け取ることを肯った。
翌日、アトリエに帰った都築は、いの一番に大樹からのメールの確認をした。様々なメールに混じって、確かにそのメールがあった。添付ファイルを開くと、そこには、まさに驚嘆に値するほど詳細な計画が認められていた。
その中でも、都築が現在展覧会出品を目指している作品についての詳細な言及に都築は心臓が止まるほどのショックを受けた。
「なぜ、この作品のことまで……」
「先生のいま製作なさっている作品を、ぜひぼくの計画の主役として使わせていただきたいのです」
大樹は、そう書いている。そして、彼の計画では、作品は展覧会にではなく、T市の駅前に据え付けねばならなかった。
彼は、二人の助手を見た。時田と田辺はそれぞれ、声をかけるのもはばかられるほどに仕事に没頭していた。だが、大樹の計画通りに事を遂行するには、大きな修正が必要だった。

「田辺君」都築は、ついに彼の名を呼んだ。「ちょっと、話があるんだ」
「はい」
田辺が怪訝そうな顔を都築の方に向けた。
雇い主は、コーヒーテーブルの上に置いたパソコンのディスプレィにじっと目をやっていた。
「こっちに来てくれ」
都築はディスプレィを見たまま大声で呼びかけた。
「はい」
田辺は、仕事の期限が迫っていることを頭に思い浮かべながら席を立った。この仕事が終われば、俺はまたフリーターに戻らねばならない。
都築は、切り立つ崖のようになった2階の端で仕事をしている。ちょうど京都の清水寺のような大空間の端で、小さなコーヒーテーブルの上にノートパソコンを置いて、大樹が送ってくれた計画書を魅入られたように見ていたのである。
このアトリエは、四方に鉄の柵を設けただけで壁も窓もない。ただ、悪天候のときにはアルミ製の可動式パネルを閉鎖して風雨を避けるようにはなっていた。

田辺は、椅子を引き寄せると黙って都築の前に腰を降ろした。だが都築は、それにさえ気がつかない様子だ。
「先生」田辺が小さく声をかけた。
都築は、自分で田辺を呼んでおきながら、はっと驚いたように顔を上げた。
「おおっ」と言って田辺の顔を見る。「いや、忙しいところをすまない。実は、少し
設計を変更しなければならなくなった」
「はぁ」田辺は、あっけにとられた。「と、言いますと」
「まぁ、コーヒーでも飲みながら話そう」
ワゴンの上には、コーヒーメーカーが乗っている。一陣の風がさーっと眼下の樹冠を撫でて通り過ぎた。かなたには冠雪をいただいた富士が見える。
「はい。いただきます」田辺は、長い話になりそうだと感じていた。