悲母観音像 3

2013/02/26 10:19


実際に大樹の知識の修得量は凄まじかった。彼は、ほどなくしてすべての科目において中学の教師たちをも感嘆させるようになっていった。
数学の教師などは、とっくに白旗を上げていた。彼は、ファインマンオイラーの宝石と呼び、小川洋子の「博士の愛した数式」にも出てきたある数式の意味について大樹に訊いてきたほどだった。

「先生。勿論、この数式に物理学上の意味を見出すことは可能ですが、単にオイラーの公式の特殊解と見るほうが自然ですよ。ぼくには、別に宝石と呼ぶほどの意味があるようには思えませんが」大樹は、ディスプレィの向こうの若い教師に向かってそう答えたのだった。

そのとき、大樹が目を覚ました。彼は、このように唐突に目を覚まし、また反対に急に眠ってしまうことがあった。そして、そのスイッチの切り替えは、まるで狸寝入りでもしていたのではないかと思うほど素早かった。
「ねぇ、ようこたん」
大樹は、このように、ときどき陽子に甘えたように呼びかけることがある。陽子は、大樹のやせ細った背中を少し斜めに浮かせて、暖かいタオルで拭いてやりながら、いとおしさが喉元までこみ上げてくるのを感じる。
大樹は、ほとんど一日ベッドに仰向けになったままで寝返りさえ出来なかったが、褥創が出来たことは一度もなかった。陽子をはじめ、看護師たちがときどき特性のベッドの向きを変えて寝させてはマッサージを兼ねた清拭を念入りに行ってくれるからだ。
「なあに、たいたん」陽子も自分の息子に呼びかけるように応える。「ようこたんは、君のその呼びかけにとても弱いんだけど」

「ぼくは、ようこたんに、ぼくのツバメになってくれないかなといつも思っているんだ」
「ツバメ?」
「うん。あの王子様のそばに死ぬまで一緒にいたツバメのことだよ」
「ああ、ハッピープリンスの話ね」
陽子は、大樹がその童話をとても気に入っていることを知っていた。この子は非常に頭脳が発達しているけれども、その一方で春の淡雪のように、とても美しくはあるが、日が射せばたちまち消えいってしまうような、繊細で純真な心を垣間見せることがある。陽子は、その美しい心が傷つかないよう、いつも細心の注意を払っていた。
「うん。いいよ。ようこたんは、ずっと大樹王子の燕だよ」
だが陽子は、このときにはまだ大樹の企みについてまったく気が付いていなかった。

陽子は、大樹の不思議な能力にたびたび遭遇してきた。ほかの看護師たちもときおり、大樹には何でも見透かれちゃうから、怖くて話もできない、とまじめな顔で話すことがあった。
陽子も、彼女たちとまったく同感であった。人間の脳には、身体的なハンディキャップを保障する能力が備わっているとは良く聞く話だが、大樹の場合には、恐らくその保障の能力が極限にまで増幅されているに違いなかった。

そして今、まさに大樹がその恐るべき力を陽子に見せ付けようとしていた。

「ようこたん。武田先生はいいドクターだけど、浮気者だから気をつけたほうがいいよ」と言われた。

陽子が40を過ぎた外科医の武田と付き合っていることは、誰も知らないはずだった。まだ3ヶ月ばかりの付き合いだが、大樹の言うとおり、武田が大変な浮気者であることにはすぐに気がついた。彼は、独身とはいうものの、フィリピン人のホステスとの間に10歳と9歳の二人の男の子を儲けていた。
武田は、陽子と結婚する気などさらさらなかった。それは、最初のデートのときにはっきりと口にした。
「ぼくは、独身主義者だからねぇ。子供だって欲しくはない。純粋に、ただ一度きりの人生を楽しみたいだけなんだよ」
武田は、パイプカットをしていることさえ臆面もなく陽子に告げた。彼に言わせれば、それは女性を傷つけないための思いやりからだそうである。

「大樹くん」陽子は、軽い怒りを含んだ眼を大樹に向けた。「君は最近だいぶおませになってきたみたいだけど、まだまだ男と女のことに口を出せるほどには大人ではないと思うんだけどな」
「分かってるよ」
大樹は、天井を見つめたまま少し声を荒げた。
「でもぼくは、ようこたんがあの男に紙くずみたいに捨てられて、泣く姿を見たくはないんだ。だから、さっきぼくが言ったことは予防注射と思って聞いてよ」
「分かったわ」陽子は微笑みながら応える。「それに、君の言うことは、恐ろしいほどに的を得ているからね」
「射ているだよ」そう言って大樹は静かに眼を瞑る。
「敵わないなぁ」陽子は、目を閉じたままの大樹を前に大げさに両腕を広げてみせる。フラストレーションを発散させるための無意識の行為だった。