悲母観音像 6

2013/02/26 10:22

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 大樹は、その決行の日を一月後と決めた。彼は、コンピュータを使って、陽子宛のメッセージを認めた。
「陽子様へ。お願いがあります。最近、ぼくは、彫刻家の都築拓海先生をテレビで見て、ぜひ一度お会いしたくなりました。先生は、小さな子供をモチーフにした作品を多く製作されています。ぼくは、先生にお願いして、ぼくのイメージした子供の像を作ってもらいたいのです。それで、お願いというのは、先生がぼくに会ってくれるように、陽子さんから連絡をとってくれないかということです。どうぞ、よろしくお願いします。ぼくの大事なツバメさんへ。幸せを願う王子より」
大樹は、陽子がベッドのそばまでくると、すぐにそのメッセージを見せた。
「へぇー」と、陽子が声を上げた。「偶然ねぇ。たいちゃんが都築先生のファンだったなんて。実は、私もあの先生の彫刻が大好きなの」
無論、それは偶然ではなかった。大樹は、テレビを見る前から都築のことを良く知っていた。大樹は、陽子が都築のファンであることを知っていたからこそ都築に興味を持ち、そして、今回の計画に彼を組み入れたのだ。

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都築拓海は、その電話の声に心当たりはなかった。しかし、相手が白幡陽子と名乗ったとき、はっと頭に閃くものがあった。それは、しばしば自分に葉書をくれる熱心なファンであることに気が付いたのだ。
都築は、以前に陽子がくれた葉書の文面を頭に思い浮かべた。決して洗練された文章ではなかったが、彼女の彫刻に対する深い関心と、ありがたいことには自分に対する尊敬の念があからさまに記されており、面映い気持ちになったことを思い出した。彼は、電話口で顔が赤らむのを感じた。
しかし、彼女の話が本題に入ると、彼の神経はピリッと張りつめた。昨日は、ある会社の創立記念日で、それに合わせたモニュメントの除幕式に九州まで出かけた。その疲れを引きずってはいたが、大樹という不幸な子供の話を聞いたとたんに、そんな世俗の垢に塗れた疲れは吹っ飛んだ。

もともと、この男の芯は子供だった。都築拓海は、ピーターパン症候群とでもいうのか、大人になれない大人、大人になることをずっと拒否し続けてきた男だったのだ。
「明日でよろしければ、そこにお伺いしましょう」白幡陽子の、大樹にぜひ会ってやって欲しいとの要求を聞いて、都築は即座にOKした。
「ありがとうございます。ほんとうにお忙しいところを二つ返事で了解していただいて、なんて感謝していいか分かりません」
「感謝だなんてとんでもない」都築は、アトリエのアルミ製のパイプ椅子に腰掛けたまま応えた。高台に建てた、材木工場のような木の良い匂いのする2階の部屋からは富士の姿がくっきりと見えた。
アトリエは、100坪もあったが、四方に壁を作らず、陸屋根に設けたいくつものトップライトから日の光が入るよう設計されている。1階は、住居とガレージの外に金工用のスペースと陶工のための窯もあった。
このだだっ広い2階全体が、今は新しい作品製作のために使われていた。ここ半年ばかり、都築はここで二人の助手と共に仏像をモチーフにした巨大な彫刻の制作にあたっていたのだ。作品は、各部分ごとに分割され、きちんと床の上に並べられていた。さらには、サーボモータのようなものや様々な電子部品までもがスチール製の棚に置かれている。

「おおい、君たち」都築は、電話を切ると二人の男に大声で呼びかけた。
二人が仕事の手を止めて、都築の方を振り向いた。
「ぼくは明日、東京に行くことになった。時田、明日はおまえが中心になって田辺君と二人しっかりやってくれ」
「分かりました」

時田が、首にかけたタオルで顔の汗を拭いながら、野太い声で都築に応えた。
彼は、半割にした丸太を並べて作った長さ2mほどの作業台の上で、都築が展覧会に出すために力を入れている作品の製作にあたっていた。作業台の周りは木屑や大鋸屑がいっぱい散らばっており、彼が頭に被っている赤いバンダナや白いTシャツ、青いGパンにも、野歩きした後の植物の種子のように木屑が一杯付いていた。

田辺は、都築と目が合うと、トップライトの真下に置いたデスクから独特の甲高い声で「了解です」と応えたが、すぐにまたパソコンに向き直った。
この男は都築の弟子ではなかった。彼は、今度の作品のために都築が半年契約で特別に雇ったエンジニアだったのだ。
都築は、今度の作品の独創性に強い自信をもっていた。
この作品は、古今が融合した、かつてないものになるだろう。