超訳 荒野の呼び声 21

2015/11/03 16:36


メルセデスは、女性であることについての不満をかこっていた。彼女は美しく柔和であり、これまでずっと騎士道的な扱いを受けてきた。しかし彼女に対する近頃の男たちの扱いはとても騎士道的とはいえなかった。か弱い女を装おうことが彼女の習い性になっていたのだが、男たちはそれに対して不平を言うようになったのである。彼らが非難するのは、彼女の女性としての既得権についてであり、そのためにみなの生活が悲惨なものになっているというのである。やれ筋肉痛だのやれ疲れただのといって犬たちのことをまったく顧みず橇に乗り続けていることを指摘した。彼女は美しく柔和であったが、体重は百二十ポンド(五十四キロ)あって、弱り切って飢えた犬たちにとっては、十分過ぎるほどの枷となっていたのである。彼女は一日中橇に乗り続け、犬たちがとうとう引けなくなって橇が止まってしまっても降りなかった。チャールズとハルは、降りて歩くよう懇願し、一方彼女は天に向かって二人の非情を訴え続けた。

あるとき、男たちはたまらなくなって彼女を無理やり橇から降ろした。しかし、それからは二度と同じことをやろうとはしなかった。彼女が甘やかされた子供のように足を引き摺って歩き、途中で座り込んでしまったのである。男たちはそのまま進み続けたが、それでも彼女はそこから動こうとはしない。三マイル行ってから、男たちは橇の荷を降ろし彼女のところまで引き返した。そして無理やりまた彼女を橇に乗せなければならなかったのである。

三人は自分たちの悲惨さは必要以上に感じる一方、犬たちの惨状についてはまったく無感覚であった。ハルがどこかで試したという理論によると、犬たちはいくらでも強くなるのだった。それで彼は、姉や義兄にそのことを説得し始めた。しかしそれが失敗すると、彼は犬を棍棒でひどく叩いた。
ファイブフィンガーまで来たとき、とうとう犬たちの食料が底をついた。歯の抜けたインディアンの女が何ポンドかの凍った馬の革と交換に、大きなハンティングナイフといつも仲良くぶら下がっていたハルのコルトレボルバーを持っていった。
惨めな代替食料がこの馬の革で、半年ほど前に牧場主が飢えて死んだ何頭かの馬から剥がしたものだった。その凍り付いた姿からは革というよりトタン板に見えたが、犬たちが悪戦苦闘の末に胃袋に納めるとようやく中で解けて薄い栄養のない革の繊維と短い毛の塊になって胃をおかしくするばかりで、ほとんど消化しなかった。

そのような状況のなか、バックはチームの頭として踏ん張り続けたが、まるで悪夢を見ているように思えた。彼は、橇を引っ張れる限り引っ張ったが、いよいよ引けなくなるとその場に突っ伏し、鞭や棍棒でこっぴどく打たれるまで立ち上がらなかった。美しかった毛皮のコートからは艶も張りも失われてしまった。毛は、弱々しく薄汚れまたハルの棍棒による出血で縺れたまま乾き、だらしなく垂れ下がっていた。筋肉は瘤のようだった膨らみがなくなり、肉球は姿を消し、肋骨や骨格を形作っている骨が、弛んで皺になってもはや何も包むもののない皮を通して見事な浮き彫りとなって見えた。まさに心が折れてしまいそうな惨状であったが、バックの心だけは折れていなかった。それは、あの赤いセーターの男が証明してみせた通りだったのである。

バックと同様、他の犬たちも徘徊する骸骨であった。今や全部で七頭、これにはバック自身も含んだ数だ。余りの惨状に、彼らの神経は麻痺し、鞭が食い込もうと棍棒が痣を作ろうと感じなくなってしまっていた。いくら叩かれようと、痛みは鈍く感じられ、どこか遠くで起きている出来事のように思われた。犬たちは、もはや半死半生どころか、四分の三死んでいた。彼らはただ蝋燭の火が微かにちらちらと灯る骨と皮だけの提灯だった。橇の停止が命ぜられると、引き紐を着けたまま死んだようにその場に突っ伏した。そのとき提灯の灯は暗くなり、蒼ざめ、今にも消えてしまいそうであった。しかし、棍棒や鞭が振り落とされると、灯は再びパタパタと蝶の舞のように弱々しく燃え上がり、彼らはふらふらよろめきながら立ちあがるのであった。

性格の良かったビリーにもその日が来た。彼はへたり込んで、そのまま立てなくなってしまったのだ。ハルはレボルバーをとられていたので、斧を出して引き紐を着けたままのビリーの頭に打ち降ろして殺した。そして死骸をハーネスから外すと道の端まで引き摺って捨てた。バックの、そして他の犬たちの目の前でである。犬たちは皆、これが他人事でないことをよく知っていた。次の日、クーナが死に、残りは五頭を残すのみとなった。ジョーはもはや悪意さえ見せない。パイクは足が麻痺しびっこを引いていたが、意識が朦朧としていたので、仮病を使おうなど意識に上るはずもない。独眼のソルレックスは依然として懸命に橇を引いたが、余りに力が衰えたことに嘆き苦しんでいた。ティークはこれまで橇を引いたことがなかったのだが、彼が最も若々しいという理由で、今では他のどの犬よりも打たれるようになった。そしてバックは、依然としてリーダー犬であったが、もう皆を指導することなどできはしない。身体が弱って半分ほどしか眼が見えず、ただぼんやりした視覚と足の裏の微かな感覚で道を辿っているだけだった。

ときはすでにうるわしき春の気候になっていたが、犬たちも人間たちもそれに気付く余裕もなかった。毎日、太陽は少しずつ日の出を早め、日の入りを遅らせていた。三時には夜が明けるようになり、九時まで黄昏が纏わりついた。日中、太陽は煌めき続ける。幽霊のようであった冬の沈黙は、目醒めたばかりの命のつぶやきにその場を明け渡した。つぶやきはあらゆるところから沸き起こり、生の喜びでそこらじゅうを満たした。それは、凍てついた何か月という長い時間をじっと死んだように生きてきて、いま再び動きだしたものたちから発せられていたのである。松からは樹液が滲みだし、柳やヤマナラシからは若芽がふき、灌木や蔓草は新しい緑の外套を手に入れ、蟋蟀が夜、歌を歌い、そして昼には、蔦や蔓がみな一斉に太陽に向かってかさかさと背を伸ばしていった。ヤマウズラやキツツキは森の中で鳴いたり樹を打つ音を立てたりし、リスは賑やかにおしゃべりをし、鳥たちが歌い、頭上では南からやってきた梟がほーと一つ鳴いて急に角度を変え空気を切り裂く。