超訳 荒野の呼び声 20

2015/11/02 11:12

ハルは再び犬たちに鞭を振り落とした。犬たちは、固められた雪に足を沈め力一杯力を込めて胸当てを押した。しかし橇は錨になってしまったかのように動かない。犬たちはもう一度同じことを繰り返したが、息を切らせただけで立ちつくしてしまった。鞭が容赦のない唸りを上げ、またメルセデスが止めに入った。彼女はバックの前で膝をついて、その両腕を彼の頸に巻き付けた。
「おお、痛かったでしょ、痛かったでしょ」彼女は同情したように叫んだ。「なんであんたはもっと一生懸命に引っ張らないの。そうすれば叩かれないですむでしょ」
バックはこの女が好きでなかったが、しかしその腕を振りほどいて抵抗することは返って自分を惨めにするだけに思えたので、毎日のように続く惨めさの一つとして我慢することにした。
見物人の一人が歯をぎりぎり言わせながらも黙っていたのだが、ついにたまらなくなって口を開いた。

「あんたたちのお楽しみを邪魔するつもりはねぇが、俺は犬たちのために一つだけ言っておくぜ。そいつらを助けてやるのはどうってこたぁねぇ、固まっちまった橇を引き剥がしゃぁいいんだ。ランナーなんぞすぐに凍り付いてしまうんだよ。そのジーポールに体重を掛けてみな。右にも左にもだ。そうすりゃ、すぐに引き剥がれてしまわぁ」

言われた通りやって、三度目にようやく試みは成功した。やはりランナーが凍り付いて雪面と一体になっていたのである。バックと仲間の犬たちは、雨のように降り落とされる鞭に堪らず橇を引き、過重積載の引きづらい橇はようやく前へ進み始めた。百ヤード(九十メートル)先で細い通り道は曲がって急な下り坂となり、大通りへとつながっている。そこを重心の高い橇で通過するには熟練を要したが、ハルにそのような経験も知識もあるはずがなかった。
案の定、橇はそこでひっくり返って、ロープの締めがいい加減だったため積み荷の半分をぶちまけてしまった。それでも犬たちは走り続けた。軽くなった橇は後ろでバウンドを繰り返している。彼らは、余りにひどい扱いと余りの重荷に怒り心頭に達していたのである。バックも激怒していた。彼は走り続け、他の犬もそれに続いた。ハルが大声で叫んだ。「おーい、おーい」しかし、犬たちは耳も貸さない。ハルは蹴躓いて道から逸れた。橇は彼を置いたまま大通りへと突き進んでゆき、目抜き通りでさらに積み荷を撒き散らしてスカグウェイの賑わいを一層華やかにした。

親切な人たちが犬たちを捕まえ、散らばった荷を拾い集めてくれた上に、「ドーソンまで行きたいなら荷を半分にして犬の数を倍にしろ」とアドバイスまでしてくれた。ハルも姉も義兄も、それを心半分に聞きながらテントを張り、橇を修繕した。荷物の中から缶詰が出てきたときには男たちが笑った。缶詰などというものは、このような長期の旅には思い浮かびもしない代物だったからである。

「毛布はホテルだけで十分だ」とある男が笑いながら、それでも親切に宣った。「半分でもまだ多すぎらぁ。そんなもの捨てちめぇな。テントなんぞもいらねぇし、そんな食器をいっぱい持っていって、いってぇ誰が洗うってんだ? へぇ、魂消た、プルマン(一等車両)にでも乗ってるつもりかね?」

そういったわけで、過剰な荷物の容赦ない排斥がはじまった。メルセデスは彼女の衣類が詰まった袋や書籍が次から次へ捨てられるのを見て叫び声を上げた。彼女はすべてに、なかでも既に捨てられてしまったものに泣き声を上げた。そして両手で固く膝を抱え、身体を前後に揺さぶって悲痛を訴えた。また、夫がどんなに恃もうともう一歩も動かないという断固たる決意を表明した。彼女は、いろいろ文句を言った末に、突如として涙を拭い必需品とは言えぬアパレル関係の雑誌を投げ捨てはじめた。そうして熱に浮かされたように自分のものを捨て終えると、今度は男たちの持ち物に襲い掛かって竜巻のように投げ捨て始めた。

こんなふうにして廃棄が終わると、外観上は半分に減ったが、まだまだ恐るべき量である。夕方になって、ハルとチャールズが六頭の犬を買って戻ってきた。これらがもともといた六頭に加わり、さらにティークとクーナが新記録を達成したときにリンクラピッズで加わっていたから総勢で十四頭になった。しかし、新たに加わった六頭の犬は、陸に上がった時からすでに実用にならないくらいに壊れてしまっていたから、数に入れてよいものかどうかさえ分からない。三頭がショートヘアードポインターで、一頭がニューファンドランド犬、残りの二頭は何が混ざっているのかも定かではない雑種である。

いずれにせよ、この新入りたちは橇の訓練を受けているようには見えない。バックと仲間の犬たちは彼らを一目見るなりゲッと落胆したが、それでもバックは、彼らに自分たちの立場とやってはいけないことを即座に学ばせた。さすがに何をやるべきかまでは教えられなかった。二頭の雑種を除いて、他の犬たちは引き紐の扱いもどう走るべきかも分からない上、この不思議で野蛮な環境に適応できず、自分たちへのひどい扱いにすっかり魂消てしまっていた。雑種二頭は、もともと魂消るような魂を持っておらず、性根が極めて骨太だった。
頼りにならない不揃いのルーキー犬たち、そして二千五百マイルをずっと走り続けて疲弊したロートル犬たち、内実はともかく外見だけは華やかであった。しかも、二人の男は実に陽気で、また誇らしげでもあった。彼らは、なにはともあれ十四頭の犬によって体裁だけは整えたのである。二人は、ドーソンに向けて出立したり、逆にドーソンから入って来たりする犬橇をよく目にしていたのだが、十四頭もの犬で引く橇を見たことがなかった。実は、それには然るべき理由があり、極北の地で十四頭もの犬で一つの橇を引くことは、その分の犬たちの食料を運ばねばならず効率が悪いので、誰もやらないことだったのである。しかしハルもチャールズもこれを知らなかった。彼らは鉛筆だけで旅のことを考えていたのである。これだけの犬だとこれだけの食料が入用で、これだけの日数がかかる。結論終わり。メルセデスは、算段をする彼らの肩越しに頷いてみせるだけ。すべては、このようにごく単純に考え出されたのである。

その日の朝遅く、バックは長く伸びたチームを通りまで引き連れていった。もう彼自身からも仲間の犬たちからもお互いに咬みつきあったり走り回ったりする活力は消え失せていた。彼らは弱々しく橇を引き摺りはじめた。彼は、すでにドーソンとソルトウォーター間の距離の四倍相当を走っており、もう十分過ぎる経験を積んでいたので、いい加減に飽き飽きしていた上にひどく疲労していたため、これから先また同じように橇を引くのかと思っただけでぞーとしてしまうのだった。彼の気持ちはもはや仕事になかったし他の犬たちにしてもそれは同じであった。外部からきた犬たちは大人しくてただ怯えており、内部の犬たちは新しい主人たちに対して信頼を持っていなかった。
バックは漠然と、この男二人と女には任せておけないと感じていた。彼らは何にしてもやり方を知らない上、日が経つにつれ何も学んでいないことが明らかになってきた。いつまでたってもだらしないままで、順序も方法もでたらめだったのである。いい加減なキャンプ一つ張るのに夜の大半を要し、キャンプをたたんでいい加減に橇に載せるだけで朝の大半を使い、途中で橇を止めて荷を乗せ直したりするのに残りの時間を使ってしまった。ある日など、十マイルしか進むことができなかった。またある日には、まったく進むことができなかった。また、彼らが机上で計算した一日分の食料で、達成すべき距離の半分を進んだ日はなかった。
犬たちの食料が足りなくなるのは時間の問題であった。しかし彼らは、必要以上に犬たちに餌を与えて、餌の量を減らさざるを得なくなる日が来るのを早めてしまったのである。飢餓を知らない外から来た犬たちの消化力は最小の量で最大の栄養を吸収するように出来ておらず、彼らの食欲は飽くことがなかった。しかしこのときハルは、疲れ切ったハスキーたちの橇を引く力が弱いのは、規定通りの餌では量が足りないためと考えたのである。彼は餌の量を倍にした。さらに悪いことには、メルセデスが美しい目に涙を浮かべ喉を震わせてハルをおだて、もっと犬たちに餌をやるよう図ったのだが、これがうまくいかなかったので、彼女は袋から餌の干魚を盗んで、こっそり犬たちに与えていたのである。
しかし、バックや仲間のハスキー犬たちが本当に欲しかったのは食料ではなく休息だった。旅は予定よりもずっと遅れているにも関わらず、橇の荷が重すぎるために犬たちの体力を著しく奪っていった。

そしてついに食料を減らさねばならない日がきた。ハルは、ある朝起きて犬たちの食料が半分になり、進んだ距離が四分の一にも達していないという事実に気が付いた。しかし、食料を入手する手立ては何もなかった。それで止むなく、所定の量にも届かないほど減らし、一日に走る距離は逆に増加させた。姉と義兄も彼に同意した。彼らは、自分たちの着ているものが重いことや自分たちのふがいなさにフラストレーションを募らせていた。犬にやる餌を少なくするというのは至って簡単なことであった。しかし、それで犬たちに早く橇を引かせるというのは所詮不可能で、その一方、朝早くから出立して距離を稼げばいいものを自分たちのだらしなさのためにそれができないのだった。彼らは、犬たちの働かせ方も知らなければ、自分たちがどう働くべきかもまったく分かっていなかったである。

最初に彼らの犠牲になったのはダブだった。どこか間の抜けた盗人であった彼は、いつも捕まっては罰を与えられていたが、一生懸命に橇を引いていたことも事実だった。肩甲骨は捻曲がり、相分に扱ってもらえず、休ませてももらえないことから、彼の所業は悪さを増して、最後にはハルが例の大きなコルトレボルバーで撃ち殺してしまった。この辺りの言い習わしに、ハスキーの喰う量では他の犬は飢え死にしてしまう、というのがある。したがって、バック配下の外から来た六頭にとっては、ハスキーの喰う量の半分では生き残るどころの話ではなかった。ニューファンドランド犬が真っ先に死に、三頭のショートヘアードポインターがその後を追った。二頭の雑種はしぶとく生き残っていたが、最後にはやはり死んでしまった。

この段階に至ると、さすがに南地生まれ三人からは快適な環境も優しさも失われてしまっていた。魅力もロマンスもすっかり刈り込まれてしまい、極北の旅の厳しさがようやく男たちにも女にも現実感をもって感じられるようになってきたのである。メルセデスは、犬たちが可哀そうだといって泣くのを止め、彼女自身のためにもっぱら泣いて、夫や弟と言い争うようになった。喧嘩だけは、決して彼らをうんざりさせることがないようであった。彼らのイライラは惨めさを根にしており、それによって増加し、倍加し、それそのものより遥かに悪いものになってしまっていた。橇旅行において、素晴らしき忍耐の結果は、やるべきことをしっかりやりこなし、苦労にじっと耐え続けた男たちの思いやりある言葉や親切となって現れるものだが、この男たちと女ではそれが現れるはずもなかったのである。彼らは、このような忍耐の美徳をまったく身につけていなかった。三人とも頑固で融通が利かず、自分の痛みにばかり執着した。やれ筋肉が痛い、骨がきしむ、心の芯まで疲れてしまったなど、と。このために、話が棘を持ち、朝から晩まで辛辣な言葉が口を突いて出た。

チャールズとハルは、メルセデスに唆されて絶えず口論していた。二人の言い分は、俺はやるべき以上のことをやっているというもので、機会あるごとにこれを口に出した。メルセデスは、ときに夫の側に立ち、またときに弟の側に付いた。その結果は、いつ果てるとも知れぬ麗しき痴話喧嘩であった。論争は最初、棒切れの先に着いた火程度のものであったが(論争は専らハルとチャールズだけに関わるものだった)、いつの間にか、互いの家族のこと、父親や母親、叔父、いとこといった何千マイルも離れた、しかもこのうちの何人かはもうこの世にいない者にまで及んでしまうのだった。それは、ハルの芸術観とか、彼の母親の兄弟が書いているいわゆる社会派戯曲のこととか、何にしろ、棒の先に着いた火になりさえすれば良く、理路など関係がなかった。かと思えば、諍いはチャールズの政治的偏見にまで及んだ。また、彼の妹のあることないことを撒き散らす性癖がユーコンの山火事の話に一枚噛んでいるに違いないとか、この件についての諸説から彼女のもの以外を排除したくて、彼女以外には何のことかも分からない話をしていたつもりだったのが、いつの間にか、こんなふうにチャールズの親元の不快で奇妙な性癖にまで話が及んでしまったりした。一方、キャンプの焚火といえば起こされないままであり、犬たちには餌は与えられないままであった。