超訳 荒野の呼び声 22

2015/11/05 22:56


あちこちの丘陵からは清水が解けて流れ出し、目に見えぬ泉から音楽が湧き出した。あらゆるものが解け、曲がり、はじけた。ユーコンは解けた氷の勢いを集め勇壮な奔流となった。河が下から、そして太陽が上から冬を食し始めたのである。空気溜りは泡をなし、割れめは弾け広がって真っ二つになり、薄氷はまるまる一枚ごと河に飲み込まれていった。

そして、破裂し引き裂かれごぼごぼ音をたてて脈動する、命が今まさに眠りから醒めようとするまっただ中を、輝きを増した太陽の下、ため息のように微かな風に吹かれながら、死に瀕した巡教の旅人のような二人の男と一人の女、そして何頭かのハスキー犬たちがよろよろと歩いていた。

犬たちが弱っていってもメルセデスはただ泣くだけで橇を降りようとはしなかった。ハルは軽く毒づき、チャールズは何も言わずただ眼を切なげに潤ませた。彼らは、ホワイトリバーの口にあるジョン・ソーントンのキャンプによろめきながら入っていった。彼らが橇を止めたとき、犬たちはに死んだようにその場に落ち崩れた。メルセデスが眼を拭ってジョン・ソーントンを見た。チャールズは丸太の上に腰を降ろしたが、筋肉が凝り固まってその動作はのろく痛々しかった。ハルがソーントンと話をした。ジョンソーントンは、樺の枝を刻んで斧の柄を作っており、いまその最後の仕上げをしているところであった。彼は柄を刻みながら、ときどきそっけない短い返答をしながらハルの話を聞き、ときおりの質問に対してはぶっきら棒なアドバイスを送った。彼は、この手の輩をよく知っていたのである。アドバイスをしてやってもどうせやりはしないのである。

「みんながあんたと同じように河の底が抜けてしまうから、もう行かない方がいいと言ったよ」と彼は、ソーントンの「氷が解け始めたのでこれ以上進むのは危険だ」という警告に異を唱えた。「彼らはホワイトリバーまで行けないだろうと言って笑ったが、俺たちはこの通りここまでやってこられた」と彼は最後に、嘲りと勝ち誇ったような口調で言った。

「その人たちの言ったことは本当だよ」とジョンソーントンが応えた。「この時季になると氷はいつ落ちても不思議じゃないんだ。ただ、あんたたちが大馬鹿者なら、幸運に恵まれた盲蛇に怯じずの愚か者ならドーソンまで行けるかも知れないがな。言っといてやるが、俺だったらアラスカ中の金を貰ったってそんな危険を冒す気にはならねぇな」

「俺もあんたが馬鹿とは思わないがね」とハル。「とにかく、俺たちはドーソンまで行かなくてはならないんだ」
そう言って、彼は鞭を巻き戻しはじめた。「ほれ、バック立ち上がれ! ほれ立ち上がって進むんだ!」

ソーントンは再び柄を刻み始めた。これ以上は糠に釘を打つようなものであることを彼はよく知っていたのである。いくら馬鹿者どもに愚かな行いを止めさせようとしても、こいつら二人、いや三人の馬鹿どもは決して計画を変えやしない、と。

犬たちは、言うことを聞かなかった。鞭が効果を発揮する段階をとっくに過ぎていたのである。しかし鞭の方は、主人のいうことをよく聞いてところかまわず使い走りを始めた。
ジョンソーントンはじっと唇を噛んで耐えていた。ソルレックスが最初にもがくようにして動き始めた。ティークがそれに続いた。ジョーも痛さに鳴き声を上げながら続く。パイクも懸命に立ち上がろうとした。彼は二度崩れ落ちたがもう一度立ち上がろうと頑張った。しかしバックだけはまったく動こうとはしなかった。そこに静かにうずくまったままだった。鞭が彼に集中した。しかし彼は鳴き声も上げなければ身動き一つしない。何度か、ソーントンは何か言おうとして、そのたびに決心を変えた。彼の目には涙が滲み、鞭が唸るたびに彼は立ち上がって優柔不断にも行ったり来たりした。

バックが動こうとしないのは今回が初めてのことであり、ハルが怒り心頭に達しったのはそのためであった。彼は鞭を諦め、使い慣れた棍棒に持ち替えた。バックは、その重い棍棒が雨のように落ちてきても動こうとはしなかった。他の犬と同様、彼もまたやっと立ち上がるほどの体力しかなかったのも事実であったが、彼は他の犬たちとは違って、決して立つまいと固く心に決めていたのである。彼は、ぼんやりとながら危険が差し迫っていることを感じていた。この感覚は、土手まで橇を進めたときに初めて彼を捉えて以降ずっと彼から離れなかった。足の裏に日ごと感じられるようになってきた薄くて今にも割れそうな氷の感覚は、災厄が目前に迫っていることを彼に知らせてくれているのだが、一方彼の主人はその災厄に彼らを向かわせようとしているのである。彼はもう迷ってはいなかった。すでにもう十分すぎるほどひどい目にあってきている。それに彼の痛みに対する感覚は余りにも麻痺してしまっていた。棍棒が彼の上に落ち続けている間、命の灯はちらつき今にも消えようとしていた。バックの意識は朦朧としていた。彼は不思議な麻痺状態にいた。自分が打たれているのが、遥か遠くの方で起きていることのように感じられた。とうとう最後の痛撃が彼から消えてしまった。もう何も感じず、ただ棍棒が彼の身を打つ微かな音だけが聞こえた。しかしそれさえも彼の身の上からではなく、はるか彼方から聞こえてくるように思われた。

しかしそのとき、何の警告もなく、突然不明瞭な獣の咆哮にも似た叫び声とともにジョン・ソーントンが棍棒を打ち下ろす男に飛びかかった。ハルが驚いて後ろに飛び退き切り倒された木にぶつかった。メルセデスが叫び声を上げる。チャールズは涙目を拭ったが、筋肉が凝り固まっていて立ち上がることもできない。

ジョン・ソーントンは、バックを庇うようにして立ったが、余りの怒りに震えて喋ることもできない。

「もう一度この犬を打ってみろ。お前を殺してやる」彼はようやく喉に詰まった声でこう言った。

「そいつは俺の犬だ」ハルが元の位置に戻って、口のまわりに付いた血を拭いながら応える。「そこをどけ。それとも一発食らいたいのか。俺たちはドーソンまで行くんだ」

ソーントンはバックと彼の間に立ったまま、どこうという意志を示さなかった。ハルが長いナイフを取り出した。メルセデスが叫び声を上げながら笑い、ヒステリー症特有の混乱した症状を現した。ソーントンはハルの手を斧の柄で叩いてナイフを落とさせた。そしてハルがそれを拾い上げようとすると再び手を叩いた。そして背を屈めてナイフを拾い上げるとバックの引き紐二本を一本ずつ切ってしまった。

ハルからはもう戦う気力が失せていた。その上、姉がその両手と腕を抱え込んでしまっている。それに、バックは死んだも同然で橇を引かせることなど到底できるはずもない。
数分ほどして、彼らは岸から離れ河に向かって進んでいった。バックは、彼らが去っていく音を耳にすると頭を上げて見た。パイクが先頭を行き、ソルレックスが橇の前を走り、その間をジョーとティークが受け持っていた。彼らはびっこを引きよろめいている。メルセデスは相変わらず重い荷を乗せた橇のさらなる重荷になっていた。ハルがジーポールに付き、チャールズが橇の後をふらふらと追った。

バックがじっと目で追っている間ソーントンは彼のそばに跪き、節くれだった手で優しくバックの身体を探って骨折がないか調べた。その結果、多くの痣やひどい栄養失調のほかにはこれといった大きな異常を認めなかった。
橇は四分の一マイルほど先を行っている。バックとソーントンは、這うようにして氷の上を行くその様子をじっと見ていた。突然、彼らは、橇の後ろが轍にはまるように落ち、ジーポールがハルをぶら下げたまま宙に立ち上がるの見た。メルセデスの叫び声が耳に届いた。チャールズが後ろに下ろうと一歩を踏み出そうとしたとき、辺りの氷が一枚丸ごと水の中に飲み込まれ、犬たちも人間もみな消えてしまった。ただ大きく欠伸をした穴だけが目に残った。道の底が抜け、道がなくなってしまった瞬間であった。

ジョン・ソーントンとバックはお互いを見つめあった。

「可哀そうに」とジョン・ソーントンが言い、バックはその手を舐めた。