超訳 荒野の呼び声 29

2015/11/14 10:26

それからというもの、夜も昼もバックは狙った獲物を決して逃がさず、決して休息を与えず、決して樹の葉や若木の芽、柳の葉をちらっとでも見させようとはしなかった。また、この傷ついた雄鹿の喉が焼けるように水を欲していても、近くの小さな潺から零れ落ちる水を飲むことを許さなかった。しばしば、雄鹿は堪らなくなって長い距離を走って逃げようとしたが、バックは無理に止めようとはせず、その後ろにぴったりと着いて軽々と走り、彼を追い詰めて疲れさせることに満足感を覚え、彼が立ち止まってじっとしている間はそのそばで横になり、ひとたび彼が食べたり飲もうとした場合にはものすごい勢いで襲った。
雄鹿の巨大な頭は、その木の枝のような角がだんだんと下がり、よたよたした足取りはさらに弱弱しくなっていった。彼は、長い時間休むようになり、鼻は地面に付きそうなくらい低く、そして耳を落胆したように落として震わせた。一方バックは、自分自身が水を飲んだり休んだりする時間が増えた。しかし、そんなときでも彼は舌を巻いて荒く息をしながら決してこの獲物から目を離さなかった。そうしたときに、バックの眼に明らかになってきたのは物事の表情の大きな変化であった。彼は、この土地の変化を敏感に感じ取った。ヘラジカの群れがここにやってきたということは、他の様々な生き物もここへやってきたということである。森も潺も空気も彼らがやってきたことで動揺を起こしていた。その変化のニュースは、眼によってでも耳によってでも臭いによってでもなく、他の微妙な感覚によって彼のもとにもたらされたのである。彼は何も聞かず、何も見なかったが、それでもこの地が変わったことを感じていた。彼は、その直観を通して奇妙な変化が近くに迫っていることを知ったのである。そして彼は、いま目前にある一仕事を終えた後でその変化を調べてみようと考えた。

ついに、四日目の終わりになって、バックは雄鹿を倒した。昼も夜も彼はその獲物のそばに留まって、何度も何度も喰い、そして眠るということを繰り返した。そして、十分な休息をとり、十分リフレッシュして、一層逞しくなると、キャンプへ、ジョンソーントンの方へ顔を向けた。彼は何時間もの間、縺れ転ぶこともなくいとも容易く大きな跳躍を繰り返し、コンパスにも似た正確さでこの奇妙な土地を抜けてキャンプを目指し走り続けた。

走り続けるにつれ、彼はこの土地の新しい雰囲気がだんだんと深まっていくように感じた。夏を通してずっとここにいた生きものたちに変わって、他所から新しい生きものたちが渡ってきていたのだ。この事実は、微妙かつ神秘的な方法によって彼にもたらされたものであった。鳥たちがそれを語り、栗鼠たちはおしゃべりによってそれを伝え、風が密やかにそれを囁くのである。彼はしばしば歩みを止めて爽やかな朝の空気を一嗅ぎし、そのメッセージを読みとるや否やものすごい速さで走り始めた。何か災禍が起きたのではないかという予感に心を掻き乱されたのである。尤も、災禍とはすでに起きてしまったもののことをいうのであるが。そして、最後の分水嶺を越えキャンプを目指して谷へと降りて行くにつれ、彼は非常に注意深く歩を進めるようになった。
三マイルほど行って、彼は首の毛が波打ち逆立つのを覚えた。たくさんの新しい足跡の臭いを嗅いだのである。それは真っすぐジョンソーントンのいるキャンプへと向かっていた。バックは、すべての神経を集中、緊張させ、多数の情報が教える物語――すでに終わってしまっているそれに警戒しながら素早く音もたてず忍び寄るように急いだ。彼の鼻は、その様々な足跡が描く絵を臭いとして教えてくれている。彼は森が孕んでいる静けさにも気づいていた。鳥たちは空高く舞っており、栗鼠たちは木の陰に隠れてしまっている。彼の目に唯一留まったのは、――艶やかな灰色をした生きもので枯れ木の上に身体を平らにしていたので、まるでその枯れ木の一部、木の瘤のように見えた。
バックは影のように忍び寄ったが、そこで彼の鼻は、恰も大きな力に握られ引っ張られたように横を向いた。彼はその新しい臭跡を追って藪に入り、そこでニグを見つけた。彼は身体を横にして死んでいたが、その両脇からは矢の頭と羽が見えている。彼は、射抜かれた身体を引き摺ってきてここで最後を迎えたのであった。
百ヤードほど先に行くと、バックはソーントンがドーソンで買った橇犬の一頭を見つけた。この犬は、道の上で切られて悶え死んでいたが、バックはこれに構わず通り過ぎた。キャンプから微かに抑揚をもった賛歌を歌っているような多くの声が聞こえてくる。腹這いになって開けたところまで進むと彼は、顔を俯せにして矢がヤマアラシのように刺さったハンスの死体を見つけた。このときバックは、松の枝で作った粗末な小屋の方を見はらかして、その目にしたものに首から肩の毛が真っすぐ飛び跳ねるように逆立つのを感じた。強烈な熱風のような怒りが全身を覆った。彼はこれまで唸るということを知らなかったが、彼は恐ろしいほどの凶暴さを込めて大きく唸り声を上げた。今まで生きてきて初めて彼は、狡猾さも道理も越えた激しい怒りに身を任せたが、それはジョンソーントンへの深い愛からのものであり、それゆえに彼は理性を失ってしまったのである。
イーハッツたちは自分たちが破壊した小屋の周りで踊っていたのだが、凄まじい咆哮を聞いたと思った瞬間、これまで見たこともない獣が自分たち目掛けて飛び込んでくるのを見た。それは憤怒のハリケーンとなったバックであり、彼らを破滅させようという熱情に駆られて身体ごとぶつかって行ったのだった。彼は最も前にいた男(イーハッツ族の酋長であった)に飛びつくと頸動脈を切り裂き噴水のように血飛沫が上がる中、そのまま休まず、次の一飛びで二番目の男の喉を切り裂いた。彼に応戦しようという者はいなかった。彼は彼らのまっただ中に飛び込み、咬みついて裂き、切り、破壊し、安定した恐ろしいほど敏捷な動きは彼に向かって放たれた矢をものともしない。事実、信じられないような速い動きに惑わされ、また自分たちがあまりに近く密集していたために彼らはこけつまろびつして、お互いに矢で仲間を射てしまったりした。ある若い狩人は宙に浮いたバック目掛けて槍を投げつけたが、他の狩人の胸を射抜いてしまい、そのあまりの力のために槍はその男の背中を突き抜けて向こう側に突き刺さった。そうして、彼らイーハッツたちは恐慌を起こし、あまりの恐ろしさに悪霊が現れたと叫びながら森の中へ逃げ込んでいった。

バックはまさに悪霊の化身となり、木の方目指して全速力で走る彼らの踵に襲い掛かっては鹿を引き摺るようにして倒した。イーハッツ族にとってその日はまさに凶日であった。彼らはこの土地の中を遠く、広く散らばって逃げ、再びこの低地へ参集して犠牲者の数を数えたのはそれから一週間以上たってからのことであった。一方バックは、彼らを追うのに疲れ、再び破壊されたキャンプに戻ってきた。彼は、ピートが奇襲の瞬間に殺されたらしく毛布にくるまったまま息絶えているのを見つけた。ソーントンの決死の戦いぶりが土の上に書かれているのをバックはその鼻で詳細に読み取り、それを追って深い水場へとやってきた。その縁で、頭と前足を水に入れたまま最後まで主人に忠実であったスキートが死んでいた。水場そのものは、たくさんの水門を形成する箱からこちらは泥水で色を失い、まったくその水の下に何が隠されているのか分らなくなっていた。しかし、そこにはジョンソーントンの死体があったはずである。なぜならバックは、その臭跡を追ってここまできて、ここでそれを失ったからである。