超訳 荒野の呼び声 完

2015/11/15 19:54


その日バックは、一日中キャンプを離れず、水場のそばで思案に耽っては、辺りを落ち着きなくうろつき回った。
死とは運動の停止であり、生命が生き物の身体から抜けていくことである。このことをバックはよく理解していた。ジョンソーントンが死に捕われてしまったこともよく承知していた。そしてその死により、彼の胸になにか飢餓にも似た大きな空洞が生まれてしまったのである。しかしこの空洞の痛みは、疼いても疼いても決して食い物では塞ぐことができないものであった。それでも彼は、イーハットの死体をじっと観察することによって痛みが軽くなるのを感じた。そして自分の中に今まで経験したことのない大きなプライドが湧き起こるのを感じた。彼は人間という最も高貴な生き物を殺してしまったが、それは棍棒と牙の法に従ってのことである。
彼は好奇心から死体の臭いを嗅いでみた。彼らはいとも容易く死んでいった。彼らを殺すよりもハスキー犬を殺す方がよほど難しい。こん棒や槍さえなければ、彼らなどまったくどうってことはなかった。それからというもの彼は、手に弓や槍、そして棍棒を持たない限り、人間をまったく恐れなくなってしまったのである。

夜になり、大きな満月が樹々の上高く上り、辺り一面を鈍い昼のような光で包んだ。夜の訪れとともに、水場で思案と悼みに耽っていたバックは、イーハット族のものとはまた違う森の中で起きている新しい命の脈動に気がつき、ふと生気を取り戻したように立ち上がって音を聞き、臭いを嗅いだ。遙か遠くより微かに、一つの鋭い鳴き声が起こり、その後を追うように、同じような鋭い鳴き声のコーラスが風に乗って運ばれてきた。そしてしばらくすると、その鳴き声は近く大きくなった。再びバックは、記憶に強く刻まれた他の世界でのその声を思い出した。彼は開けた空間の真ん中まで歩いて行ってその声に耳を傾けた。それはあの呼び声であった。多くの声が混ざった、これまでよりももっともっと強く心を惹きつけられる抗しがたい声であった。そしてまた、これまでとは違い、彼はそれに従おうとした。ジョンソーントンは死んでしまった。最後の絆は切られてしまったのだ。人間と人間の声は、もはやなんら彼の心を打たなかった。

イーハット族が獲物を追い、渡りをするあの大きなヘラジカの腹を矢で射たように、狼の群れもまた獲物を追って向こう側の森と流れの土地からバックのいるこちらの谷へ侵出してきたのであった。月の光が射しこむ開けた空間に入ってくると、彼らは銀色の光を浴びた。そしてその空間の真ん中に立って銅像のように動かず、バックはじっと彼らが来るのを待っていたのだ。
狼たちは、あまりに静かで大きなその姿を見て畏敬の念に打たれたが、一瞬の間をおいて、一頭の勇敢な狼がまっすぐ彼に跳びかかってきた。閃光の速さでバックはこの狼を打ち、首の骨を折ってしまった。バックは何ごともなかったかのように平然と立ったままであったが、その背後では首を折られた狼が苦悶に転げまわっている。もう三頭が間をおかずにバックを襲ったが、次々と切り裂かれ、首や肩から血を流しながら引き下がった。

このことは、群れを興奮させ前に押しやるに十分であった。彼らは慌て困惑しつつも結集し、バックを倒そうという意気込みでお互いにぶつかりあったりして混乱を極めた。バックの圧倒的な素早さと機敏さは彼を優位に立たせた。後ろ足で方向を変え、鋭く咬んで腸をえぐり、同時にあちこちに姿を現した。正面からの攻撃は無論のこと、横からの攻撃にも素速く回り込んで防いだ。しかし、後ろからの攻撃を防ぐには後退するよりなかった。水場を越え川床を登って大きな石の土手に上がった。彼は、男たちが金を採るための通り道として作った四角い凹みを利用して、そこに尻を引込めると三方を攻撃から防ぎ、正面からの攻撃のみに対応すれば良かった。

その防御があまりに完璧だったので、最後の半時間ほど狼たちはどうしようもなくなって後退するよりなかった。彼らは舌を長く伸ばして巻き、その牙を月の光に白く残酷そうに光らせている。何頭かは、耳を前にピンと立て頭だけ持ち上げたまま伏せっており、他は立ったままバックをじっと見ている。そしてまた他のものはまだ水場の水を舌で巻き上げて飲んでいる。
そのとき、一頭の痩せたほそ長い灰色の狼が用心深く、そして友好的な様子でバックのそばに近寄ってきた。バックはそれが森の中を夜に日をついで一緒に走った森の兄弟であることを認めた。その狼は小さく声を上げ、そしてバックもそれに応えて声を上げると、互いに鼻を触れ合った。

すると、痩せて戦傷のある老狼が近寄ってきた。バックは鼻皺を寄せて唇を引き寄せ、唸り声を上げそうになったが、そこで彼らはお互いの鼻を嗅ぎ合い、老狼はその場にしゃがんで鼻を月に向けると狼特有の長い咆哮を上げた。他の狼たちも同じようにしゃがんで吠え始めた。その吠え声はバックの耳にも明らかな意味をもって届いた。彼もまたその場にしゃがむと吠え声を上げた。これが済んで、彼が自分のいた凹みから出ると、そこに群れが集まって、半ば友好的に、そして半ば敵意を込めて彼の鼻を嗅いだ。老狼が一鳴きして群れに合図を送り森の中に駆け出した。群れはその後にぶらさがるようにして鳴き声のコーラスを上げながら続いた。バックも森の兄弟と並んで同じように鳴き声を上げながら走った。

さて、ここでバックのこの物語は終わりにするべきだろうか。
ともかく、それから何年か月日が過ぎ、イーハットたちは森林狼たちの血統が変わっていることに気が付いた。何頭かは頭と鼻先に茶色の水が跳ねたような斑点があり、そして胸の真ん中から下にかけて白い裂け目模様が見られたのである。しかし、もっとはっきりした変化は、群れの先頭に立って走る幽霊犬であった。彼らは、この犬が彼らよりも狡賢く、厳しい冬には彼らから食べ物を盗み、罠からは餌だけを取り、彼らの犬たちを咬み殺し、そして彼らの勇敢な狩人さえ脅かすことからこの犬を大変に恐れていた。

いや、話はそれ以上に悪かった。狩人たちの中に村に帰って来ないものが何人もいたのだが、彼らの部族の者たちによって、喉を残忍に咬み切られた死体とその周りの雪の上に普通の狼より一際大きな足跡が発見されていたのである。
秋になるとイーハットたちはヘラジカの群れを追って移動したが、彼らが絶対に入らない谷があった。そして、部族の女たちは、キャンプファイヤーの周りで話がそのことに及び、如何にしてその谷が悪霊に選ばれ禁忌の場所になったか語られ始めると涙に目を濡らすのであった。

夏になると、その谷に、それはイーハットが決して知らないことではあったが、訪問者が現れた。それは大きな素晴らしい毛並みをした狼で、どんな狼とも違っていた。彼はひとり微笑みの森からこちら側の樹々の間にぽっかり空いた場所にやってきたのである。そこには腐ったヘラジカの革袋から黄色い流れが溢れだして地面に埋没し、その上には草が生え、青物がそこを覆いつくして、その黄色いものを太陽から隠していた。ここでしばし彼は思い出に耽ると、深い悲しみの籠った長い咆哮を上げ、そして去っていくのであった。

しかし、彼はいつもひとりというわけではなかった。長い冬の夜、狼たちは獲物を追って谷を降りていくのであるが、青白い月の光の下を、あるいはオーロラ棚引く下を、群れの中のどの狼よりも巨大な狼が喉を震わせながら世界が若かったころの歌を、彼ら群れの歌を歌いながら先頭を跳ぶように走っていくのが見られるであろう。それがバックなのであった。

どうにかこうにか、曲りなりにも訳し終えることができた。さらなる推敲が必要なのは瞭然だが、ここで一息ついてジャックロンドンとこの小説の時代背景をもう少し深く研究してみよう。百年以上も前に書かれた小説であるがこの現代に与える影響は非常に大きいと思うから。