超訳 荒野の呼び声 24

2015/11/07 10:55


ソーントンただ一人だけがバックの真の主人であった。その余の者たちは彼の目に入らなかった。たまたま出会った旅人が彼を褒め、撫でてもバックの心は冷たく冷えたままだった。あるいは彼に対して大仰に感情表現する者には、立ち上がってどこかへと立ち去った。ソーントンが待ちに待っていた相棒のハンスとピートが筏で帰ってきたときも、バックは二人の男がソーントンと親しい仲であることに気がつくまでは完全に無視した。そしてそれが分かってからは、彼らを消極的に許容した。彼らの頼みごとは、恰も自分の頼みごとを彼らが受け入れたかのように受け止めた。

二人はソーントンと同じく大柄で、地に足の着いた暮らしをし、物事を単純にはっきりと見る男たちであった。だから二人は、ドーソンの材木切り出し所近くにある大きな渦の中へと筏を浮かべ、そしてここに着いて初めてバックを知ってからというもの、バックの性質や振る舞いをよく理解し、スキートやニグからかちえた親愛の情を彼にも強要するようなことはなかった。

一方、バックのソーントンに対する愛はだんだんと深まっていった。男たちの中で、彼だけが夏の旅の間、バックの背に荷物を乗せることができた。ソーントンから命令を受けることほどバックにとって嬉しいことはなかったのである。ある日(彼らは資金の提供を受けて、ドーソンからテナナのヘッドウォーターに向けて筏を進めていた)、男たちと犬たちは、三百ヤード下はごつごつした岩のベッドという崖の端に座っていた。ジョンソーントンは、崖の端に座っており、バックはその隣に並んでいた。埒もない思いつきがそのときソーントンの頭をかすめ、彼はハンスとピートにそのアイデアを示すべく彼らの注意を引いた。「バック、ジャンプしろ」と彼が腕を外に出し大きく振って命令を下した。次の瞬間、彼はバックを捕まえながら転んで崖の端のぎりぎりのところで留まり、ハンスとピートは彼らを安全なところまで引きずっていかなければならなかった。

「気味が悪いな」とピートは、彼らを引き摺り終えると息を整えながら言った。

ソーントンは頭を振った。「いや、こいつがどれだけすばらしいか、どれほどすごいかってことだよ。だから俺は、ときどきこいつが恐ろしくなっちまうんだ」

「俺は、そいつがそばにいるときにお前に手を出そうとは思わないな」ピートが結論めいたことを言いながら、顎をバックの方に向けた。

「まったくだ」とハンスが同意した。「俺自身もまっぴらだね」

このピートの言ったことが現実となったのは、その年の終わり、サークルシティでのことだった。ブラックバートンと呼ばれている気が荒くて喧嘩っ早い男がバーに入ってきた新顔に喧嘩を吹っかけていて、ソーントンが両者の間に愛想よく割って入ろうとした。バックはいつもの通り、部屋の隅で両足の上に顎を乗せ、主人の一挙手一投足を見ていた。バートンがいきなり何の警告もなしに肩からストーレートを繰り出した。ソーントンは半回転して、辛うじてバーのレールをつかみ床に倒れるのを堪えた。

そのとき、やじ馬たちは吠え声というのでもなければ鳴き声でもない、もっとも近い表現をするなら咆哮を聞いた、と思った瞬間、バックの身体がバートンの喉を狙って床を蹴り宙に跳び上がるのが見えた。バートンは本能的に腕を前に出して喉を防いだが、バックを上に乗せたまま床に倒されてしまった。バックは腕の肉から牙を抜くと、また喉に咬みつこうとした。今度は、男はわずかにしか防ぐことができず、喉を切り裂かれてしまった。男たちがみなでバックを止めに入り、バックは追い払われたが、外科医が出血を止めている間も彼は冷めぬ怒りに唸り声を上げて襲い掛かろうとし、たくさんの棍棒に制された。「マイナーミーティング」がその場で開かれ、バックはひどい挑発を受けたものと裁定が下され無罪放免となった。しかし、これによって彼の名声はアラスカ中のキャンプの間に広まった。

そして後日、その年の秋のことであったが、バックは前とは違ったかたちでソーントンを助けた。三人の男たちは、長くて幅の狭い竿を操って進むボートにロープを括りつけてフォーティマイルリバーの流れの早い直線状の場所を通過させようとしていた。ハンスとピートは土手に沿って動きながら、細いマニラロープを木から木へ結びかえていき、一方ソーントンはボートの中に残り長い竿を使って下ろうとするボートを停止させながら岸に向かって大声で何かを叫んでいた。バックは土手の上にいたのだが、恐れと心配でボートと平行に移動しながら、眼は決して主人から離さなかった。

角の尖った岩がたくさん水から顔を出している難所で、ハンスがロープを投げ入れ、ソーントンがボートを流れの中に入れようとしていた。ボートが土手沿いに下っていき、丁度岩棚を通過したとき、彼は手にしたロープの端をボートに括りつけようとしていた。この後ボートは急流に乗って飛ぶように河を下りだしミルレースのように速度を上げた。ハンスがそれを止めようとロープを引いたが、急に引きすぎた。ボートはばたついて土手に突っ込み転覆してしまった。ソーントンは投げ出され、流れに乗って、どんな泳ぎの名人でも助からない難所中の難所へと運ばれていった。

バックは即座に水に飛び込んだ。三百ヤード先の急流が渦巻くまっただ中で、バックはソーントンに追いつき、ソーントンが尻尾を握ったのを感じると、素晴らしい力のすべてを出し切って岸に向かって泳ぎだした。しかし、岸に向かっての進みは遅く、下流への進行は驚くほど速い。下流の方から、そこでは急流がさらに激しくなり巨大な櫛のような岩の歯で何もかもを噛み砕き撒き散らしてしまう場所から、死の咆哮が聞こえてきた。
水の飲み込む力は後に行くほど恐ろしいほど強くなり、ソーントンは岸まで泳ぎつくことは不可能と悟った。それで彼は、狂ったように岩の上を探り、痣を作り、すごい勢いでぶち当たった。彼は岩のすべすべした上部を両手で抱えこみバックを自由にすると、唸りを上げて波立つ水の音より大きく叫んだ。
「バック、行け、行くんだ」

バックは自分自身さえ御すことができず、流れに流され、必死でもがき続けたが戻ることができない。ソーントンが繰り返す叫び声を聞いたとき、彼は頭を水から高く投げ出して最後の別れのように彼の姿を捉えると、命令に従って岸に向かって泳いだ。彼は力強く泳いで、溺れ死ぬ間際でピートとハンスに岸まで引き上げられた。

二人は、このままではあの急流の中、滑りやすい岩にしがみついておれるのも数分であることを知っていたので、ソーントンが岩につかまっている遥か先まで全力で岸を走った。二人はボートを繋いでいたロープをバックの首と肩に巻き付いたり泳ぎの邪魔になったりしないよう注意しながら着けると、彼を水の中に投げ込んだ。彼は勇敢に飛び出したが、水流に対してまだ十分ではなかった。彼がこれに気が付いたときはすでに遅く、ソーントンまで後わずか五、六掻きというところで虚しくも水流に流されてしまった。

ハンスがすぐにバック自身をボートでも引くように手繰り寄せた。ロープは急流の勢いに彼を繋いだまま強く張り、彼は水の中に沈んだままロープに引かれ、沈んだまま岸まで引き上げられた。彼は半ば溺れてしまっていて、ハンスとピートが彼の上に被さり、胸を圧して息を吹き込み水を吐き出させた。彼はよろめきながら立ち上がったがまたすぐに倒れてしまった。ソーントンの微かな呼び声が聞こえ、二人には彼が何を言っているのか分からなかったが、事態が差し迫っていることだけは伝わった。主人の声がバックに電気ショックのように働き、彼は跳ね起きると岸を上流に向かって二人より先に前の出発点まで走った。

再びロープが着けられ、彼は放たれた。そして再び彼は泳いだ。しかし今回は流れに対して直角に入った。彼は一度計算違いをしてしまったが、二度も同じ間違いを犯すつもりはなかった。ハンスがロープを次から次へと手から繰り出し、ピートはロープの束がもつれないようにハンスに差し出す。バックはソーントンの上流になるまで泳いだ。そして彼は向きを変え、急行列車のような速さでソーントンの方に向かっていく。ソーントンはバックがやってくるのを見た。そしてバックがまるで急流の力を一身に集めた打ち壊し棒のように彼に衝突すると、ソーントンは両手をバックの毛深い首に回して掴んだ。ハンスがロープを木に巻きつける。そしてソーントンとバックはともに水の中に沈み込んだ。圧迫され、窒息させられながら、あるときは片方が上になり、またあるときにはもう片方が上になりつつ、河床のぎざぎざの上を引き摺られ、岩や沈んだ流木に当たりながらも岸の方に向かった。

ソーントンの意識は、腹を下にして流木の上でハンスとピートに激しく前後に揺さぶられているときに戻った。彼が真っ先に見ようとしたのはバックだったが、彼の萎えて明らかに死んでしまったような身体を覆うようにしてニグが吠え始め、スキートは濡れた顔や閉じた眼を舐めている。ソーントン自身も痣だらけで打ち傷だらけであったが、静かにバックの身体を調べた。そして肋骨が三か所折れているのを見つけた。

「よし、決めた」と彼は伝えた。「俺たちはここにキャンプを張ることにしよう」
ということで、彼らは、バックの肋骨がつながり、旅が出来るようになるまで、そこでキャンプ生活をすることになった。