超訳 荒野の呼び声 28

2015/11/13 12:19

「あんな犬は今まで見たことがねぇ」とある日、ジョンソーントンが威勢よくキャンプを出ていくバックの姿を見てパートナーたちに言った。

「あいつが創られたとき、鋳型が壊されてしまったのさ」とピートが言った。

「俺もそう思うぜ。俺もおまえさんと同じことを考えていたんだ」とハンスが同意する。

彼らは、バックがキャンプを出ていく姿は見ていたが、彼が森の秘密と一体になったときに恐ろしい変容を遂げることまでは知らなかったのである。彼はただ出かけるのではなかった。森に入ったその瞬間から野性に変わり、猫のような忍び足で長くそして柔らかく歩き、無数の影の中、消えたり現れたりする影をずっと通り過ぎた。彼はどのようにして身を隠せば優位に立てるかを知っており、腹這いになって蛇のように忍び寄り、そして蛇のように跳ねて襲った。彼はその巣からヤマウズラを襲い、兎を眠っているうちに襲って殺し、そして樹に逃げようとする地栗鼠を一瞬早く宙で捕まえた。水の中の魚も彼にかかればのろ過ぎた。ダムを直している注意深いビーバーも例外ではなかった。彼は喰うために殺すのであり、殺生したくて殺すわけではなかったが、好んで喰うのは自分で殺した獲物だった。またバックにはユーモアのセンスがあり、栗鼠たちを不意打ちにしては捕まえずに放っておき、彼らが樹の上で命拾いしたことを互いに喋りあっているのを聞いて大いに楽しんだりした。

秋がやってくると、たくさんのヘラジカの群れが現れ、厳しい冬を避けるために低い谷へとゆっくり移動し始めた。バックはすでに一頭、群れから離れて迷った若い仔鹿を仕留めていたが、彼が渇望するのはもっと大きくて強い獲物で、ある日彼は、谷川をずっと遡った分水嶺の上で偶然にもそれに遭遇した。二十頭ほどのヘラジカの群れが森と流れの平地からこちら側へ渡ろうとしており、その首領は大きな雄であった。彼は凶暴な背の高さが六フィートもあるバックが望んだ以上の強敵であった。彼は、地上からの高さが七フィートにもなる十四の小さな角に分岐して手を広げたような形になった巨大な角を前、そして後ろへと振りまわした。その小さな眼は、バックの姿を捉えると怒りに吠え声を上げながら、凶暴に燃え上がり忌々しさに光を放った。この雄鹿の横、丁度腹の前から羽の着いた矢の端が覗いており、これが彼を凶暴にしているのだった。バックは、狩猟に明け暮れた原始の本能が命ずるままにこの雄を群れから切り離した。とは言っても、それは容易なことではなかった。彼は雄鹿の巨大な角をぎりぎりのところでかわし、その一撃で簡単に命を落としかねない恐るべき蹄の雨のような攻撃の前で吠えたて踊りはやしてこれを行ったのである。雄鹿は牙の攻撃の前に背中を翻すこともできず、憤怒に掻き立てられているように思えた。そしてバックを追い詰めようとしたが、バックは軽く身を翻し、故意にうまく逃げられないような振りをして逆に彼をうまく誘い込んだ。しかし、そうしてバックが雄鹿を仲間たちから切り離しても、二、三の若い雄がバックに襲い掛かり傷ついた雄をもう一度群れの中に入れようとした。
そこには野生のもつ忍耐――頑固さ、耐久力、命そのもののような持続力――があり、それは自分の張った網の中で蜘蛛が限がないほどの時間じっと動かずに待ち続け、蛇がじっととぐろを巻いたまま動かず、またパンサーがじっと茂みの中に隠れて待ち伏せする(この忍耐は、奇妙にも生きるために生きた糧を狩らねばならない側の者に備わっている)ようにバックの中にも備わっていて、彼が群れの横に食らいついて離れず、その歩みを妨げ、若い雄を苛立たせ、幼い仔を連れた母鹿たちを不安にさせ、そして傷ついた雄鹿をやりようのない怒りで狂わせるのであった。この状態が半日続いた。バックは自分自身の数を増やしたかのようにあらゆる面から攻撃を開始し、群れ全体を脅威の旋風で封じ込め、狙った雄鹿だけを仲間たちと合流する前に切り離し、狩るものよりは劣っている彼らの忍耐力を疲弊させようとした。
日が暮れ、太陽は北西の寝床に落ちようとしていた(早くも闇が訪れ、秋の夜は六時間も長くなっていた)が、若い雄鹿たちはだんだんとターゲットにされているリーダーを助けようとはしなくなっていた。迫る冬に、彼らは低地への移動を急がされていた上に、自分たちに足止めをくわせているこの疲れを知らぬ生き物を振り払うことなどできないと思うようになっていたのである。その上、脅かされているのは群れ全体の命ではなく、彼ら若い雄鹿のものでもなかった。群れの中の一頭だけが要求されているのであり、それは自分たちの命に比べればやや遠い関心事であったので、彼らは税の支払いに応じることにしたのである。
黄昏がやってくると老いた雄鹿は頭を低くして、薄れゆく明りの中を慌てよろめくように去っていく仲間たち――彼の雌たちであったもの、彼の仔たちであったもの、そして彼の配下であったものたちを――見ていた。彼の鼻先では容赦のない恐るべき牙が彼を行かせまいと飛び跳ねていて、その後を追うことができなかったのである。三ハンドレッドウェイト(当時のアメリカの重量単位で1cwtは百ポンドであるから、3cwtは三百ポンド、およそ百三十五キログラムになるので、この数字は十ハンドレッドウェイトの誤りと思われる)、すなわち半トン以上もある体重を持つ彼は、長い間逞しく、数ある戦いを勝ち抜き生き長らえてきたのだが、ここにきていよいよ最後の相手として迎えることになったのが、その頭が彼の巨大な膝の高さにも届かぬ生き物なのであった。