奔訳 白牙9

2016/04/22 20:36

ビルは手を振り大声を上げて脅かしてみせたが、獣は少しも動じる気配がない。ただ、彼らにも感じ取れたのは、 その獣が少し警戒感を強めたことであった。だがそいつは、そのたった今でさえ彼らを飢えを満たす対象としてしか捉えていない。彼らはただの肉でしかなく、この獣は飢えている。その気にさえなれば、彼らを襲って喰ってしまうであろう。

「なあ、ヘンリー」とビルが、ことの性質上から自然に声を落とし囁くように言う。「俺たちには弾が三発ある。ただし、これまで一発も使わずじまいだ。あの尼は俺たちの犬を三頭も持って行っちまいやがったが、もうこれ以上そんな真似をさせるわけにはいかねえ。さあ、お前さんはどう思う」
ヘンリーが同意の相槌を打った。それを合図に、ビルはゆっくりとライフルを荷の下から抜き出し、肩にそれを持っていこうとした。が、そうはならなかった。その瞬間に雌狼は橇の跡から横に飛び跳ねて、唐檜の一叢の陰に隠れて見えなくなってしまったのである。

二人は顔を見合わせた。ヘンリーがが長い口笛を吹いて納得した様子をみせた。
「俺は初めからこうなることを知ってなきゃならなかった」ビルは、ライフルを元に戻しながら大きな声で自分自身を叱った。「犬の飯の時間を知っているような狼が弾の飛び出る鉄の棒を知らねえはずがねえ。俺は今こそ言うぜ。あの尼は、俺たちの禍の種だ。俺たちはついこの前まで、三頭じゃなくて犬を六頭連れていたんだぜ。皆が皆あいつの腹ん中に入っちまったとは言わねえがよ。それにだ、俺が今なにが一番言いてえかと言うとだな、ヘンリー。俺はどうしてもあの尼をやっちまわなきゃならねえ、ってことだ。しかし、あいつめを遠くから撃ち殺すのは利口すぎて無理だ。だが俺は、俺の名に賭けても必ずあいつを待ち伏せしてやってやるぜ 」
「そんなこたぁやらねぇでいた方がいいんじゃねぇか」と、彼の連れは諫める。「なにしろ、お前さんには弾が三発しかねえわけだし、奴らが襲い掛かってきたら、三度大きな音がしてそれでおめぇはお終めぇのお釈迦さまよ。あいつらが恐ろしいほど腹を空かせていると言ったのはお前さんじゃなかったか。そんなやつらにかかったら、おめぇさんなど、あっという間に餌食だぜ、ビル」

彼らはその晩、早めにキャンプを張った。三頭の犬では六頭の時のように橇を速く走らせることも遠くまで走らせることもできなかったし、犬たちからその気が失せているのも明らかだった。ビルが犬たちを互いの革紐に届かないよう繋ぎ終えると、二人の男もさっさと寝床に潜り込んでしまった。
しかし、狼たちは次第に大胆になってきており、このために男たちは一度ならず眠りを妨げられ起きねばならなかった。余りに狼どもが近づいてくるため、犬たちは恐怖から狂乱を起こし、その度に新しい木を継ぎ足してこの略奪者どもを安全な距離まで遠ざけねばならなかったのである。
「俺は鮫が船をずっと追ってきたという話を船乗りから聞いたことがある」とビルが、そうして薪を継ぎ足した折に一度、自分の寝床に這うようにして戻りながら言った。「まったく、狼って奴は陸の鮫だな。あいつらは仕事のやり方ってものを俺たちよりもよほどよく承知してやがるぜ。奴らは俺たちをただ尾行てるわけじゃねえ。奴らは俺たちを仕留めるつもりなんだ。俺たちを確実にものにするつもりでいやがるんだ、ヘンリー」
「その口ぶりじゃあ、奴らはお前さんをもう半分ばかり喰っちまっているようだぜ」ヘンリーが鋭くやり返す。「人ってもんはよう、口に出したことの半分がその通りになっちまうっていうからなあ、その伝でいくとお前さんは半分喰われてしまっているというわけだ」
「あいつら、俺やお前などよりもう少しましな人間を狙ってくれればな」
「いいかげんに泣き言を止めやがれ。おめぇは俺を全く憂鬱にしてくれるぜ」
ヘンリーは怒って横を向いたが、ビルが何も怒って返さないことに内心驚いた。普段のビルであれば、きつい言葉にはすぐにかっとなったはずだからである。
ヘンリーは寝入る前にこのことをしばらく考えた。そうして、瞼が痙攣し眠りに吸い込まれる直前に彼の頭を掠めたのは、こりゃあビルの奴相当重症だぜ、明日の朝には元気づけてやらねばなるめい、ということであった。