奔訳 白牙2

2016/02/10 20:44

一時間ほどが過ぎ、そして二時間が過ぎた。ただでさえ短い日の名残りが薄青となって消えゆくころ、静寂を突くように微かな遠い叫び声が上がった。その叫びは、一気に空高くへと駆け上がると、高音のまま小刻みに、神経質に震え、それからゆっくりと消えていった。それは恰も、亡霊の嘆きのようであり、強烈な悲しみや飢餓から来る渇望によるものとは思えなかった。
橇の前の男は、首を回して後ろの男と目を会わせた。そうして、二人は四角い長い箱を挟んでお互いに頷きあった。

二つ目の叫びが針のような鋭さで静寂を突き破った。二人は声の方角を探ろうと耳を澄ました。それは後方、彼らが踏み越えてきた雪原の向こうから聞こえてくるのであった。三つ目の叫び、そしてそれに応える叫びが上がったが、それも橇の後方、二番目の叫びより左方からのものであった。

「あいつらは俺たちを追ってきてるみてぇだぜ、ビル」と、前の男が言った。

彼の声は嗄れていて夢のような調子を帯びていたが、それは意図してのものだった。

「肉が少ねぇからなぁ」と連れが応える。「この何日ウサギ一羽見やしねぇ」

しかしそれからというもの、後方で起こっている獲物を求める叫びに二人の耳は神経を捉われてしまって、会話はまったく交わされなくなった。

闇が落ちると、彼らは犬たちを川岸の唐檜が一叢になった辺りに導き、そこにキャンプを張った。棺は、火の傍に置いて、椅子と卓の代用とした。狼のような犬たちは、火から遠く離れた所に集まり互いにいがみ合い喧嘩を始めたが、闇の中に逃れようとする気配は見せなかった。

「俺はなぁ、ヘンリー、あいつらは思いっきりすぐ近くまで来ているように思うぜ」とビルが意見を述べる。

ヘンリーは、氷を入れたコーヒーポットを火に跨がせながら頷いた。後は棺の自分の席に腰かけて食べ始めるまで何も喋らなかった。

「犬どもは、どこに隠れてりゃ安全かをよく知ってやがるんだ」とようやく口を開く。あいつらは餌にされちまうよりは先に餌を喰ってしまうだろうよ。そんだけ賢いってことだ」

ビルは頭を振った。「いや、俺はそうは思わん」

連れは彼を興味深そうに見つめた。「お前さんがあいつらを利口じゃないというのは初耳だな」

「なぁヘンリー」と、豆をくちゃくちゃ噛みながら連れが言う。「おまえさんは、俺が犬たちに餌をやっているところを見ちゃあいねぇだろう?」

「あいつらの様子に何か変わったところでもあったのか」とヘンリー。

「俺たちは何頭犬を連れていたんだっけ、ヘンリー?」

「六頭だ」

「ところがだ、ヘンリー・・・」ビルは、ここで間をとり、これから言おうとすることの効果を期待した。「俺もそう思って袋から魚を六匹取りだした。そして一頭につき一匹ずつ魚をくれてやったんだがな、ヘンリー、一匹足りなくなっちまったんだ」

「数え損なったんだろうよ」

「俺たちは六頭の犬を連れていた」連れの男は、なんら感情もこめずに同じことを繰り返して言った。「それで、俺は魚を六匹取り出した。片耳の野郎にだけ魚を与えられなかった。それで俺は袋のところまで戻っていって、奴のためにもう一匹魚を取りだしたんだ」

「俺たちは六頭しか犬を連れていねぇはずだ」とヘンリー。

「なぁ、ヘンリー」とビルが続ける。「俺は全部が犬だったとは言っちゃぁいねぇぜ。ただ、魚を食ったのが七頭いたと言ったんだ」

ヘンリーは、食うのを止めて、火の向こうに目をやると、犬たちを数え始めた。

「今は六頭だ」と彼は言った。

「俺は、一頭が雪の向こうに走っていくのを見たよ」ビルは、静かに確信をもって宣言した。「俺は七頭目を見たんだ」

ヘンリーは気の毒そうな目で連れの男を見ながら、言った。「俺はこの旅が早く終わってくれることを心から祈るよ」

「それはいったい、どういう意味だ?」とビルが意気込んだ。

「どういう意味かって、この旅の重圧がおまえさんの神経に触っているってことよ。それで、おまえさんはありもしねぇものを見るようになってきているんじゃねぇか、ってことだ」

「俺もそれは考えたよ」とビルが厳粛に答える。「それでだな、そいつが雪の上を走って逃げるときに、俺は雪の上に足跡が残るのをしっかり見届けた。それから俺は犬の数を数えたんだが、しっかり六頭残っていたというわけだ。それで足跡の方は、ほら、その通り、そこに残っているよ。もしも見たけりゃ、見てみな」

ヘンリーはそれには応えず、しばし静かに豆を咀嚼していたが、それを喰い終えると、最後にコーヒーで締めくくった。それから彼は、手の甲で口を拭い、こう言った。

「それで、おまえさんは、そいつをいったい――」

長く尾を引く、身を切られるような寂寥感を伴った悲しい叫び声がどこか暗闇の中から湧き起こり、彼の次の言葉を制した。彼は、その声に聞き入るために言いかけていたことを止め、代わりに片手を声の方に差し出して波打たせた。「そいつは、あいつらのうちの一匹なのか?」

ビルは頷いてみせた。「俺はそのことを何よりも先に考えてみた。おまえさんはその眼で犬たちがどんな足跡を付けたか見てみりゃいいぜ」

咆哮に次ぐ咆哮、そしてそれに応える咆哮は、場面を静寂から一転、喧騒に変えてしまった。全方向から叫び声が湧き起り、犬たちはその恐怖にお互いに身を寄せ合い、あまりに火に近づきすぎて毛を焦がしてしまった。ビルは、さらに木を火にくべ入れると、煙草に火を付けた。

「なんだか、おまえさん、急におとなしくなっちまったんじゃねぇか」とヘンリー。

「ヘンリー・・・」彼は、次の言葉を吐き出す前に注意深くパイプを吸い込んだ。「ヘンリー、俺はこの男の方が俺たちよりはよっぽど運がいいんじゃないかと思い始めていたんだ」

彼は、親指を下に向け二人が腰かけている箱の中の第三の男を示してみせた。

「お前さんと俺はだな、ヘンリー、二人して死ぬときにゃ、死骸の上にあいつらが近寄れねぇくれぇたくさんの石を被せてもらえれば上等としなきゃいけねぇってことだ」

「俺たちにゃこの男のように金も縁戚もいねぇわけだから、長い葬列など、どっちにしたところで望むべくもねぇがな」

「だがよぉ、俺にとってなにが不思議かって、ヘンリー、この男のように故郷じゃ何々卿なぞと呼ばれて、食い物にも寝るところにも困らねぇような男がよぅ、何が悲しくてこんな地の果てまでやってこなきゃならなかったか、ってことだよ」

「ああ、おそらくこの男は、故郷に留まっていればいい身分で長生きができたには違いねぇだろうにな」と、ヘンリーが肯う。


ビルが何か口を開きかけて、やめた。その代わりに彼は、四方から彼らを圧迫している暗闇を指さした。そこは完全なる闇で何か形を示すようなものが見えるはずがなかった。ただ、石炭の燃え殻のような一対の眼が輝いていた。ヘンリーが頭で二頭目を、そして三頭目を指し示した。光り輝く眼が輪になってキャンプを取り巻いているのだった。休むことなく一対の眼の光は動き回り、消えたかと思うと、少しの間を置いて再び現れたりした。

犬たちはだんだんと落ち着きをなくしてきており、突然の恐怖に一斉に火のそばまで駆け寄ってくると男たちの足元に腹這いになり身を竦めた。そのうちの一頭が慌て過ぎて火のそばで転びひっくり返って毛の焼け焦げる臭いとともに痛みと恐怖からきゃんきゃん泣き声を上げた。この騒動で、光る眼の輪がそわそわしだし、少しばかり引き下がったかに見えたが、犬たちが静まるとともに再び元に戻ってしまった。

「ヘンリー、俺には弾が足りねぇのがなんと言っても悔やまれるぜ」

ビルはキセルを吸い終えると、連れが寝支度のため晩飯前に雪の上に唐檜の枝を敷き並べて置いたその上に毛皮と毛布を敷くのを手伝いながら言った。ヘンリーは不満に鼻を鳴らすと、靴紐を解きにかかった。

「いったい何発弾が残っているとお前さん言ったっけ?」と彼が問うた。
「三発」と答えが返ってきた。「俺は三百は欲しいところだ。そんだけありゃぁ、やつらに目にものみせてやらぁ!」

彼は、光る眼に向かって苛立たしく拳を振り上げてみせると、モカシンの靴を慎重に火の前にもたせ掛けはじめた。

「それにこの冷え込みだ。こいつにゃ、早く終わってもらいてぇ」と彼は続ける。「マイナス50度(華氏)がこれでもう二週間だ。それに俺はもうこんな旅は二度とごめんだぜ、ヘンリー。あいつらの眼がそもそも気に入らねぇ。どっちにしろ、正気にはなれねぇ。それに俺は、この旅が終わって、やり終えてだなぁ、俺とお前はフォート・マックグヮリーの暖っけぇストーブの前でクリベッジ(二人でやるトランプ)をやっている、ってのが俺の望みだ」

ヘンリーは不満の鼻を鳴らすと寝床にもぐり込んだ。が、ちょうど寝入りばなに連れの声で起こされた。

「なぁ、ヘンリー、あの魚をかっぱらっていった奴だが、なんで犬たちはあいつを素直に受け入れちまったんだろう? それが俺にはさっぱり分からねぇ」

「おめぇは煩すぎるんだよ、ビル」と眠たげな声が応じる。「前はこんなではなかっただろう。黙って寝床に入って寝ちまえよ。そうすりゃ明日の朝には気分爽快で起きれらぁ。お前が煩ぇのはきっと胃が悪いせいなんだよ」