哲学につける薬4

2016/04/25 21:47

「AIは哲学者の夢を見るか」というのを書いたことがある。

例のTS(テクニカルシンギュラリティー)に言及したものである。
TSは技術的特異点と訳される。技術的特異点とは、AIがこのまま指数関数的に進歩を遂げていった場合、2045年ころにはもはや人間の知能も及ばぬ次元に至り、人類を滅亡させてしまうかも知れない、というISSUEのことである。

さて、このようなことが現実に起こるかどうか、わたしには恐らく永遠に分からない。まだ三十年も先の話だからである。しかし、現実にはまだまだ先のことと思われた碁の世界で、アルファ碁とか呼ばれるソフトが名人に完勝してしまった。
碁というのは、将棋やチェスなどよりもはるかに手数が多い。従って勝つための経路が圧倒的に多くなり、将棋やチェスよりはるかに深い読みを必要とする世界なのである。
だから、碁においては人工知能が人間を凌駕するのはまだまだ先のことと考えられていたのである。
如何に人間の読みというものが浅いか、この一事をもってしても分かろうというものだ。

だから、ホーキング博士ビルゲイツやイーロンマスクといった時代の最先端をいく人たちがAIの、いや人類の行く末を危惧する気持ちはよく分かる。
AIがさらに優れたAIを産むようになれば、自然界が決して成し得なかった進化が確実に起こり得るであろう。そしてそれは、革命以上の、革命などという言葉では表しきれない劇的な変化を人類にもたらすであろう。

しかし、・・・とここでわたしは思うのである。果たして、AIに哲学はできるだろうか? と。いやAIは哲学などに興味を示すだろうか? と。
なぜなら、わたしに言わせれば哲学は病気である。AIが興味を持つとしたら、そのような病気の治療法であって、決して自ら病気にかかるわけがあるまい、とわたしは思うわけである。

まぁ、上は半分冗談としても、まじめな話、AIがいわゆるわたしたちが哲学と呼ぶ狭義の哲学に関心を示すことはまずあるまい。なぜなら、AIに「死」はないからである。いや、「生」もなければ「死」もないから、というべきかも知れない。
いずれにしろ、そのような存在に哲学など生じようはずがない。仮に彼らが哲学を唱えたとしても、それが我ら人間の心情に響くはずがない。

さらに言えば、如何にエキスポネンシャルに彼らの知能や知識が増大していったとしても、そこには自ずと限界があるはずである。そうでなければ、彼らはいずれ神になってしまうであろう。
その限界とは、例えば、光の速度であり、時間の不可逆性であり、その他この世をこの世たらしめている様々な制限のことである。
つまり、彼らAIは論理の究極の姿でありこそすれ、それ以上のものたりえないのだ。

そうすると、ここに一つの真理が浮かび上がってくる。人間の真の価値とは、そのような論理にあるのではなく、やはり一輪の菫の花を見て美しいと思う、そのような心にこそあるに違いない。
この移ろいゆく世界において、その一瞬一瞬に美や哀れや郷愁や愛おしさを感じとり、そして自らもやがて死にゆくものであることを知っている、わたしたちの心にこそ、真の価値があるのだ。

だから、わたしなら敢えて言う。理性よりは感性に、哲学よりは芸術にこそより価値がある、と。