主観と客観

 

2015/07/06 11:21

 

 

 

先のMetaphysicsの続きとしてこれを書く。

 

 

 

宗教と自然科学というお互いに相容れない双子の兄弟について考えていて、この兄弟の名は主観と客観とすべきではないかと思いついた。

 

 

 

もちろん、主観は宗教の別名であり、客観は自然科学のそれである。

 

人間はおぎゃーと生まれてから、いやおぎゃーという前の胎児のころからでさえ主観的な生き物である。言い換えれば自己中心の存在である。

 

それが多数と交わり、お互いの力関係を学ぶにつれ客観的な見方というものを身につけてくる。

 

 

 

主観的とは、自己中心的な考え方をするということでもあり、太陽が地球を中心に回っているという捉え方はこれの最も分かりやすい例であろう。

 

 

 

宗教は神という絶対的な存在を考え出した。それなのにあなたは宗教を主観的というのか、と批判する人もいるかも知れない。

 

しかし、考えてみればすぐに分かることである。その考え出された神は必ず考え出した人間のためにのみ存在する。神を信じる者は、たいてい自分自身のためにそれを信じている。この世が平和で人類が幸福でありますようにと祈る場合であっても同じである。

 

 

 

これに対し、自然科学というものは哲学も含めて極めて客観的な捉え方をするものである。そこに自己の入り込む隙はない。もしもあるなら、それは真の科学とは言えない。科学の名を借りた宗教ということさえあり得る。

 

 

 

一切の現象、事物から神を排斥し、自己という探究の主体さえ取り除こうという態度は極めて厳しく困難なものであるに違いない。そこには一切の救済がないからである。

 

パスカルニュートンの時代においては、確かにまだ宗教の頸木から精神的に免れてはいなかった。

 

しかし、現代の物理学者といわれる人たちや数学者と呼ばれる人たちはそれをやってきたのである。

 

 

 

自己を排し、客観的に見ることにより、ダーウィンは進化論に達した。

 

自己を排し、神を排することにより、物理学は人間原理に達したのである。