北京で蝶が羽ばたいたら、ニューヨークで竜巻が起こるかもしれない、というのがバタフライ効果の、荒っぽいが、おおよその解釈だろうか。
これは、まだコンピュータがよちよち歩きの頃にある数学の得意な学者だかがパラメータの一つをごく僅かいじった(?)ところ、結果が予想もできなかったほどに変わってしまい、これがそのフィールドで大変な騒ぎになってしまった。後にこの学者が、比喩として、ある講演中のスピーチで冒頭のように述べた。
そして「バタフライ効果」は世界的に有名になってしまったのである。わたしは、このこと自体がバタフライ効果ではないかと考えている。
それはともかく、バタフライ効果というのは、いわゆる複雑系のはしりである。つまり、世の中に起こる現象というのは、そうそう単純に計算できるものではないということである。
しかし、である。わたしは実にバカらしくてしょうがない。
なぜなら、こんなことは、ゲーテも言っているし、パスカルもパンセの中で言っているではないか。
クレオパトラの鼻がもう少し高ければ云々と。
5円玉でも500円玉でもいい。まったく同じ条件で机の同じ場所に落としてみる。まったく同じ条件でである。
結果は、おそらく誰もが知る通り、まったくランダムなものになってしまうであろう。
なぜなら、まったく同じ条件など再現できるわけなどないからである。つまり、時間が変わってしまっているから、すべてのモノの内部状態が最初に落としたコインのときと同じ状態ではありえないのである。コインと机という局所的な話ではない。宇宙全体がかわってしまっているのである。ミクロからマクロまですべてが変わってしまっている。
ゲーテは、一匹の蟻を踏み潰すか潰さないかで、世の中は変わるだろうか、と自問している。
いや自問したのではない。彼は当然にその答を知っていた。
蟻を踏みつけるか、踏みつけないか、は二者択一の問題ではない。人間の意思の話でもない。これは決定論の話であって、蟻を踏み潰したか踏み潰さなかったかは既に決まっていたこと、なのである。
だから、北京で蝶が羽ばたいたか羽ばたかなかったかも、すでに決まっており、そのためにニューヨークで竜巻が起こったか起こらなかったかも決まっていた、のである。
わたしたちはシミュレーション世界の住民である。誰がこれを否定できるだろう。デカルトもそう思っていた。彼はそれをなんとか否定したかった。だから、足掻きに足掻いた結果がコギトアルゴスムなのだ。
シミュレーションの中でシミュレーションを試みる。これほどつまらないことはない。
コインを同じ条件で落として、前と同じ場所に落とそうなどというバカなことはやらないことだ。
わたしたちは一回だけの命を生きるよりない。今を生きるよりないのである。