「赤い家」の記憶

2014/08/30 21:54

小学校の5,6年のころ、わたしと同じ名字の先生がわたしたちにこう言った。
「本を読め。テレビなんか見てても何も残らん。本は記憶に残るから、本を読むことだ」
反抗することが好きなわたしは即座に異議を唱えた。
「先生、昨日見た赤い家という映画はすごいよかった。一生記憶に残ると思う」
「ああ、あのスケベなやつか」と言ったのは、河童というあだ名のその先生ではなく、旧友の一人だった。

思えば、あれからもう○十年にもなる。そして、本日たった今改めてあのときのわたしの言にうそのなかったことを確認した。

「赤い家」は、わたしの記憶の中に埋火のように息を潜めて生きていたのである。

今日、暇に任せてyoutubeで探して見たのだが、見ているうちに当時のことが懐かしく思い出された。

級友は、スケベな映画とほざいたが、そのスケベな個所を今の小学生は見つけることができるだろうか。今のガキどもが果たしてキスシーンを見てスケベなどという表現をするだろうか、と思ってしまうのである。

時代はすっかり変わってしまったが、この映画の奥に流れる人の愛の悲しさはいつの時代も変わらないと思う。
わたしには、この映画が嵐が丘のように思えた。主人公のピート・モーガンヒースクリフであり、その養女であるメッグはキャサリンの娘である同名のキャサリンということになる。

小学生のころのわたしがどのくらいこの映画を理解していたかははなはだ疑わしい。しかし、あのときのわたしがこの映画にロマンチックなものを感じていたことは間違いない。

それは、映画には一度も姿を現さないメッグの両親、そしてなかなか姿を現さない赤い家と、ひとたび現れたときのその神秘的な雰囲気、そしてそれを巡るネイスと恋人のティビー、それにメッグたち三人の高校生による深い森の探検、氷室、森番、そして、いずれは自分もそう遠くない将来になるであろう高校生の恋愛感情などに、大いなる憧憬を抱いて見たのだと思う。

あのとき、先生は言った。テレビなど記憶に残らないぞ、と。しかし、そのフレーズのお蔭で、わたしはこうしてこの素晴らしい映画を再確認することができた、わけである。

 

精神の境界

2014/08/22 18:27

トランセンデンス」でも書いたことだが、哲学のクロニクルをデカルトにまで巻き戻せば、自意識というものが本当に存在するか、という問題を再考せざるを得なくなる。

本当に「われ思う、ゆえにわれあり」でいいのか、ということである。

自意識というものを定義することはとても難しい。
デカルトの場合、それは目に見えるもの、耳に聞こえるもの、肌に触れるもの、鼻に匂うもの、すべてを疑いに疑った末に、最後に、消去法的に残ったもの、それがコギト・エルゴスムだったわけである。

わたしたちが現実と思い込んでいるこの世界は、本当は夢の中の出来事なのではなかろうか、と疑う。しかし、その夢の中でこれは夢なのだと疑うことは可能だろうか。もしもそれが可能だとしても、それもまた夢ということはないだろうか。こうして疑っていくと、合わせ鏡のように際限がなくなる。

しかしものには当然に限度があるから、疑うということ自体は紛れもない現実である、という結論にデカルトは至った。それがコギト・エルゴスムである。

でっ、である。

その自意識というものが、疑う、あるいは想う、ということであるとするなら、これを機械が、はやい話がロボットとか人工知能がやるということは不可能だろうか。

わたしは、可能だと考える。アラン・チューリングもそう考えていたに違いない。
なぜなら、チューリングは自意識の定義には一切触れずに、人間と会話(当時はテレグラフを使うことを前提とした)を行ったときに、そのAIなりがごく普通に日常会話を行い、相手側に、こいつは人間ではないな、という疑いをもたれなかったとすれば、そのAIを人間と同等と考えて良い、としたのである。

これはつまり、人間の脳に相当する部分をAIであろうと本物の人間の脳であろうと、それをブラックボックスとしてしまって、その中身についての議論は一切留保し、後は外見、つまり会話のみによって自意識の有無を判断しようとした、ということである。

わたしは、このやり方に賛成する。
これに反意を唱える人たちというのは恐らく、人間の脳を、とりわけその感覚というものを特別なものと考えているのである。

脳のクオリアなどと言われるもの――臭いの感覚や、紙と絹の質感の違いを一瞬で判別できる皮膚感覚など――を生物に特有のことと考えているのである。
つまり彼らは、感覚も、また精神も生物に特有のものと考えているのである。

わたしは、感覚とは所詮、センサーからの信号の処理の結果であって、それの記憶に過ぎないと考える。
要は、センサーが非常に繊細なものであり、その処理の方法が非常に優れたものであるならば、わたしたちに生じると同じ感覚が機械にも生じるはず、と考えるわけである。

また、脳が如何に精緻なものであろうと、それは所詮物質の組み合わせであることに違いないから、わたしは脳も一種の機械に過ぎないと断言する。

さて、このようにわたしは人間機械論者であるわけだが、それの根本にあるのは、果して、わたしたちが精神とか自意識などと呼んでいるものは、進化のどの時点で生じたのであろうか、ということである。

これは、何も進化の過程を考えずとも、今現存するあらゆる生物を比べてみれば分かる。

わたしたちの周りには人類を筆頭に、猿や犬、猫、蛇、蛙の類から蝉、甲虫、蟋蟀、蚯蚓、ゾウリムシ、ミジンコ、細菌、ウィルスと実に多様な生物がうじゃうじゃと存在する。それでは、さてこれらの生き物たちのうちで、これが精神を持ち、これは持たないという正確な分類が出来るであろうか、ということである。
いや、というよりも、進化のいったいどの時点で、どの生き物からどの生き物へと変容を遂げた時点で精神を持つようになったといえるだろうか、ということである。
これが判別できるとするなら、これはもうノーベル賞間違いなしの発見である。
発見した人は「精神の起源」とでも銘打って論文を発表すれば良い。アマゾンが高い値で買ってくれるはずである。

わたしは、そんな線引きなどできないと思っている。

なぜなら、もっとも下等と思われる生物がいたとして、それも結局はそれよりも一つ、か二つ上の生物につながっているわけで、そのつながりの基礎にあるものは「生存欲」あるいは「繁殖欲」といわれるもの(一種の基本的なプログラム)であることは疑いないわけで、それらは間違いなく「精神」である、とわたしは考えるからである。

つまり、わたしたちが高等と考えるわたしたちの精神も、結局はそのもとを辿れば生存欲という種子から発生したものである、ということなのだ。

 

宇虫

2014/08/20 16:35


この虫には極めて謎が多い。

最大の謎ともいうべきが、この虫がわたしたちの内部にもまた外部にも同時に存在するということである。

宇虫は、わたしたちの身中、あるいは心中にも存在するといわれることもあるが、それは感染しているということとは別物である。

極く少数の学者、あるいは天体望遠鏡を有する弱年者に感染の疑いがもたれるが、弱年感染者の多くは麻疹のように一時的なものである。
この虫の感染者数は年齢とともに減少し、またその症状も軽くなるか、跡形もなく消えてしまうかである。

【かつて、紅顔の美少年であったころのわたしも実はこの虫の保持者であり、天体望遠鏡と顕微鏡を保有していた(親はわたしの学業成績アップに賭けて大枚を叩いたわけだが、わたしはその期待をごく普通のことのように裏切った)。

もう一つ後悔がある。紅顔の美少年であったわたしは、望遠鏡で自身と同様に美しい月や土星の輪を観察し、また顕微鏡を使っては自身と同様に美しい蝶の鱗粉や花粉などを見ては喜んでいたわけだが、その美少年の元であるこうがんの精成物を観察してみる、というところにまでにはまだ知恵も及ばなかったし、またこうがんの副精成物の量も足りなかった。これは今から考えれば、大変に残念なことである】

外部の宇虫については 、かつてはその大きさが問題であった。この虫は極めて巨大であり、その外郭は無限大であるとまで考えられていたのである。しかし、近代になり、この虫の年齢がおよそ137億歳ということが分かり、年齢とともにその大きさを増していていることも判明した。

さて、このように巨大な虫については語るには限度がある。この虫について既知の部分は極めて少ない。そもそも初心者がこの虫について生半可な知識を身につけても碌なことにはならない。

利口な者は、この虫の感染者からの情報を利用するにとどまるべきであろう。そうすれば、最小の費用で最大の好奇心を満たすことができる。

井の中のカワズ論

2014/08/15 10:07


ここしばらく、クワス算について軽薄短小な頭を悩ませてきた。

もしもそれがどのような理論も正しいことを証明できない、ということであれば、クリプキ自身も認めている(端から承知のはず)通り、クワス算そのものもそれに含まれているわけで、これは確かに巧妙に考えられたものである。

ところで、パラドックスというものについてだが、果してわたしたちが普通に陥るパラドックスの罠(クワス算もその一例である)に自然が陥ることなどあるだろうか。

たとえばタイムマシーン。これはきわめて分かりやすいパラドックスを含んでいる。これに乗って未来へ行っても過去へ戻ってもパラドックスが生じる(未来へ行って当たり馬券を知って現在へ戻ってそれを買えばオッズは下がる。過去へ行って歴史を改変すれば現在は変わってしまう)。

しかし、実際にはタイムマシーンはどれほど科学技術が発達しようが完成しない。
また、一時ニュートリノが光速を超えるのではないか、と話題になったが、大山鳴動ネズミ一匹も現れず、単なる計測ミスの類のものであることが後で判明した。

自然は決して自己矛盾を起こさない。決してパラドックスを起こさないように巧妙に仕組まれたもの、それが自然だからである。

少女Aと芸術

2014/08/10 10:01


少女Aについての噂がかまびすしい。ひところ内輪でも少女Aが話題になったが、こちらの少女Aは現実に存在し、猟奇的殺人を犯した佐世保の少女のことである。

Aはいま、精神鑑定のため拘留されているらしい。精神鑑定が必要とされた理由は、おそらく原発が必要とされる理由、乃至は集団的自衛権が必要とされる理由よりもはるかに一般人を納得させるものであろう。
Aは、同級生である女子生徒を殺害し、その遺体を解剖しようとした形跡がある、という。また、就寝中の父親の頭部を金属バットで殴り、頭蓋骨を陥没させ、また歯の大部分を折ってしまうほどの傷を負わせた、とのことである。

そしてその理由というのが解剖してみたかった、というのであるから、大抵の人であれば、これは精神的な異常と考える。よって、精神鑑定肯うかな、となるわけである。

しかし、つい昨日まで、クワス算の論争に巻き込まれ、またそれを面白がっていた関係上、懐疑論者との会話に登場する少女Aに比べまったく少女らしくない(実際、このAは性同一障害を抱えていた可能性を指摘されている)少女Aについて、どうしてもわたしはクワス算の脈絡で考えてしまうのである。

と言っても、それは極めて単純なことである。

つまり、Aの殺害動機が常人には考えられない、ということは、Aは一見普通の少女としての外見を有しながら、その精神はまったく普通でなかった、ということであるから、これはある式が一見プラス算に見えながら実はクワスであった、ということにもつながり得る、のではないかということである。

もちろん、上はこじつけ以外のなにものでもない。
しかし、人ほどバリエーションに富む生き物はない。なんといっても、人類は現在70億もの人口を有するからである。

Aのような精神は、一般(マス)の中では当然にレアではあっても、決して少数ではない。それは難病にも似て、数十万人に一人、あるいは数百万人に一人というような率で存在するものであろう。

仮にAの精神をもつ者が100万人に一人のレートで存在するなら、日本には百人以上のAが今現在も存在する。世界にはおよそ1000人ものAが存在するという計算になる。

上は、Aのような存在を多様性の一面とする捉え方である。

では、その多様性に目的というものがあるとしよう。・・・いや、そうではなく、Aの持つ一見異常な多様性がAの、というよりその遺伝子の生存率をより向上させる方向に働いたとしよう。

Aがあのような犯罪を犯さず、10年後の未来において非常に革新的な絵を描く画家になっていたと考えるのである。そうすると、その革新性の元になっていたものは今Aの異常性、すなわち殺人欲とか解剖欲として世間を騒がせているもの、なわけである。

上はいささか強引な手法かも知れない。しかし、天才的な芸術、あるいは天才的な発見、発明をした人物たちの中にもAのような、あるいはAとは全く違った「異常性」を持った者がいなかった、とは言えないのではないか。

わたしたちにはレアなものを好む傾向がある。レアなものとはすなわち、ベル型曲線の右先端、あるいは左先端にいるような者たちのことである。

それによって、芸術も学術も大きく発展していたことは否めない、と思う。

エロと芸術

2014/07/27 11:17

ゲーテの時代もきっと今と同じで女性のヌードが賞賛されていたのであろう。というのは、たしかエッカーマンの「ゲーテとの対話」の中で彼が「生物学的観点からは女性よりも男性の方がより美しい」と述べているからである。
また、ゲーテは次のようにも述べている。
「この世から男性の性欲がなくなれば、同時に女性の美も消え失せてしまうであろう」

そこで思うのだが、ギリシア時代(と言っても、この時代に詳しいわけではない。云わば好男子見てきたような嘘を言い、でしゃべっているわけである)には男の裸体を描いた絵やフルモンティ(平たく言えばフルチンか)の彫刻がなぜあれほど多いのだろう、ということである。

ゲーテの最初の言葉は、あるいはこれを頭の隅においてのものだった可能性もある。あるいは、ギリシャの芸術家たちもゲーテと同じように男性美こそ極致である、と考えていたのかも知れない。

ドリアングレイの中で、オスカーワイルドはやはり男性美を描いている。これは後に彼自身が刑務所に送られることになるように、彼自身に男色の傾向があったことと無関係ではないと思われる。

しかし、もしも彼にそのような趣味はなかったとして、ドリアンがドリスだったとしたら、あの作品があれほど芸術的に成りえただろうか、と疑問に思うのである。
わたしは女性に偏見をもっている。しかし、それは男よりは女の方に、より目がいってしまう、色目を使ってしまう、という意味の、である。これは至って健康的ともいうべき偏見では中廊下。

けれども、やはりわたしはドリアンがドリスでなくて良かったと思うのである。女性は好きだが、小説の中のグレイは、やはりわたしには男でなくてはならなかった。

なぜなら、アドニスにも譬えられるほどの美青年ドリアンがハリー卿の企みによって堕落していく姿こそがこの小説の魅力だからである。
仮に類稀なアフローディテのような美少女ドリスが堕落していって娼婦になる様子を描いたとしても、それは、わたしには芸術的とは思えない。

作品のプレフェースで、オスカーワイルドは芸術論をぶっている。それは、この作品に対する読者や批評家への警告でもあり、彼自身にとってはおそらく予防線的な意味もあったに違いない。

すなわち、この作品の表皮の下に潜り込もうとしたり、あるいはこの作品の象徴する意味を読み取ろうとする者は大変な危険に晒されるであろう、と彼は述べているのである。

堕落していくこと。つまり高みにあったものが落ちていく姿は、底辺から高みに上り詰めていく姿を描く以上に魅力的であるに違いない。
そしてまた、落ちていく姿を描くことは、上っていく姿を描く以上にエネルギーを要するに違いないとも思うのである。

 

トランセンデンス

2014/07/07 16:41

ジョニー・デイップが天才科学者を演じるトランセンデンスを見た。

アラン・チューリングがテレグラム(今ならSNSか)で話してみて、その相手が人工知能と見抜けなかったら、それは人間と同等と考えてもよいと言ったAIをテーマとするものである。

先ごろのニュースで、ついに30%ほどの確率で、おしゃべりをして人工知能と見破られなかったとしてあるAIが話題になったが、ようやくコンピュータはこの段階に達したのである。

この映画で面白かったのは、自我を持つまでになったとされるPINGという名のAIに対してFBIの捜査官が「本当におまえさんが自我を持っていると証明できるのかね」と訊ねたときのPINGの応えである。
「そういうあなたの自我は証明できますか」とPINGは、逆にこう問うたのである。

以前にわたしは、「精神とはなにか」の中で次のように書いた。

***

・・・そこで、そのロボットがデカルトと同じような思考の経緯を辿り、「コギト・エルゴスム」と唱えたとしたら、わたしたちはそれを笑うことができるだろうか、というのがわたしの提議でした。

というよりも、わたしが真に言いたかったことをご理解していただくためには、みなさま方には是非、ロボットと人間が二つ並んで「コギト・エルゴスム」と言っている有様を思い浮かべていただければと思います。

自然が創ったロボットである人間と、その人間が造ったロボットが
口裏を合わせたようにコギト・エルゴスムと呟く様は、わたしにとってはジョークそのものでありますが、また宇宙の入れ子細工を表しているようでもあり、大変面白く思われるのです。

***

そのとき、まさにわたしが書いたとおりのことがこの映画の中で行われている、と思われて、わたしはついにんまりしてしまったというわけである。

すでに将棋の世界では名人といえどもコンピュータには勝てなくなった。近い将来、囲碁の世界でも同様のことが起きるであろう。

そして、おそらく今世紀中には自我を持つAIが完成する。そうして、この映画が描いたような世界が現実化することであろう。
自我を持つAIがPCのように普及し、AI同士が鎬を削るがごとく、より高い次元を目指して切磋琢磨するようになれば、いずれ人間など隅に追いやられてしまうに違いない。
なにせ、ユニークでとてつもなく優れたパーソナリティを持つAI、そしてアンドロイドのようなものが出現するのである。政治家も将棋や囲碁の名人も、そして芸術家などもお払い箱になることは明白ではないか。

かつてアシモフは知能をもつロボットが大量生産されるような時代を予想して、ロボット三原則なるものを義務付けた。人間に決して危害を加えないよう予防措置を講じたのである。
しかし、そのような原則をAIに適用したところで、必ずやAIはそのようなルールを打ち破ってしまうであろう。

人間をはるかに凌ぐAIの普及した社会。いや、それは決して社会などとは呼べない。そこには人間の存在する場がないのだから。

しかし、それがこれまでの生物学的な進化を超える新たな進化、神化ともいうべきものとなる可能性は否定できない。

「結局は、進化は、究極的にはここを目指していたのだ」

そんなふうに思われる時代がやがてやってくる。人類の時代は終わりを迎えている、そのような気がしてならない。