少女Aと芸術

2014/08/10 10:01


少女Aについての噂がかまびすしい。ひところ内輪でも少女Aが話題になったが、こちらの少女Aは現実に存在し、猟奇的殺人を犯した佐世保の少女のことである。

Aはいま、精神鑑定のため拘留されているらしい。精神鑑定が必要とされた理由は、おそらく原発が必要とされる理由、乃至は集団的自衛権が必要とされる理由よりもはるかに一般人を納得させるものであろう。
Aは、同級生である女子生徒を殺害し、その遺体を解剖しようとした形跡がある、という。また、就寝中の父親の頭部を金属バットで殴り、頭蓋骨を陥没させ、また歯の大部分を折ってしまうほどの傷を負わせた、とのことである。

そしてその理由というのが解剖してみたかった、というのであるから、大抵の人であれば、これは精神的な異常と考える。よって、精神鑑定肯うかな、となるわけである。

しかし、つい昨日まで、クワス算の論争に巻き込まれ、またそれを面白がっていた関係上、懐疑論者との会話に登場する少女Aに比べまったく少女らしくない(実際、このAは性同一障害を抱えていた可能性を指摘されている)少女Aについて、どうしてもわたしはクワス算の脈絡で考えてしまうのである。

と言っても、それは極めて単純なことである。

つまり、Aの殺害動機が常人には考えられない、ということは、Aは一見普通の少女としての外見を有しながら、その精神はまったく普通でなかった、ということであるから、これはある式が一見プラス算に見えながら実はクワスであった、ということにもつながり得る、のではないかということである。

もちろん、上はこじつけ以外のなにものでもない。
しかし、人ほどバリエーションに富む生き物はない。なんといっても、人類は現在70億もの人口を有するからである。

Aのような精神は、一般(マス)の中では当然にレアではあっても、決して少数ではない。それは難病にも似て、数十万人に一人、あるいは数百万人に一人というような率で存在するものであろう。

仮にAの精神をもつ者が100万人に一人のレートで存在するなら、日本には百人以上のAが今現在も存在する。世界にはおよそ1000人ものAが存在するという計算になる。

上は、Aのような存在を多様性の一面とする捉え方である。

では、その多様性に目的というものがあるとしよう。・・・いや、そうではなく、Aの持つ一見異常な多様性がAの、というよりその遺伝子の生存率をより向上させる方向に働いたとしよう。

Aがあのような犯罪を犯さず、10年後の未来において非常に革新的な絵を描く画家になっていたと考えるのである。そうすると、その革新性の元になっていたものは今Aの異常性、すなわち殺人欲とか解剖欲として世間を騒がせているもの、なわけである。

上はいささか強引な手法かも知れない。しかし、天才的な芸術、あるいは天才的な発見、発明をした人物たちの中にもAのような、あるいはAとは全く違った「異常性」を持った者がいなかった、とは言えないのではないか。

わたしたちにはレアなものを好む傾向がある。レアなものとはすなわち、ベル型曲線の右先端、あるいは左先端にいるような者たちのことである。

それによって、芸術も学術も大きく発展していたことは否めない、と思う。