精神の境界

2014/08/22 18:27

トランセンデンス」でも書いたことだが、哲学のクロニクルをデカルトにまで巻き戻せば、自意識というものが本当に存在するか、という問題を再考せざるを得なくなる。

本当に「われ思う、ゆえにわれあり」でいいのか、ということである。

自意識というものを定義することはとても難しい。
デカルトの場合、それは目に見えるもの、耳に聞こえるもの、肌に触れるもの、鼻に匂うもの、すべてを疑いに疑った末に、最後に、消去法的に残ったもの、それがコギト・エルゴスムだったわけである。

わたしたちが現実と思い込んでいるこの世界は、本当は夢の中の出来事なのではなかろうか、と疑う。しかし、その夢の中でこれは夢なのだと疑うことは可能だろうか。もしもそれが可能だとしても、それもまた夢ということはないだろうか。こうして疑っていくと、合わせ鏡のように際限がなくなる。

しかしものには当然に限度があるから、疑うということ自体は紛れもない現実である、という結論にデカルトは至った。それがコギト・エルゴスムである。

でっ、である。

その自意識というものが、疑う、あるいは想う、ということであるとするなら、これを機械が、はやい話がロボットとか人工知能がやるということは不可能だろうか。

わたしは、可能だと考える。アラン・チューリングもそう考えていたに違いない。
なぜなら、チューリングは自意識の定義には一切触れずに、人間と会話(当時はテレグラフを使うことを前提とした)を行ったときに、そのAIなりがごく普通に日常会話を行い、相手側に、こいつは人間ではないな、という疑いをもたれなかったとすれば、そのAIを人間と同等と考えて良い、としたのである。

これはつまり、人間の脳に相当する部分をAIであろうと本物の人間の脳であろうと、それをブラックボックスとしてしまって、その中身についての議論は一切留保し、後は外見、つまり会話のみによって自意識の有無を判断しようとした、ということである。

わたしは、このやり方に賛成する。
これに反意を唱える人たちというのは恐らく、人間の脳を、とりわけその感覚というものを特別なものと考えているのである。

脳のクオリアなどと言われるもの――臭いの感覚や、紙と絹の質感の違いを一瞬で判別できる皮膚感覚など――を生物に特有のことと考えているのである。
つまり彼らは、感覚も、また精神も生物に特有のものと考えているのである。

わたしは、感覚とは所詮、センサーからの信号の処理の結果であって、それの記憶に過ぎないと考える。
要は、センサーが非常に繊細なものであり、その処理の方法が非常に優れたものであるならば、わたしたちに生じると同じ感覚が機械にも生じるはず、と考えるわけである。

また、脳が如何に精緻なものであろうと、それは所詮物質の組み合わせであることに違いないから、わたしは脳も一種の機械に過ぎないと断言する。

さて、このようにわたしは人間機械論者であるわけだが、それの根本にあるのは、果して、わたしたちが精神とか自意識などと呼んでいるものは、進化のどの時点で生じたのであろうか、ということである。

これは、何も進化の過程を考えずとも、今現存するあらゆる生物を比べてみれば分かる。

わたしたちの周りには人類を筆頭に、猿や犬、猫、蛇、蛙の類から蝉、甲虫、蟋蟀、蚯蚓、ゾウリムシ、ミジンコ、細菌、ウィルスと実に多様な生物がうじゃうじゃと存在する。それでは、さてこれらの生き物たちのうちで、これが精神を持ち、これは持たないという正確な分類が出来るであろうか、ということである。
いや、というよりも、進化のいったいどの時点で、どの生き物からどの生き物へと変容を遂げた時点で精神を持つようになったといえるだろうか、ということである。
これが判別できるとするなら、これはもうノーベル賞間違いなしの発見である。
発見した人は「精神の起源」とでも銘打って論文を発表すれば良い。アマゾンが高い値で買ってくれるはずである。

わたしは、そんな線引きなどできないと思っている。

なぜなら、もっとも下等と思われる生物がいたとして、それも結局はそれよりも一つ、か二つ上の生物につながっているわけで、そのつながりの基礎にあるものは「生存欲」あるいは「繁殖欲」といわれるもの(一種の基本的なプログラム)であることは疑いないわけで、それらは間違いなく「精神」である、とわたしは考えるからである。

つまり、わたしたちが高等と考えるわたしたちの精神も、結局はそのもとを辿れば生存欲という種子から発生したものである、ということなのだ。