エロと芸術

2014/07/27 11:17

ゲーテの時代もきっと今と同じで女性のヌードが賞賛されていたのであろう。というのは、たしかエッカーマンの「ゲーテとの対話」の中で彼が「生物学的観点からは女性よりも男性の方がより美しい」と述べているからである。
また、ゲーテは次のようにも述べている。
「この世から男性の性欲がなくなれば、同時に女性の美も消え失せてしまうであろう」

そこで思うのだが、ギリシア時代(と言っても、この時代に詳しいわけではない。云わば好男子見てきたような嘘を言い、でしゃべっているわけである)には男の裸体を描いた絵やフルモンティ(平たく言えばフルチンか)の彫刻がなぜあれほど多いのだろう、ということである。

ゲーテの最初の言葉は、あるいはこれを頭の隅においてのものだった可能性もある。あるいは、ギリシャの芸術家たちもゲーテと同じように男性美こそ極致である、と考えていたのかも知れない。

ドリアングレイの中で、オスカーワイルドはやはり男性美を描いている。これは後に彼自身が刑務所に送られることになるように、彼自身に男色の傾向があったことと無関係ではないと思われる。

しかし、もしも彼にそのような趣味はなかったとして、ドリアンがドリスだったとしたら、あの作品があれほど芸術的に成りえただろうか、と疑問に思うのである。
わたしは女性に偏見をもっている。しかし、それは男よりは女の方に、より目がいってしまう、色目を使ってしまう、という意味の、である。これは至って健康的ともいうべき偏見では中廊下。

けれども、やはりわたしはドリアンがドリスでなくて良かったと思うのである。女性は好きだが、小説の中のグレイは、やはりわたしには男でなくてはならなかった。

なぜなら、アドニスにも譬えられるほどの美青年ドリアンがハリー卿の企みによって堕落していく姿こそがこの小説の魅力だからである。
仮に類稀なアフローディテのような美少女ドリスが堕落していって娼婦になる様子を描いたとしても、それは、わたしには芸術的とは思えない。

作品のプレフェースで、オスカーワイルドは芸術論をぶっている。それは、この作品に対する読者や批評家への警告でもあり、彼自身にとってはおそらく予防線的な意味もあったに違いない。

すなわち、この作品の表皮の下に潜り込もうとしたり、あるいはこの作品の象徴する意味を読み取ろうとする者は大変な危険に晒されるであろう、と彼は述べているのである。

堕落していくこと。つまり高みにあったものが落ちていく姿は、底辺から高みに上り詰めていく姿を描く以上に魅力的であるに違いない。
そしてまた、落ちていく姿を描くことは、上っていく姿を描く以上にエネルギーを要するに違いないとも思うのである。