プロメテウスの贈り物

2009/12/24 11:19

今日はイブである。わたしから皆様へのささやかなプレゼント、というわけでもないが小文を献じたい。

人間はプロメテウスから火というプレゼントをもらった。この「火」は命の比喩であり、また情熱の比喩でもある。人類は、果たしてこの火を次の者へと繋いでいけるのだろうか。

事業仕分けのとき、スーパーコンピュータ開発の予算取りをめぐって「なぜ1番でなければいけないんですか」とばかな女が言った。そんな台詞は、期待された金が取れなくて銀メダルで泣いている柔道選手にでも言ってやれ。きっと一本背負いで台湾にまで投げ飛ばしてくれることだろう。

ところで、わたしのように沈着冷静な人間でも上のような激しい感情を持つというのに、なぜコンピュータにはそれがないのだろう。もっともコンプに感情などあれば、レンボウなどという女はとっくの昔に台湾どころか冥府に飛ばされているに違いないが。

コンピュータは、わたしがいたいけな子供の頃には電子頭脳と言われ、鉄腕アトムには10万馬力のパワーと人間の知性をはるかに凌ぐ電子頭脳が装備されていた。この電子頭脳により、アトムは超能力ともいうべき超五感(スーパーセンシビリティ)と、そして人間と同じ感情を有していたのである。
アトムとほぼ同時代のロボットに鉄人28号がある。鉄人とアトムの大きな違いは、アトムが電子頭脳を持った自律型のロボットであるのに対し、鉄人の方は人間のリモコン操縦で動く単なる精密巨大戦闘マシーンに過ぎないということである。

21世紀となった現代、鉄人28号程度のロボットなら最新の技術をもってすれば製作はそう難しくはないように思える。しかし、アトムを作れと言われてもこちらの方はまだまだ先の話になるのではなかろうか。
では、なぜアトムを作るのがそれほど難しいか? まず第一に、いくら原子力の申し子とは言え、あの小さなボディに10万馬力はあと100年経っても無理である。その理由は、馬力を国際単位のWに換算してみるとすぐに分かる。1馬力を750W――0.75kWとすると、10万馬力は7万5千kWとなり、これを熱量にすると、単位がWからJに変るだけであるから7万5千kJになる。わざわざ熱量換算などしなくとも、熱力学の第二法則からあの小さな身体が7万5千kWもの電熱ヒーターになるわけであるから、あっという間もなく溶けてしまうに違いない。

それともう一つ基本的な課題がある。それは、電子頭脳に人間と同じ感情を持たせるなどということが果たして可能かということである。
わたし自身は可能であると信じている。そもそも感情とは何かと考えていったときに、これは生命固有のものであるという当然の帰結に達する。石や空気や水や案山子が感情を持つのはファンタジーの中だけである。
では、なぜ生物は感情を持つのか。喜びや怒りといった単純な感情から人間のもつ憐憫や惻隠の情、尊敬、懐古、それに郷愁や真理の探究心などといった高級な感情まで、これらはいったいなぜ、どのようにして発生したのだろうか。

わたしは、感情は生命の誕生と同時に生まれたと考えている。生命とは自己の存在を肯定し未来へとその増殖を図るものである。そのために食い、生殖を行う。この二つの原則から感情は生まれたとわたしは考えている。つまり、快と不快という感覚をベースにして様々な感情が派生し発展してきたと考えるのである。
快はもちろん自己の保存に有利な条件のときに生まれる感覚であり、食餌や生殖のときに生じる。不快は自己が相手の餌になりそうなとき、あるいは生殖の機会を失ったときに生じる感覚である。
このわたしの理論では、すべての感情は快か不快のどちらかに大別されることになる。例えば喜怒哀楽は、快、不快、不快、快となる。憐憫とか惻隠とか郷愁など、単純には仕分けのできないものも確かにあるが、それらは派生、発展の筋道が単に複雑であったためである。

いま複雑な筋道と言ったが、たとえば憐憫の情などは母性から発展したものと考えれば説明は容易である。憐憫とは相手を憐れみ可哀想だと思いやる心情である。我子がぴーぴー鳴いて必死で訴えているのに、母親が腹を空かせているのか寒いのかちっとも分からないようでは種の存続などとても覚束ない。
憐憫、そして惻隠の情も、人間の知性の発達と共に、もともと原始的であった母親の我子を思う気持ちが兄弟や親や同族に、そして異種のものにまで及ぶようになったものであるとわたしは考えている。

もう一つ例を挙げるなら、郷愁という感情もわたしは人間に固有のものとは思わない。誰もこれを郷愁とは言わないだろうが、わたしは鮭やうなぎにも郷愁はあると考えている。だから、彼らははるかな海から河を遡り、あるいは逆に河を下ってはるかなマリアナ海峡にまで泳いでいくのである。これを自分の生まれた場所、すなわち故郷を懐かしんで帰っていくのだと考えていけない理由はあるまいと思うのである。
帰巣本能などといえば身も蓋もない。か、と言って、「白鳥というのはねぇ、星座を見ながら渡りをするのだよ」と肩に手をかけてみたところで、いまどきその手をひっぱたかれるのが落ちであろう。
いずれにしろ、郷愁とは一種の帰巣本能の延長線上にあると考えて大きな間違いはない。

さて、わたしの結論は「電子頭脳はそう遠くない将来に必ずや感情を獲得する」である。ただし、そのような感情はわたしたち有機生命が持つ感情とは一味違った独特なものであるに違いない。ロボットは、いや人間の創造した無機生命体は有機生命から独立したユニークな感情を持つようになるとわたしは思うのである。それがどのようなものかは、有機生命体であるわたしには分からない。しかし、有機生命が自己保存と生殖をその根源としていたのと同様に、無機生命体には「真理探究」、そしてそれを成し得るために不可欠な自己保存と自己開発という基本プログラムを植えつけておいたなら、きっと彼らは人類滅亡の後も愚直に人間によって仕込まれた言いつけを守り続け、地を継ぐ者となっていることであろう。

そして、それこそがプロメテウスから贈られた火を人類が次の者へとリレーしていった証となり、神から火を盗んで人類に与えてくれたがために鷲に心臓を突付かれるという刑罰を受けるはめになった彼への恩返しになるであろうとわたしは考えるのである。