シュレ猫2

2010/01/10 17:15

昨晩は寝床の中で呻吟しながら(嘘)、シュレディンガーの猫(シュレ猫)の続きを考えた。運命と猫。果たして、どういう関係があるかというと、この猫、実は猫は猫でも半死半生の猫なのである。

話を簡潔にしたいのだが、どうしてもこういう気を持たせるような書き方になってしまう。
実はこの猫、シュレディンガーという物理学者が考えだした(思考実験)仮想の猫である。

その思考実験というのは、ざっとこういうものである。
ラジウムという放射性元素を用意する。ラジウムは極めて正確にある一定周期でα線(ヘリウムの原子核)を放出する。この放出の周期を調節して、たとえば一時間後にα線の出る確率を1/2にする。α線を検知すると電気が流れる装置を設け、電気が流れると青酸ガスの入った容器の蓋が開くようにしておく。
シュレ猫はこの青酸ガスの容器とともに不透明な箱の中に入れておく。

そうして、きっちり一時間が経過したときの猫の生死がどうであろうかというのが、シュレディンガーの命題なのである。この問題は、単純なようで実は運命論と深く関わっている。

もちろん、箱を開けてみた時点で猫の生死はすぐに分かる。問題は、昨日書いたようにスパコンを使って、あるいはラプラスの悪魔に頼んで、一時間後に猫が生きているのか死んでいるのか100%知ることができるかということなのである。これを一言で片付けてしまうなら、絶対にできないというのが答になる。

シュレ猫の問題というのは量子論の一種のパラドックスである。量子というミクロの問題をマクロ的に理解しようという試みである。

コンピュータの父とも言われる大天才フォン・ノイマンは、これを理解するのに、箱の中の猫を「半死半生」という純粋状態におくという考え方をとった。つまり、きっちり一時間経過した直後のシュレ猫は、半分生きていて半分死んでいるという状態にあるというのである。そして、箱の蓋を開けた瞬間に生死が決定するのだと(このような考え方は、パラレルワールドへとつながっていく)

以上、シュレ猫について書いてきたが、量子論の解釈によると少なくともミクロの世界では運命というものは決定していないようである。ラジウムα線を放出するかどうかは確率でしか予想できない。
そのミクロの量子がたくさん集まって出来たのが猫であり人間であるから、人間の運命もやはり決定しているわけではない。そう思いたくなるのが人情だが、アインシュタインのように「神はサイコロ遊びをしない。自然は確率などという蓋然性で糊塗されたものではない精確な記述が必要である」と不確定性原理に異を唱える学者もまだまだたくさんいて結論が出ているわけではない。

たとえば、不確定性原理の提唱者ハイゼンベルグが言うような、対象物にまったく影響を与えない観測者(神のような存在)であれば、ラジウムが1時間後にα線を放射する確率も100%予想できることになり、猫の生死、すなわち運命さえも知ることができるということになる。そうすると、問題は、そのような観測方法が実在するかどうかということになり、神の存在を問うような極めて哲学的、宗教的なものにその姿を変えてしまう。(わたしは、実はここに非常に面白いアイデアが潜んでいると一人ほくそえんでいるのだが、それはまた機会があれば披瀝したい)

しかし、将棋にしろ囲碁にしろ、もしもラプラスの悪魔のような極超高性能スパコンによって必勝の指し方、打ち方が解明されてしまえば、もう誰もこんなものに興味を持たなくなってしまうのではなかろうか。
これと同じように、もしも運命が予め決まっているなどということが理論的に証明されてしまった日には、人生は生きるに値しないと絶望に陥った多くの者が自殺を企てるかも知れない。

わたしが思うに、この世には人間などが知らなくても良いことがたくさんあるのだ。人間は蛇に唆されて知恵の実などを食べてしまったから楽園を追放され余計なことで思い煩わねばならなくなってしまったのである。