花鳥風月

先日、職場の同僚たちと無駄話をしていて、ふと話題がプログラミングと芸術という高尚なものになった。

話題を振ったのはわたしだが、それは、その同僚は二人とも前職でIT関連の仕事をしていて、そのうちの一人が自身の才能に限界を感じて、その職業から足を洗ったというようなことを言っていたからである。

彼は、アニメーションのようなものを作っていたらしく、だから芸術にももちろん多少の造詣と関心があった。

さて、わたしがこの二人に訊いたのは、プログラミングと芸術の関係についてである。

もちろん、わたしは自分なりのはっきりした見解を持っていたのだが、敢えて質問をぶつけてどんな反応が返ってくるか見たかったのである。

結局、二人からは確固とした答えが得られなかったのだが、

わたしが「芸術には、例えば絵画にはよく花鳥風月が描かれるし、音楽にしてもその全てが、と言っても良いほどに大自然からモチーフを得ている。第一、人間そのものが自然の一部である。そして、わたし達が美しいと感じる花や鳥の色や形を作っているのは、DNAという名のコードである。また、風や月にしても、これはわたし達がなかなか気がつかないが、これもコードされたものである。例えば大洋の大きな波のうねりも湖面を揺らす細波もフーリエ級数に解析される。風とて同じである。

また、月にしても満ち欠けがどのような理由で起きているか、今では誰でも知っている。そしてあの形が太陽や地球と同じく真球に近いことも、その明確な理論は知らなくとも常識として知っている。

わたし達が美しいものとする花鳥風月というものは、このようにコードされているのである。つまり、ソフトウェアと言ってもよい。

わたし達は、なぜ桜の花弁が五弁なのかは知らない。しかし、桜はその進化の過程で五つの弁、ペタルを選んだのである。そして、その花弁を淡いピンクに染めることを選んだのである。

芸術家は、それを美しいと感じるからこそ画題として選ぶのだ。そして、その枝に鶯を止まらせ、その花弁が風に散っていく様子を描く。あるいははるかな高みに丸い月を配するのだ」

とまぁ、大筋でこのようなことを述べた。

二人とも少し考えていたが、最後にはなるほど、というような顔をして見せた。

わたしは、この世というのはシミュレーションである、とまでは言わない。なぜなら、シミュレーションというのは何かの目的のためにするものだからである。

しかし、巨大な、最高に巨大なコンピュータである、ということは間違いないと信じている。

だから、この中で起きていること、そして存在するもの全てがコードされているのだと信じている。

全てがプログラムされており、その歯車には一切の齟齬はない。初め(があったとして)から終わり(これも、それがあったとして)まで、まさにセイコーの時計のように時を刻んでいくのだ。

いや、そうではない。

そもそも時間の概念は、概念であってそんなものは存在しないのだ。この世は、piのように一つの固定した定数なのだ。

だから、最初から最後まで全てが決定してしまっている。

あるシュレディンガーの猫が1時間後に生きているか死んでいるか、ではなく、それが観察者によって観察されるかどうかまで決まってしまっているのだから、蓋を開けるまでは、その猫が半死半生なんて話にはならないのだ。

なぜなら、piの中にはその猫の生死が既に組み込まれているからである。