KYとHWは兄弟か

2010/07/27 08:09


昨夜、皮肉の分からない人について書いた。われながら面白いテーマに挑んだものだと密かにほくそえんでいる。

随分とデリカシーに欠けるテーマであり論じ方であると気分を害される方もあるかも知れない。しかし、これは当然ながら一般論であり、誰か特定の方をターゲットにしたものでないことは申し添えておきたい。

唐突なようだが、世の中に病気はごまんというほどある。いや5万なんてものじゃない。おそらく人の数以上に病気はある。なんでもかんでも病気にすればよいというものではないが、たとえばKYも病気の一つと考えることができる。空気読めない病である。

しかし、この世に不要なものは何一つないというのがわたしの持論である。だから、KYというものにも何らかの深遠な意図があって、神様はこれの罹患者を御作りになられたに違いない。
KYは非常に世の中の役に立つ。わたしが最近つとに思うようになったことである。空気を読めない人は、社会をギクシャクさせることもあるが、逆に閉塞した状況を打開する突破口になることもあるのだ。
たとえば、昨夜(といってもほんの8時間ほど前)も書いたように、電車に乗った5人組は、KY君のおかげで、特にMさんなどは窮屈な思いをするはめになってしまった。ところが、案に反して、黒ずくめの3人組は非常に彼らに対して好意的で、Mさんなどは例の坊主頭の桜色ネクタイから、
「お嬢さん。窮屈な思いをさせてごめんな」と、傍を通ったグリーンアテンダントからジュースを買ってもらったうえ、
「わしらは次の駅でおりるけ、後はゆっくり寛いでちょ」と言われた。

こんなことが現実にそうたびたびあるわけではないが、偏見やステレオタイプなものの見方をしないこともときには必要と思うのである。

さて、わたしは前に書いたことをもう一度論うのは年寄りの繰言みたいで嫌いである。しかし、これは、皮肉に対して皮肉で応えたという大変な高等技術のお手本であると思うので再掲する。いわば、彼は相手の打ったスマッシュに対してスマッシュで打ち返すという神業で応えたのである。
ウィンストン・チャーチルが大嫌いなある女性議員。こう宣まった。
「わたしがあなたの奥様なら紅茶に毒を盛るでしょうね」
すかさずチャーチル
「わたしなら、それを飲むでしょうな」

皮肉というのは、ディベートをする上での高等戦術である。なるべく相手に分かり難い様に、・・・なぜなら、相手はすぐに反撃が出来ないから・・・、しかし時間が経つにつれ「そうか、チクショウ、あれは皮肉だったのか」とジャブのように効いてくる、それが最も効果的な皮肉である。

しかし、昨夜も書いたように、まったく皮肉の通用しない相手もいる。これもHW病と名づけるしかないであろう。この病の主たる原因はまちがいなく自己愛である。
自分を偉大なる天才だと思っている者に対して、
「大した天才ですね」などと、皮肉たっぷりのつもりで言っても、相手を喜ばすだけである。
「ようやく分かったのかね」と喜色満面で言ってくるかも知れない。こういう相手には、いや病気にははっきり言って付ける薬はない。

思うに、KYとHWは兄弟のようなものである。空気が読めないのと皮肉が分からないのは、非常に良く似ている。
皮肉が分からないのは、上に書いたように自己愛のなせる業である。
わたしは、皮肉の分からない人とお世辞を鵜呑みにしてしまう人には一脈通じるものがあるように思う。いや、というより、これはまったく同じ病気なのだ。
たしかに、お世辞を言われて嫌な顔をする人というのは少ない。これは、お世辞とはいえ、その中には幾分かの真実が含まれているからである。
結婚式で「新郎(新婦)は大変な秀才(才媛)でありまして」と言われれば、90%お世辞である。しかし、世の中は秀才(才媛)にもうちょっとで手が届きそうな男(女)ばかりではないか。
何が言いたいか? お世辞をまったくその通りと鵜呑みにする人というのは、よほど自惚れの強い人だと思うのである。
大抵の人であれば、これはお世辞だと分かっている。お世辞ではあるが、まぁ、まんざら出鱈目ではないから悪い気はしない。こういう程度の捉え方であろう。

ところが、自惚れ、すなわち自己愛の強すぎる人というのは違う。本当のことをよくぞ言ってくれたと感動を覚えてしまうのである。
これは、KYのようにその場の空気というかムードが読めないというのとは少し違う。しかし、相手の心を汲み取れない、忖度できないということであるから、読めないという点において同じである。

KYとHW。わたしは、もう少し研究を続けてみようと思う。