記憶について

2010/11/26 12:04


先日CPU考を書いていたときに、ふと思いを廻らしたことがある。それはコンピュータのメモリーについてである。わたしはUSBメモリーを常時携帯しているのだが、こういったICチップのメモリー容量は飛躍的に、それこそ当たり前のことだが倍々に増大している。癌が2倍に大きくなるまでの期間をダブリングタイムというそうだが、この伝でいくとメモリーのダブリングタイムは癌並みのほんの数カ月ほどということになる。

ところでこのメモリー、大きく分けるならROMとRAMということになるであろう。ご存じのようにROMとはRead Only Memory(Memberではない)の略だから読み出し専用の記憶装置ということになる。ということはつまり、たとえば本や辞書のように読みたいことが予め書かれていなければならない。コンピュータにおいては、この予め書かれているものとはプログラムである。OSなどのように、コンピュータを動かすものがプログラムであり、これは一般的にソフトという名称で括られている。今、コンピュータを動かすと書いたばかりだが、これは考えてみれば少しおかしい。なぜなら、コンピュータはソフトとハードが渾然一体となって動いているわけで、わたしが今こうしてPCのキーも軽やかに打っているのも、わたしの高い精神性もさることながら、ピアニストのようにしなやかな左右十指の機能に負うところが大きい。

いつものように余計なことを書いてしまったが、もうひとつのメモリーであるRAMはRandom Access Memoryの略で読み書きが可能な記憶装置である。ROMを本に喩えるならRAMはさしずめノートとかホワイトボードということになるだろうか。このメモリーは一時的な記憶を蓄えるために用いられる。たとえば、足し算をする場合であれば加算数と被加算数のようなものである。

最初に書くべきだったが、わたしがなぜメモリーなどに想いを馳せたかというと、人間の記憶とコンピュータの記憶について比較したかったからである。
人間の脳細胞の数はおよそ150億とも言われる。脳細胞の数がそのままメモリーの容量というわけでは勿論ないが、少なくともその記憶容量が無限でないことだけは確かである。したがって、生まれたての赤ん坊に無限の可能性があると言うのはそもそも錯覚か都合のよい詭弁であって、買ったばかりの最新のPCに無限の可能性がないのと同じことである。

少し話が飛躍するが、コンピュータの父と言われるフォン・ノイマンは特異な頭脳の持ち主であったらしい。というのは、彼は電話帳をぱっと開いて、そこに出ている電話番号の数字全ての足し算があっという間に出来たという話があるからだ。実は、このような能力は決して奇跡のようなものではないらしい。また、面白いことには、このような能力は共感覚と密接につながっているという。共感覚というのは、音を聞くとそれが色となって見え、色を見るとそれが音となって聞こえるというような、わたしなどからすれば何だか脳内で視覚と聴覚の神経が混線しているような感覚のことである。これは視覚と聴覚に止まらず臭覚などと連動することもあるらしい。

ところで、そのノイマンアメリカでエニアックが開発されたときに放った一言が奮っている。「俺の次に賢い奴が出来た」と彼は宣ったそうだ。
そのエニアックだが、この頃はまだICなど無い時代であったから、メモリーには真空管が使われた。このため、その発熱量は莫大で、今のPC程度の能力を得るためには、その冷却のためにナイアガラの滝が必要であろうと言われた、とわたしは小学生のときに「最新科学の驚異」という本を読んで知った。また、何万本も真空管を使っていたため、しょっちゅう真空管を取り換えねばならなかったとも・・・。

ノイマンは、実はコンピュータだけではなく、原爆の開発にも関わっている。それも極めて数学的な、高濃縮ウランの塊を火薬で爆発させて1か所に圧縮し臨界に達するには何個の塊にするのが良いかという難問を解決したのである。

容量に限りのあるメモリーを効率的に使うために、おそらく脳というのはそれ自体が極めて巧妙なソフトを使っている、とわたしは考えている。例えばJPEGMPEGのようなやり方である。日本晴れの青い空を写真に撮ったとしよう。多少の濃淡はあるにせよ、必要な色は青が大部分である。これを馬鹿正直に100万画素の全てにビットを立てていったのではメモリーがいくらあっても足りない。ではどうすれば良いか? 簡単なことである。「全て青」というデータをメモリーに入れてやるだけである。仮にところどころ白い雲があるなら「こことここは白ね」というデータを入れてやれば良い。JPEGなどがやっているのは、詰まるところこういうことなのである。

では人間の脳みそはどうか? わたしは、人間の脳はもっと徹底的に端折っていると思う。たとえば、ここに赤い林檎が一つあるとする。それをどのように人は認識するかと言うと、人は「赤い林檎が一つ掌に載っている」と憶えるのである。すると、この記憶の主要なエレメントは、「赤」と「一つ」と「林檎」と「掌」だけである。勿論記憶というものはこれほど単純ではないであろうが、記憶を補強する要素として言葉は、人間の場合には非常に重要である。

そして、もう一つの有力な要素が先に書いた共感覚である。わたしはよく思うのだが、ノイマンに限らず、人間、いや動物には等しく共感覚が備わっているのではないか。なぜなら、わたしは犬が好きで犬の気持ちがよく理解できると自負しているのだが、犬を生後半年ほどの乳離れした頃から飼うと、おそらくその仔犬はわたしの匂い(今では華麗臭と言ってもよい)を、わたしに可愛がってもらったという記憶と一緒の引き出しに仕舞い込み、終生わたしを慕うに違いない。これはわたしとて同じことである。わたしは、わたしを生んでくれた親や祖父母の記憶をたどるとき、その匂いや声や姿を懐かしさという気持ちと一緒に思い出す。これも一種の共感覚ではないかと思うのである。
コンピュータと生き物の記憶方法に根本的な違いを見出すとすれば、それは上のようにやはりその記憶に感情や生理的気分が伴うかどうかということであろうと思う。