コンピュータはヒトを超えるか

2011/05/04 12:31


コンピュータは人間を越えるか、ということを考えていて、ふと次のような妄想に至った。

コンピュータと人間の違いは、その自律性にあり、また感情があるかないか、という辺りに集約されるであろう。自律性とは、自らの意志をもつかどうかということであり、これは当然に感情を持っているかどうかということと関係がある。

それでは、感情を持つコンピュータが可能かどうかを考えてみよう。結論を言うなら、わたしは不可能であろうという考えに達したのである。

これは、少なくとも現在のコンピュータと言われるものはbitを単位とする2進法を基礎にしているからだ。では、なぜ2進法だと感情は生まれないか。

いや、その前に、そもそも感情とは何か、ということを考えよう。感情とは何か。少なくとも、それは理性とは区別される。感情そのものには計算はない。歯を剥き出しにして、侵入者を威嚇する犬の怒りに損得勘定はない。そこにあるのは、ただむきだしの怒りという感情だけである。しかし、その感情というものも、結局は脳の何らかの作用によるものであることは疑いようがない。

では、怒りとは何か。あの、誰しもが経験するかっと燃え上がるような気持ちの正体とは何だろう。それはある種のホルモンによる生理作用、単なる脳内の化学反応に過ぎないのだろうか。
ある脳科学者は、猫を使った実験で、猫の脳に微小な電極を差し込んで、ある部位を電気で刺激することにより、その猫がクヮッと口を開いて怒りの表情を露にすることを確認したという。しかし、刺激を止めると、直ちに猫は猫を被ったように大人しくなったという。本当にこの猫は怒ったのだろうか。

それはともかく、感情というものは、なかなか理性の手によっては解明できないという本質を持っている。感情に限らない。、茂木健一郎が言うクオリアもそうだ。質感や味覚などというようなものも、いくらコンピュータに味あわせてやりたくとも、これは絶対に出来ない。
人間の脳がケミカルマシーンと言われることも理由にある。しかし何より、人間の脳にしても犬や猫の脳にしても、それは37億年という長い歴史を経て完成したものである、ということである。・・・これでは何を言っているか分からない。要は、最初の生命がどのようなものであったかは知らないが、その最初の生命にしても、生命と呼ばれるに足る最低の二つの機能、すなわち自らの生存と繁殖の意志を内在させていたのである。この生存と繁殖の意志こそが、全生命を貫く基本であると言っても良い。これを基本に、わたしたちの脳は37億年という途方も無く長い時間をかけて発展したのである。

一方コンピュータは、最初に書いたように、0と1という2進数の記号によってその世界を構築するより他はない。ところが、この現実の世界を構成しているものは、標準理論によるだけでも25個の量子や光があり、さらに超弦理論によれば、これらの量子を形作る基本単位として二次元の紐様のものがある。

もしも、コンピュータのbit、すなわち0と1によって現実の脳とそっくりなものを作るとすれば、それは、このような量子や、さらには紐までをも作らねばならないことになり、それは言うまでもなく不可能である。

脳というものは、いや生命というものは人知を超えている。実に複雑怪奇なものである。人間は、がんをも克服できないのに、生命というものを分かったつもりになっている。大いなる錯覚であり、過信と言うほかはない。