コギトエルゴスム

というのは、かのデカルトの言葉である。

デカルトは、なぜ「わたしは思う。だからわたしは存在する」などと言ったのか?

それは彼が、自分は本当に存在しているのか、と疑問を抱いたからである。これは、何もデカルトのような哲学者でなくとも、小さな小学生くらいの子供でもふと思うことではないだろうか。

先に自由意志について書いたが、このような疑問はそれとも関わりがある。

つまり、デカルトは、自分は思う、あるいは考えることができるから、これは間違いなく自分は存在しており、今の言葉で言うバーチャルなものではない、と考えたわけである。

ところが、「自由意志」に書いたように、わたしたちには自由意志などない。全ては自然現象に過ぎない。

わたしたちが「考える」と言っても、それは所詮脳という名のコンピュータがある条件のもとにある計算を、勘定をしているだけのことではないか。

でもお前さん、そのコンピュータは現に存在するんだろう? と言うかも知れない。

しかし、それを言ってしまえば、そのコンピュータも自然というか、宇宙というか、ずっと途方もなく巨大なコンピュータの中で瑣末な勘定を、あるいはシミュレーションをしているだけのことであり、やはりわたしたち人間というのは、巨大なシミュレータの中でこのシミュレータのやっていることのシミュレーションをしている超微細なシミュレータに過ぎない、という結論になってしまう。

我思う故に我あり、ではなく、やはり元に戻って「我思う。我は真にありしか」とになってしまうのではないか。