瞬間を生きるということ

2016/06/02 15:38


邦題で「今を生きる」という昨年亡くなったロビンウィリアムズが先生の役をやった映画がある。原題は"Dead Poets Society"という。直訳すれば「死んでしまった詩人の集まり」といった意味であるが、これではさっぱりわけが分からない。だから、今を生きるというタイトルは、原題を訳したというよりは内容から意訳したという意味で優れたものと思える。

その内容については、ここでは書かない。いわゆる教育者もので、わたしはこの映画の外にもダニーデビートが軍隊で演劇を教える役の「勇気ある者」、原題"Renaissance Man"も好きだ。ちなみに、このルネッサンスマンというのは、英語で非常に教養のある男のことである。もちろん、英語で言う教養とは、わたしたちが普段使っているような、薄っぺらな本を読んで得られるような教養のことではない。彼らが考える真の教養とは、ピアノを弾いても一流、乗馬もスキーも絵画も文筆もすべてが一流という、そういうレベルのものである。

話は逸れたが、今を生きるとはどういうことであろうか。原作は、"Carpe Diem"、「カルペ・ディエム」でその日を掴め、という意味になる。これはまた、古代ローマの詩人ホラティウスの「その日の花を摘め」から来ている。

その日の花を摘むとは、もちろん明日の花は摘もうにも摘めないわけであるから、その日を精一杯生きろ、という意味以外にはあり得ない。

ところで、わたしが今、こういったものを書こうとしているのは、今のわたしに迷いがあるからである。
瞬間を生きるという感覚は、わたしはバドミントンをやっているのでよく分かる。バドミントンに限らず、スポーツというものはすべて、瞬間に生を、生の喜びを見出すものだからである。喜びを見出す、などというとひどく大仰に聞こえるかも知れないが、哲学者とオオカミのマークローランズがブレニンから学んだというのもこのことだった。
スポーツは狼にとっての狩りと同じものである。狼が茂みの中で這いつくばるようにして、耳を立て尾を真っ直ぐに伸ばし、目を一点に、全神経を一羽の兎に集中させて一インチ、一インチと忍び寄る。その痛くなるようなプロセス。しかし、そうしてあと一瞬というところまで近づいたところで、さっと逃げられてしまう。そのときの、彼の表情には無念が滲んでいる。

バドミントンにしても同じことである。バドは点の取り合いである。21点先取すればそのセットは勝ちだ。しかし、20点先取しておきながら、相手に5点も差をつけておきながら逆転されてしまうということも決して珍しくはない。ひょっとすると、相手は手を抜いていたのかも知れない。そんな疑いを持つことさえある。
しかし、試合の最中は、それがとてもよい試合であればあるほど、お互いに激しい攻防を繰り返すような試合であればあるほど、お互いがそれこそ金色の光芒のような歓喜に包まれながらゲームが進んでいくであろう。眼には涙が溢れているかも知れない。

だが、そのような感激がいつまでもオーラのように漂うわけではない。試合が終わってしまえば、せいぜい数日、大抵数時間が過ぎてしまえば、ホルモンが作用して起きていたであろう脳の励起は微弱になり、やがてフラットになってしまう。つまり、感激というものは直ぐに醒めてしまうのである。そういう意味では、スポーツはセックスと同じものである。

さて、わたしの迷いとは、これまでわたしは、このような瞬間に生きることこそが真に生きることである、と考えてきた。
しかし、そのような瞬間のことをよく覚えているかと自問した場合に、まったく覚えていないということに改めて気づかされたのである。
つまり、これは極めて当たり前のことなのだが、瞬間を生きるということはまさに一瞬に命を火を燃やす、あるいは爆発させるということであり、その燃焼なり爆発自体になんらの因果関係はないのだ。あったとしても、それはエピソードとして、つまり物語として記憶に残るようなものでは決してない、ということなのだ。

たとえば、あのとき相手の揚げたクリアーがドリブン気味だったので、ジャンプして相手の懐にうまくスマッシュを叩き込めた、というような記憶はそう滅多に残るものではない。わたしはずいぶん長い間バドミントンをやってきたが、残念ながら、一流の棋士棋譜を最初から最後まで並べられるようには、一つのゲームの流れを思い出すことはできない。おそらくそれは、脳が覚えている(実際はそうなのであろうが)というよりは、「身体」が覚えているものだからなのだ。

とするなら、アルバムに綴じられた家族や彼女との写真のように、旅行やドライブの思い出のように、長く記憶として残らないものに、果たして本当の価値があるのだろうか、と考えてしまうのである。
これがわたしの目下の迷いであるわけだが、あるいは、人間が人間になって以来、ずっと悩んできたことであるのかも知れない。

もちろん、人生は二者択一ではない。今を生き、思い出も大切にすれば良いであろう。
しかしそれでは、「今を生きる」が、そしてホラティウスが真に言いたかったことはなんであったのだろう。人間の社会が原始からだんだんと遠く離れ、文明というものが人間から動物が本来的に持つ瞬間の喜びを奪ってしまったことに対する批判が込められているだけのことなのであろうか。