自傷行為と幼児虐待

2010/12/04 21:09


幼児虐待について考えていて、実の母親や父親による虐待は、形を変えた自傷行為ではないかという結論に至った。というのは、我が子の虐待に限らず、自分と近しいものを酷い目にあわせるという行為は、結局それをやっている当人も傷ついていると思うからだ。例えば、幼い弟の頭を腹立ち紛れにパチンと叩いたとする。その兄の心は、パチンと音がした瞬間から後悔に苛まれるであろう。我が子を虐待する場合も同じことである。もしも、まったく良心が痛まないとすれば、その者はきっと精神を病んでいるに違いない。

では、自分自身の心が良心の呵責にうめき声を上げながらも幼い我が子を酷い目に会わせるのは何故か? このような不条理なことを何故人間は行うのか? わたしは、これが不条理であるだけに自傷行為と同じ心理によるものであろうと思うのである。
自らの身体を傷つけるのが自傷ということであれば、自らの心を傷つける行為が虐待だと思うのである。もちろん、これは実の親が我が子を虐待するケースについてであって、継父や継母が義理の子供を虐待する場合には、これとは別の心理が働いていると考えるべきであろう。

ところで、自虐と聞いて連想するのはマゾという言葉だ。マゾに対するのがサドだが、虐待は一見サド的に見えながら、実はマゾの心理が作用しているのである。
我が子を虐待する親は、自分自身も親から虐待された経験を持つ者が多いと言う。しかし、自分自身が親から苛められたから、その仕返しに我が子を苛めて埋め合わせをしているのだというような解釈では、まったく説明にはならない。むしろわたしは、親から虐待されたことにより、自虐的性向をもつ人間が出来上がってしまったのだと考える。つまり、自分自身に自信が持てず、自分に否定的で、自分の存在理由を見出せなくなってしまった者が、自らを罰するように我が子を虐待しているのである。我が子を虐待することで、実は自らを罰しているのである。ちょうど、自分の親が自分を罰したように。

虐待という目に見える悲惨な事件の陰には、目には見えない加害者の暗くて悲惨な心の闇がある。この闇に光が届かない限り、悲惨な連鎖は、まるで禍々しい病のDNAのようにいつまでも遺伝していくに違いない。