悲しい裁判

ゆあちゃんという小さな可愛い子が亡くなった。写真をみるたびに悲しさと憤りがかわるがわる湧いてくる。

この子が亡くなったとき、駆けつけた救急隊員によれば、あばら骨が浮き出るほどに痩せており、皮膚は土気色をしていたと言う。この子を殺したのは義理の父親である。殴ったり蹴ったりした上に冷水を浴びせ、嘔吐を繰り返しても病院にやらなかった。犯罪の発覚を恐れたからである。

この子の母親は、暴力こそ加えなかったが、わが子が痛めつけられる様を知っていながら、それを止めることはなかった。出来なかった。なぜなら、彼女自身もひどいDVに遭っており、精神的にこの男に隷属してしまっていたからである。

裁判では、彼女に8年の刑が言い渡された。

わたしは、これはどうかなぁ、と思うのである。

母親は間違いなくゆあちゃんを愛していた。しかし、愛は決して暴力よりも強く気高いものではない。母親だから、すべて危険からわが子を守れるはず、というのは思い違いである。

もしも、この母親と父親の立場が違っていたらどうだろう。父親が生物学的な親で、母親が法律上の母親であったとしたなら、そして父親がわが子であるゆあちゃんを虐待死させてしまったが、母親はそれをなすすべもなく、ただ見ていたという状況であったとする。この母親の罪は、今回の判決で言い渡されたような8年などという厳しいものになったであろうか。

わたしは、そこを問いたいのである。おそらく世間の目は、もう少し穏やかなものに、つまりこの母親に対する非難はもう少し緩いものになるのではないかと思うのである。

先に述べたように、愛が高貴でものすごく強いものである、というのは思い込みである。何か、そういう類の映画とか小説を読みすぎた後遺症なのではないのか。

わたしは、この母親のことを考えるとき、彼女は悲母であった、と思う。悲しいという字は、心に非ずと書く。しかし、この母親に母親の心がなかったはずはない。わたしは、彼女を単純にこのような悲しい状況に陥ってしまった母親に過ぎなかったのではないか、と思うのである。

人間には、愛とか正義とか、そういった既成の価値観や道徳観ではどうしても量れない、救われようのない悲しい部分があるのだ。それを分かるには、自分自身が一度そういう状況に陥ってみる以外にはないのだ。

わたしは、ゆあちゃんがすごくかわいそうでならない。そして同時に、わが子を失くした悲しみの上に、自分自身までも大きな罪に問われているこの母親の絶望を思うと哀れでしかたがないのである。