再び思いやりについて

2012/06/10 21:20


なげやりの得意なわたしがおもいやりがないせいで軽い槍しか投げさせてもらえなかった、というなげやりで少々自嘲気味の日記を書いた。
行間にも恐らく滲み出ているであろうとおり、わたしはこの手の言葉が嫌いである。思いやりもそうだが、その筆頭にも上げたいのが真心というような言葉である。
真心などという言葉を耳にすると、背中に毛虫をニ三匹放り込まれたような怖気を感じるのである。真心という音は、わたしには爪で磨りガラスを擦っているように響く。

随分昔のことだが、ダニエル・キースの原作を映画化したもので「真心を君に」というのがあった。知恵遅れの青年がある薬の開発によって天才?に生まれ変わるというSF作品である。天才に生まれ変わってはみたものの、結局薬の効果は長続きしないことが分かる。青年は、手に入れた能力をフルに発揮して新たな薬の開発をはじめるのだが・・・というストーリである。

原作の題名は「アルジャーノンに花束を」であって、真心なんて言葉はどこにも出てきはしない。
邦画の題名が、特に昔のものなどは、随分といい加減なものであることは今では誰もが知っている。

確かに「アルジャーノンに花束を」では、いったいどういう映画なのか原作を知らない者にはさっぱり分からない(アルジャーノンとは、主人公の青年が飼っているハツカネズミの名前である)。そこで、真心という日本人の大好きな言葉をタイトルに用いれば大幅な動員数の増加が見込めるに違いない、とどこかの計算高い男が算盤を弾いたのであろう。

しかし、いくらなんでも真心とは。

わたしが思いやりとか真心という言葉が嫌いなのは、こんなものは決して口にすべきではない、と思うからである。
自らの行為を思いやりという愚か者はさすがにいないであろう。真心とて同じである。であるのに、なぜ他人の行為を平気で思いやりとか真心と言えるのか。

思いやりも真心も欺瞞の言葉である。ナイーブ(naive)といえばあちらではバカを意味にするのと同様に取り扱いに注意すべき言葉である。

美しい薔薇には棘がある、と言うが、薔薇の花は棘があろうと美しい。薔薇には棘があるのが当たり前だし、棘を含めての薔薇の美しさである。
しかし、思いやりにも真心にも棘はないかも知れないが、決して薔薇のような芳しい匂いを発するものでもない。それどころか、それを口にした瞬間から悪臭を放ちだす言葉であるとわたしは思う。

昔、テレビを見ていて感動を覚えたことがあった。画面はアフリカの草原を映し出している。リカオンの群れがいる。リカオンとは小さな野生の犬のような肉食獣である。そのうちの一匹が何か悪いものでも食ったのであろう。急に苦しみだした。放っておくと死んでしまうに違いない。仲間達が心配そうに集まってきた。しかし、仲間を助けてはやりたいが、余り関わっていると自分達も他の大きな肉食獣の餌食になってしまいかねない。彼等のジレンマが画面からも伝わってくる。そのうちにリカオンの群れはこの固体から次第に離れだした。
そのときになってようやく、撮影のスタッフがこの苦しんでいるリカオンを麻酔銃で打って眠らせ治療を施した。
それからしばらく様子を見ていると、治療が効を奏したらしくこのリカオンは眠りから覚めるとすっかり元気になって走りはじめた。すると、彼を遠巻きにしていた仲間達も嬉しそうに尻尾を振りながら駆け寄ってきて、肩を並べて走り出したのである。

話は変わるが、実は今日わたしは文藝春秋を買った。そして、安富歩という東大教授の書かれた文章に感銘を受けた。それは、「原発事故を『論語』で読み解く」というものである。
そこの行を少し引用させていただく。

「恕」というのは、「如」と「心」とでできている。これはつまり「心の如し」という意味である。「恕」には「おもいやり」というような訳語を与えられているが、それは、自らの内なる心の作動から生じるものであって、外面的なものではない。
論語には「恕」を定義した次のような問答がある。

子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎。子曰、其恕乎。己所不欲、勿施於人。(衛霊公第十五、24)

「子貢問いて曰く、一言にして以て終身之を行う可き者有りや。子曰く、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。」

「己の欲せざるところは、人に施すなかれ」という言葉は普通、「自分のやって欲しくないことは、他人にするな」だとされている。しかし私は、この章の伝統的な読みはひねり過ぎであるように思う。

君子の行動規範
「己所不欲」は「自分の欲しないこと」である。これをわざわざ受身に読んで、「自分がやられたくないこと」と読むのがひねり過ぎだと思うのである。素直に読めば能動的で、「自分がやりたくないこと」ではないだろうか。それゆえ、
「己所不欲、勿施於人」
の句は、
「自分のやりたくないことは、人にするな」
という意味になる。・・・以下略

わたしが感銘を受けたのは、論語の有名な一節に対する氏の解釈の新しさだけではない。上に述べられていることをひっくり返せば、思いやりとか真心とか言っても、それが心からやりたいと思ってした行為でなければ、それは単なるおせっかいというに過ぎず、決して恕とは呼べないことに気づかされたからである。

そこで話を戻せば、先に述べたリカオンのような行動こそ疑う余地もなくこの恕である、と思うのである。

そしてまた、その思いやりとか真心と呼ばれるものが本当に恕に基づいたものであるならば、尻尾を振って仲間を迎えるリカオンのような、あるいはわが子に乳を与える母親のような幸福感を自らも味わえるはずであろう、とも思うのである。